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「ああいうのは、一度手をぎゅうぅと握って『ごめんね。好きな人がいるんだ』って、申し訳なさそうに言えば良いんだよ。そうしていたら、おそらく岸辺はずっとおとなしくしていたのに」

 穂花に追いついた千秋は苦笑しながらぼそっと呟いた。

「私は千秋みたいなことはできないの。ただでさえ……」

 汚れているんだから。穂花は瞼の裏に連続強姦魔、間宮×流の顔が浮かび上がり、意識を現実に戻そうと、慌てて首を振った。

「『ただでさえ』何?」

「ううん。何でもない」

「そう?何か……」

 二人で私道を抜け、歩道に出ると、千秋はさりげない所作で車道側に廻る。

「顔色悪いよ、穂花」

「気のせいだよ」

 穂花は紙袋を右手に持ち替え、横から覗いてくる千秋の視線を意識して、意図的に目を潤わせた。が、もしかしたら私に優しくしてくれるかもしれない、という穂花の淡い期待を千秋はあっさり裏切り『何だ。気のせいか』と言って、彼女から視線を逸らした。

 あぁ、もう。その私に対する冷たさは変わってないのかよ。ばか千秋。

 歩調を僅かに遅くして、穂花が横を見てみると、千秋の退屈そうな顔は斜め前の八百屋の店先に付けられた、家庭用カーブミラーへと向けられていた。

「何見てんの?千秋」

 むっとして穂花が尋ねると、千秋は途端に無表情になった。

「ん?別に何も」

「じゃあ何考えてたの?」

「うん。穂花がどうして僕に会いに来たのかなって……」

「え?邪魔だった?」

「そんなことある訳ないだろ」

 一瞬底なしの不安に襲われそうになったが、千秋が天使のような笑みを浮かべたので、穂花は安堵して静かに大きく息を吐いた。

「それで、あまり思い悩んでいるようには見えないけど、どういう理由からなの?」

「えっと、今日で私達高校卒業でしょう」

 穂花は予め用意していた台詞を口にする。

「前みたいに、学校で姿を見かけることもなくなるから、二人だけで遊べる時に遊びたいなぁと思って」

 穂花が嘘を吐いていることに気付かなかったのか、千秋は彼女の言動を指摘することなく、好奇心旺盛な双眸を、あちこちに泳がせながら『ふぅん』と数回頷いた。

「ところで穂花。『学校で見かける』ってどういうこと?僕と穂花の教室って五十メートル以上離れているよね。普段、会おうと思わなければ僕を見かけることはないと思うけど、もしかしてこっそり見に来てたの?」

 穂花は千秋に、彼が嘘を見抜こうとする時に見せる、僅かに目を細めた顔で見つめられ、紅葉を散らして俯いた。

「う、うん。まぁ、たまにね」

「ふぅん。ということは、穂花は僕が気付いていない時だけ、僕の後ろ姿をドアの隙間から覗き見ていたのか。怖いなぁ」

「千秋に言われたくないよ、千秋に。昼間ならともかく、日が暮れた後につけられた時は、結構怖かったんだからね」

 穂花が顔を赤く染めたまま、怒ったように振る舞うと、千秋は一瞬足を止めて、彼女に向かって礼をした。

「はい。解っています。穂花の跡をつけてごめんなさい」

 そこまでしなくても良いんだよと、言おうとして、穂花は先程から抱いている千秋に対するほんの僅かな苛立ちを思い出し、結局言葉にするのを止めた。が、穂花が苛立ちを増幅させずに解消したかったのであれば、素直に話しておくべきだったのかもしれない。

「でも、僕が釘づけだったのは、穂花ではなくて、穂花のスカートだったけどね」

 千秋は穂花の前で、今まで見せたことのない最高の笑みをこのタイミングで浮かべた。それを見て、穂花の苛立ちはピークに達した。しかし、心地良くすらある千秋への苛立ちは、怒りを誘発することもなく、穂花を幸福に似た奇妙な感覚に陥れた。

「言い方がいちいちいやらしいんだよ、千秋は、もう」

 千秋を怒るに怒れず、仕方なく穂花は怒ったふりをして、彼の横腹を肘で小突いた。が、穂花の仮初の怒りは、あっさり千秋に見破られた。

「穂花、何で怒ったふりするの?そういう冗談言われて本当は嬉しいんでしょ?」

「それを解ってて質問してくるから千秋はさ……」

 喋りながら穂花は千秋の罠にまんまと掛かったことに気付き、憎々し気に長身の彼を見上げる。

「千秋はさぁ、モテないんだよ」

「へへ」

「何笑ってんの」

「笑っちゃ駄目?」

「……あのさぁ、モテない千秋君に一つ言っておくと、好きな人いないから解らないんだろうね。片思いの相手に優しくされるのって、嬉しいけど悲しいんだよ」

「どうしたの、いきなり……。もしかして、さりげなく告白してるの?」

「千秋の意地悪なところ、前から変わってないよね。さっきの人、泣いてたよ」

 穂花は千秋に図星を突かれ、ごまかす為に、故意に『さっきの人』を力強く発音し、苦し紛れに強調した。

「でも、あの女の子、岸辺みたいに突き離したりしたら、ストーカーになってたよ、きっと」

「さすが千秋。同業者の気持は解るんだね」

「変な言い方するなよ。それより、穂花も気をつけたほうが良いんじゃないの?岸辺が跡をつけてくるかもしれないよ」

「その時は元ストーカーの千秋が助けてよ」

「勝手だなぁ、穂花は」

 穂花が有名な運送会社へと続くカーブをインコースで曲がると、一瞬千秋は苦笑しながらも、小走りなった。

 あ、今のかわいい。

 穂花は自分の横から離れまいとする千秋の動作にきゅんとして、前方約百メートル先に見える曲がり角に双眸を向けた。

 また、してくれるだろうか。そう考えると、ついついだらしない笑みを浮かべてしまう。

 平生、異性が苦手の穂花が、男性に何かを期待することはほとんどない。千秋にしろ、穂花は自ら彼に近付いていき、親しくなったものの、彼が中性的な顔立ちで、一緒にいても性を意識しないで済む、独特な空気を醸し出していなければ、知人以上の感情を抱くこともなかった。いつ疎遠になっていたとしても、それは自然なことで、何らおかしなことではなかった。しかし、幸か不幸か、千秋は穂花にとって理想の男性だった。穂花からしてみれば、落ち着いて楽しく会話ができる男性は千秋だけ。その為、他の男性に使われない分、穂花がことあるごとに通常の何倍もの期待を千秋に抱くのも、当然だと云える。が、穂花の予想に見事に反して、今度千秋は歩調を変えることなくカーブを曲がり、

「で、どうする?岸辺が跡をつけて来てるけど」

彼女が凍りつくような言葉をさらりと口にした。

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