プロローグ
『アムリタ』
街の人間は彼女のことをそう呼んだ。
異教の聖水の名を持つ、人ならざる者。
美しき異端者。
不老の魔女。
人々は彼女を畏れ、忌み嫌い、同時に、縋った。
それが、禁忌と知りながら。
時は中世、ヨーロッパはフランス。孤立してはいるが温暖な気候に恵まれた豊かなとある街。少し距離はあるが南には海が、北にはぶどう畑が郊外には牧草地や広大な農作地があった。街の南北を突っ切るように存在するメインストリートは、街の中心に近づけば近づく程活気に溢れており、様々な出店が軒を連ねる巨大な市場でもあった食糧の豊富なこの地ではよっぽどのことがない限り食いっぱぐれるようなことはまずない。
一方で、街には外との繋がりとなる道が一つしか無かった。教会が管理する、外界と孤高の街を結ぶ唯一の道。しかも海のある南以外の街の周囲は危険な獣が出るとされるうっそうとしげる深い森に囲まれ、外部からの侵入はもちろん、街中から外へ出ることも容易ではない。おかげで街は良くも悪くも他界からの干渉をほとんど受けずに独自の文化を築き上げてきた。いわばここは、カトリックと自然という砦に支配された独立国でもあった。
当時フランスは、カトリックによる異端審問の恐怖に晒されていた。もちろんその点では他界から隔離されていると云えど、この街も例外ではなかった。国中・ヨーロッパ中をヒステリーの渦に巻き込んだ魔女狩りパニックは、100年たった今でも未だにおさまる気配を見せていなかった。隣近所に、それこそ親しくしていた友人にいつ密告されるやも知れぬ恐怖に人々は常時付き纏われていた。疑心暗鬼のこの世。ヨーロッパはどんよりと薄暗い影に覆われていた。
そんな中、例外で無いと云えど不思議なことにこの街の人々は比較的平和に暮らせていた。異端審問やらの不愉快な、最早恒例となりつつある光景が全く見られないというわけではない。ただ、確実に言えることは、火刑台に登る憐れな子羊、又は異端と呼ばれる者達を目にする機会が他界と比べて極端に少ないということ。
それが何故なのか人々は考えたことは無かった。無論、外の様子を知る術もほとんどなく、比較することが無いことも事実なのだが。稀に訪れる余所の商売人達が目を丸くして口を揃えて言うセリフにただ、ポカンとするばかりで…
「アルエ、守護術かけ直しに行くわよ」
彼女は漆黒のケープを羽織りながら、カウンターにのんびりと腰掛けているもう一人の少女に声をかけた。少女−と呼ぶには少々大人びた彼女は対象的な真っ白なフリルを揺らしながらぴょんと軽い足取りでカウンターから降り、声の主へとかけよった。
人々は知らなかった。
「あ、エイラ」
知ろうともしなかった。
「何よ」
そもそも知る必要など、知ろうとする必要など、どこにあっただろうか?
「ほら、お客様」
「ぇ」
見ると戸口に困り顔の若い女が立っていた。
「あぁ、アムリタ…助けて!」
その泣き出しそうな紅の瞳を見て、エイラはふぅ…とため息をついた。
−これだから、辞められない。
アムリタの噂を聞いて藁をも縋る思いでやってきた女は、世間に聞くのと実物の違いに密かに驚いていた。
聖女のような魔女だった。