〔縦書き用〕 火星英雄編
縦書き版なので、縦読み推奨。
横でも構いませんが、少なくとも作者は想定していません。
で、横書き版には話的に繋がらないので、こっちだけ読んでもあっちだけ読んでもOKです。
〔序〕
過ぎ去りし近未来。
ライヒ研究所の実証したオルゴン抽出技術によって、第二次世界大戦はナチスドイツ連合による圧倒的勝利に終わり、世界征服と云って差し支えの無いほどの戦力を広げていた。
そんな中、反抗の機会を待ち、十年の雌伏を経てソビエト・アメリカ連合は、間接的にナチスドイツ指導者の殺害に成功する。
だが、指導者の死亡から間髪置かずに登場した次世代指導者、トラウム・ヒトラー。
トラウムは『自身は先代とその姪との間に生まれた子供であり、そのスキャンダラスな事実を隠すべく名乗らなかった』と主張。
それを立証及び否定するために、全ての軍事国家はヒトゲノムの完全解明を目標に、クローン技術や人工臓器技術を発達させ、世界は三度目の世界大戦へと静かに、それでいて確実に向かっていた
西暦二千三年。
過ぎ去りし過去、過ぎ去りし近未来。
時代は二度目と三度目の世界大戦の境、場所は人種隔離政策によりナチスドイツとその同盟国のみが住まうことを許された惑星から始まる。
〔壱〕
錆と埃の混ざった赤い風が吹く。
入道雲まで赤い、そして雨までも鉄臭い。
夏の六ヵ月目、正常な気象だ。
「良虎、もう諦めよう…食べ物も飲み物もない。死んじゃうよ…」
連れの言葉に、女性は飽き気味に何度目かの同じフレーズを吐き出した。
「あのね、真一? 云うだけでもカロリー使うのよ? 汗と弱音は少な目に、よ」
“ここ”には地球と違って海がなく、塩を手に入れるには岩塩地層を発掘しなければならず、希少金属ほどではないが、卑金属よりは遥かに高価なものとして扱われていた。
「それに、食料のことは考えてるわよ…でもね、逃げるのと諦めるのはいつだってどこでだってできる、今が勝負時、待つのよ」
彼女は美人といって良い容姿であり、さらに流れる汗によって化粧以上に輝くタイプの女性だったが、パートナーであり夫の真一は、性別が逆ではないかと思わせるほどに細く、汗をかくと一層貧相になる類の男だった。
「…なんか音がしない? 人間狩りしてるみたいだよ? ここも危ないんじゃない?」
「あれは遠くよ、流れ弾がここまで飛んでくる確率は、ドームの中で無差別テロに会うより低いから安心しなさい」
荒んだ地平線の向こう。目では捉えられないが、遮蔽物も無く、乾いた空気は彼方の銃声と悲鳴を響かせる。良虎の顔は暑さと乾き以上に甲高く、幼い悲鳴に表情をゆがめていた。
「…戸籍が買えない人間は…人間じゃないっていう考えが…胸が悪くなる、この鉱脈が当たったら保護団体でもやる?」
「あれ? てっきりその為に鉱脈を狙ってるんだと思ってたけど、違うの? 良虎」
夫の問いに、妻はただ浅く、思わせぶりに笑って見せた。
「んー…欲しいものが有るんだけど、今はヒミツ…って、真一、あそこ見て!」
良虎が指差す先、赤い台地に裂傷が走っていた。
「…来た! 真一! あなたの考え…正しかったわよ!」
“ここ”に地震はないので、この亀裂は別の要因によるものなのは間違いない。
痛々しいまでに力強く大地は割れ、そこからは真っ赤な、ただ真っ赤な、地球から見る夕焼けのように真っ赤な液状金属が溢れた。
「年に一度の…マルスニウムの大噴出現象ッ!」
「真一、あなたの考えは正しかったわ! あたしたちは大金持ちよ!」
ここは火星。
地球の二倍の暦を持ち、塩が青春と同等の価値を持つ、剣と男の世界、旅人が往く前人未到の鉱山。
ここは火星。
大気と明かりだけが地球化によって用意され、ナチスドイツの植民地 宇宙の最果ての山。
ここは火星。
母なるガイアに甘やかされた人間を拒み、開拓者だけが住まうことの許される世界、チョモランマを見下ろす標高二万メートルの神々の山脈。
〔弐〕
―マルスニウム―
火星でのみ取れる金属であり、人類が認識できる金属の中で唯一、反陽子=陰子を内包する。
その陰子の性質なのか、生命だけが放つエネルギーであるオルゴン周波数を持つなど、性質に謎が多く、それだけに研究価値が高く、地球・月・火星・金星と人類生活圏ではどこでも研究されている。
ただ、何に使われるかは火星開拓者にとってはどうでもいい。とにかくどこにでも売れるということは外貨に換えやすいということである。
「真一、重機業者が来たわ…手荒な交渉は私に任せて、あなたは隠れてて?」
火星の重力は地球の約三分の一しかないとはいえ、さすがに人力で金属の採掘・運搬はできず、火星開拓者は採掘には下請けの業者を雇う。
もちろん、その下請け業者も火星を生きぬくタフさを持つ男たちであり、油断は死と略奪を意味する。 良虎は武器の包みを片手にし、声を荒げる。
「そこで止まりなさい、重機はそこで留めて、ひとりずつ降りて来てちょうだい?」
視認でき、声は届くが、近いと表現するには語弊がある、そんな距離だった。
「ご連絡を頂いたボーゲン運送の社長、ボーゲンです。そちらは?七ヶ宿さんですな?」
ボーゲンは太鼓腹に柔和な笑顔を浮かべ、好々爺たる人物だが、それで相手への評価を歪曲させる必要はない。
悪人と善人、敵と味方に境界などありはしないのだ。
「良虎・P・七ヶ宿よ。わかったならさっさと作業してちょうだい。私は一秒でも早く帰って冷えたペプシを飲みたいのよ」
「もちろんですとも。ただ…まあ、この挨拶は必要でしょう? 死ぬ前に云い残すことは」
ボーゲンの後ろからぞろぞろと出てきた男たちはボーゲンと全く同じ笑顔を浮かべ、その人数から七福神を連想させる。
ただ手に持っているのは釣竿や福袋ではなく、黒光りするリボルバーだが。
「この挨拶は要らないかもしれないけど訊いておくわ、どういう心算で?」
「これも不要でしょうが、応えておきましょう。この荒野では殺人も違法ではない、そういうことですよ」
厳密には法は適応され、裁かれはする、なにせ殺人捜査は科学の発展によって数多のハイテク機器を投入された。
だが、その設備には大金を要し、火星政府は予算削減のために殺人事件を『軽犯罪』に分類し、その専門器具の導入を渋った。
意訳すれば、資産に余裕があるならば地力で調査すればいいし、無いような貧乏人は泣き寝入りしろ、そういう法律だ。
「月並すぎて泣けてくるわ、あなたたち、死ぬ準備はできていて?」
良虎の準備していた包みは、自身以上の丈をもち、その大きさにボーゲン運送の社員たちは覚えがあった。
「へえ、光子バズーカですかい? それで護身する気なら…」
詳しい講釈は避けるが、原理的には光さえあれば弾丸や充電の必要がなく連発も効く武器で、その特性から国籍を問わず各国のが使っている武器だ。
「…あんたバカだ!」
火星の大気は人間が呼吸こそできるが、決して清らかでも澄んでもいない。
地球上でもウズベキスタンなどでは多々ある現象だが、赤く乾いた風に混じった錆と砂は、精密銃器に蓄えられ、機能を狂わせる。。
故に、現代を火星開拓時代と人は呼ぶ。アメリカ大陸を開拓したあのときと同じ武器を使うから。
「そいつは密閉ドーム以外ではダンベルにもならん。外ではこっちだろ」
ハフニウムやタングステンの極超硬合金で作られてはいるが、そのフォルムは西部劇のそれとも大差ない。
オートマチックでもないので使用者の負担も大きく、連射に向かないシングルアクション。
だが、弾丸すら貴重な時代、連射するバカは殺されるより腕が悪いとされる火星では一発でしとめるならば回転弾倉の拳銃は最良の武器のひとつであった。
「抜いて良いんですぜ、お嬢さん。そんな精密機器、解体して清掃しないと無理ですわ」
「親切にどうも。紳士の皆さん…お言葉に甘えさせてもらうわ」
だが、当の良虎に焦りの色はない。
巻いていた布を風の如く翻し、鏡の如く磨かれ広い鉄の表面を晒した魂。
大人がふたりで肩車をしたほどの長さ、大人の肩幅ほど有る幅、それが良虎の武器だった。
「でっかい刀ぁぁっ!?」
「改めて名乗らせてもらうわよ? 火星御留流剣術、山到示現流…三代目当主、良虎・P・七ヶ宿。
この刀の名は、蛮一文字!…見てのとおり、ただ大きい日本刀、ヒトキリボーチョーよ!」
示現流。
長い歴史の中で数多の流派に分かれたが、相手よりも巨大な刀を相手より速く振り回すという純粋に美しく強い姿勢は概ね一致している。
その強さは、江戸時代、藩の外への漏洩を恐れ、藩によって藩の内部でのみ伝承を許される御留流として制定されていたほど。
「…まあ、エドでは強かったんでしょうがねぇ…闘争はメタゲームにしてシーソーゲーム。銃器が流行ってしまえば、そんな鉄屑、怖いわけがないでしょう?」
「あら? それなら紳士の皆さん? 怖くもないのにどうして撃ってこないのかしら?」
「…!」
運送会社の人間たちは気付いていた。良虎が刀を構えたその姿は、堂に入るという表現が合うものだった。
寸分の隙も見当たらず、刃の届きえない位置に居て拳銃を向けているというのに、彼らは緊張しているのだ。
「命の取り合いは初めて? それなら…レディファースト、戴くわ!」
飾り気こそないが、戦国時代の甲冑に似ており、それは赤い砂を巻き上げて良虎の身体から剥がれ落ちた。
重力が地球の約三分の一しかない火星では、廃用症候群によって筋肉が衰弱していく。
火星に骨を埋める気の人間や、擬似重力のあるドーム内生活者以外では、必須のものだ。
別に計算する必要も無いが、その重さは地球重量で三百十二貫、一貫は約三,七五キログラム。火星では三分の一になるとはいえ、良虎はそんな重量を着こなし、マルスニウムを発掘していたらしい。
「…撃て! 無駄弾も許す! 撃ち殺せ!」
良虎が疾走する。刃が嘶く。弾丸が撥ねる。
古くから示現流では雲耀の太刀、つまり稲妻を追い抜く速度を標榜していた。
その剣術が火星に於いて完成した今、初速以外はマッハにも乗らない拳銃弾ごときを防げない道理もない。
良虎は自身に当たる弾丸を見極め、軌道に盾代わりの刀を置いて弾丸を防ぎ、その弾丸を卓球のように打ち返す。
戦国時代の刀で弾丸を受ければ折れるしかないが、蛮一文字は滑り台のように幅広く、その素材にはタングステンやコバルトを添付した極超硬合金。
正に日本刀。折れず曲がらず、そして万物を雲耀にて切り裂く。
「…で、やってくれる? マルスニウムの発掘」
「はい。やります。やらせていただきます。ただ、技師の何人かが負傷してしまいましたので、本社から応援を呼びたいのですが…オルゴンパックもありませんし…」
「構わないわ。ただ態度次第では、雇い主の首が物理的に飛ぶことも教えてあげてねッ♪」
そう答えたのは、ボーゲン運送の中ではボーゲンの次に太っている男。
当のボーゲンが良虎の小掌打ちで悶絶し、若い社員の何人かが打ち返された横弾気味の跳弾を受けて立てなくなってからの質問だった。
小悪魔的という比喩があるが、ボーゲン運送の面々には良虎のスマイルが、悪の大元帥のそれに感じていた。
「…忠告、痛み入ります」
だが、次に飛んだ首は、首は首でも良虎の右手首だった。
全く以って唐突に、言語道断なまでに唐突に、その男は滾るマルスニウムの中から這い出してきた。
〔参〕
「…名乗っては貰えるんでしょう?」
「宮元断鉄。父は野田系の二天一流だったが、儂自身はほとんど我流だ」
儂という一人称を使っているが、手首を刎ねた男=断鉄は良虎より幼く、ひょっとしたらまだ十代かもしれない。
反りのない幅広の刀、明らかに同田貫の思想を継ぐオーバータングステンカーバイトの日本刀を抜き身で両手に備えている。
「はじめまして。断鉄くん。それじゃ戦う理由の説明をお姉さんにしてくれる?」
「…時間稼ぎのつもりだろうが、最初から儂は邪魔する気はない。さっさと腕をくっ付けろ。会話のキッカケにしただけだ」
「ああ、そぉ。ねえ、ボーゲンさん? あなたのオルゴンパックを貸してくださる?」
先ほどから気絶していた風に見せようとしていたボーゲンに向け、良虎は目もやらず断言する。
ボーゲンも反抗は無駄と悟ってか、土方弁当ほどの大きさの箱を良虎に投げつけ、受け取った良虎はその箱を口に銜え、蛮一文字を地面に付きたてて代わりに切断された右手首を拾い、傷口に押し当てた。
「…じゃあ、お言葉に甘えて」
良虎の声に反応するように、先ほどの箱が光りだした。
これこそ、ナチスドイツの第二次世界大戦における圧勝を支えた超科学、オルゴン科生学。
性的絶頂=オルガズムを語源とし、一部の研究者はオーラ、プラーナ、経絡、気などと称するエネルギー工学の一派である。
操縦者の生命力だけで飛ぶオルゴンロケットは宇宙開発においては無くてはならないエネルギーソース。
オルゴン吸収技術を軍事転用すれば、敵国軍からオルゴンを吸って老衰に追い込み、逆に吸収したオルゴンによって自軍を癒す。
完全無公害のエネルギーは、小さな箱ひとつで切断された腕の再結合させていた。
「改めて聞かせてもらえる? あなたの主張。どうしてこんなことをするの?」
「マルスニウムの採掘をやめて帰れ、もう二度と来ない、そう約束してくれるだけでいい。マルスニウムは誰のものでもない、これはここに必要なんだ」
「ここは“それはなぜ?”と訊くのを待ってるんだろうけど…やめておくわね」
「ならば儂が問おう。それはなぜ」
「どんな理由だろうと、私はマルスニウムを諦めないからよ」
互いに退路なし。ボーゲン運送とそれを以前から隠れて見守る真一。傍観者となった皆の視線がふたりの剣士の三本の剣に注がれる。
「社長。私らはどうすれば良いんですかね?」
「今は動くな。良虎が勝ったらマルスニウムを採掘する。あっちの二刀流の剣士が勝ったなら云われるままに逃げ帰る…まずは様子見だ」
多刀流の戦法は、一方の刀で攻撃を受け止めてもう一方の刀で反撃するものと思われがちだが、最初から防御を考えているならば盾でも持った方が合理的というもの。
ならば二刀の利はと云うと、双方の腕による連続攻撃。防御など不要、相手が打つ前に斬ればいいのだ。
ここに、山至示現流対二天一系我流による、超攻撃的剣術の対戦となった。
「あなた、強いわね…断鉄くん?」
「そうだな」
断鉄の薄っすらな言葉に続き、良虎は無言でほんの一瞬、真一が隠れている岩塊に視線を向けた。
「…え?」
真一がその意味も理解できないまま、良虎は蛮一文字を振り上げ、相対すべく断鉄は二刀を構え、剣士たちの四本足は火星の砂を踏み散らし、一点へと向う。
音速を越える剣閃を可能とし、マッハを越えた証たるソニックブームさえも武器とするのが山至示現流。
火星では気圧等の都合で地球より幾分か音速が遅くなり、肩の振りが時速百キロに達するならば、その先にある手首の速度はそれを上回る百五十キロ、そしてさらに先にある刃は更新加速をし、切っ先の速度は音速さえも超越していく。
蛮一文字重量×良虎腕力=超音速、空間に衝撃波を撒き散らし、断鉄を両断すべく振り下ろされた。
だが、断鉄はあっさりと、その一撃を両刀で受け止めていた。
「やっぱり…ダメね」
「そうだな」
鍔迫り合いとなれば、あとは腕力の勝負にしかならない。組み合ったままの蛮一文字は容易く二刀に弾かれ、体勢の整った二刀は良虎のヘソから入ってそのまま脇腹に抜け、良虎の胴体をVの字に切り裂いた。
〔肆〕
「良虎ォーッッ!」
岩塊から飛び出した真一が血塗れの良虎に飛びついて叫ぶが、ボーゲン運送にも断鉄にも相手をしている暇はない。
「さて…」
「お待ちください宮本さま、私たちもヒマでは有りません。あなたさまと戦ってまでマルスニウムは欲しくはありません、ここは引かせて頂きます、お約束します」
「…本音なんだろうが、お前たちの中の何人かはここを忘れられないだろう? 自身で来なくとも、ここの情報を教えるかもしれない…気の毒だが」
続く言葉を待つことは、先制攻撃を断鉄に許すだけだった。
「撃ち殺せぇッ!」
ボーゲンの合図とともに、ボーゲン自身も含めた七挺の撃鉄が息も揃え、拳銃の射程距離を保つべくバックステップを交えて鳴る。
七人は良虎から受けた痛みに耐え、数で勝り、かつ刃物を相手にするときのセオリーに忠実に応戦している。
「やはり、ハイドラショックか…」
ハイドラショックを説明するには、軟弾頭と硬弾頭から説明しなくてはならない。
硬弾頭は対象を易々と貫通できるが、それだけに対人効果としては“穴”を空けるだけに留まるが、軟弾頭はその軟らかさゆえに人体に接した瞬間に潰れ、貫通せずに体内で止まる。
体内で止まった軟弾丸は、ビリヤードのように残存するエネルギーを発散し、体内をミンチにする。
ハイドラショックは軟弾頭の代表的弾丸で、命中さえすれば皮を切り、肉を爆ぜ、骨を割り、手足であろうと急所と化し、その激痛は死に値する。
「さすがに、七挺は止められんか」
何発かは刀の峰で受け止めたが、限界はある。
断鉄の刀は蛮一文字ほど幅広でもなく、断鉄自身は良虎ほど対弾剣術を研究したわけでもない。
手首に一発受け動きが遅くなれば、次の弾丸は胴体に、さらに動きが遅くなれば首と足にミートシェイクのクレーター。
「まあ、止められないだけだが」
喀血しながらも断鉄は気にもせずに走り続け、社員二名との間をあっさりと詰めて袈裟懸けと胴輪切りにした。
「ジョーニアス! キサブロウ!」
社員の誰かが斬られた同僚を名を呼んだが、応える人間が居るわけもなく、その声も銃声に掻き消される。
「せっかくだ、使わせてもらうぞ」
断鉄は刀を腰の鞘に収め、死んだ二人のリボルバーを拾って二挺拳銃。
弾丸充填をする直前だったらしく、左右合わせて五発しか入っていなかったらしく、すぐに弾切れを起こしたがそれも関係ない。
五発の弾丸はそれぞれ残りの五人の五つの心臓を吹き飛ばし、断鉄は弾切れに気づきもしなかった。
「さて…と、男、立て」
良虎の死体を抱き締めている背中に、断鉄は弾丸切れの銃口を押し当てているが、真一は無視して死体に向けて喋っている。
誰も気づかないが、先ほど断鉄に命中した数少ない弾丸が抜け出していた。
もちろん貫通していたわけでもなく、青虫か何かが内側から押しているように肉が盛り上がり、弾丸を押し出している。
「良虎…? 良虎ォァ! アアぁアアッ!」
火星の猛暑のために汗も流しつくした真一には目頭が熱くなっても涙として流れる水分は無く、流れない涙に比例して悲しみが蓄積されていく。それでも真一は少しでも悲しみを解き放つように良虎に戻ってきてもらうために啼き続ける、吼え続ける。
それは覇気もなく、絶望の中から出ようとすら考えられない愚図。
火星開拓時代といってもその全土に人が住んでいるわけでもなく、この場所のように未開発の地区からでは車があっても帰るのに苦労する距離があり、放置していても真一は死ぬように感じられ、断鉄にしてみれば殺す方法を考える方が面倒だった。
「怒りも憎悪も執念もなにもない人間を…男とは呼ばん、勝手に死んでいろ」
すでに断鉄の全身に傷はなく、服にいくつか穴が残るのみ。
オルゴン治療以外にありえない現象だが、かといってオルゴン治療だとしても“肉の再生の勢いで弾丸を押し出す”なんて芸当ができるわけもない。
それができないからこそ、軟弾頭射撃はオルゴン全盛時代たる現代で主流武器として扱われているのだ。
断鉄の罵倒にも謎にも気づかずにただ叫ぶだけの真一をよそに、断鉄は無言でマルスニウムの中に入水する。
液体金属の中で生きられるわけもないが、かといって自殺するわけもない、何か裏があるのだろうが、真一は気にも留めない。
「はぁ、っふゥッ! アアアア!」
断鉄の正体も、超オルゴンと云うべき治癒能力も、なにもかもを真一の眼中にない。
ただ、最愛の女性の死亡によって悲しみを膨らませているが、その悲しみは前を向いてすら居ない。
噴出したマルスニウムが沈下していってから暫く経った頃、社長たちからの連絡が絶えたことを不審に思って巡回に来たボーゲン運送が保護するまで、彼は叫び続けていた。
保護されて自宅に戻ってからも、真一は腐っていた。
他人を人生の大前提に据え、その人物との人生しか考えられなかった負け犬。
最愛の女性、七ヶ宿良虎の死に、自殺すら考え付かないほどにこの男は腐敗していった。
ふたりで貯めていた現金を切り崩し、サプリメントを胃に流し込み、思い出のこもった家の中を徘徊し、夢の中ですら悲しみ続けている。
それはもう人間ではない、体温があって動き回れるだけのことでは生きているとは云わず、感情がひとつだけしかないならば自動人形と呼ぶべきである。
何日が過ぎたのか、朝も夜も、前も後ろも、未来も過去も、感情も気力も失っていたその日、チャイムが鳴った。
〔伍〕
チャイムが鳴った。
火星では昼夜もなく、様々なベンチャー企業が騒音を上げながら作業しており、静寂とは程遠い環境だったが、真一にはとってはこの来訪者は久方ぶりの波紋だった。
良虎が帰ってきたんだろう、彼女の指紋でもドアは開くはずだが、両手が塞がっているのだろう…そんなありえない妄想を真一は確信した。
真一がドアに向かっている間に何度か催促のチャイムが鳴ったが、真一は急ぎもせずに玄関に向かい、ドアを開けた。
「よお、七ヶ宿良虎の家だよな? ここ」
良虎じゃないならドアを閉めよう、そんな考えで無言・無造作にドアを閉めようとしたが、男もこれまた無造作にドアに膝を挟み込んだ。
「待て待て待て。話くらい聞け…えーっと、俺、お前の名前知らないよな?」
「知らんませんよ」
何日、言葉を発してなかったのだろうか。啼き続けた声帯は言葉の出し方を忘れているかのようだった。
「俺がお前の名前を知らないって知ってるんなら、教えてくれてもいいんじゃねぇか?」
「知らないですのは、それ意味じゃない、ボクはあなたがボクの名前を知らないかどうかを知っているかしないかを知らないんよ」
「…お前、どこの国の人だよ?」
「どうでもんようござんせば、帰らなくても帰っていきんさい」
言葉の意味なんてどうだっていい。良虎以外に思いなんか通じなくて良い。
「じゃあ良虎のヤツがいつ帰ってくるか教えてくれ、その時間にまた来るから」
「良虎は…良虎は…あれ?」
良虎がいつ帰ってくるのか真一は分からなかったし、それでも思い出そうとすれば、思い出されるのは当然、断鉄に顔面を潰された良虎の姿のフラッシュバック。
「あ、あ…アァ?」
「って、オイ、どうした」
真一はドアから手を離し、胃液を玄関に嘔吐しだした。
固形物を食べていないためか空嘔吐を繰り返し、臓器そのものを吐き出すように唸り続け、当然のように舌根沈下から呼吸困難にコンボを繋ぐ。
「同居人、しっかりしろ。オイ、どうしたんだ」
来訪者は服に胃液を飛び散らされながらも、痙攣を始めた真一背に担いだ救急車が有料の火星では割と普通の光景だ。
「だぁー! 鼻水と胃液と涙でグショグショだチクショー! 洗って返せよテメェッ!」
「なみ…だ?」
感情によって流れたものではない、自律神経によるオートマチックな反応だ。
荒野では泣きたくても脱水症状で流し損ねた涙が、町の中では感情が追いつかなくても流れる。
「やっと…涙が出たんだよ」
人間の涙は、込み上げる感情を洗い流すためにある。悲しみのごく一部とはいえ、減った分だけ人間は理性を取り戻せる。
嘔吐と共に流れた涙によって、真一の時間は秒針が時針程度のスピードしかなくとも動き出していた。
〔陸〕
「そうか、良虎は死んでたのか」
「ハイ、そうなのですだ…スンマセン、言葉が上手く使えねえんだっぜ」
液状化オルゴンの点滴をぶち込み、真一の顔にはやっと赤みと表情が戻ってきていた。
「気にするな、俺も言葉遣いは綺麗なほうじゃないしな…えーっと、名前、聞いたっけ?」
「ハイ、お教えしましたです。ボクは七ヶ宿真一、良虎の夫です」
「じゃなくて、俺の名前を教えたかって方。俺の名前は下柘植百兵衛、良虎の父親、猛虎と古い知り合いでな、今は月面忍者伊賀組の後方部隊…まあ、俗に云う背広組、ってヤツだな」
オルゴンによる再生技術は戦場に革命を呼んだ。
歩兵ひとりの撃破に突撃銃の弾装を三度交換する必要があるとされ、近接格闘のプロフェッショナルである忍者の復興が行われた。
当初は、日本の同盟国であるナチスドイツ総統による話題作りの政策とされていたが、月面の低重力下で求められる立体的戦闘において忍者という戦闘スタイルは適合し、今では月面軍人のエキスパートですらある。
「で、良虎に聞いてるか? 例の借金の話」
初耳だった真一はそれをまともに顔に出し、それを察した百兵衛は答えを待たずに話を続ける。
「良虎みたいに実戦剣術に携わってる人間は金欠になりやすいから、臓器を担保に金を借りることが多い…それは知ってるよな?」
「あ、はい。盲腸とか腎臓とか、外せる臓器を抜いて、代わりに緩衝材とかを入れたりしなかったりしたりするんよね」
「そう、それ。なんでかは知らないが、良虎が冷凍保存されてた臓器を買い戻そうとしててな。俺はその契約の後見人ってことで名前を貸してたわけだ。買戻しを始めたのは二千一年の八月くらいなんだが、その頃、何か変わったことなかったか? 体調を崩したとか」
「ボクと出会ったり出会わなかったりしたのがその頃やけど…お父さんからから山至示現流の当主を受け継いだって云うてはったですトロイヤー」
「…なんかお前と話すの疲れてきた。とりあえず資料は置いてくから勝手に決めてくれ…ただ葬式やるなら呼んでくれや、ダチの娘の弔辞ぐらいならいくらでもやってやる」
百兵衛はフロッピーを一枚を置き、ラベルに自分の電話番号を書き記してから出て行った。
火星や月では未だに電波整備が進んでおらず、多額のカンパをしなければ使えない携帯電話を持っているというだけで富裕層であることを表すステイタスでもある。
「フロッピーって…月ではこういうの方が都合がいいんかいな」
死んだ最愛の妻の秘密を知りつつも、真一の心中には悲しみが淀み、精神を捉えて離さず、未だに生きていく理由を見出せなかった。
生きていくだけの活力も惰性も無くも、とりあえずフロッピーをテレビモニタに差込み、内容を読み始めた。
良虎の幻影を求めるように、ただなんとなしの行為だったが、記されていた記録は、とある仮説を匂わせた。
「…コレって…そういうことなのか…?」
なぜ、良虎がマルスニウムを発掘してまでこれを買い戻そうとしたのか、やっとわかった気がした。
積み立てででも時間をかければ買い戻せたかもしれない、だけど急いでいたんだ、一日でも速く買い戻すために。
そうと判れば、真一にはベッドで寝ている時間はなくなった。
「一分でも速く、これを買い戻す…それで良いんだな? 良虎…?」
言葉も戻っていた。もう迷うことはない、生きる目的が見つかった。
一度は質流れになった臓器を名指しで買うとすると、手間賃やら税金やらを国にカツアゲされて有象無象の臓器ならば束で買える値段になってしまう。
そんな大金を稼ぐならマルスニウムの発掘は一攫千金の場外満塁ホームラン、確立変動の大フィーバー、ロスタイムでのハットトリック、勝負好きな良虎が好みそうな方法だった。
「確実に稼いでいたんじゃ、時間がかかりすぎる…できるのか、ボクに…?」
自分自身に問いかけるが、もう答えは決まっている。
真一は、最愛の人を目の前で殺されていながら、助けることも反撃することも命乞いすらできなかった自分をクズだと認識していた。
そして今も殺害した張本人である宮本断鉄に憎悪も怒りも燃やせず、ただ自責し後悔して悲しむだけの自分が大嫌いだった。
だが、それでもやるしかないだろう、クズなんだから。努力しなくても幸せになれるほど優れた人間じゃないんだから。
誰の助けもなくともやるしかないだろう、クズなんだから。こんなクズを好きだと云ってくれた女性に見る目があったと証明するためにも。
「あの二刀流剣士からマルスニウムを奪い取って、臓器を買い戻す!」
腐臭すら放ち、過去だけに貼り付いていたカスはどこにも居ない。
今居るのは、薄い大気越しに見える青い惑星を見上げ、形見の大剣:蛮一文字を担いだ男だけだ。
〔漆〕
今年もマルスニウムが噴出した。
良虎が死んでから火星は三度公転し、短くはないが、決して遠くもない時間が流れていた。
「断鉄さん…ですよね?」
噴出するマルスニウムの湖面に座禅して浮かんでいた少年は、呼びかけに両目を開いた。
「その剣は…七ヶ宿良虎?」
「覚えていてくれたのは嬉しいんですが、そっちじゃない。その夫のクズの方です」
断鉄が見間違えたのも無理もない。真一は傭兵として各星を渡り歩き、技術を磨いた。
その際に両手両足や臓器、眼球さえも失って移植を受け、身長や血液型も変わっているが、それ以上に変わっているのが眼だった。
眼球が変わったからではない、視神経の先にある脳、いや脳の先にある魂自体があのときのゴミとは比べ物にならない決意に溢れていた。
「…何があったかは知らないが、両の手は良い具合に血に染まってきたようだな。その腕は人を…両の指では足りん数を切った腕だ」
「そう見えますか」
「否定して欲しいのか、まだ素人に見えます、そう慰めて欲しいのか?」
「…断鉄さんが何人斬ったか訊ねても良いでしょうか」
「無意味だな、この世界は悪魔が作ったかのように歪み、欲望の戦いに溢れている。魚が澄み切った水に住めないように、人間は己の糞尿で汚れきった湖でなければ生きられはしない…人が他を傷つけないというのは根本的にありえない」
真一は自分がクズであるという確信をしつつも、人を斬ってきた自分を開き直ることもできず、それでいて責任転嫁もできず、言い訳すらできず、許しを請うこともできないでいた。
無間地獄を泳ぎつつも、そこから抜け出す方法を知らず、それでいて抜け出そうとも考えていなかった。
「一万に満たない昼夜を修行に注ぎ込んだ程度で、儂に勝てる気なのか?」
「勝たせていただきます。例えそれが何十年と鍛えこまれた剣術であろうとも」
真一の発言に、断鉄は目を丸くした。どう見ても十代である自分に向け、何十年守ってきた、と。
「それが判っていても来るか、勇敢だな」
「…あなたの記録は調べました。宮本断鉄、最初の火星移民者の中にその名前がありました…六十年も前の」
「ならば判るだろう? モルモット代わりに火星に飛ばされた剣術馬鹿の科学者が、少ない機材で弄っただけでマルスニウムは不老長寿を実現し、遠隔自動治癒さえもできる。マルスニウムを守る為に長生きしているのか、それとも長生きする為にマルスニウムを守っているのか、判らなくなったがね」
断鉄の説明に、真一は思った。
マルスニウムは金の林檎だ。ある神話に登場する食べれば千年間寿命が延長される架空の植物で、神話の中でもそれを巡って戦いが起きた。
その話に出てくるドラゴン、ラドンこそが断鉄だ。そのドラゴンは千年ごとに金の林檎を食べて金の林檎を守っている…守る為に食うのか、食うために守るのか、その命題を抱えたまま。
「…で、覚悟はあるのか? 理解しているか? それほどの力を手に入れる責任を」
それは膨大な資源だ。オルゴン供給すれば多くの人間の傷を癒す薬にもなるだろうが、そのエネルギーの方向が少しでも変われば、世界を焼き尽くす炎となる。
ダイナマイトの発案者ノーベルが、放射能の両親であるキュリー夫妻が、軍用ライフル隆盛の祖ウィンチェスター一家がそうだったように、その発見は多くの殺戮を呼ぶリスクを抱えているのだ。
「覚悟している…つもりです」
「そうか…ならば、何も云うまい! 名乗れ、小僧!」
真一は、これほどに落ち着いた心で刀を握ったことはなかった。真一は断鉄を斬りたくなかったが、それでも刀を握る手は迷いを忘れていた。
「火星御留流、山至示現流三代目七ヶ宿良虎の夫、七ヶ宿真一ッ!」
「二天一系我流、宮本断鉄ッ!」
『参るッ!』
構えは断鉄が二刀青眼の構え…つまるところ、剣道でやる開始位置に相当する構えを二刀流でやっている。
対する真一は、蛮一文字を腰溜めに構え、鞘が無いので厳密には異なるが、兎角居合いの要領で構える。
両者共に超攻撃剣術の使い手であり、勝負は当然ながら一瞬。
『ゼアアアアアアアッッ!』
剣術においては一瞬の『機』を先んじた者が勝つ、そのための気合による圧迫、気迫の雄叫びに続いて断鉄が飛び出した。
刀のリーチ、間合では断鉄の雌雄刀に比べ、真一の蛮一文字は倍はある。機先を制さなければ勝ちは無い。
ニューロンひとつ分の真一の緩みを逃さず、断鉄は両足を亜音速まで加速し、超音速で振っても間に合わないほどの近距離までダッシュを掛けている。
《勝ったぞ、真一ッ!》
断鉄の発言と剣閃は同じタイミングだったが、雌雄刀もまた超音速、その言葉が届くよりも早く雌雄刀は真一を切り裂いた――
はずだった。
「勝ったぞ、真一ッ!」
実際にその言葉が真一の耳に届いたとき、身体を上下に切り裂かれ、宙を舞っていたのは断鉄の生首だった。
さながら稲光が雷鳴に先んじて見えるように、稲妻と同じ速度で放たれた雲耀の刃は、超音速をも越えた速度、極超音速にて振りぬかれ、断鉄を討ち取ったのだ。
「い、今のは…ッ?」
首だけで落下しつつも、断鉄は肺もないのに喋っていた。こんな非常識を発生させる、それがマルスニウムだった。
「…抜即斬、という地球示現流にある技を火星流にアレンジした技です。意地を用いて身体を沈め、乱流翼の追加加速で刃をマッハ数を六程度まで加速させる…」
技を放った真一も決して無事ではなかった。超音速すら越えた反動、音の壁との衝突によって脊椎損傷、不完全骨折を合わせて骨は二十一個折れ、左腕は根元から千切れてしまっている。
「あ、すいません、傷の再生はしないでくださいね」
真一は蛮一文字を断鉄の首の切断面に押し当て、肉が生えてこられないように押さえつけている。
かの有名な処刑具にギロチンというものがあるが、当時の医者の実験では切られた首は三十秒ほどは言葉に反応したという話もある、オルゴンで治療を受け続けている断鉄ならば会話ぐらいはできるだろう。
「…本当にする気か? マルスニウムを…世界に渡らせるのか? この悪魔が作った地獄に?」
昔から何人もの人間が云ってきた。この世界を神が作ったと仮定するならばこの世界は不完全かつ残虐すぎ、悪魔が作ったとしなければこの世界の煉獄たる美しさは説明できない、と。
「…ボクは、この世界を神さまが作ったような理想郷にはできない、だけど…悪魔じゃなく、人が作れる世界はできると思う」
「歴史を知れ真一。資本主義者が肥える為に世界に貧困を植え付け、それを知ろうともせず、戦いを加速させる」
「ボクは最高のクズだ。女房を目の前で斬り殺されたのに…まだあなたを恨めないで、むしろ尊敬さえしている」
真一は、空を仰ぎ、地球を見た。あそこでも負の連鎖が続く中で、誰かが泣き、それでもまだ歩いているのだろう。
「だけどボクみたなクズでも人は変われると信じられる、信じられれば戦いを少なくするために戦い続けると思う」
人は生まれながらに矛盾と謎を持つ。
その矛盾と謎を考えることなく人生を終える者、考えて苦しみ続ける者、考えすぎて人生を台無しにする者、様々な者がいるが、真一はその矛盾と謎と戦う決意を固めていた。
「…壮大なウソだな、だが信頼できるウソだ…」
同じく、その矛盾と謎に戦いを挑み続けた男、宮本断鉄の死に顔は、憑き物が落ちたように晴々としてさえいた。
〔捌〕
木星圏の第二宇宙植民島は、ガリレオ・ガリレイが発見した四大衛星のひとつ、イオに隣接するように作られている。
宇宙では所有権というのが複雑で、自国民であるガリレオが発見したからイオは自国領土であると主張するイタリア、最初にイオの調査をして石を持ち帰ったのがボイジャー7号だから自国領土であるとアメリカ、コロニーを着工した早い者勝ち主義のナチスドイツ。
そんなコロニー内の隠れ里にて、伊賀忍者部隊の予備部隊百名ほどに座学を教える講師こそ、下柘植百兵衛だった。
この物語の中ほどで、真一を訪ねたあの男である。
「えー、というわけでー、宇宙空間では作用・反作用の法則がモロに出る上、真空なので火器は使えず、光子バズーカなどが合理的となる。しかし火星やイオのように複雑な大気を持つ星では精密機器は使えません、ハイ、シュトロハイム君、この両方で対応できる武器としては、どんな武器を使いますか?」
いきなり指されたドイツ人の忍者予備隊員は、慌てながらマニュアルを読み漁った。
「シロハタ、などでしょうか?」
「…それが通じる相手なら最高にステキな武器だな、ラブ&ピース…昔ながらの手裏剣などの投擲武器がこの場合の正答だな。互いに宇宙服を着た宙間戦闘では宇宙服にチビっと傷付ければいいわけでこんな武器でも充分。また地球以外の重力がある場所ではコリオリの都合で手裏剣などは一層の訓練が要り、相手に奪われても問題ない」
そう云って、百兵衛は手元にあったボールペンを投げ天上に突き刺してみせる。歓声というほどではないが疎らな拍手が起きた。
「慣れると、文房具や割り箸なんかで代用できるようになるし、根来組は足で投げる技術も開発してる…俺の講義はこれで終了だ」
チャイムがあったわけでも時計を見たわけでもなく放たれた断言だった。
受講生たちが時計を確認して体内時計の正確さに驚愕している間に、既に教壇の上に百兵衛は居なかった。
「あー、肩凝ったー」
実力主義の伊賀では、背広組であろうとパフォーマンスが必要となる。銃後が信頼できなければ成功する任務も失敗する。
タネを明かせば、目が逸れたタイミングで薄壁に仕込まれたどんでん返しをくぐって宇宙空間に飛び出し、即座に隣の部屋まで移動した体力技だ。
いかに前線を退いたといえど、上忍ともなれば宇宙服なんぞに頼らなくとも真空で三分程度は活動できなくてどうする。
「…下柘植先生の消える忍術って、てっきり幻術や何かだと思ってたんですけど…こういう技だったんですか」
飛び込んだ部屋には、机がひとつと椅子がふたつ、面談か尋問以外にやることのなさそうな殺風景な部屋には、若い女忍者が座って待っていた。
「幻術って甲賀連中が薬嗅がせてやってるアレか? 忍者は身体は資本、ケミカルレスだケミカルレス」
「はあ、勉強になります」
「進路相談だったよな、夏見の研究は…ああ、思い出した、モモンガの術の研究してたんだよな?」
「あ、いえ、ムササビの術です、私のは」
どう違うのか筆者にもわからないが、皮膜代わりの薄布を広げて滑空する忍術のことだ。服部の技だからあえてカテゴリーに分ければ伊賀ではある。
地球での実用性は皆無に等しいが、重力が少ない火星や月では容易に飛距離が伸びるため、奇襲作戦の肝として扱われている。軽量を生かせる部署だけあってこの夏見という女はその研究兼実用する部隊らしく、縦にも横にも小さかった。
「そうか、お前ももう卒業の歳か。希望は潜入工作か? やっぱり?」
「はい、そうです…それで、これが記入表です」
感慨深げに、それでいて嬉しそうに剣術や手裏剣術を教えた生徒の進路の希望表を見た百兵衛だったが、その内容に目を剥いた。
「進路勤務希望地が金星の前線基地に為ってるが、なんだこれ? 金星の重力じゃムササビはほとんど使えないし、ここの潜入工作員といえばほとんど最前線と変わらないぞ?」
金星の重力は地球の9割ほどで、人類が生活しているスペースの中では高重力に当たる。
「…故郷、なんです。そこ」
「故郷っていったって、ここはこの前の米ソ連合の砲撃でのダメージが大きいぞ? 配属になったその日に壊滅してもおかしくないんだぞッ?」
「…だからです、だから、行きたいんです」
日本軍が負ければ、その土地や人々がどうなるかは楽観的にも悲観的にも、今とは違う姿になるだろう。
人類が本格的に宇宙で生活しだしてからまだ一世紀と経っていないが、それでも夏見にとっては生まれて育った土地であり、彼女は長年研究した潜入工作員としての技能やアドバンテージを捨ててでも、その場所を希望しているのだ。
「お願いします、下柘植先生! そこに配属させていただけないでしょうか!」
目に掛けていた生徒だった。メンタル面での弱さを指摘し、鍛えた生徒の一人だ。
それだけに百兵衛は、高い確率での危険が付きまとう希望地を、恐怖を超えて記入した彼女の決意を察した。
何十年、教え導く立場に居ても百兵衛には判らなかった。命を守るために決意を挫くように諭すのが正しいのか、意思を尊重して死地に向かわせるのが正しいのか。
「…判った。この基地の補充要員を選定している部に掛け合ってみよう、お前を入れるスペースがあるかどうか」
こう答えたとき、夏見は笑った。百兵衛が教えた表情で、笑って見せたのだ。
二週間後、夏見が派遣された基地の壊滅を聞いたとき、百兵衛の精神はまたも限界に近づいた。
自分は安全なところで後進の指導をし、若い部下たちを死地へのベルトコンベアに乗せる機械。
誰か俺を恨んでくれ、誰か俺を呪い殺してくれ、笑顔でなんか死なないでくれ、笑顔で死ねるように教育した俺を恨んでくれ。
責任で心も身体も押し固められた百兵衛を訪ねたチャイムを鳴らしたのは、七ヶ宿真一からの電話だった。
「百兵衛さん、弔辞をお願いします。良虎の葬式代わりに彼女のやりたかったことを全部やります」
〔終〕
時は地球西暦二千十年、断鉄の死から三百日ほどあと。場所はマルスニウム噴出口跡地に作られた火星金属研究所。
地下からマルスニウムを汲み上げ、そのマルスニウムを研究する私設研究財団だ。
「急げ、真一! すぐだ!」
「急いでるに決まってるだろ、見て判らないのか、百兵衛ェっ!」
「見りゃ判るよ! それでも…とにかく急げ、バカヤロウ!」
その廊下を所長の七ヶ宿真一と、警備顧問の下柘植百兵衛が走る。早く行かなければ間に合わない。
廊下の先にはマルスニウム医療開発の為に集められた医師たちのスペースが有り、そこでは少なくとも真一にとっては世紀の一瞬が待っていた。
「もう、もう産まれたか!?」
真っ白の研究室と廊下を遮るアクリル板に顔面を押し付け、真一は気が気じゃなく、そして幸運にも間に合っていた。
予定通りの時間、予定通りの性別、予定通りの産声、全てが予定の内だがそれでも真一は驚愕と喜びが溢れていた。
「おめでとう、真一パパ。 良虎そっくりの…だと猛々しすぎて困るか、お前ソックリの女の子だ」
「ああ、ありがとう…本当に…ありがとう」
このとき、良虎が死んでから初めて真一の心中から悲しみが消え去っていた。
一時的なものだろうし、赤ん坊と接していれば思い出がまたも悲しみを募らせるだろう、だがそれでも今、真一の目から流れるのは喜びと感謝の涙だった。
もう気付いている読者も多いだろうが、良虎が取り戻そうとしていた臓器とは自分自身の子宮だった。
もっとも実践剣術家には不要であり、むしろ邪魔にすらなるそれを取り除いたのは山至示現流の後継者ならば当前だった。
だが、真一に出会い、良虎にはもっとも欲する臓器になっていた。他の子宮では代用にならず、自分の子宮でなければならなかった。
遺志を継いで子宮を手に入れてからも真一は苦労していた。良虎が生きているなら子宮を戻せば通常の出産で良い作業も、良虎が亡くなってしまえば様々な技術的・法的ハードルがあり、それを突破するために真一はこの研究所を作ったようなものだった。
「冷凍精子と冷凍されてた子宮から取った卵子の冷たい子供だが、暖かく迎えてやれるよな? 真一?」
「ボクはあの子に…神さまが作ったような世界は与えてやれない…だけど、ボクは…人間が人間らしく生きられる世界を…あの子に、渡してあげたい」
戦争はなくなることはないだろう。強者は更に強くなれるように強者のためのルールを作り、弱者はさらに弱くなる。
そんな理不尽なルールに抗うために弱者は戦争を引き起こし、強者も当然戦争をする。善悪もなく革命や戦争することもできなくなるということは人間が奴隷になることを意味する。
「今日も、ナチやらアメリカにマルスニウムを渡さない口実を作らなきゃな、あの子の為にも」
「そうだね…そうだね」
マルスニウムを発掘してから、真一は百兵衛をパイプ代わりにスポンサーを募り、ほぼ全ての軍事国家から資金を募った。
微量でも戦場では莫大な効果を上げる可能性があるのがマルスニウムの陰子。スポンサーにどんなに金を貰ってもマルスニウムは一切外部に渡さない、それがこの研究所の隠れたスローガンだった。
「あ、それと真一。例の潜入工作員、根来の連中っぽいんだが、もう少しで懐柔できそうだから…」
そのとき、研究所内に点滅灯が回っり、マイクテストもなしにアナウンスが響いた。
《緊急!緊急! マルスニウム貯蔵庫にてクーデター発生! 手段から相手は根来系の忍者と推定されます! 注意されたし!》
「…懐柔できそうって云ってなかったか?」
「ハッハッハー! さあ、張り切って行くぜ。山至示現流!」
月面伊賀忍者といえど、やはり背広組ということか。
「…まあ、良いけどさ」
真一はもう一度、窓越しに我が子に視線を送り、そしてまだ視力などないはずの我が子と目が合った気がした。
蛮一文字を振るうその姿は、正に神話の英雄の如し。
断鉄というラドンを倒し、金の林檎を持ち帰った真一は、誰が呼んだか火星英雄ヘラクレス。
金の林檎はギリシャ神話では戦いの火種となったが、真一がマルスニウムをエサに各国に要求した内容は遠巻きながら戦火を抑えていた。
いつまで続く保障はなく、世界そのものから戦争がなくなることはない。
それでも、今日戦闘が起きなければ、その戦闘で失われるはずだった命は、今日という日を愛する人と過ごせるのだ。
ヘラクレスは戦い続ける。綱渡りのような交渉を続け、強硬手段を取る手合いには山至示現流を振るって立ち向かう。
〔火星英雄 完〕
その頃、こことは似て非なる兄弟宇宙では…!
―あぁー、感じるぜぇ~。もうひとりの俺だ…愛だとか命だとか…クズみてぇなことをいうヤツを…!―
その獣は静かに身体をくねらせ、次なる獲物を求めた。もうひとりの自分、正義と愛に生きる英雄を食い荒すべく、火星のベヒーモスは行く。