喉の奥の小石
中西の喉には、相手によって大きさを変える不思議な小石が詰まっている。
地元の親友である木村と居酒屋のカウンターに並んでいるとき、その小石は砂のように小さくなり、消える。仕事の不満から昨夜見た深夜アニメの矛盾点、果ては宇宙の終焉についての独自の考察まで、中西の口からは堰を切ったように言葉が溢れ出した。木村が呆れて「お前、喋りすぎで口の端に泡立ってるぞ」と笑うくらいには、彼は饒舌だった。
しかし、一度そこに「親しくない人間」が一人でも混ざると、小石は一瞬で拳大の岩へと膨れ上がり、彼の気道を塞ぐ。
「中西くんって、いつも静かだよね」
そう言われるたびに、中西は喉の奥の岩を必死に飲み込もうとして、ただ引きつった笑みを浮かべることしかできないのだった。
今年で三十歳になった。獨協大学を卒業して入社した小規模な印刷会社で、営業事務として書類の山と向き合う日々。劇的な変化もなければ、致命的な破滅もない。人間は三十にもなれば、自分の器の形を否応なく知ることになる。自分はこういう人間なのだと、中西は諦めにも似た折り合いをつけて暮らしていた。
そんな夏の真っ只中、高校時代の友人である坂口からメッセージが届いた。
『今週末、河川敷でBBQやるけど来ないか? 久しぶりにみんな集まるよ。』
普段の自分なら、三秒で拒絶の理由を捏造していたはずだ。「その日は仕事だ」「胃の調子が悪い」「旅行に行く」。嘘をつくことにかけては熟練の域に達していた。
だが、その日は違った。夕暮れのベランダでぬるい麦茶を飲んでいる時、あまりに空が赤く焼けていて、部屋の中に閉じ込められた自分の影がひどく惨めに思えたのだ。夏の暑さがもたらした一瞬の眩暈のようなものだったかもしれない。中西は指先を滑らせ、『行く』とだけ返信した。送信ボタンを押した瞬間、心臓が嫌な跳ね方をした。
ーーー
日曜日。多摩川の河川敷は、巨大なフライパンの上に放り出されたような熱気に包まれていた。
緑色のタープテントの下には、十五人ほどの男女が集まっていた。金属製のコンロからは脂の跳ねる煙が立ち上り、氷水の張った赤いバケツには缶ビールやチューハイが乱雑に突き刺さっている。
中西は、敷地の手前で足がすくんだ。
坂口や、顔馴染みの二、三人を見つけて一瞬ほっとしたものの、その脇には見覚えのない顔、あるいは「名前は知っているが一度も口を利いたことがない同級生」が何人も並んでいた。三十歳になった彼らは、ポロシャツの胸元を緩めたり、こなれた手つきでトングを扱ったりして、すっかり「大人の男と女」の顔をしていた。
「あ、中西! マジで来たんだ、珍しい!」
坂口が声を張り上げ、視線が一斉に中西に集まった。その瞬間、喉の奥で小石が巨大な岩へと化け、カチリと固まった。
「……あ、うん。久しぶり」
絞り出した声は蚊の鳴くように細く、煙の中に消えた。
それからの三時間は、中西にとって緩やかな拷問に近かった。
最初の二十分こそ、坂口や昔馴染みの数人と「最近どうよ」「相変わらずだよ」といった定型句を交わすことができた。しかし、会話の輪が広がり、最近の結婚事情や転職、知人の噂話へと脱線していくにつれ、中西の存在感は急速に薄れていった。
彼はタープの端、日陰と日向の境目あたりに位置取りをし、缶ビールを両手で包み込むように持った。
「中西くんは? 最近なんか面白かったことある?」
輪の中から、少し日焼けした女性——確か3組だった山下さんだ——が不意に振ってきた。
「え、あ、いや……。特に、何もないかな……。仕事して、家帰るだけで……。」
中西は目を泳がせ、視線を缶ビールの吐出口に落とした。高橋さんは「そっかぁ」と柔らかく笑い、すぐに隣の男が始めたキャンプギアの話題へと興味を移していった。
(またやってしまった)
中西は心の中で頭を抱えた。木村相手なら「最近面白かったこと? 買い替えた電子レンジのアラーム音が妙に官能的なんだよ」と三十分は語れるはずだった。なのに、なぜここではこんなにも言葉が出てこないのか。
結局、彼は「肉を焼く係」を自任することで沈黙を正当化することにした。
トングを握り、焦げ付きそうなカルビをひっくり返し、焦げた野菜を皿に分ける。黙々と手を動かしている間だけは、自分がこの場に必要なパーツであるかのように思えた。周囲では笑い声が弾み、乾杯の音が何度も響き、誰かがスマホで最新のヒット曲を流している。中西はその喧騒の輪の外側にいて、透明な壁越しにそれらを眺めていた。
三十歳になっても、人は変わらない。
学生時代、教室の隅で文庫本を開き、クラスのリア充たちの笑い声を遠く聞きながら「自分とは住む世界が違う」と決めつけていたあの頃と、何も変わっていないのだ。成長もしていないし、進歩もしていない。ただ体躯が大きくなり、目元にシワが増えただけだ。
「中西、肉ありがとな。助かるわ」
片付けの最中、坂口が肩を叩いてきた。
「ううん、全然」
それが、この日中西が発した最後のまともな言葉だった。
ーーー
夕方、西日が部屋の畳を橙色に染める頃、中西は自分のアパートに帰り着いた。
玄関のドアを閉めた瞬間、静寂が押し寄せてきた。エアコンのスイッチを入れ、着ていたTシャツを脱ぐ。Tシャツからは、安っぽい木炭の煙と肉の脂の匂いがプンと鼻をついた。
浴室へ行き、シャワーを頭から浴びる。冷たい水が首筋を伝うにつれ、今日一日の自分の無様さが次々と蘇ってきた。
あの場面で、なぜもう少し笑えなかったのか。
なぜ「久しぶり」の後に気の利いた一言が言えなかったのか。
なぜただ黙って肉をひっくり返すだけの置物になってしまったのか。
シャワーを止め、タオルで髪を拭きながら、中西は部屋の床にへたり込んだ。
膝を抱え、深く首を垂れる。情けなさと不甲斐なさが、みぞおちのあたりに重く溜まっていた。やっぱり行くべきではなかったのだ。自分の矮小さを再確認するためだけに、わざわざ猛暑の中に出て行ったようなものではないか。このまま歳を重ね、誰ともまともに打ち解けられず、内弁慶のまま枯れていくのだろうか。このままではダメだ。絶対にダメなのだ。
項垂れたまま、中西は畳の目をじっと見つめていた。
どれくらいそうしていたろうか。ふと、脱ぎ捨てたTシャツが目に入った。
煙の匂い。
それは、エアコンの効いた部屋で一人でパソコンの画面を見つめているだけでは、絶対に付くことのない匂いだった。
中西は、ゆっくりと顔を上げた。
今日、自分はあの場にいたのだ。
誘いを断らず、汗をかきながら河川敷まで歩き、居心地の悪さに耐え、冷たいビールを飲み、焦げた肉を焼き、他人の笑い声の中に身を置いた。会話はまともにできなかった。気の利いた冗談も言えなかった。相変わらずの「内弁慶な中西くん」のままだった。
けれど、自分は行ったのだ。
部屋の鍵を閉めて閉じこもる代わりに、靴を履いて外へ出た。その事実だけは、どれほど自分が情けなくとも、消し去ることができない。
「……ふぅ」
中西は小さく息を吐き出した。
喉の奥の小石は、まだそこにある。明日になれば、また会社で挨拶すらまともにできない自分がいるのかもしれない。急に饒舌な社交家になれるわけでもない。
しかし、足元の畳を踏みしめる感覚は、今朝家を出る前よりもほんの少しだけ確かなものに思えた。
中西は立ち上がり、脱ぎ捨てたTシャツを拾い上げて洗濯籠に放り込んだ。そしてベランダの窓を開けると、ぬるい夜風が部屋の中に吹き込んできた。遠くで、どこかの祭りのものか、かすかに太鼓の音が響いていた。
明日もまた、変わらない一日が始まる。だが、今日のあの煙の匂いは、彼の中で静かに、確かな第一歩の足跡として残り続けていた。




