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海月(くらげ)の駅で、君を待つ

作者: あーちゃん
掲載日:2026/06/01

人は、忘れることで生きていける。

でも、本当に大切な人だけは、忘れられない。


この物語は、「待ち続けること」をやめられなかった二人の話です。

夏の終わり、海の匂い、夕焼けのホーム。

その景色の中に、少しだけ切なくて、少しだけ優しい時間を閉じ込めました。


もし今、あなたの中にも忘れられない誰かがいるなら。

この物語が、静かに寄り添えますように。

八月の終わりだった。


潮風の匂いが混じる帰り道を、蒼は自転車で走っていた。

蝉の声は少し弱くなり、代わりに鈴虫の音が遠くから聞こえ始めている。


進路希望調査の紙は、今日も白紙のまま鞄に入っていた。


「水瀬、お前そろそろ出さないと怒られるぞー」


担任の言葉を思い出し、蒼は小さく舌打ちする。


将来の夢。


なりたいもの。


行きたい大学。


そんなもの、急に聞かれても分からない。


父が死んでから、未来を考えること自体が怖くなった。


どうせ大切なものは突然消える。

なら最初から期待しない方が楽だ。


蒼は海沿いの坂道を下り、そのまま見慣れない細道へ入った。

理由はなかった。ただ、なんとなく真っ直ぐ帰りたくなかった。


線路沿いを進むと、小さな無人駅が見えた。


古びた看板には、かすれた文字で「海月駅」と書かれている。


ホームには、一人の少女が座っていた。


白いワンピース。

風に揺れる長い髪。

夕焼けに溶けそうな横顔。


蒼は思わず立ち止まった。


少女はゆっくりこちらを見て、少しだけ笑った。


「こんにちは」


その声は、不思議なくらい静かだった。


「……誰?」


「それ、初対面の人に聞く?」


「いや、こんな駅に人いると思わなくて」


少女は小さく吹き出した。


「私も。ここに人が来るなんて思ってなかった」


蒼は自転車を止め、ホームへ上がる。


駅には自動販売機すらなく、時刻表も日に数本しか電車が来ないことを示していた。


「君、電車待ち?」


「ううん。人待ち」


少女は線路の向こうを見たまま答える。


「毎日?」


「毎日」


「来るの?」


その問いに、少女は少しだけ黙った。


「……来ないよ」


蒼は眉をひそめた。


「来ないのに待ってるの?」


「待ってる間だけは、ちゃんと好きでいられるから」


夕暮れの風が吹く。


その言葉だけが、なぜか胸に残った。


翌日も、蒼は海月駅へ行った。


凪は昨日と同じ場所に座っていた。


「また来た」


「悪い?」


「別に。ちょっと嬉しい」


そう言って笑う顔を見て、蒼は少しだけ安心した。


それから蒼は、毎日のように海月駅へ通うようになった。


学校帰りの一時間だけ。

二人は他愛もない話をした。


好きな映画。

嫌いな教科。

子どもの頃の話。


けれど、お互いに深いところまでは踏み込まなかった。


ある日、蒼は凪に尋ねた。


「待ってる人って、彼氏?」


凪は少し驚いた顔をして、それから苦笑した。


「違うよ」


「じゃあ誰?」


「……お兄ちゃん」


蒼は言葉を失う。


「昔ね、一緒にここへ来る約束してたの。でも結局、来なかった」


「喧嘩でもした?」


凪は静かに首を横に振った。


「事故で死んじゃった」


その瞬間、蒼の胸が強く痛んだ。


死。


その言葉は、今でも蒼の中で鋭い棘だった。


「ごめん」


「なんで蒼が謝るの?」


「……分かんない」


凪は少しだけ笑った。


「でもね、待つって悪いことじゃないと思うの」


「どうして?」


「ちゃんと大切だったって証拠だから」


蒼は何も言えなかった。


父のことを思い出さないようにしていた自分が、急に恥ずかしくなった。


夜、家へ帰ると母が言った。


「最近、帰るの遅いね」


「ちょっと寄り道」


「……そう」


母はそれ以上聞かなかった。


食卓には二人分の料理。

父がいた頃より静かな食事。


蒼は箸を止める。


「母さん」


「なに?」


「父さんのこと、まだ思い出したりする?」


母は少し驚いた顔をした。


そして、優しく笑った。


「毎日するわよ」


「辛くないの?」


「辛いわよ。でも、忘れたくないから」


その夜、蒼は久しぶりに父の写真を見た。


笑っている父を見ているうちに、涙が止まらなくなった。


次の日、海月駅へ行くと凪はいなかった。


夕焼けのホームには誰もいない。


蒼は初めて、自分が彼女に会いたかったのだと気づいた。


電車が通り過ぎる。


風だけが残る。


帰ろうとした時、背後から声がした。


「蒼」


振り返ると、凪が立っていた。


けれど、その顔色は悪かった。


「大丈夫?」


「ちょっと病院行ってた」


「病院?」


凪は誤魔化すように笑う。


「たいしたことないよ」


だが、その笑顔はどこか無理をしているように見えた。


数日後、蒼は偶然、病院で凪を見かけた。


診察室から出てきた彼女は、医師に頭を下げている。


聞こえてしまった。


「もう長くありません」


頭が真っ白になった。


凪は蒼に気づき、困ったように笑った。


「知られちゃった」


蒼は言葉を失う。


「なんで黙ってたんだよ」


「言ったら、蒼が優しくするから」


「するに決まってるだろ!」


凪は静かに目を伏せた。


「ねえ蒼。私ね、怖いの」


震える声だった。


「消えるのが怖い。忘れられるのが怖い」


蒼は強く唇を噛む。


凪は続けた。


「だから待ってたの。お兄ちゃんのこと。忘れないように」


蒼は凪の手を握った。


細くて、冷たい手だった。


「俺は忘れない」


凪の目が揺れる。


「絶対に?」


「絶対」


その瞬間、凪は泣いた。


子どもみたいに、声を殺して泣いた。


九月の最初の日。

蒼は海月駅へ向かった。


空は高く、夏が終わっていた。


ホームには誰もいない。


白いワンピースも、夕焼けの横顔もない。


代わりにベンチの上へ、一冊のノートが置かれていた。


『蒼へ』


震える手でページを開く。


そこには凪の文字が並んでいた。


『蒼といる時間が好きでした。

未来が怖かった私に、また明日を待ちたいって思わせてくれてありがとう。

もし蒼がこれから先、大人になって、誰かを好きになって、私のことを忘れそうになっても、それでいいです。

ちゃんと生きてくれたなら、それだけで。』


最後のページには、短くこう書かれていた。


『さよならじゃなくて、いってらっしゃい』


蒼は空を見上げた。


泣きたかった。


叫びたかった。


それでも、少しだけ前を向ける気がした。


潮風が吹く。


遠くで電車の音が聞こえる。


蒼は進路希望調査の紙を取り出し、初めて文字を書いた。


“人の心を残せる仕事がしたい”


それが何なのか、まだ分からない。


でもきっと、これから探していけばいい。


海月駅には今日も夕日が沈む。


誰かを待っていた季節が終わり、

そしてまた、新しい明日が始まっていく。

『海月の駅で、君を待つ』を読んでくださり、本当にありがとうございました。


この作品では、「忘れられない人」と「前へ進むこと」の間で揺れる感情を書きました。


人は時々、悲しみを抱えたまま立ち止まります。

けれど誰かとの出会いが、止まった時間を少しだけ動かしてくれることがあります。


この物語のラストが、読んでくださったあなたにとって、優しい余韻として残れば嬉しいです。


また別の物語で、お会いできますように。

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