海月(くらげ)の駅で、君を待つ
人は、忘れることで生きていける。
でも、本当に大切な人だけは、忘れられない。
この物語は、「待ち続けること」をやめられなかった二人の話です。
夏の終わり、海の匂い、夕焼けのホーム。
その景色の中に、少しだけ切なくて、少しだけ優しい時間を閉じ込めました。
もし今、あなたの中にも忘れられない誰かがいるなら。
この物語が、静かに寄り添えますように。
八月の終わりだった。
潮風の匂いが混じる帰り道を、蒼は自転車で走っていた。
蝉の声は少し弱くなり、代わりに鈴虫の音が遠くから聞こえ始めている。
進路希望調査の紙は、今日も白紙のまま鞄に入っていた。
「水瀬、お前そろそろ出さないと怒られるぞー」
担任の言葉を思い出し、蒼は小さく舌打ちする。
将来の夢。
なりたいもの。
行きたい大学。
そんなもの、急に聞かれても分からない。
父が死んでから、未来を考えること自体が怖くなった。
どうせ大切なものは突然消える。
なら最初から期待しない方が楽だ。
蒼は海沿いの坂道を下り、そのまま見慣れない細道へ入った。
理由はなかった。ただ、なんとなく真っ直ぐ帰りたくなかった。
線路沿いを進むと、小さな無人駅が見えた。
古びた看板には、かすれた文字で「海月駅」と書かれている。
ホームには、一人の少女が座っていた。
白いワンピース。
風に揺れる長い髪。
夕焼けに溶けそうな横顔。
蒼は思わず立ち止まった。
少女はゆっくりこちらを見て、少しだけ笑った。
「こんにちは」
その声は、不思議なくらい静かだった。
「……誰?」
「それ、初対面の人に聞く?」
「いや、こんな駅に人いると思わなくて」
少女は小さく吹き出した。
「私も。ここに人が来るなんて思ってなかった」
蒼は自転車を止め、ホームへ上がる。
駅には自動販売機すらなく、時刻表も日に数本しか電車が来ないことを示していた。
「君、電車待ち?」
「ううん。人待ち」
少女は線路の向こうを見たまま答える。
「毎日?」
「毎日」
「来るの?」
その問いに、少女は少しだけ黙った。
「……来ないよ」
蒼は眉をひそめた。
「来ないのに待ってるの?」
「待ってる間だけは、ちゃんと好きでいられるから」
夕暮れの風が吹く。
その言葉だけが、なぜか胸に残った。
翌日も、蒼は海月駅へ行った。
凪は昨日と同じ場所に座っていた。
「また来た」
「悪い?」
「別に。ちょっと嬉しい」
そう言って笑う顔を見て、蒼は少しだけ安心した。
それから蒼は、毎日のように海月駅へ通うようになった。
学校帰りの一時間だけ。
二人は他愛もない話をした。
好きな映画。
嫌いな教科。
子どもの頃の話。
けれど、お互いに深いところまでは踏み込まなかった。
ある日、蒼は凪に尋ねた。
「待ってる人って、彼氏?」
凪は少し驚いた顔をして、それから苦笑した。
「違うよ」
「じゃあ誰?」
「……お兄ちゃん」
蒼は言葉を失う。
「昔ね、一緒にここへ来る約束してたの。でも結局、来なかった」
「喧嘩でもした?」
凪は静かに首を横に振った。
「事故で死んじゃった」
その瞬間、蒼の胸が強く痛んだ。
死。
その言葉は、今でも蒼の中で鋭い棘だった。
「ごめん」
「なんで蒼が謝るの?」
「……分かんない」
凪は少しだけ笑った。
「でもね、待つって悪いことじゃないと思うの」
「どうして?」
「ちゃんと大切だったって証拠だから」
蒼は何も言えなかった。
父のことを思い出さないようにしていた自分が、急に恥ずかしくなった。
夜、家へ帰ると母が言った。
「最近、帰るの遅いね」
「ちょっと寄り道」
「……そう」
母はそれ以上聞かなかった。
食卓には二人分の料理。
父がいた頃より静かな食事。
蒼は箸を止める。
「母さん」
「なに?」
「父さんのこと、まだ思い出したりする?」
母は少し驚いた顔をした。
そして、優しく笑った。
「毎日するわよ」
「辛くないの?」
「辛いわよ。でも、忘れたくないから」
その夜、蒼は久しぶりに父の写真を見た。
笑っている父を見ているうちに、涙が止まらなくなった。
次の日、海月駅へ行くと凪はいなかった。
夕焼けのホームには誰もいない。
蒼は初めて、自分が彼女に会いたかったのだと気づいた。
電車が通り過ぎる。
風だけが残る。
帰ろうとした時、背後から声がした。
「蒼」
振り返ると、凪が立っていた。
けれど、その顔色は悪かった。
「大丈夫?」
「ちょっと病院行ってた」
「病院?」
凪は誤魔化すように笑う。
「たいしたことないよ」
だが、その笑顔はどこか無理をしているように見えた。
数日後、蒼は偶然、病院で凪を見かけた。
診察室から出てきた彼女は、医師に頭を下げている。
聞こえてしまった。
「もう長くありません」
頭が真っ白になった。
凪は蒼に気づき、困ったように笑った。
「知られちゃった」
蒼は言葉を失う。
「なんで黙ってたんだよ」
「言ったら、蒼が優しくするから」
「するに決まってるだろ!」
凪は静かに目を伏せた。
「ねえ蒼。私ね、怖いの」
震える声だった。
「消えるのが怖い。忘れられるのが怖い」
蒼は強く唇を噛む。
凪は続けた。
「だから待ってたの。お兄ちゃんのこと。忘れないように」
蒼は凪の手を握った。
細くて、冷たい手だった。
「俺は忘れない」
凪の目が揺れる。
「絶対に?」
「絶対」
その瞬間、凪は泣いた。
子どもみたいに、声を殺して泣いた。
九月の最初の日。
蒼は海月駅へ向かった。
空は高く、夏が終わっていた。
ホームには誰もいない。
白いワンピースも、夕焼けの横顔もない。
代わりにベンチの上へ、一冊のノートが置かれていた。
『蒼へ』
震える手でページを開く。
そこには凪の文字が並んでいた。
『蒼といる時間が好きでした。
未来が怖かった私に、また明日を待ちたいって思わせてくれてありがとう。
もし蒼がこれから先、大人になって、誰かを好きになって、私のことを忘れそうになっても、それでいいです。
ちゃんと生きてくれたなら、それだけで。』
最後のページには、短くこう書かれていた。
『さよならじゃなくて、いってらっしゃい』
蒼は空を見上げた。
泣きたかった。
叫びたかった。
それでも、少しだけ前を向ける気がした。
潮風が吹く。
遠くで電車の音が聞こえる。
蒼は進路希望調査の紙を取り出し、初めて文字を書いた。
“人の心を残せる仕事がしたい”
それが何なのか、まだ分からない。
でもきっと、これから探していけばいい。
海月駅には今日も夕日が沈む。
誰かを待っていた季節が終わり、
そしてまた、新しい明日が始まっていく。
『海月の駅で、君を待つ』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品では、「忘れられない人」と「前へ進むこと」の間で揺れる感情を書きました。
人は時々、悲しみを抱えたまま立ち止まります。
けれど誰かとの出会いが、止まった時間を少しだけ動かしてくれることがあります。
この物語のラストが、読んでくださったあなたにとって、優しい余韻として残れば嬉しいです。
また別の物語で、お会いできますように。




