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第1話:泥中に咲く蓮、あるいは呪われた生誕

松本賢人まつもと・けんと、四十三歳。

 俺の人生の終わりは、深夜の殺風景なオフィスで訪れた。


 胸の奥を万力で締め付けられるような激痛。呼吸ができず、床に這いつくばったまま、冷たいリノリウムの感触を最後に意識が途切れた。心筋梗塞か何かだろう。

 バツイチで、十五年も会っていない娘の顔はもうおぼろげにしか思い出せない。趣味のネット小説を読むことくらいしか楽しみのなかった、枯れた中年男の死。

 走馬灯すら大して浮かばない自分の人生に、俺は地球への未練などこれっぽっちも抱いてはいなかった。


 だから、次に目を開けたとき、自分が豪奢な天蓋付きのベビーベッドに寝かされているのを見ても、さほどパニックにはならなかった。


(……転生、したのか。流行りのやつに、俺みたいな薄汚いおっさんが)


 視界はひどくぼやけており、手足は自分の意思ではろくに動かせない。口を開けば「あー」とか「うー」といった間の抜けた音声しか出ない。

 間違いなく、赤ん坊の体だった。


 だが、俺を包む空気は、新しい命の誕生を祝うような温かいものではなかった。


「……ごめんなさい……ごめんなさい、あなた……」


 俺を見下ろす若い女――俺のこの世界の母親は、声を殺して泣いていた。

 亜麻色の髪の、まだ二十歳そこそこと思われる美しい女性だ。しかしその瞳はひどく虚ろで、深い絶望と悲痛な色がこびりついている。

 彼女は俺を抱き上げると、壊れ物に触れるかのようにそっと頬擦りをした。


「どうか、この子が……あなたの子でありますように……」


 誰に向かって懺悔しているのか。少なくとも、それは「俺の父親」に向けられた言葉ではなかった。

 その時、重厚な木製のドアが乱暴に開かれた。

 ビクッと、母親の体が怯えたように跳ねる。俺を抱く腕に、過剰な力がこもった。


「ふん。男を産んだか、ニナ」


 入ってきたのは、上等な絹の服に身を包んだ、恰幅のいい中年男だった。

 彼が俺を見下ろす視線には、我が子に対する慈愛など微塵もない。まるで、新しく仕入れた商品の検品でもするかのようだった。


「顔つきは悪くないが、能力はどうだか。……まあいい。正妻のセリーナにまともな跡継ぎの男子ができるまでの、ただの『予備スペア』だ。せいぜい、うちの商会の名折れにならない程度に育てておけ」


「……はい、ガルド様」


 ニナと呼ばれた母は、ただ震えながら頭を下げることしかできなかった。

 ガルドというこの男が、俺の父親らしい。

 短いやり取りだったが、四十数年を無駄に生きてきたおっさんの勘が、この異常な関係性を正確に察知していた。


(なるほど。歓迎された生誕じゃないってわけだ。愛人の子か、それとも……もっとドロドロした何かか)


 男が足音を荒立てて部屋を出て行くと、ニナは再び俺を抱きしめ、音もなく泣き崩れた。

 俺は赤ん坊の短い腕を伸ばし、その涙で濡れた頬に不器用に触れた。せめて、この悲しい母親を安心させるように。




 それから数ヶ月。

 俺は赤ん坊の特権である「寝たふり」をフル活用し、周囲の大人たちの会話からこの世界の情報を猛烈な勢いで収集していた。


 この家は、ノキア王国内でも有数の規模を誇る商会の屋敷らしい。

 そして、父親であるガルドは、非常に強欲で傲慢な男だった。


『可哀想にねぇ。ニナ様も、あんな風に手籠めにされなければ、今頃あの人と幸せになっていただろうに』

『しっ、声が大きいわよ! あの方が目の前で、恋人を護衛に斬り殺された話は禁句よ!』

『でも事実じゃない。いくら領主様が仲介して第二夫人にしたって言っても、あんなお飾りの扱いで……この坊ちゃんも、ガルド様の血を引いているかどうか』

『三歳の【鑑定の儀】で能力が低かったら、どうなることやら。ガルド様は【収納10】のギフト持ちだもの、出来損ないなんて絶対に許さないわよ』


 俺の世話をするメイドたちが、ゆりかごのそばでそんな噂話をしているのを、俺は目を閉じてじっと聞いていた。

 なるほど、理解した。


 母のニナは、ガルドによって無理やり犯され、その際に恋人を殺されている。領主の顔を立てるために第二夫人という名目で囲われているが、実態は軟禁に近い。

 そして俺は、ガルドの子か、亡き恋人の子か分からない呪われた生い立ち。

 もし三歳で行われる【鑑定の儀】とやらで、父親が求める「能力」を示せなければ、俺たち母子の扱いはさらに悲惨なものになるだろう。


(えげつねえな、胸糞悪りぃ……)


 前世で家庭を壊した俺が偉そうなことを言える義理はないが、それにしてもあんまりだ。

 毎日毎日、俺の寝顔を見ながら、亡き恋人の面影を探して泣いている母・ニナ。彼女の心はとっくに限界を迎えているはずなのに、それでも俺にだけは、狂おしいほどの愛情を注いでくれる。


(……この人は、俺が守らなきゃダメだ。そのためには、力が要る)


 俺はゆりかごの中で、己の肉体の内側に意識を集中させた。


 メイドたちの会話で確信したこと。それは、この世界に「魔法」という概念が当たり前に存在しているということだ。

 ガルドの持つ【収納】という能力。そして、【鑑定】。

 おとぎ話やネット小説の専売特許だった力が、この世界では物理法則と同じように機能している。


 俺は、意識の奥底へと潜った。

 みぞおちの少し下あたりに、熱を帯びた「袋」のようなものを感じる。

 前世の肉体には絶対に存在しなかった、未知の臓器。これこそが、魔力を蓄える器官に違いない。


(出ろ……! 頼む、何か出てくれ……!)


 真夜中、誰もいない部屋。

 俺は小さな指先を天井に向け、体内の袋から、ほんの少しだけその熱を引っ張り出した。

 指先に、空気が集まるような奇妙な感覚。

 やがて――。


 ぽちょん。


 暗闇の中で、透き通った水滴が一粒、俺の指先からこぼれ落ちて、シーツのシミになった。


「あー……! あうーっ!」


 俺は、赤ん坊の喉から奇声を上げて歓喜した。

 手足をバタバタと振り回し、顔を真っ赤にして興奮する。


(出た! 出たぞ!! 水だ! 何もない空間から水が出た! マジかよ、すっげえええええ!!)


 四十を過ぎたおっさんの理性が、純粋な好奇心とロマンの前に吹き飛んだ。

 魔法だ。本当に魔法が使えるんだ!

 だが、興奮が落ち着くと同時に、ひどい虚脱感が襲ってきた。たった一滴の水を出しただけで、体内の「袋」がすっからかんになってしまったのだ。


(おいおい、燃費悪すぎだろ。これじゃあ生活魔法すら満足に使えねえぞ)


 回復を待ち、翌日も試してみたが結果は同じ。魔力は、使い切れば元の量まで回復するだけで、上限が増える気配はない。

 この世界の連中は、きっとこれを「生まれつきの才能」として諦めているのだろう。

 だが、俺は現代地球の知識を持つ、ひねくれた四十三歳だ。


(筋肉だって、限界まで負荷をかけて筋繊維を壊すから太くなるんだ。この魔力袋だって、回復できるように壊して回復できれば拡張できるはずだ。いや、やってみせる!)


 俺は、体内の魔力袋を「内側から魔力で押し広げる」というイメージを作った。

 ただ使い切るのではなく、袋の壁をギリギリまで押し延ばし、痛みに耐えながら極限まで広げる。いわば、魔力袋の股割りだ。

 ビニール袋に限界まで物を詰め込むように、袋そのもののキャパシティを強引に引き伸ばす。


(痛え……! だが、この反発力……いけるぞ、これ!)


 三歳の鑑定の儀まで、あと三年。

 俺に与えられた時間は少ない。だが、やるべきことは見えた。

 ガルドのようなゲス野郎からこの悲しい母を守るため、そして何より――この魔法という名の最高の玩具をしゃぶり尽くすため。


 泥のような境遇の中で、おっさんの飽くなき探求心という名の蓮が、静かに蕾を開き始めていた。

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