3. 完璧の崩れる音
公爵令嬢アルトニアの自問自答
ワルツのターンと共に、大きく裾を翻したドレス。
高貴な者達によるファーストダンスが終わった今、アルトニアは周囲にいる貴族令嬢達からの羨望を集め、貴族令息からは手の届かぬ高嶺の花として憧憬を向けられているはずなのだ。
ここにいる貴族の中で、王族を除いて、もっとも栄えある立場が与えられた令嬢になっていた。
それなのに春に咲く花に似た、柔らかくも淡い紫のドレスが、視界の中で今一度軽やかにスカートの裾を翻す。
息の合ったステップを踏む相手は、パートナーの瞳に合わせた深緑に染まるバルティア皇国の礼服で、胸ポケットの白いハンカチには黄緑のラインが縁どられていた。
サッシュは白地にバルティアの貴色である紫の糸で、手の込んだ刺繡が刺されている。
刺繍の柄は国花であるアカンサスを咥えた鷹が、雄々しく飛ぶ姿だ。
踊っているとよく見えないが、アルトニアの横を通り抜けた時にはっきり見ている。
鷹はバルティアの国旗に描かれている動物だ。鷹もアカンサスもバルティア国民の誰しもが日常的に、それこそハンカチやタイ、果ては壁紙にまで取り入れる図案だが、国花を咥えた鷹という図案だけは高貴な身の上でしか扱うことを許されていない。
「あの礼装は、いや、まさか」
と周囲から聞こえる戸惑いの声に、流行の紅をひいた唇を嚙みそうになる。
目の前で優雅に踊る片方は、身なりを整えたせいで一瞬わからなかったが、留学生達の中では格下扱いされて、よく使い走りをさせられていたはず。
ボサボサで手入れされていない前髪で目元がよく見えず、サイズの合わない制服。
てっきり平民がなけなしの財を投じて、留学してきたのかと思っていたが、そんな己の浅慮に吐きそうだ。
どういうことかと叫びたい衝動を抑えて震えるシシーリン公爵令嬢アルトニアは、集団に混ざってなお、存在感を放つ二人組を見ていることしかできなかった。
* * *
「あの女、一体どういうつもりよ!」
怒りも隠さず吐き出された叫びと共に、ガラスや陶器の割れる音が盛大に響く。
テーブルから薙ぎ払われたか食器達の残骸が、照明の光を反射するそばで、アルトニアは淑女らしからぬ形相で荒い息を吐いていた。
あの夜会から数日経とうとも、アルトニアの怒りが収まることはない
若い侍女達は怯え、部屋の隅で小鳥のように身を寄せ合って縮こまっている。
それが主の中で燃え盛る炎に、油を注ぐとは思わずに。
「その目はなによ! 主人に対して、怯えているんじゃないわよ!」
怒りに満ちた甲高い声が部屋中に響き、テーブルの上で無事だった、まだ熱いお茶の入ったままのポットに手を伸ばしたかと思えば、勢いよく投げつける。
当たるよりも先に小さな悲鳴がいくつも上がり、そうして足元でポットが割れた侍女からは、一際大きな声が上がった。
その声を聞きつけたのか、ノックもせずに使用人達が駆け込んで、荒らされた部屋に呆然と立ち尽くす。
遅れて部屋に入った家令も部屋の惨状に数秒無言となり、少ししてから侍女達へは退出を促し、先に飛び込んだ使用人に床の破片を片付けるように言う。
行儀見習いとして働く、年端も行かない侍女達は我先にと逃げるようにして部屋を退去していった。
それを目で追ってから、采配する家令を睨みつける。
目の前の老僕は公爵家当主と嫡男のみに仕えており、その他の家族は公爵家の付属品としか思っていなさそうな男だ。
アルトニアを見返すことなく、絨毯の染み具合を確認しながら口だけ開く。
「お嬢様、落ち着いてください」
「こんな状況で、どうやって落ち着けと言うのよ!
あの冴えない平民風情に見えた生徒が、実はバルティア皇太子ですって!?
冗談じゃないわ!」
感情のままに怒鳴りつければ、ここでようやく視線を向けてきた。
この家令、アルトニアが生まれる前からシシーリン公爵家に仕えているらしいが、いつ見ても表情の無い顔は人形のようで薄気味悪い老人という印象だ。
「旦那様が王家と話し合いをしております。
お嬢様は大人しく、それをお待ちになられるように言われておりましたでしょう」
「王家との話し合いもそうだけど、グラスレーよ!
あの女、何食わぬ顔をしてバルティア皇太子と繋がっていたなんて!」
「グラスレー伯爵家からは、バルティア皇太子が身分を偽っていたことから、何も知らなかったと回答を頂いているはずです」
激昂するアルトニアと対照的に、淡々と答える家令の声は温度を感じさせないものだ。
「どう考えたって、嘘に決まっているじゃない!
そんな白々しい言葉を聞いて、納得できるわけがないでしょう!」
なおも喚くアルトニアに、怒りも呆れもない無機質な声が、諭すように語り掛けてくるのさえも無性に腹立たしい。
「嘘だと証明ができないのであれば、それは嘘ではなくなります」
そもそもですが、と言葉は続く。
「此度のことは旦那様の言いつけを守らず、お嬢様が浅慮な行動を取ったからこその結果。
再度申し上げますが、落ち着かれますよう。
久しぶりに懲罰部屋へと入りたくないのでしたら」
途端、息を止めたアルトニアを見てから、部屋を見渡す。
「とはいえ、このお部屋で過ごすよりかは、懲罰部屋の方が数段マシかもしれませんが。
絨毯にはお茶が染みてしまいましたから交換が必要ですし、細かな破片が残っている可能性もあります。
仕方ありませんので、今夜は客間をお使いになってください。
今晩中に新しい絨毯へと入れ替えましょう」
「嫌よ! 今すぐなんとかして!」
お嬢様、とアルトニアを呼ぶ声は、寒々しい気配へと変わっていく。
「旦那様はお嬢様の浅はかな行動に、大層お困りのようでした。
家族思いの方でございますので、市井に放逐したりや修道院に押し込めることはございませんが、お嬢様がまだ暴れ足りないと言われるのでしたら、その限りではないことをご理解願います」
父親であるシシーリン公爵のものである家令は、アルトニアすら主人の駒としか思っていない。
もはや黙り込むしかなくなったアルトニアから視線を外し、「理解できたならなによりです」と言い残して、家令は部屋を出て行った。
** *
セドリック第一王子は、初めて会った時から気に食わなかった。
どことなく人を窺う風である態度は少しも好ましい要素ではなかったし、父親が傀儡としては合格点だといった、王という器には至らない凡才さも気に入らなかった。
地位も容姿も王妃としての器も、全てが完璧である公爵令嬢のアルトニアの横に並ぶには、少しも相応しくない者。
アルトニアに王太子妃の地位を与えてくれない愚図。
そんなセドリック第一王子は凡才でしかなかったが、かといって鈍すぎることもなかった。
アルトニアの顔色から何となく察したらしく、彼女に恭順することなく距離を置こうとしたのだ。
アルトニアよりも劣る存在のくせに。
だから交流の際には注意されない程度に貶め、己がいかに愚鈍であるかをわからせてやった。
贈り物への返事には、もっと良質で価値の高い品であるようにと親切ぶった助言という名の非難を書き、交流として定期的に招待されたお茶会では、彼と関りの無い令嬢や令息の話を一人喋って無言にさせる。
一度だけもらった手紙は、青インクで間違った言い回しなどを修正して返してやったら、二度と送ってこなくなった。
アルトニアを嫌悪する余りに、学園で卑しい女と恋仲になったと聞いた時には、これで婚約破棄に至れると思ったし、当時は首席であり続けるバルティアの留学生の方が魅力的に見えた。
第一王子が王太子になることが難しいのならば、王女もいない中、令嬢としては最高位のアルトニアがただの王子妃や公爵夫人になるなんて我慢ならない。
ならば、小国であってもバルティアの皇太子妃になったほうが、箔がつくというものだ。
父親からは苦言を呈されていたが、いくら公爵といえども学園内にまで干渉することは難しい。
それをいいことに、媚びへつらうことしかできない、新興貴族のグラスレー伯爵の娘を使うことにしたのだ。
彼女をバルティアからきた留学生の世話係にしてから、婚約者のいない彼女が留学生の一人と交際しているという適当な噂を流して隠れ蓑にし、彼女の手引きでバルティア皇太子と呼ばれていた彼と関りを持つことができた。
その間にも学園内ではセドリック第一王子を窘める姿を周囲に見せ、こちらが被害者であるように振舞う。
まあ、実際に被害者ではあるといえるだろう。
あんな愚鈍、一度も手に入れたいと思ったことは無いが、アルトニアを欲しがらずに他の女に走ったことだけは許しがたい。
人形であることを自覚し、傀儡らしく従順に従うのならば、もう少しくらいは優しくしてあげたかもしれないのに。
どこで計画が狂ったのかがわからない。
王家の曖昧な言葉を鵜呑みにせず、きちんと父親に相談してバルティア皇国内でも調べてもらうべきだったのか。
それとも彼が「言えないことがある」と言った意味をよく考えるべきだったのか。
もしくはグラスレーの娘をバルティアの留学生に近づけさせたことか。
「何よ。何が駄目だったのよ。
どこまでも完璧だったはずなのに」
無意識に爪を噛む。
子どもの頃に鞭で打たれて以来しなかった癖だ。
パキ、と軽やかな音で我に返って爪を見、欠けて不完全な形に一層の苛立たしさを募らせて枕を殴る。
夜会で求愛を受けた以上、アルトニアがバルティア皇国に嫁ぐのは決定事項だろう。
自分より格下の、平民の血が混じった卑しい伯爵令嬢が皇太子妃になる国に。
王家と話し合いの最中ではあるが、彼らはセドリック第一王子を処分させたことを許してはないはず。
あんな無能を押し付ける方が悪いのだと、文句の一つでも言ってやりたいが、父親が婚約を受けたせいで言い訳のしようも無い。
代わりとなるべき第二王子とは年が四つも離れているし、婚約している侯爵令嬢との仲は良好だ。
間に割って入ることなど許されないだろう。
アルトニアは数ヵ月もしたら、ちっぽけな国の伯爵夫人になるために嫁ぐことになる。
そしてグラスレーの娘に従属するのだ。
その事実が変わることはない絶望に打ちのめされながら、客間で一人、どこで選択肢をまちがえたのかと問い続けた。