1. やらかし第一王子の婚約者はお断りです
「私には真実の愛がいる」
婚約前の初顔合わせとなる王城でのお茶会に、どうやって人を一人潜り込ませることができたのか。
腕に可愛らしい少女をぶら下げたセドリック第一王子が姿を見せた時、両親に連れられて王家の面々を待っていたオリヴィーネは、「まあ」とだけ言って口元に閉じた扇子をあてる。
そうして素知らぬ顔で挨拶を済ませた両親に促され、オリヴィーネが挨拶を申し上げた時の言葉がこれだった。
** *
この婚約に関しては、最初から断っても問題無いと、事前に両親から言われていた。
第一王子殿下にうちの娘は釣り合わないと笑っていたが、どちらの意味で言ったのかは聞いてはいない。
まあ、今の状況を見れば、自身の危うい状況も把握できない馬鹿と婚約を結ぼうという相手なんて、高位貴族の令嬢達には一人もいなかっただろう。
消去法でグラスレー伯爵家を選んだのだとしても、ありえないくらいの不良物件を拾う気にもならなかった。
そもそも第一王子であるはずの彼が、卒業して間もない学園生活の中で、日々、目の前にいる令嬢と恋愛ごっこを繰り広げていたのは有名な話だ。
在学していたオリヴィーネだって、中庭のベンチでこれみよがしに膝枕なんてしている姿を何度見たことか。
一応彼には第一王子として、これ以上ない完璧な婚約者がいたにも関わらずのことだ。
セドリック第一王子を義務的かつ献身的に支えていた、優秀な婚約者に婚約破棄を言い渡した挙句に喜劇の盤面をひっくり返され、結果として自身の有責となって慰謝料を毟り取られている。
さらに側近達は誰もが辞退を申し出て、今や国王付きの従者が兼任している始末。
既に学園を卒業したはずのセドリック第一王子がこの有様なのだから、王太子という立場に未だ至れないのは言わずもがな。
何食わぬ顔で控える、監視役を兼ねた側近達の表情から思惑が読み取れるわけでもなく。
周囲にいるのは、セドリック第一王子とオリヴィーネの家族を除けば侍女と騎士達だけ。
婚約者候補との面会だというのに執政官や記録官、婚約条件をまとめるための法務官すらおらず、いわば非公式扱いである。
伯爵位ぐらいに会う必要も無いと思っているのか、はたまたセドリック第一王子を見限ったか、国王陛下と王妃殿下の姿も無い。
ならば、と下げた頭を許可なく戻しながら、扇を広げて嫣然と笑った。
「まあまあ、第一王子殿下の真実の愛。
大変よろしいではございませんか」
ほほほと、わざとらしい笑い声を上げる。
同様に両親が浮かべる笑顔も、取引や交渉時に見かけるお仕事用のものだ。
伯爵である父親が鷹揚に頷きながら、オリヴィーネの意図を察して口を開く。
「それでしたら、この度の婚約は無かったことに。
ご多忙であらせられる王家の方々の貴重な時間を、一分一秒でも無駄にしないよう、私共はこのまま失礼させて頂きましょう」
「そうですわ、旦那様。きっと若いお二人で、愛を育まれるおつもりだったのでしょう。
可愛いオリヴィーネの目に毒ですし、早々に失礼いたしましょう。
婚約者候補という貴重な機会を頂いたこと、感謝を申し上げます」
それじゃあ、さようなら。
といった様子で、あっさり帰ろうとするグラスレー伯爵親子に、焦りを見せたのはセドリック第一王子のほうだった。
「ま、待たれよ!」
案内してくれた侍女の誘導で場を辞そうとしていた、オリヴィーネと両親を呼び止める。
傍らの少女はといえば、テーブルに用意された菓子類に目を奪われていたが、セドリック第一王子がオリヴィーネ達親子を呼び止めようと動いたので、仕方なく諦めたようだった。
「おや、何かご用でしょうか」
白々しい態度でグラスレー伯爵が返すも、焦りからか気づいていない様子だ。
「いや、今日は婚約者との顔合わせと聞いている。
それなのに早々と帰るのはいかがなものか」
「恐れ入りますが、殿下。顔合わせは確かですが、婚約者ではございません。
婚約誓約書に署名もしていなければ、そもそも婚約の条件の話し合いすらもしておりませんので、誤解される言い方はお止め頂きたく」
やんわりと間違いを指摘するが、おそらくはそれどころではないのだろう。
「そういった言葉遊びがしたいわけではない。
ここに参上した以上は、婚約を受ける気ではなかったのか?」
「ご冗談を」
父親の横で変わらぬ笑みを浮かべたオリヴィーネが、未だ菓子へと目移りしているリリー・グリーンを見る。
「殿下ともあろうお方が、真実の愛をただの愛妾などに堕として、表に出られぬ日陰者にされるつもりですか?」
ご冗談でしょうとでも言いたげな様子を見せながら、微笑みは絶やさずに二人を見る。
「第一王子殿下におかれましては、シシーリン公爵令嬢のアルトニア様に、颯爽と婚約破棄を申し渡した勇姿を拝見して日も浅ければなおのこと。
結果として殿下の有責となりましたが、だからこそ、今ここで愛を貫かれませんと」
「いや、しかしだな」
歯切れの悪いセドリック第一王子と違って、紹介されないせいで腕に絡まっているしかないリリー・グリーンはどことなく上の空だった。
第一王子の真実の愛は、平民出身の少女だ。
将来有望と見込めるだけの評価を経て、大半を貴族が占める学園に通うことを認められた、特待生でもある。
明るい茶色の髪はショートボブで、外に跳ねることを知らないのか、何の手入れもしていないわりにはいつだって内側へ巻かれたようだった。
鮮やかなきらめきを持つ緑の瞳はエメラルドというよりは薄く、けれどペリドットやスフェーンのような明るいマスカットグリーンでもない、表現のしようがない色味をしていた。
誰かがミント菓子のようだと表現していたので、それがおそらく一番近いだろうか。
貴族かと思うぐらいに容貌が整っていたが、感情を隠すことなく表に出し、その表情はころころと変わる。
スカートを翻して学園内を駆け回り、屈託のない笑顔を向けてくる彼女を、新鮮な目で見る貴族子女達が多かった。
同時に彼女の目新しさに、心を奪われる令息が多かったのも事実だ。
最初に告白したのは、男爵令息だっただろうか。
次にリリー・グリーンの心を射止めようとした伯爵令息は、長きに渡って付き合いのあった婚約者との関係を清算しての出来事だった。
こうなると、生徒会へと身を置いていたセドリック第一王子の耳に、胡乱な噂が流れつくのは当然の結果で。
学園内の風紀を乱すばかりか、貴族社会を揺るがしかねない悪女を確認しようと向かった本人が、まさか骨抜きにされて帰ってくると誰が思っただろう。
気づいた頃には、周囲の目を気にしない開けっ広げに二人の世界を築き上げ、そんな二人を諫めては追い払われる婚約者や側近の姿が、生徒たちの日常的な話題になっている状況だった。
学園の中といっても、そこには小さな社会が構築されている。
物理的な暴力や死を与える罰が無いだけだ。
何も理解できない平民の生徒達は、本で読んだ恋愛小説のようだと持て囃し、弁えているがゆえに王族に対して物言えぬ貴族の生徒達は黙して語らず。
それを誰もが祝福しているのだと、気を大きくした二人が大きく出たのはすぐのことで。
うららかな昼休みの中庭で、失笑混じりの断罪劇にはオリヴィーネも近くで眺めていた。
婚約者に冤罪をなすりつけようとするも、事態を把握した警備兵や教師たちによって、あっという間に回収されてしまって終了となった。
王城で人目を憚らぬ叱責を国王陛下から受け、真実の愛について聞いた王妃殿下は倒れる有様。
後日、事態をよくわからぬまま、婚約者の公爵令嬢を一緒に糾弾しようとした平民の生徒達は退学処分とされ、事の発端であるセドリック第一王子は、後日同じ場所で元婚約者に謝罪させられるという屈辱に遭わされた。
ここまでの一通りを見てきたオリヴィーネにしてみれば、どれだけ高貴な身分の相手だろうと、婚約者として大変不適切な不良物件でしかない。
今日わざわざ王城まで参上したのは、単に王家の顔を立てただけに過ぎない。
既にいくつかの家から断られた上での、新興貴族であるグラスレー伯爵家への打診だ。
事前に使者からの話を聞かされた側として、自分で無ければならない理由も無いとなれば、特に感動なんて湧いてくるはずもなく。
「婚約者候補との顔合わせに、ご自身の最愛をお連れするのですから、むしろ殿下こそお話を断りに来られたと考えるのが普通だと思っていましたが。
どうやら殿下の中では、これが常識のようですね」
オリヴィーネがたっぷりの皮肉を込めて言ってやれば、屈辱からかセドリック第一王子の顔が歪む。
「当家は三代前にお金で爵位を買った、成り上がりの元平民となれば、高貴なる血筋との婚姻なんて。
それに、第一王子殿下との婚姻に、政略上の旨味が何一つありませんの。
今日お会いして無理だという結論に至りましたので、辞退いたしますから、どうぞ貴重な残り時間は公務に宛てて頂ければ」
その公務があればだが。
王城に出入りしている商売相手から聞いた話だが、セドリック第一王子は冤罪での婚約破棄を企てただけではなく、婚約者予算をリリー・グリーンへのプレゼントに使い込んでいたらしい。
更にはリリー・グリーンの生家に便宜を図るために、公務の内容を改竄した可能性があることから、現在は学生である理由から僅かであった公務も取り上げられ、私室で謹慎の身である。
私情で公務で不正が行われるのであれば問題だ。
平民の家ゆえに動いた金額は些細だったのが不幸中の幸いだっただろう。
国王陛下は見たことの無い顔でお怒りだったとは噂で聞いているし、王妃殿下がショックで再び倒れられたので、現在休養中だというのも耳に入っている。
成り上がり貴族と誹られやすいグラスレー伯爵家でも知っているのだから、社交界全体に噂は行き渡っていると考えていいだろう。
けれど、謹慎中の身であるセドリック第一王子は内情を知られているとは思っていないのか、それぐらいは問題無いと返してくるので、鼻で笑いそうになるのを我慢する。
「旨味が無いとはどういうことだ。
私は第一王子であり、王太子の座に一番近いとも言える。
愛は無くとも栄誉はある。令嬢の嫁ぎ先として見るに、最も優良であろう」
不良品が、と密やかな声はセドリック第一王子に届かないもの。
微笑みを絶やさず毒を吐く父親は、家族に届くギリギリの声量で呟いている。
実に器用なことだ。
すぐに声の大きさは戻されて、セドリック第一王子へと言葉を返した。
「残念ですが殿下、娘の言葉は何一つ間違っていないかと。
わからないようでしたら、オリヴィーネ、説明して差し上げなさい。
今日の顔合わせは非公式だと、陛下からお許しは頂いている」
けれど、「あの」と可憐な声が会話を遮る。
声の主は第一王子の腕に絡まりながら、いつもの上目遣いで見上げてくる。
「お話をするなら、お菓子を食べながらにしませんか?」
緊張感のある場を和ませる為か、それとも空腹でどうしようもないのか。
どちらにせよ、招かれてもいない席で言うことではない。
「私達は結構ですので、お一人でどうぞ」
それを許可と受け取ったのか、本当に一人でテーブルに向かい、誰も引いてくれない椅子に勝手に座る。
王城に仕える者達がリリー・グリーンを客だとみなしていないのは明白だというのに、気づきもしないまま手近なお菓子へと手を伸ばす。
マドレーヌ、ジャムクッキー、切り分けられているキャトルカール、イチジクのタルトにチョコレート。
「殿下、彼女を」と促したら、自身がホストであることを思い出したらしく、慌てて彼女に温かいミルクを用意するように命じ、ようやく人々が動き始めた。
それを確認してから、セドリック第一王子がこちらへと向き直る。
「先程の殿下がおっしゃったお言葉に申し上げたいこと、でしたわね。
それでは第一王子殿下との婚約による利益がどれほどないかを、ここではっきりさせましょう」
扇がヒラリと揺れた。
「先ずは第一王子殿下のおっしゃる通り、王太子殿下になられた場合、そうでなくても王族として残られる場合の話を致しましょう。
この時点で問題がございますね」
言われたセドリック第一王子はわからない顔だ。
リリー・グリーンに入れ込む前までは真面目な方だったと聞いている。
真面目に王子教育を受けてわからないならば、単に本人の問題かもしれない
「殿下の婚約者になること、それは王太子妃教育もしくは王子妃教育を受ける必要があることです」
当然のことだろう、と言おうとしたセドリック第一王子の言葉を無礼も承知で遮る。
「殿下の元婚約者でいらっしゃったシシーリン公爵令嬢が、王子妃教育を受けられた期間をお忘れでしょうか?
幼い頃から教育を始められ、高位貴族としての教養とマナーを備えていたからこそ、在学中に修了されていらっしゃいました。
これはシシーリン公爵令嬢だからできたことでございます」
公爵令嬢でも6年かかっている。
「既に私は16歳。今から始めたとして、伯爵家の娘ではいつ王子妃教育を修了できるか見当もつきませんわ。
成人を過ぎ、子どもを産むのに良い時期すらも逃したとなれば、婚姻は認められるか怪しいところですし」
「だが、子は側妃や愛妾に任せれば」
随分と都合の良い反論をするセドリック第一王子を、今度こそ鼻で笑ってやる。
眉間に皺を寄せたが、すぐに笑われた理由に気付いたようで苦虫を噛み潰した顔へと変わった。
「正妃を迎え入れた後、最低でも三年は側妃や愛妾を迎え入れることが認められておりません。
同様に三年間は、他の令嬢に手を出して子を儲けることも認められておりません」
そして三年という期間は、婚姻してから計算されるものだ。
「仮に不貞を犯し、殿下の子が生まれたとしましょう。
子は庶子とすら認められず、秘匿するべき存在として母子ともに幽閉されるか、そうですね、場合によっては秘密裏に始末されるでしょうね」
「そんな馬鹿な!」
悲痛な声を上げているセドリック第一王子の頭では、一体どんな算段が行われていたのか。
皮算用は結構だが、揺らがぬ前提があればこそ。
「次にですが、王子妃の予算は三分の一が生家からの援助です。
潤沢にも思われる支度金の支給はございますが、持参金と王子妃に必要な個人資産の準備を考えたら、到底足りる額ではありません」
セドリック第一王子から視線を外して、向こうで食べ続けているリリー・グリーンを見る。
元々持ち帰るつもりだったのか、持っていたバスケットに焼き菓子を詰め込み始めていた。
眺めている目が、自然と細くなる。
学園でもよく食べる姿を見かけたが、久しぶりに見た彼女の食欲は、以前よりも旺盛に見受けられた。
「つまりは殿下の婚約者候補が、さして名門でもない伯爵家になった時点で、既に王太子としての道は無いと考えるのが当然」
過去に伯爵令嬢が、王太子の婚約者になった例はある。
ただ、その時は後継者争いが起きない場合で、今の王家に王子は三人いる。
弟君達が優秀だからこそセドリック第一王子が焦るのだろうが、既にそういった段階ではないことに目を逸らしたままのようだった。
「そして、学園で起きたことを踏まえて話をさせて頂くならば、どの令嬢も婚約者を冤罪で追い込むような相手は選ばないかと。
シシーリン公爵令嬢は上手に躱されましたが、伯爵位の我が家では冤罪を覆すのは些か骨が折れるでしょう」
「そ、そんなことはしない!」
「まあ、殿下。罪を捏造して相手を陥れたことのある方の言葉が、信用されると思いまして?」
言葉にもならない呻き声を上げて、セドリック第一王子が黙り込む。
このまま続けても問題なさそうだと判断して、オリヴィーネは口を開いた。
「おそらく王族として残るのも難しいかと思われるので、考えられるのが臣籍降下処分でしょうか」
オリヴィーネが喋る度に、セドリック第一王子の目が死んでいく。
会った当初の、希望と野心でギラギラしていた輝きは、いまやすっかり消失していた。
綺麗な金の髪すら、どこかくすんで見える。
よく見たら、目の下に薄らと隈があった。
「与えられるのは王都から離れた王領のどこかで、一代限りの爵位と考えるならば、何一つ利益がございませんね」
「だが、公爵位相当が与えられるだろう!」
あら、反抗的。
希望の芽を摘んだつもりだったが、怒る気力はまだ残っていたらしい。
「通常の臣籍降下ならば公爵位ですが、王家の威信を損なう程の失態の場合は伯爵位相当だった前例がございます」
今までの行為を考えれば、セドリック第一王子に与えられるのは伯爵位が相当である。
いや、それすらも怪しいところだ。
「あれこれと言うが、私はまだ、未成年だろう!
そこまで罪に問われる謂れがどこにある!」
「まだ、未成年ですから、今回のことで済んだのだと思われますが」
これで成人していようものなら、毒杯を仰ぐ選択肢しかない。公爵令嬢への冤罪が成立してしまったら絞首刑だっただろう。
伯爵令嬢のオリヴィーネですら、セドリック第一王子の今の立場がどれだけ危ういか理解しているというのに。
「婚約者である公爵令嬢への冤罪と侮辱。
もし本当に事が成就されていたら、彼女は一体どんな目に遭わされていたのか。
想像するだけで恐ろしいですわ」
臣籍降下で済んだだけでも温情で、国王陛下はさぞや苦労されただろう。
だとしても、リリー・グリーンという悪女に誑かされたとでも思っているに違いない。
「以上から、グラスレー伯爵家にはメリットがないどころか、愛妾付きともなれば、お断りする選択肢しかございません」
あっさりと言い放ったオリヴィーネと対照的に、セドリック第一王子は美しい顔を引き攣らせている。
「それは困る!
私には君が必要なのだ!」
執拗に縋るセドリック第一王子は絶望に満ちた顔でいながらも、必死さは失うことなく、さてどうしたものかと思ったところで、両親が前に出た。
貴族ならではの豊かな黄金の髪を撫でつけながら、「殿下」とオリヴィーネの母親が微笑む。
ただ、その目は少しも笑っていない。
「いくら第一王子殿下といえども、娘を馬鹿にした発言は許せませんわね」
カッと踵が鳴る。
「オリヴィーネが必要とおっしゃいましたが、それがどういう意味か説明して頂いても?」
グラスレー伯爵夫人の問いかけに、答えることなく押し黙ってしまったセドリック第一王子に溜息しか出ない。
「不躾な質問をさせて頂きますが、第一王子殿下の個人資産が後どれだけ残っているのでしょう?」
途端に質問に見開かれた目はこちらを見て、何も言わずに伏せられた。
答えたくないのではない、答えられないのだ。
「そのご様子ですと、シシーリン公爵令嬢への慰謝料で大半を失ったのでしょうね」
まあ大変、と大袈裟に嘆く仕草に、なだらかなカーブを描くドレスの裾が広がる。
「殿下。本当は王族でいられるなんて、思ってはいらっしゃらないのでしょう?
臣籍降下は必須とあれば、せめて可愛い最愛を養うだけではなく、贅沢に慣れた身を満足させるために、相応の持参金を持った相手が必要なだけ。
既に婚約者のいる令嬢は多いとなれば、ここで資産だけはあるグラスレーは逃せないといったところでしょうか。
そのため王太子妃や王子妃という立場を、チラつかせたのでは?」
グラスレー伯爵家が駄目となれば、後は子爵か男爵か。
そうなった場合の持参金は格段と少なくなるし、それ以前に王家が認めるとも思えない。
臣籍降下するとはいえ、格式というものがあるのだ。
「グラスレー伯爵家の娘が必要?
ええ、そうでしょうとも。持参金はできるだけ高く、真実の愛の下に娘を蔑ろにしても、自分よりも格下の元平民ならば問題ないと踏んだからでしょう?」
扇子がパチリと閉じられる。
「そして殿下がそこまで次の婚約者を急がれるのは、あの娘が妊娠しているからですわよね」
確信めいた口ぶりで問いかけるグラスレー伯爵夫人に、ヒュッと息を吸い込んだセドリック第一王子の額に薄らと汗が浮かんだ。
「どこからそれを……」
「あら、見ていたらわかる話でしょう。
長く立っているのも辛くて、お腹をすかせやすく、お茶は避けて温かなミルクを飲む。
それに以前見た時よりも少しふくよかですわ。
どう考えたって妊娠していますわね」
セドリック第一王子は本当に取り繕うのが苦手そうで、一人で席に着くリリーへと振り返り、オリヴィーネ達を見るのを繰り返す。
「政略として見ても利点がなく、婚約前から既に愛妾がいて、あろうことか子を孕ませている。
きっと、娘の子ということにして育てるつもりなのでしょう?
貴族が何の利もないものに飛びつき、金と娘の幸せを捨てる行為をする親がいると思っているのかしら。
そういうことですから、ご遠慮申し上げますわ」
口を開いても言葉の出ないセドリック第一王子の後ろから、暢気な声がかけられる。
どうやらバスケットにお菓子を詰め込み終わったらしい。
テーブルに用意されていたお菓子の内、形の崩れにくそうなものは消え失せて、今はゆっくりと椅子に座って寛いでいる。
「陛下も王妃殿下も頑なにリリーとの結婚を認めてくれようとしない。
リリーのことは秘密裡に調べていたらしく、グリーンの家は絶対に許さないと。
貴族の令嬢を娶らず、これ以上騒ぎを起こすようならば、幽閉しかないと言われている。
そんなことを言われてしまって、私はどうしたらいい」
今にも膝から崩れ落ちそうなセドリック第一王子を見ながら、己で行動を起こすことなく他力本願な様子に再び溜息をつく。
生真面目な方だとは聞いていたが、ただ言われるままに勉強だけをしていただけなのかもしれない。
それでも伴侶が優秀であれば問題なかったのに。
婚約破棄を言い渡す際に、セドリック第一王子はシシーリン公爵令嬢のことを女狐と呼んでいたが、それぐらいでないと支えることなどできなかったに違いない。
百歩譲って、もしオリヴィーネが結婚したとしても、こんな面倒臭そうなのを御せる気がしない。
少なくとも今のオリヴィーネでは荷が重い案件である。
そんなオリヴィーネの肩を抱いて、グラスレー伯爵が薄い唇の端を少しだけ上げたままに留めた。
「残念ですが、お話を聞けば聞くほど、第一王子殿下に残されているのは、あそこにいるリリー・グリーン嬢との愛を貫くことしかございません。
彼女を横に据えるにあたって、貴族令嬢として最低限のマナーを学ばせて修了し、新たな人脈作りを怠らず、領地を正しく治めて発展させて、周囲に認めさせる必要がございますが」
それがどれだけ大変なことか、そういった理解だけはできるらしいセドリック第一王子の顔色が悪くなる。
死んだ魚のような目に相応しい表情だ。
「リリーは今の彼女だからこそ、魅力的なんだ。
澄まして笑っているだけの人形のような、他大勢の貴族の令嬢達とは違う」
ボソボソと呟きにも似た言葉は、宛もなく彷徨いながら消えていく。
セドリック第一王子がオリヴィーネをどう思っているのか、はっきりとわかる台詞だ。
グラスレー伯爵の目が細められる。
それは温かみのある微笑みにも似ていたが、同時に貴族であれば警戒する笑顔でもあった。
けれどセドリック第一王子は、それに気づかないでいる。
「それは大事なことですな。
私も愛する妻が変貌するなど望みませんから、殿下のお気持ちはよくわかりますよ」
優し気な声は相手を懐柔するもの。
一歩、セドリック第一王子に近寄ったグラスレー伯爵が、秘め事のように囁く。
「でしたら、いっそ殿下が市井に身を落とされたらよろしいのでは」
それは堕落への誘いだ。
「爵位を頂き、領地を持ち管理するのは大変でしょう。
殿下が学ばれたのは王としての執政であり、ちっぽけな領地を管理する術ではないのですから。
常に同じだけの収入を得られるわけでもなく、あくせくと働かなければならない。
さらには殿下が爵位を持ってしまえば、リリー・グリーン嬢は殿下の嫌う人形へと変貌を遂げるでしょうね」
セドリック第一王子が身じろぎし、そろりと顔が上げられる。
「彼女を変えたくないのならば、愛の為に殿下が全てを捨てればよいのです。
なに、リリー・グリーン嬢の妊娠を公にすれば、もう陛下も庇いようがないでしょうから。
爵位と得るはずだった領地の収入額を計算してもらい、それを現金で一括支給してもらうのです。
そして王都の富裕層が住まう住宅街に居を構え、浮世を忘れて穏やかに過ごされればよろしいかと」
もしくは、と続く声は酷く楽しそうだ。
「いっそ、罪を重ねて離宮への幽閉などはいかがか?
二人で静かな時間を過ごせるのです。外には出られませんが、今更人の目に晒されますのはお辛いでしょう。
しがらみから解放されますよ」
顔は土気色で、目だけが忙しなく動き、怯えと迷いの色を帯びたままに縋るような視線を向けている。
「しかし、どうやって……」
「今一度、冤罪劇を繰り広げられたらよろしい。
そして彼女への愛を叫べば、もう煩わしいことから解放され、二人仲良く穏やかな生活を送れるでしょう」
国王陛下も無下なことはなされないはずだと唆す。
邪悪の塊のような父親だと苦笑しながら、オリヴィーネはグラスレー伯爵の服の袖を引いた。
グラスレー伯爵は娘に頷いてみせ、更に一歩踏み出す。
もう囁きすらも届く距離だ。
「娘は二週間後の夜会に出席予定です。
ご英断を」
そうしてから今一度辞する挨拶をすれば、今度は止められなかった。