第19話 ゾゾゾ……神域の蜜
御社の裏手にまわり、小さな隙間から身を滑り込ませた瞬間、空気の温度が変わった気がした。
さっきまで夕焼けに照らされていた外とは打って変わり、内部はまるで夜のように薄暗く、ひんやりとした静寂が漂っている。
畳の敷かれた細い通路。
乾いた木の匂いと、お香の残り香が鼻をくすぐった。
壁には古びた掛け軸。墨で描かれた鬼の面や、読み取れない符の文字が、ぼんやりと浮かび上がっている。
ここ、本当に神聖な場所なんだな……
聖杯を満たす役目を終えたせいか、中に人の気配はほとんどない。
外からは、倒れた梯子の騒ぎで、人々の慌ただしい声が微かに聞こえる。
今なら誰にも見つからずにすむ。 人が戻る前に急がないと!
俺は静かに足を進め、廊下の先にあった、ひときわ静かな部屋の前で立ち止まった。
引き戸をそっと開けた先――
そこには、朱塗りの台座。
その上に鎮座する、黒漆塗りの大ぶりな杯があった。
空気がぴたりと止まったように感じる。
「……もしかして、あれが…聖杯……?」
俺は、息を呑むと、そっとスマホを取り出しカメラを起動。
写真を一枚だけ撮り、録画に切り替えながら、ゆっくりと杯に近づいた。
え……。
おぞましい呪物でも出てくるかと警戒していたのに、杯の中に満たされていたのは……
澄んだ水。
底まで透けて見える、ただの水だった。
「……は?……水だけ……?」
これは本当に、儀式に使う“聖杯”なのか?
そのときーー
「やめてくださいっ!!!!!」
境内から鋭い声が突き刺さった。
「――っ!」
ビクッとして手が跳ね、スマホが杯に触れた。
ガタリッ!
「うわっ!」
バシャアッ!
杯が傾き、中の水が一気に畳にこぼれ出した。
冷たい水が足元にまで広がる。
俺はあわてて鞄からタオルを取り出し、拭き取り始めた。
……やべぇ、半分以上、こぼした……!
焦る気持ちでふと自分の手についた水滴を見つめる。
「……これ……水……だよな?」
恐る恐る、それを舐めてみる。
――やっぱり、水だ。
「…なんだよ、聖杯って、やっぱりハッタリかよ……」
拍子抜けと同時に、どこか安心した自分がいた。
でも、それどころじゃない!
…… このままだと、バレるって!
俺は慌てて水筒を取り出し、こぼれた分をそっと注ぎ足す。
なるべく元の水位に近づくよう、慎重に。
ふぅ……なんとか誤魔化せたか……?
だが、安心する間もなく――
「私は……お母様じゃないのよっ!!!」
再び、女性の叫び声が境内から響いた。
……シズカさんの声?
「違う……違う……違うっ!」
苦しげで執拗な男性の声が重なる。
「っいやあっ!」
ドサッ、と鈍い音が続く。
まずい……明らかにただ事じゃない。
スマホを見る。17時45分。警備の交代まで、あと15分。
……それまで待つべきか?
でも――
「んっ……ああっ……や、やめ……!」
「許嫁なんだ! ずっと……待ってたんだ……!」
梯子の騒ぎで、二人の声がかき消されているのか、誰も来る気配はない。
「誰かっ! 助けて――っ!」
もう限界だった。
俺は立ち上がり、歯を食いしばって、震える手で戸に手をかけた。
「……くそ……っ…!」
もう、どうにでもなれっ!
俺はーー
飛び出した!!




