09 文芸部の瀬川さん
僕の行動範囲はおそらく一般的な高校生に比べて狭い。学校と大きな駅の商業ビルくらいのものだ。特別な趣味がないから専門店に通うこともないし、遠くに足を伸ばすこともない。たいていの高校生はすでにのめり込める何かを見つけているものだと僕は思っている。その代表が部活動で、僕の所属する文芸部の面々もそうだ。彼らは調べ物をするのに学校の図書館で足りなければ市立図書館に出向くし、それ以外にも実地で体験することでリアリティを磨いたりもする。僕は作品を書かないからそんなことはしない。
ほんの一〇分くらいの電車の乗車時間で自傷をした。今日はカバンに学校の宿題を入れてある。図書室で手持ち無沙汰になったときにやるためのものだ。どのみち手をつけなければならないのだから、仮の準備だけをしておいても無駄にはならない。
また快晴だった。強烈な日差しは月の光と違い過ぎて、同じ光という言葉を使っていいのか疑問に思えるほど眩しかった。五分も歩けば肌に針のように刺さってくる。この時間に外でスポーツをやっている部に対してはすさまじいという感想しか抱けなかった。尊敬はできないし馬鹿にもできない。物理的な意味でも、どうやっても観客と選手以上に距離を詰めることができなかった。
サッカー部が試合形式の練習をしているのを横目で見た。ボールの行方をうかがうために足を止めている選手のほうが、むしろ汗をぬぐう手を止められていなかった。
昇降口はしんとしていた。どの運動部も休憩時間ではないらしい。罪のない期待を抱いていた僕はすこしがっかりして図書室へと向かった。やはり廊下にも人影はなかった。休み前と比べると同じ場所なのか自信が持てなくなるほどだった。意味もなく廊下で思い切り伸びをしてみた。思っていたよりも気分がよかった。
カバンを置いて席を取る前に一通り見回ってみた。今日も橋本と光山は出てきていないらしい。残念だった。けれど僕には文句を言う資格はなかった。とりあえず席を決めて持ってきた宿題を出した。後輩に会いに来るよりもよほど正しいことだった。
何らかの優れた成果を残した人がときおり語る、環境を敵と見るべきではないという言説を僕は信用していない。僕はそれを嘘か、もしくは並外れた精神性の人にしか適用できないものだと思っている。だから僕は周囲の状況に左右されるのは当然だと思うし、現に影響を受けている。つまり図書室は勉強するのに向いているのだ。家で取り組むよりもはるかに効率がよかった。
ノートと問題に向かい合っていると、視界の上から千切られたメモ用紙が差し出されてきた。そこには“なんでいるの?”と書かれている。メモ用紙が差し出されてきたほうへ顔を向けると文芸部員の瀬川さんがいた。同じ部の部員なのにたまたま授業の合間に出くわすくらいしか会話のタイミングがない人で、僕からすると珍しい人だった。
僕はそのメモ用紙に“勉強しにきた”と簡潔に書いて戻した。
そして瀬川さんのほうを見ると、扉のほうを指さした。とりあえず宿題をカバンにしまって彼女についていった。
「わざわざ学校まで来て?」
「変じゃないよ。学校は勉強するところだし」
「夏休みなのに、って言われないと気付かないのね。本読んだほうがいいわよ」
じゅうぶんだと思っていた言い訳は一撃で粉砕された。夏休みに学校に勉強目的で来る生徒は探せばいるだろうけど、その数はあまり多くないだろう。予備校や塾みたいなところもあるし、その気になれば自宅でも勉強はできる。そんなのは当たり前のこととして、瀬川さんは僕に疑問を投げかけたのだ。彼女はきっと僕よりもずっと頭がいい。
しかし廊下に出て立ち止まって考えてみるとちょっと不思議なことに気が付いた。瀬川さんが僕に質問する意味がないのだ。黙って宿題を解いてる僕のことなんか別に放っておけばいい。
「どうして僕に?」
わざと言葉を少なくした。僕はこういうところで人間の小ささが出る。
「あんたが作品を書きに来たのかと思ったの。去年の夏休みは見かけた記憶なんてなかったし」
「百歩譲っても読むまで。僕には何かを書くなんてスタート地点がどこなのかからわからないんだよ」
「そんなの決まってるじゃない。書いてみよう、って思うこと。それだけの話」
瀬川さんはうらやましくなるほど物事に対する考え方をはっきりさせていた。そしてその考え方はある程度は納得できるものだった。僕にはできないことをあっさりとやってのける彼女を目の前にして、僕は焦りのようなものを覚えていた。だというのに具体的にとるべき行動が思いつかなかった。余計に焦燥感が募った。
エアコンの庇護下にいて落ち着いた体であれば、夏の廊下はまだ過ごせる環境ではあった。すくなくともいるだけで汗が止まらないといった惨状にはならない。窓から日差しが斜めに入り込んで、映像美のように思えた。生徒がいないだけでずいぶんと印象が変わる。写真に収めたっておかしくないくらいだった。瀬川さんの言葉に黙り込んでしまった僕はじっとそっちを眺めていた。
「ま、いいわ」
「何が?」
「あんたが作品を書かなくても、ってこと。強制はするものじゃないし」
なんだか心の表面的な部分がもやついた。
「悪いのはわかってるよ」
「誰も何も言わないわよ」
僕は何が悪いのかもわからずに、ほとんど口から出まかせでそう言った。もちろん返ってきた言葉に僕が求めていたものはなかった。言葉を交わすたびに僕はみじめな気持ちになった。浅田とバカな話をしているときには絶対に生まれない感情だった。同じ高校二年生でこうも違いが出るものだろうか。僕が思っているよりも十六年くらいの月日は人に差を作るものらしい。
「瀬川さんは今日も書きに来たの?」
「まあね」
「うまくいってる?」
「それほど。結局どこもそうなのかもしれないけど、難しいところなの」
まったくわからない感覚の話だった。僕の文章経験なんて学校で書かされる感想文ばかりだった。それでさえひいひい言いながらどうにかこなして、それでもいい評価はもらえないくらいのものだ。こういうとき、僕は他人と脳みそを直接ケーブルみたいなものでつないで、考えていることを何も損なわずに共有してみたくなる。
会話の済んだ僕たちは図書室に戻った。彼女はさっきの座席に腰を下ろして、僕はさっきとは違う場所を選んだ。お互いに気が散るのはよくないだろう。
そろそろ昼が近づいていた。宿題は時間なりに進んで、自分でも悪くないと思える成果だった。このペースが維持できれば八月の一週目には宿題がすべて終わりそうに思えた。午後のやる気がどうなるかはわからなかったけれど、とりあえず昼食休憩の必要があった。
コンビニで適当なものを買って学校に戻る。図書室での飲食は禁止だから、校庭や廊下で食べなければならなかった。僕は暑いのを受け入れて、校庭の見える場所で食べることにした。サッカー部がまだ練習を続けていたから退屈にはならないはずだ。彼らはもう試合形式の練習は終えて、それぞれの課題に取り組んでいるらしかった。僕は詳しいわけではないけれど、それでも位置によって役割があることくらいは知っていた。その役割に向けて練習を重ねるのを見ているのは気分が良かった。
食事を終えると勉強に対するやる気がふっと消えた。夏の青空に吸い込まれていってしまったのかもしれない。日差しがこそぎ落としていったのかもしれない。本当はただ疲れただけなのかもしれない。どれでもよかった。
けれどこのまま家に帰るのも気が向かなかったし、またすぐに商業ビルに遊びに行くのも抵抗感があった。この快晴の下をあまり歩きたくなかった。
僕はまた図書室に向かった。勉強はしない。さっき瀬川さんに言われたように本を読んでみようと思ったのだ。だって図書室はそういう空間だ。小説でも伝記でもなんでもいいけれど、静かにそういったものに触れるべき場所なのだ。普段からまったく読まないものに関する知識はなく、どの背表紙に書いてある文字も意味を成さない図形にしか見えなかった。そのなかから一冊を適当に抜き出した。
僕はすぐに集中を欠いた。文章に意識を留め続けるのは、僕にとっては海底に泡を押さえつけ続けるのと似た作業だった。隙間を見つけてはすぐに離れていこうとするそれを無理やり縛り付ける必要があった。わずかでも意識が離れると物語の流れの奥に潜む何かが断絶した気がした。こんなことを平然と、しかも楽しめる人を僕は尊敬した。僕と文芸部員は同じ部にいながらまったく別の岸辺に立っているのだ。
それでも僕は頑張って読み進めた。きっといまは慣れないうちのつまらなさと直面しているのだと思うことにした。文字を追っていくと場面がいくつも動いた。けれど話の筋はと聞かれるとうまく答えられそうになかった。突然タイの王子が出てきたりもした。爵位のある家の令息が主人公だと思うのだが、これがなかなかすさまじい。自分の中の壊されたくないものを自覚さえしていないのに、それを守ることに躍起になっていた。不安を消すために可能性ばかり突き詰めるのに、その人間の奥に根差すのが不安そのものだった。
僕は半分も読めずに疲れてしまった。もちろん読み通してもいないのに言うことではないけれど、何を言いたいのかがわからなかった。後ろのほうで強烈な話の展開があって、そこで納得するのかもしれない。けれどそれを期待するには僕の読書体験は貧弱過ぎた。おしまいまで読む体力はとてもなかった。もっとわかりやすく、作者の言いたいことが見えればいいのに、と思った。
瀬川さんはさっきとは違って僕とは離れたところに座っていた。彼女の目の前にはノートに原稿用紙と何冊かの本が積み重なっていた。それはなんだか一個の砦みたいだった。どう見てもちょっかいは出されたくなさそうだった。日はまだまだ高かったけれど、僕はもう図書室を後にすることにした。たぶんここは僕がいるべき場所なんかじゃないのだろう。