08 バスロータリー
校門を出ると張っていたつもりもない気が抜けた。まだ十一時にもなっていない。帰ってもよかったし帰らなくてもよかった。そのふたつの気持ちを無理やりに天秤に乗せると、わずかに帰らないほうに傾いた。僕は夏の下を駅へと向かった。
目指すのは近くの商業ビルだ。学校から三つ隣の駅にある。なにかものを揃えようとなったら沿線に住む人たちはたいていここに集まる。無目的にうろうろしてもじゅうぶんな時間を耐えられる場所だった。
僕はまず買いもしない服を見て本を見て、次にCD売り場にたどり着いた。前に橋本と光山の言っていたものが店頭で目立つように展示されていた。どんな曲だったかは覚えていない。棚にずらっと並んだパッケージを力を入れずに眺めた。たまに知っているものがあった。端へ行ったら裏側の棚に回ってまた眺めた。無意味に一枚を取り出してよく見てみた。あまりピンとは来なかった。運命の出会いはそうそうないらしい。
それを繰り返していると壁の棚のところまで来てしまった。この店の壁はCDではなく楽譜や教本といった紙ベースのものを並べている。僕にはいちばん関係のないところだった。そこにはときおり個性的なファッションの人がいた。そういう人は決まってギターかベースの入ったカバンを背負っていた。個性的な彼らは例外なく真剣な目つきで棚を眺めていた。もちろんその棚を訪れる割合は普通の服装の人のほうが多いけれど、目立つのはそっちだった。今日もそのうちの一人がいた。その奥のほうに普通の服装の人がいた。
僕はなるべくそちらに視線を送らないように引き返した。一度くらいその個性的な服がどういうものかというのをまじまじと見てみたい気持ちはあったけれど、とくに積極的にはなれなかった。叶いそうにないし、それにそれほど大きな願いではないのだ。
その次には文房具を見に行くことが多かった。たぶん内心でいちばん期待しているのはここなのだと思う。何度も通っているからいつも新しい発見があるわけではないけれど、その種類の豊富さにはいつも感心させられた。僕にはペンの種類なんて色ぐらいしか思いつかない。しかし僕の注目しないそのデザインや機能に着目した商品こそが売れ筋になるのだ。ポップで飾られたラインナップを見ていると、そうたしなめられた気持ちになった。筆箱、消しゴム、定規、ルーズリーフ用のバインダー。どれもがアイデアとデザインで差別化を図っていた。
ひとしきりそれらを眺めて、ときにはペンの書き心地を試したりもした。この色をどんなときに使うのかを考えたけれど、それは失敗に終わった。僕にはたとえば紫をノートに上手に使うことができないのだ。たぶんそうなると他の色も使わないとならなくなって、最終的には要点の絞れないカラフルなノートができるだろう。
いろんなところでそういうふうに時間を潰して、もう夕方になった。まだ空は青のほうが優勢だった。気温も日差しもよくイメージするそれには程遠かったけど、時計の針に従えば夕方なのだ。僕は季節によって朝昼夜の時間をずらさないから、夕方は暗いときも明るいときもあるあいまいな時間帯だった。
僕はうろつきが高じて商業ビルから離れて商店街のほうに出ていた。スーパーマーケットから出てきて時計を確認したらそんな時間だったのだ。すると僕の足は自然と商業ビルとつながっている駅へと向いた。今日はもうじゅうぶん楽しんだし、それに夜まで延長する気分ではなかった。
商店街を抜けるとバスロータリーがあり、そこを挟んで駅があった。ロータリーの曲がり角のところにはレンガで作った花壇があり、よく人がそこに腰かけて話をしている。今日はそこにストリートミュージシャンが座っていた。女性だった。ギターの先のつまみを回したり戻したりしながら、ときおり弦を弾いていた。まだ演奏は始まっていないようだった。
それ自体は珍しいことではないし、僕にとってはあまり興味もないことだった。だから近くでは視線もやらずに通り過ぎようとした。するとそちらのほうから明らかに僕へ向けた声が飛んできた。とてもまっすぐにクリアに聞こえた。
「おおい、そこの少年。きみだ、制服の」
観念した、というのに近い気持ちで僕はそちらを振り向いた。彼女は楽しそうに笑いながら手招きをしていた。きっと逃げる選択肢もあったと思うのだけど、彼女なら追いかけて来そうな気がした。すでにそういう雰囲気が漂っていた。とぼとぼと歩み寄る。彼女の笑みは満足そうなものに変わっていた。
「なんですか」
「ぱっと目についた。勘だよ、あまりいい意味じゃない」
なかなか会話の難しそうな相手だ。苦手なタイプかもしれない。
「そういう相手をどうして呼ぶんですか」
「不思議なことを言うね。会話しないと中身が見えてこないじゃないか」
「どうして中身を見る必要があるんですか」
すこし僕は苛立ち始めていた。暖簾に腕押しというか、じゃらされているような、飄々とかわされるような感じを受けていたからだ。もちろんそれは相手にもよるとは思うけれど、さすがに初対面の人にそういう扱いをされてもうれしくはない。そしてそれを許すほどのぶっ飛んだ魅力を僕は彼女には見いだせなかった。
「きみが曲になりそうな気がしたからだよ」
「よく意味がわかりませんが」
「いいよ。わかるのは私だけで。そんなことよりもさ、学校、夏休みじゃないの?」
「夏休みですよ」
「どうして制服姿でこんなところに。部活の帰りってふうにも見えないし」
彼女が本当に不思議そうに聞いたこと自体には納得した。言われてみればたしかに奇妙かもしれない。なにか部活を思わせる道具は持たず、しかもひとりで街中をただ歩いているのだ。驚くほど珍しいわけじゃないけれど、よく見てみるとどうしてだろうと思うような違和感。客観的に見たら僕なんてそんなものなのかもしれない。
「ちょっと学校に用事があって顔を出して、そのあとふらふらしてたんです」
「へえ、見た目以上に問題児だったりするのかな」
「ノーです。部活程度の私的な用事なので」
細かく説明するのも面倒だった。そのためには僕が文芸部でまともに活動していないことから話す必要があった。わざわざそんなことを言うのなら、学校に遊びに行きました。これで済ませたほうがよほどラクだった。それに大して内容に違いもない。
僕の言ったことを彼女がそのまま飲み込んだかはわからない。どちらかといえば信じていないと考えたほうがよさそうだった。
「まあいいや、とりあえず自己紹介。私はキンセイ。カタカナの。これ芸名ね」
「キンセイ?」
「そう、太陽系第二惑星の金星のこと」
「キンセイさん、ですか」
「あ、それやめて。さん付け。はいよろしく」
そう言って彼女は右手を差し出した。これで握手に応じないこともできなかった。握手に応じると彼女はにっこりと笑った。それが正しいんだと肯定するような笑顔だった。手は温かかった。しっかり血が通っている。
キンセイが名乗ったので、僕も返すべきだと思った。
「よろしくお願いします。僕は――」
「ああ、ちょっと待って。いい、いい。それは言わなくていい」
「どうしてですか。お互い自己紹介するのが当たり前でしょう」
「さっき言っただろう。きみから曲が生まれる気がしてるんだ。名前を知っちゃうと曲に濁ったものが入る。名前は聞かない。きみは少年でいてくれ」
初めて聞いた論理だった。僕は作曲なんて縁のない人間だから、それが一般的なのかそうでないのかはわからない。でも僕の想像だと一般的なものとはとても思えなかった。というかそこに重要なポイントが潜んでいるとは思えない。
キンセイは冗談の装いを見せないどころか、むしろ真剣な顔つきになっていた。きっと彼女にとって作曲は誤魔化してはいけない分野のものであり、そしてそこで口にできることはすべてが絶対的なものなのだろう。立派なことだった。そんなもの僕にはない。
聞きたくないと言われれば反論はできず、僕はそれに従うことにした。
「……まあ、じゃあそれでもいいですけど」
「悪く思わないでほしい、ってのはまあ虫のいい話だね。そこについては悪く思っていいよ。自分で言っててクズみたいだ、私」
また笑った。ずるい。一方的にまくしたてて先回りする語り口は本当に好きじゃない。それどころか嫌いと言ってもいいやり方だった。僕からするとそれは対話や会話にならない種類のものだからだ。こっちが一球投げ返す前に三球も投げてきたら、それはキャッチボールとは呼べないものだ。
僕の機嫌があまりよくなかったのは当然だった。その場に留まっているのが不思議なくらいで、僕から話題を振ろうなんてことは考えられなかった。
「あんまり、そうだな、初対面からいろいろ聞くのも失礼だとは思うから、ちょっと私のことを知ってもらおうか」
そう言って彼女は僕に視線を向けた。僕は軽く頷いた。
「この街には来たばかりなんだ。路上ライブもそんなに回数をこなしてない。曜日を決めてやったりしてるわけでもないしね。誰も私を知らないよ」
そうですか、としか言いようのない話だった。親身になる話でもないし、同情するべきところもない。これからやっていくつもりの人にかける言葉は中身のないものが精一杯だった。
「今日だってこのとおりギターは持ってきてるけど、別に何もしなくてもいいんだ。ライブやるぞ、ってつもりで来てるわけじゃないしね」
「ちょっとわからないですね」
「何が?」
「じゃあこんなところに来る必要ないじゃないですか」
キンセイの語り口が妙に穏やかなのが僕を苛立たせた。僕とは根本的に違うんだと思う。人は何かをするために移動するのだ。僕からすれば。例外は散歩ぐらいしかない。目的を定めずに目的地を定めることの意味が僕にはわからなかった。
キンセイは視線をすこし外して空を見上げた。考えをまとめているようにも見えたし、ただ視線の先を動かしただけにも見えた。
「少年。きみはなんだか物事を難しく考えすぎていやしないか」
「そんなことありませんよ。僕は僕なりに、ふつうに考えているつもりです」
「そっか。私の勘違いならそれでいいよ」
ほとんど子どもみたいな反論をした。感触として上から見下ろされているような感じがして、それを反射的にはねのけようとした。それほど落ち着かなくとも僕の分が悪いことは明白だった。
また自分のことがすこし嫌いになった。自分が間違っていたと認めることもそうだし、そうなるとキンセイの言うとおりの人間になることも嫌だった。
僕はそちらのほうに考えを向けないようにするために、適当でもなんでもいいから話を変えなければならなかった。ふらふらしている。気球みたいだ。
「キンセイはどんな曲を作るんですか」
「ううん、意外と定義がしづらいところなんだよ。そういうの」
ギターをケースにしまいながらキンセイはそう言った。もう演奏するつもりはなくしたようだった。
「ずるい言い方でごめん、いろいろ作る。でも作らないジャンルもある」
くだらないことを言わせているような気がした。誰だってそうなのだ。作るものを作る。やろうと思うことをやる。きっとまだ上からの指示なんて関係のない彼女には一〇〇パーセントの自由が保証されている。
僕らは花壇のふちに並んで腰をかけて視線を前に飛ばしていた。仲が良い、という言葉を使う段階にすらない僕らはうっすら気まずさを覚えていた。そしてそれは弱い毒のように継続して僕に痛みを与え続けた。この場はなんだろう。自分から動くことができなかった。
それを見かねたのか、キンセイが口を開いた。
「きみもそろそろ夕飯の時間が近いんじゃない? 今日はここまでだ」
そう言ってまた笑った。
僕は言うことを聞いて駅へと向かった。なんとなく地面を踏んでいる気のしない、記憶に残らない帰り道だった。電車でも窓の外を流れる風景を見ていたはずなのに、色もかたちもまったく思い出せなかった。ものを考えた実感が残るのは夕食を終えて自室に戻ってからのことだった。
キンセイとはどれだけ少なくてももう一度は会うことになるだろう。場所は問わずに、そしておそらく近いうちに。予感とか予想とかを飛び越えて、僕にはそれが予定のように思えていた。そしてそれを自然な考えとして受け入れていた。
ベッドの上に横たわると急にすさまじい眠気がやってきて、僕はすこし眠った。