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造花を焼く  作者: 箱女
2.必然の檻
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07 風のない場所

 二年生最初の期末テストが終わって、みんなが何にも邪魔をされずに夏を実感できるようになった。半袖のシャツも手放せなくなったハンドタオルも制汗剤の匂いも、すべてが夏を意味するものに変身した。心残りは気象庁が梅雨明けを宣言していないことだけだった。僕らを待っているのは夏休みだけだった。

 テスト期間後には各授業が一、二回ずつあって、テストの返却と夏休みの課題を渡される。他の人はどうだか知らないけれど、僕はこういったものの効果については懐疑的だった。僕が取り組むのは怒られないためだった。


 夏至は過ぎたから日が沈むのが早くなり始めたといっても、僕としてはこれからがいちばん日が長くなる季節だった。六時間目が終わっても空はまだ青い。高くて遠い青空と入道雲の組み合わせが僕は好きだった。心が逸るものがある。あのもこもことした立体感だけは手づかみできるんじゃないかと今でさえ思ってしまう。

 教室でも廊下でも夏休みのことについて話し合っているのが聞こえてきた。部活の合間をぬって遊びに行く予定を立てていたり、泊りがけで遊びに行こうという提案も耳にした。もちろん部活に情熱を燃やす人たちもいた。

 文芸部は不思議な形態をとっていた。顧問が週に一度だけ顔を出すのだが、部員はそんなものお構いなしに毎日誰かしらが学校に来るのだった。別にその日も部活に顔を出すように、とは言われていない。僕の観点からすれば、夏休みはまるまる部活と無縁に過ごすことが許される日々でさえあるのだ。その意味で彼らは不思議な存在だった。自分の作品を完成させるなら家でもいいと僕は思うのだが、彼らはどうも違うふうに考えているらしい。他の誘惑を断つためなのかもしれない。

 何はともあれ、みんなの表情は明るかった。


 終業式の日には梅雨明けが宣言され、とんでもない暑さのなか体育館で校長の話を聞かされた。前々からニュース番組では気温に注意するように呼びかけ、エアコンをためらわずにつけることを推奨していた。彼らの言うことはまったく当たっていた。ただ立っているだけで汗の滴が頬どころか首筋、背中を伝っていく。日の射すところでは理由もなくじりじりと音が立っているような気さえした。下敷きやノートであおいだ風すら生ぬるかった。ものすごく力の弱い生き物が皮膚にぺったりとくっついているようだった。

 何を言っているかもあまり思い出せないようなホームルームが終わると、みんなが一斉に席を立った。始業式や終業式の日に限り、部活動はそのまま行われない。午後になるまでいったん生徒は学校に入れなくなるのだ。多くの運動部や吹奏楽部などの一部の文化部はその時間になるまで、近くのファミリーレストランやカフェなどで時間を潰すのが常だった。僕はそのまま帰ることにした。

 僕が教室から出ると、ちょうど真垣さんが階段の一段目をおりるところだった。けれどその姿は他の生徒ですぐに見えなくなってしまった。きっと一か月くらいのあいだ見られなくなる姿だった。

 いつもなら部活で学校に残る生徒とまっすぐ駅に向かう生徒とで二分されているものが、今日だけはひとまとめになった。そのせいで下校の道はすさまじい人口密度になっていて、正月に見る初詣の中継みたいな人の波になっていた。人混みが好きじゃないのもあったけれど、その熱が何よりもひどかった。呼吸を浅くさせられるような無意識の圧力がそこにはあった。今日ばかりは近所に住んでいる人々も驚いたに違いない。

 涼しい電車内はその落差でいっそ体調を崩しそうだった。

 自室に入ると、とにかく言いようない解放感だけが身を包んだ。意味もなく手足を伸ばしてその感覚を吸い込んだ。本当に何をしてもよかった。あてもなく出かけてもいいし、無意味に徹夜してもよかった。その期間では実になることとならないことの区別がつかなくなった。ちょっとくらい冒険するべきだという空気を僕でさえ感じることができた。

 ただ、その日は何もしなかった。


 朝に思い立って学校に行ってみようという気になった。とくにはっきりした目的があるわけではなく、行けば誰かしら知り合いがいるだろうと思ってのことだった。最悪でも文芸部の誰かがいるはずだという妙な信頼があった。窓の外は夏にしか見られない特別な青が広がっていた。もうすでに暑さは予兆の段階を超えていて、全国で熱中症で倒れる人が何人も出るだろうことが簡単に想像できた。

 制服とカバンを持って家を出る。カバンに入るのは飲み物と予備のハンドタオルの二つだけだ。いつもと比べてぐっと軽かった。

 いつもの通学時間とは違って、人の混み合い方も騒がしさもそれほどではなくなっていた。電車では座れたくらいだ。普段からこれくらい快適ならいいのに、と思わざるを得なかった。

 夏休みに入ってみると風景が多少違って見えた。世界は進行しているのに自分だけが浮いて、そしてそれが許されているような気分だった。いつもは見ないようなところにまで目を配った。民家の塀に猫がいたら足を止めてじっと見た。色がついていたことも知らなかった花を眺めた。思っていたよりも世の中には多くの個が存在しているらしかった。

 校庭ではすでに運動部が練習を始めていた。僕が来るよりもずっと早くに来ているのだろう。汗だくで泥臭い光景ではあったけれど、そこにしかない価値みたいなものがたしかにあった。大人はそれをひとまとめに青春と呼んでいた。

 僕に気付いた練習中の知り合いが軽く手をあげた。僕もそれに応じた。

 肌が痛くなるような日差しの下から校内の日陰に入ると空気が変わったように一気にひんやりとした。けれどそれは一瞬のことで、気温自体はかなり高いものだったから暑いのには変わりなかった。陽光に満ちた外が馬鹿げているだけの話だった。一枚目のハンドタオルはもうしっとりしていた。もしかしたら二枚じゃ済まなかったのかもしれない。


 とりあえず僕は図書室に向かうことにした。今日は顧問は来ない。そして夏休みのあいだ、文芸部の部員たちはエアコンのきいた図書室に揃うのがほとんどだった。そもそも生徒のために開放されている部屋はかなり限定されており、休暇期間はたいていの部屋に鍵がかかっている。顧問が来る日だけはいつもの空き教室の鍵が開かれるわけだが、なんとも妙な話だ。正式な活動日だけつらい環境に一度は身を置く必要があった。どこかおかしいような気もするけれど、そうなっているものは仕方がない。

 校舎内はいつもと比べて信じられないほど静かだった。遠くのほうに運動部の声やそういった物音はあったけれど、違った場所に来てしまったと思えるほどに音がしない。神様がいなくなったあとの神社や祭りの後を思わせる静寂だった。学校で肝試しなんて話を聞いたことがあるけれど、このまま夜になったらたしかにそのロケーションとして適していそうに思えた。いつもの姿を知っているから余計にいけない。

 上履きが床を踏む音が聞き取れたのは久しぶりだった。階段をあがって曲がる。二階もひっそりしていた。

 戸を横に滑らせると冷やされた空気が出迎えてくれた。ちらっと見ただけで部員が何人か見当たる。真面目、勤勉。どの言葉が適切なのかわからなかった。文芸部以外にも静かにノートに向かっている生徒がいた。おそらく受験勉強のために来ているのだろう。自習できる人間にとって図書室はうってつけの場所だった。

 僕は本を探すふりをしながら広い図書室をぐるりと回った。過去の名作から史料、宗教関連なんかの本まであった。大雑把に見てそれなのだから、真剣に探せばもっといろんな本が見つかるのかもしれない。

 結局僕の目的は橋本と光山を探すことだったのだが、残念なことに今日は彼らはここには来ていないらしかった。会いたければ連絡を入れろという話になるのだが、こういったあたりに僕の甘えが見て取れた。

 声を出さずに何人かの部員にあいさつをして、興味もない棚の前で立ち止まった。あの二人がいないとなると、ここはもはやただの涼しい部屋でしかない。用事らしい用事はもう済んだ。

 僕の立っている位置から見える窓は太陽に面していなかった。室内にも明かりはついていたのに、外の明るさと比べるとすっかり日陰だった。まるで別世界を覗いているみたいだった。もしかしたら夏休みだからかもしれない。生徒のいる場所や数が違っていたり、生活の時間が崩れていたり。

 これから先にしたいことがなくなってしまった僕は、とりあえず図書室で休憩していくことにした。外を歩いてきた名残でまだ汗が噴き出している。すくなくともそれが落ち着くまではこの部屋から出たくなかった。誰の邪魔にもならないように適当に本を選んで席に着いた。それは言い訳のためのもので、僕はスマートフォンを出してニュースを調べた。今日は大事件は起きていないらしかった。

 時間を潰すための時間だった。僕は掘りもぐを起動した。この状況にこれほど当てはまるゲームもそれほどない。一回のプレイは短いし、途中で手を止めても時間は無制限だ。僕はただもぐらに指示を出してあげればいい。どの機材を使うか、お弁当はどれにすればいいか、そしてどの地点を掘るかを決める。そうするとあとはすべてがランダムに運で決まる。それぞれ選べるものが多いせいで組み合わせが数えたくもないほどに多くなり、そこに完全な乱数が絡むせいで誰も正解が導けないのだ。人気が出ないのも当然だった。

 いつものように僕のもぐらは全然掘り進めることができなかった。二十三メートルというのが今回の記録だった。そういえばあの二人はどれくらいの記録を持っていたのだろうか。いまさら何を、という話だった。


 どうせ今日は何も予定はないのだし、せっかくだから学校内をぐるりと回ってみることにした。校舎内では吹奏楽部が楽器ごとに分かれて練習をしていた。近寄るなと言わんばかりの熱気がそこにはあった。ざっと見た限りでは校舎内には吹奏楽部以外の生徒はいないらしかった。たしかに化学部が夏休みに実験をしているわけがなかった。

 それほど収穫はなく、僕は帰ることにした。運動部の練習を見ていってもいいのだが、それは彼らの邪魔になるのに違いなかった。僕と面識がない人は別にして、知り合いは声をかけに来るのが常だからだ。僕はそれは避けたかった。

 下駄箱に向かうと知った顔があった。背も高く体格もいいのだが、まだ手足に完成しきっていないところが残っているように見えた。古野だった。

「お、浅田がよく話してる、えーっと名前なんだっけお前、まあいいや」

 そう言って古野は手をあげた。僕もそれに返した。

「浅田が僕のことを?」

「変わったやつだって言ってるぜ」

「そんなことないと思うけど」

「あ、そうなの。あいつやっぱ盛って話してた?」

「ていうかどのみちノーって答えるでしょ。実際がどっちにしてもさ」

 古野は二秒か三秒ほど考えた。たしかに、と頷いた。

「まあそうだな、自分で変わってるって言い出すやつはつまんないやつかもな」

 僕とはすこし観点が違うらしかった。僕のイメージだと変わってる人というのは、そのほとんどが自覚的ではない。自分がまともだと思っていて実は一般的な世間とはずれている。そういうものだと思っていた。古野の場合はそれがどういう種類の人間かではなく、どういう評価を与えられる人間かで見るらしかった。

 古野は右手にスポーツドリンクのペットボトルを持っていた。きっと下駄箱にある自販機で買ったのだろう。

「いまは休憩?」

「そう。バドミントンってけっこう地獄みたいな環境でやるからさ、休憩入れないとマジで熱中症になるんだよ。体育館の扉とか窓とか全部閉めんの」

「うわ、きつそう。なんでそんなに」

「シャトルに、あ、羽根な、羽根だからさ、風で影響出るんだよ」

 説明は納得のいくものだったが、真夏の閉め切った体育館で部活動のレベルで真剣に運動をするのはちょっと想像したくなかった。あらためて古野を見るとその環境が厳しいことがわかる。首にタオルをかけてはいるが、あまり助けになっていない。とめどなく流れる汗を半ば無視しているようだった。

 僕は彼に対しては印象らしい印象を持っていなかった。僕が知っているのは浅田の言っていた表面的な情報だけだ。バドミントンが強いこと。そのほかには何も聞いたことがなかった。いまの彼のこういった親しみやすさよりも、むしろバドミントンの技術的な側面のほうが詳しいくらいだった。だから僕は古野に単純な好感を抱いた。

「今日は午前中ずっと?」

「うん。午後は別の部。つっても体育館は、ってだけの話だけどな」

「どういうこと?」

「昼飯食ったら筋トレなんだよ。階段ダッシュとか」

 くらくらしそうな文化だった。ちょっとどころじゃなく真似できそうにない。

 僕が驚いたのは話している内容もそうだが、古野がわずかに顔をしかめた程度で、逃げたいような弱音を口にさえしなかったことだ。彼はそれを受け入れているのだ。

「すごいな」

「たぶんすごくはねえよ。強くなるためのステップなんだ。みんなやってる」

 おそらく古野は僕の尊敬の念の意味を正しくは受け取っていなかった。

「ていうかお前なんで学校にいんの? 運動部だっけ?」

「違うよ。ただの暇つぶし」

「お前やっぱちょっと変わってるかもな」

 古野は笑いながらそう言って、体育館に戻っていった。

 こうやって古野と会話ができたのはちょうど偶然の極みのようなものだった。ありえないほど低い確率ではないけれど、いくつかの偶然が積み重なって実現したもの。表面的な彼を知れたのはいいことだったし、僕もわりと素直に話すことができた。

 体育館へと走る古野を見送りながら僕は下駄箱に立ち尽くしていた。彼が出て行ったほうはもちろん突き刺すような光が降り注いでいた。

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