06 序曲
登校中、かなり遠くに真垣さんを見かけた。僕よりよほど歩くのが速いみたいだった。けれど追いかけて声をかけるほどの仲ではないし、そもそも物理的に人が多くて無理だった。そんな大変なことをしなくていいと思うとすこし安心した。
席につくと視界がいつものものになった。なんというか、それは繰り返され続けていつしか気持ち悪く感じる種類のものだった。あまり普段は感じない。ふっと、意識していない考えの隙間からするっと入ってくる。経緯がそれだから考えすぎということはなく、おそらく隠しようのない本心のところから滲んでくる液体のようなものということなのだろう。そんな思いを抱いている自分に気付くと、僕はまた僕をすこし嫌いになった。
そういうときこそ意識的に授業に集中することができた。数学を論理的に考えようとすることができたし、国語の教科書を丁寧に読むことができた。ただしそんな日は疲れるのがお決まりだった。
深いため息をついてカバンから弁当を取り出した。そのころには見たくない液体は奥に引っ込んでいた。僕は浅田の席に向かった。
「ああ、疲れた」
「え。昨日何かあった?」
「違う違う。授業を頑張って受けたんだよ」
浅田は眉を変なかたちに変えた。
「それはまあまあ優秀だけど、まあまあ普通のことでもあるんじゃねえの?」
「僕にとって普通は難しいんだよ。月から地球に行くくらい重力が違う」
「だとすると生きてるだけで褒めないとダメそうだな」
僕らは会話の内容よりも自分の弁当の包みを開けることに集中していた。蓋の裏に水滴がぴっしりついていた。白米の上にごま塩がふってあったけど、いつも塩の味はほとんどしなかった。これは僕が小さいときから疑問に思っていることのひとつだ。
浅田の弁当は僕のものよりも大きかった。そこに運動部らしさがあった。とはいえそこにうらやましさがあるわけではなかった。僕だと食べるのが大変そうに思えた。
ある程度の時間を置きはするけれど、何度も繰り返される話題を振ってみる。
「最近部活はどう?」
「俺はとくに変化なし。でもあれだぜ、一組の古野。あいつシングルスでトップになりやがった。部内の序列」
「強いの?」
「俺じゃまるで歯が立たないね。目がいいしフットワークが速い」
僕にはバドミントンの世界での強さの基準がよくわからなかったけれど、それでも明確なポイントがあるらしかった。スマッシュがすごい、とかそういう単純な話ではないらしい。浅田の言う古野の優れた点は僕の持っているバドミントンに対するイメージとは違っていた。
浅田の話し方はどこか自慢げだった。もしかしたら古野とは仲が良いのかもしれないし、同じ学年だから仲間意識があるということなのかもしれない。ただなんにせよ上の学年をやっつけるというのはたしかに気分のよさそうなことだった。
「バド部ってどんな練習してるの?」
「地味。体力強化のためにすげえ走るし、中に戻って来てもフットワーク練だしさ。打つのってフォームに変なクセがなきゃむしろ少ないくらいだな」
「それってうちの高校の伝統とかだったりするの?」
「可能性はある。でも競技の性質上スタミナが切れると絶対に勝てないからなあ」
聞いてみるとそれまで思っていた以上にハードな種目らしかった。きっと試合中にスタミナが切れることがあるのだろう。そしてそれが決定的な場面で出るのだろう。言われてみればそんなぎりぎりまでバドミントンをしたことがない。きちんとした試合だって見たこともない。身近なようでそんなこともない競技だったらしい。
「もっとテクニカルな競技だと思ってた」
「スポーツなんてどこまでいってもフィジカルだよ。技術面は絶対にある。でもその地盤に体の強さが必ずある。もちろんレベルによるけど、土俵に上がれるラインってのが引かれてるんだよ」
「身も蓋もない」
「そう言うなよ、そもそもスポーツはそういうものなんだから」
僕の抱いた感想は心からのものだったけれど、浅田の言葉は岩壁のようにぴったり厳然と動かせなかった。それは重力のように僕らから引きはがすことのできないものだった。僕はちょっと浅田を尊敬した。
午後の授業は集中できなかった。だから僕は古野のことを考えてみることにした。僕と彼は知り合いですらない。さっきみたいに浅田が話題にあげたのを聞いたことがあるくらいだ。
顔は見たことがあって、声は知らない。そんな距離感。条件がそれだと人のことを考えるのは不可能だった。具体的に古野がどう動くのかがまるで想像できなかった。テレビに出ている名前のあやふやなタレントのほうがより身近に想像できた。これはある種の発見だった。親しさの前提条件はあるにせよ、物理的な距離とイメージ能力には相関性はないらしかった。
僕の想像は途中から道を間違えて、次第に古野のことから離れていった。経験者と素人を比べるのは失礼かもしれないけど、僕と浅田にはバドミントンにおいて絶対の壁がある。そして浅田から見れば古野とは同じような壁があるらしい。ということはきっと古野にとってもそんな相手がいるのに違いなかった。それを突き詰めていくとオリンピックや世界大会の金メダリストになるのだろう。無限に思えても本当はそうではない。そのことは救いなのかもしれないし、絶望なのかもしれなかった。僕にはどちらかわからなかった。
ほとんどノートをとるのを忘れた。
ジュース一本の代わりの掃除当番の代打を終わらせて、僕は何気なく廊下の窓から校門のほうを見た。ぱらぱらと生徒が帰っている。そのなかに真垣さんがいたような気がしたけど、それほど自信はなかった。部活に出る気分でもなかったから僕も帰ることにした。
帰り道は朝よりもマシだけど、それでも制服姿だらけの風景になる。かなりの数がスマートフォンを手にして、それ以外は友達と話していた。スマートフォンに目をやりながら友達と話をしているのさえいた。どちらでもないのはたぶん僕だけだった。
僕は自分がやりそうもないことを妄想した。突然この帰り道で叫んだらどうなるだろう、とかくだらないことばかりだった。そんな悪質な勇気はもちろんなかったけど興味はあった。このことについては僕はとくに自分を咎めたりはしなかった。
パチッと電気のスイッチを入れたように、0から1に切り替わるように、無意味に嘘をつきたくなった。あまりによくわからない欲求の発露で、踏み出そうとしていた途中で足を止めてしまった。それをどう取り扱っていいかわからなかったのだ。それは夕食のあとのことで、ひどく突然なものに感じられた。テレビの緊急ニュース速報くらいいきなりだった。そしてほとんどの突然に襲来を受けたものと同じように、こちらは準備不足だった。僕は自分の部屋で立ち尽くしていた。
ぴったり来る相手がぱっと思いつかなかったのだ。そんなことをするのに適した人なんているわけがない。自分から向かっていって嘘をついて得られるものがあるとは僕には思えなかったし、むしろ失うことをイメージするほうが簡単だった。それでもじゃあやめようという気分にならなかった。すこし頭がおかしくなりそうだった。
自分にはそれは行えないということを結論づけて納得させるのに意外なほど時間がかかった。うんざりした。つらくもあった。それは僕の手では触れてはいけないものがあるということを認めることと変わりなかった。
何も考えずに財布を手に取って、家のドアを開けた。僕の気晴らしの方法のひとつに不必要な買い物というものがあったせいだ。それほど欲しくもないお菓子や電池を買ったりする。そうするといくつかの心のステップを経て気持ちをもとに戻すことができるのだ。もっと安上がりならいいのに、と思うこともある。でもそれはどうしようもないことだった。
僕はとくに何かを意識することなく、いつもの二番目に近いコンビニへの道すじを選んだ。月がまだ低い位置にあった。じっと眺めていると縁のあたりがほんのかすかに滲むように波打っているような気がした。遠くの空に切り絵みたいに浮かんでいるそれは、うっすら白く光っている。見えてはいても僕との距離は測れなかった。月と地球ほど離れていて互いに影響を与え合っていると聞いてもなかなか信じられない。潮汐の関係がどうこうと話だけは知っていても実感がなかった。まったく干渉し合っていないと言い切ってくれたほうが気がラクだった。
光をパンパンに詰め込んだ箱のようなコンビニに置いてある商品はすべてが無個性だった。店内に圧縮された光が表面を圧して削って、そうして平べったくしている。いつしか彼らは商品という属性以外の要素をはぎ取られていた。彼らは買われるものでしかなく、僕らは買うものでしかなかった。僕はポテトチップスの袋を手に取ってみた。そこには軽いけれどたしかに重量があった。むしろそのことは、何かかみ合わないような感じを僕に残した。ちょっとずつずれていて、すっと説明が通らないものがそこにあった。
散財とも呼べないほどの小規模な無駄遣いを終えて、僕は自動ドアからまた夜に溶け込んだ。ぼんやりしたまま右のほうを見ると、ナツミさんとマサさんが今日もまた座り込んでいた。そう何度も見かけたわけでもないけれど、いつも二人は楽しそうにしていた。僕が話に参加した二回とも、二人は雑談の終わり際にまた別の新しい緒を見つけては話を続けた。僕からすれば雑談の天才にしか見えなかった。彼らにあるのは掘りもぐと蚕だけではなかった。
僕は誘蛾灯に導かれる蛾のようにふらふらと二人に近づいていった。
「お、どうしたどうした、あんまり元気ない感じ?」
「え、そんなふうに見えます?」
「あたしにはそう見えるなー。マサちゃんは?」
「そうだな、たとえば虹の根元におっさんがいるのを見ちまったって顔だな」
なにそれ、とナツミさんは笑った。
「そのおっさんはそこで何してんのさ」
「虹を作ってんだよ。虹の正体」
さらにもう一段階ナツミさんは笑った。最悪、という言葉が笑いのあいだに挟まった。
僕も虹の正体がそんなんだったらイヤだな、と思った。光の反射という物理的な現象のほうがよほど幻想的だ。悪いファンタジー。考えたこともなかった。
「でも僕、そのおっさん見てないですよ」
「マジか、そんなに外してないと思ったんだけどな」
すこし驚いたようにマサさんは返した。意外そうですらあった。僕からすると何の冗談だろう、という感想だった。すくなくとも僕の頭の中には当てるつもりでそんなたとえを出すような人はいなかった。自信を持つというならなおさらだった。
「でも実際なにか見たくないものとか見ちゃったんじゃない? 好きな子が知らない男子といっしょに帰るの見ちゃったとか」
「何も見てませんよ、いつもの風景です」
たしかに真垣さんを見たかもしれないけど、あれが本人だとすると彼女はひとりだった。ナツミさんが言うような見たい見たくないの判断基準に置かれていない。そうやって順を追って考えてみるとわかりやすい結論が出る。たぶんマサさんが間違えただけなんだろう。
不思議なことにナツミさんもマサさんも同じ話題を続けなかった。高校生相手に恋愛の話をふってからかうのは年上がよくやることだと思っていたけれど、それがないのはありがたいことだった。それだと僕はいつにもまして面白い話ができない。
代わりに僕は学校での話をした。浅田のことと文芸部のことが中心だった。うまく話せたか自信はなかったけれど、二人は興味津々といった感じで話を聞いてくれた。話のちょっとしたところから質問や面白い観点からの所感をくれて、まるで僕もいい語り手になれたような気さえした。
二人はそれに応じて過去の自分たちの高校生活のことを話してくれた。共通点もあったけれど、彼らの高校生活は僕とはずいぶん違っていて、なかなか刺激的だった。僕の高校では殴り合いのケンカが起きたなんて話はほとんど聞いたことがなかった。ましてやその中心に僕が立つなんてことは想像するのも難しかった。
学校ひとつでこんなにも体験が違うと考えると、それはもはやひとつの国や世界と変わりなかった。あるいは地域差というものはもっとずっと身近なのかもしれない。歩きさえすれば地球から月へとたどり着けるのかもしれない。ただ僕がそれを体感していないだけで。
そのことは僕にとってとても面白いことだった。目さえ向けようとしなかったところに世界の秘密を見つけたような気分だった。けれどその中には前向きとはいえない感情も混じっていた。カスタードクリームの中のバニラビーンズみたいに、いくつか存在感のある粒がぽつぽつと見えていた。そしてそれはバニラビーンズとは味わいを異にするものだった。
けれど僕はそれをないものとすることにした。月の位置がわかったんだからそれでいいじゃないかと自分を納得させた。物事にはぴったり収まるべき場所があると僕は思っている。整理された本棚のように。それを眺めたときに気分よく頷けることが大事なのだ。
ナツミさんとマサさんの高校の思い出話には多くの人物が現れた。クラスメイトももちろんそうだし、部活の友達もそうだし、学校とは関係のない人もいた。だいたいいまの僕と変わりなかったけど、人数だけは彼らのほうがずっと多かった。
その思い出の多くが事件で、そして最後に笑いにつながっていた。話を聞いていると、僕もその時空にいたような気がするほど臨場感があった。ふたりの目の色が特別なものに変わっていた。
「修学旅行な、俺たち沖縄行ったんだよ、沖縄」
「行ったね、めっちゃ楽しかった。あのね、沖縄って本当に空気が違うんだよ」
ときおりペットボトルのお茶を飲みながら話は進んだ。
「本島に飛行機で行って、そんで石垣島に船で行ったんだよ。でけえ客船」
「そうやって行くものなんですか?」
「いやわかんねえ。でも俺たちは船。しかも一晩かけて移動すんの」
マサさんは興奮したように目を見開いた。
いま僕たちがいるのも夜の下だ。船に乗るとなにか変わるのだろうか。コンビニから漏れる光がマサさんの右半分の顔を照らしていた。
「初めはさ、乗る前はみんなふつうだったんだよ。別に、みたいな。でもよ、実際に乗るとどいつもこいつもテンション上がってんの。だって船にホテルみたいな部屋があってそこに泊まるんだぜ。広いし」
「ね、ごはん食べたらあとは自由時間だったし」
小学校や中学校のときの修学旅行の夜の自由時間はたしかに楽しかった。もちろん外には出られないけど、いつもと違う環境で友達と過ごすのはわくわくした。部屋を移動して騒いで怒られて、就寝時間を過ぎても騒いで怒られて。バレないように隠れたり寝たふりをした記憶もある。過ぎてみるとそれさえ楽しかったように思える。それが客船となるとどうなるのだろう。想像できなかった。
「とにかくいろんなとこ行ってみよう、ってなってな、甲板にたどり着いたんだよ。船の端っこの。お前行った?」
「え、あたし行ってない」
「すっげえよ、たまたま曇ってたせいもあるんだろうけど、夜の海ってぜんぜん何も見えねえの。ただ黒い。暗いんじゃねえよ。黒い。目の前に持ってきてるはずの手があるかどうかもわかんねえの。海も空もなくてさ、死ぬんじゃねえかって思ったよ。本気で怖いと思った。聞いたとおりだったよ」
「あ、知り合いに海に詳しい人がいるんですか」
「前に海底人に教わったんだ」
僕はその単語を聞き取ることはできたけれど、うまく文字に変換できなかった。
カイテイジン。ちょっと現実離れした単語だった。そんなものがいるなんて聞いたことがなかったし、もしいるのなら大事件だ。世界中のニュースがそれ一色に染まるだろう。
でもマサさんの様子はからかうようなものではなかった。その海底人という言葉を近所の知り合いというものに置き換えても通用するような語り口だった。それくらい一般的な存在なのだろうか。マサさんにとっては。
「海底人って、何それ。マサちゃん」
「自分で言ってたんだよ。俺はどっちでもよかったから信じることにしただけ」
「え、ヒレとかついてた?」
「見た目は全然ふつうのニイさんって感じだったよ。ちょっと雰囲気はあったけど」
ナツミさんが考えたように僕もそれっぽいものを想像していた。マンガやゲームに出てくるような半魚人。ぬめぬめした緑色の肌で、銛を持った獰猛な種族。けれどもそれは単に言葉そのものに積み重なってこびりついたイメージだった。鉄が酸素と結びついて錆びるように、静かに印象の粒子が付着して生まれただけのものだった。現に僕は海底人を知らないのだから。
「その人がなんて言ってたの?」
「海は本当は暗いんだ、って。とくに月のない夜は気を付けろって言ってたよ。俺も聞かされたときは何言ってんだこいつって思ってた。でも本当だぜ。場所によっては暗闇っていうのは物理的な力を持つんだ」
そう言ってマサさんはコンビニのほうを振り向いた。相変わらず光をぎゅうぎゅうに詰めたみたいに眩しい。マサさんは目を細めてひとつ息をついた。
「それで俺たちはすぐに船内に駆け込んでぎゃあぎゃあ騒いだ。怖いのを誤魔化さないとやってられなかったし、自分がビビってるのをお互い他の誰にも悟られたくなかったからな」
「けっこう本気だったんですね」
「大マジだよ。担任からはふざけてるって思われて軽い注意で済んだけどな」
「それ初めて聞いた」
「あんま自分でビビった話とかしねえだろ」
マサさんは視線を外して頬をかいた。
僕はそういった価値観を持っていなかったから、マサさんがカッコ悪いとは思わなかった。怖いものは怖い、それでいいと思う。それよりは嘘をつくことのほうが好きになれなかった。
嘘。その言葉を頭に浮かべた瞬間、たったいままで忘れていた欲求がもう一度頭をもたげた。
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通っていた小学校でニワトリを飼っていた。低学年の子が授業の一環で触れ合っていた記憶があるけど、それ以外に彼らに役目はなかったと思う。みんな知ってはいたけれど、そこに集まるようなことはなかった。ニワトリはよく鳴いたし、小屋の中を走り回っていた。昼休みや放課後に眺めている生徒は物好きだと思われていた。
僕はその物好きな生徒のひとりだった。それほどしょっちゅうというわけではないけれど、たまに思い立って彼らの小屋の前に行くことがあった。そのやかましさは、いまで言うと人混みの只中にいるようで、自分が埋もれていくような気分になれた。変な話で、僕はそういう環境にいると安心できることがあった。ただそのときの僕はいまよりもずっと言葉を知らず口下手だったから、どういった期待を持ってニワトリ小屋の前へ行くのか自分でさえわかっていなかった。
そのころは遊びに行くといえば近所の公園、友達の家、遠出をしても自転車くらいのものだった。外での遊びはもちろん、誰かの家でテレビゲームで遊ぶときでさえも僕らは原始的だった。あいだに何も挟まずに、上手にできるやつはすごい。そこには文句の入り込む余地はなかった。鬼ごっこもドッジボールも変わらなかった。
僕はそのどれも得意ではなかったから、常に憧れている側の人間だった。とはいえほとんどの友達は僕と立場を同じにしていた。小学生のころなんていうのは、何かに優れていれば他のものも同じようにできる場合が多いからだ。僕のクラスにもそんなやつがいた。足が速くて野球ができて、他のスポーツも一回や二回ですぐにコツをつかんでしまった。たいていの子どもはそんなものじゃないかと思う。学校のクラスになれば、何かで一番になるのはもう大変なのだ。
当時に自分の感情を何も疑っていなかったように、僕はその立ち位置にいることを不満に思っていたわけではない。むしろ逆だったことに気付いたのはわりと最近で、中学三年生になってからのことだった。もし目立ったとして、そこでどうすればいいかわからないということに気が付いた。幸運なことに僕は僕の持っている実力に見合った性分を持っていたということなのだろう。だから僕はニワトリ小屋の前に行くことがあったのだ。
そういえばニワトリには一匹ずつ名前がつけられていたけれど、僕にはそれの区別がつかなかった。なんというか、ニワトリが入っている小屋をひとつの集合体として見ていた。そしてそのひとかたまりを大事なものに思っていた。国語の作文のテーマにニワトリたちを選んだほどだ。
そして僕はある日、小屋の鍵を壊してニワトリたちを逃がした。
閉じ込められてかわいそうなんてことはちっとも考えていなかった。ただ僕は僕のために彼らの出口を作ってやったのだ。理由はそれ以外にない。バレないように細工はしたけれど、見つかったって構わなかった。そこは問題ではなかったから。
夕方に開けられた出口は誰の目にも触れることなく放っておかれたままだった。元気に走り回るニワトリたちはいつしかそこから出て行き、校庭を駆け抜けて校門をすり抜け、そして彼らの見知らぬ風景の中で眠りについた。そこから先はよく知らないけれど、きっと目覚めとともに鳴いて近所に住む人を驚かせたのだと思う。
二日後に全校集会があった。めったに聞かない校内放送の前の音が流れて、全校の生徒が校庭に集められた。いつも思っていたけれど、六学年の生徒がすべて校庭に集まるというのは壮観だった。砂ぼこりが立っていたことをよく覚えている。雨降りの日以外は乾ききっているあの地面があまり好きじゃなかった。
悲しいことがありました、と校長は神妙に口を開いた。いつものように生徒たちが静まるのを待つやり方ではなく、話を始めることで強制的に黙らせるやり方だった。語り口は耳慣れたものだった。子どもへ向けて語り掛けるような調子だった。それはうっすら犯人が生徒の中にいることをわかっているようにも聞こえた。僕が犯人ではあったのだが、名指しされる恐怖というものはなかった。
このたび行われたことがいかにいけないことであるかを道徳的に校長は説いた。その通りかもしれないと思う部分もあったし、説明が難しい部分もあった。クラスメイトはそもそも話をほとんど聞いていなかった。
校内に留まらず外へと脱走したニワトリがどうなったのかを僕は知らない。たぶん捕まえられたりはしなかったはずだ。小屋の中のニワトリの数は減ったままだったから。もしかしたらどこかの家で飼われているのかもしれないし、警察に届けられたのかもしれない。まだ逃げているのかもしれない。でもそれは別にどれでも構わなかった。僕にとって意味を持つのは鍵を壊してやったことだけだったからだ。
教室に戻るとクラスメイトは校長の話の意味がわからないというようなことを、それぞれの言い方で口々につぶやいた。たしかにニワトリは学校生活にほとんど関わりのない存在だった。そのことで面白くもない話を聞かされても、という態度だった。僕らはまだ子どもだった。
「お前さ、ちょっとショックだったんじゃねーの」
友達のひとりが僕にそう声をかけてきた。僕の物好きな一面は知られていることだったから、きっと気にかけてくれたのだろう。
「大丈夫だよ、うん、大丈夫」
僕はそれだけしか返せなかった。ぼーっとするためだけにあそこに行ってたんだ、なんていまなら言えるかもしれないけれど、小学生の僕には無理だった。その返答がどう友達に響いたのか、しばらく彼は僕にやさしくなった。
翌日どころか昼休みにはみんなその小さな事件を忘れていた。給食のほうがよほど大事だった。僕もみんなと同じように給食のあとには校庭で遊んでいた。
その日の夜はよく眠ることができた。
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何も気にしていないように談笑している彼らが、いつの間にか僕にとって大事な人たちになっていた。二人は僕の心を休めてくれる。共通の趣味があって、実生活でも顔を合わせる必要がなくて、それでいて歩いて会えるところにいてくれる。これほど特化した人間関係は僕には他に思いつけなかった。理想のひとつに思えた。
そう、思えてしまった。
「あの、残念なことをお伝えしないとならなくて」
僕の口は僕の意思とは関係ないかのように動き始めた。その真に迫った語り口は、自分を疑うほどつらさを滲ませていた。
「どうしたの?」
「僕、近々引っ越すんです。それほど遠くはなくて、高校も変わらないんですけど、でもこのコンビニが遠くなるんです」
「おいおいマジかよ、珍しい時期に引っ越すんだな」
「僕も親に聞いてみたんですけど何も教えてくれなくて」
ナツミさんもマサさんも驚いていた。二人はよくお互いに視線を合わせて話していたけれど、このときばかりは僕にも二人の顔が正面からよく見えた。駐車場からトラックが出て行った。商品の搬入が終わったのだろう。車道を走る車が静寂が来ることだけは防いでくれていた。
「……残念だけどどうしようもないよね。せっかく仲良くなれたのに」
「な。けっこう俺たちうまくやれそうな気がしてたんだけどな」
「僕も楽しみだったんです。ここ来るの」
本当に感動したのだ。掘りもぐ仲間なんていうツチノコ並みに見つからない存在に出会えて。そしてそんな人たちが仲良く話をしてくれるなんて。だから僕はこのことを学校の誰にも話さなかったし、図に乗って掘りもぐの輪を広げようとしたりもしなかった。この夜のコンビニの前だけで完結する特別な場所。天秤に乗せられるものなんて見つかるだろうか。頑張って探さないといけないだろう。
でも僕は僕の行動を止めることができない。まるで僕のなかによく知らない未知の生命体がいて、そいつが僕の行動を操っているみたいだった。僕は手ずから光の箱を壊さなければならなかった。本当に? きっと本当に。
「今日が最後ってこと?」
「そうしようと思ってます」
「まあ、そっか。次を最後にしようって言い続けたら結局キツいもんな」
僕らは全員下を向いていた。こういうことで駄々をこねられるような年齢でもなかったから、それぞれが自身のなかで納得するように言い聞かせるしかなかったのだ。しばらく僕らはしゃがんだままじっと黙っていた。沈痛でさえあった。親しい友達の葬式みたいだった。その場合、死んだのは僕だった。
僕は無個性を包んだビニール袋を手に取ってその場をあとにした。何を買ったのかすっかり忘れてしまっていた。
帰り道はゆらゆらしていた。どの口がと自分でも言いたくなるが、ショック自体は受けるのだ。誰にも聞こえないような小声で、どうしてこんな嘘をついたんだろう、とつぶやく。誰も答えてはくれなかった。夜の闇に浮かんだ月がわずかに光を強めたような気がした。触れられもしないのに妙に今日は気にかかった。
風呂まで済ませてあとは寝るだけになった段で僕は悲しくなった。ためしに自分の皮膚をつねってみるときちんと痛かった。すくなくとも身体の機能は働いているらしい。僕はもっと悲しくなった。