05 世界でいちばん変な虫
掘りもぐのアプリを閉じて電車を降りる。改札に近い車両だから同じ高校の生徒が多かった。僕はいつもその集団の後方からついていってばかりだった。いつの間にか別の車両の生徒にも抜かされていた。先頭のほうがどうなっているのか覗き見たことさえない。走っているのかもしれない。馬鹿っぽい想像だった。
下駄箱が運悪く下のほうだったせいで、毎朝かがむ羽目になっている。どうしても一年間はそれに耐えないとならない。一方的で得るところのないギャンブルに負けたせいでこうなったのだ。同じ立場の人は僕と似たような不満を抱えていると思う。
開きっぱなしの教室の戸をくぐって近くの知り合いに適当にあいさつをする。いつもと同じように騒がしくて平和だった。僕とあまり関わりのないクラスメイトはこっちを見ようともしなかった。別にお互い嫌い合っているわけでもない。ただそういうものなのだ。
僕は手持ちのカードがあまり多くないから、友達にさえそれほど積極的には話しかけにはいかなかった。できるのはその場その場で考えて話すことだけだった。
「おはよ」
隣の席の子にも適当に声をかけながら席についた。隣の子は手首だけを動かして返事をした。カバンから教科書、ノート、筆箱を出して机に入れた。そうしてカバンを机の脇についているフックに掛けた。ジッパーは閉めていない。盗られて困るものは弁当だけだ。
移動教室に向かう途中で真垣さんとすれ違った。僕は軽く手をあげた。彼女も同じように手をあげた。三日ぶりくらいだったけど、はっきり三日分ものあいだ離れていた印象があるかと聞かれると自信がなかった。なんなら昨日も会ったんじゃないかと思うくらいだった。
そうして六時間目の授業が終わって下校の時間になった。
浅田は今日は早めに部に顔を出したかったらしく、話もそこそこにさっさと教室を出て行ってしまった。僕は思うところがあって自分の席に戻った。そうしてスマホを出してあまり興味のないニュースを見始めた。なぜか別の国のスポーツ選手の活躍が記事になっていたり、知らない芸能人が麻薬の所持で捕まっていたりした。世の中は僕からは離れたところで展開しているらしかった。
それでも辛抱強く見出しを眺めていく。明るい話題はほとんどなかった。どこかの動物園でパンダの妊娠が確認されたことくらいだった。
僕は席を立って椅子を机に収めた。そして教室から出て階段へと向かった。するとちょうど向こうから真垣さんがやってきた。
「お疲れ」
「何それ。よくない種類の大学生みたい」
僕は頭の後ろをかいた。言われてみればそんな感じもする。
話を変えよう。
「ちょっと残ってたんだね、友達と話でもしてたの?」
「ううん。ちょっと頭が痛くて教室でじっとしてただけ。それがマシになったから」
話しながら真垣さんは白い額を指さした。想像がつかなかった。
「もう大丈夫なの?」
「マシにはなったけどそれほど。保健室に行こうと思ってたところ」
「それがいいね。ちょっと寝るくらいがいいかもしれない」
「薬でじゅうぶんよ」
ちょっと驚いたように真垣さんは答えた。彼女の痛みの具合がどれくらいのものか僕にはわからなかったから、実際はそんなものなのかもしれなかった。言うわりには僕と話せているし。だからそれは彼女のついた無意味な嘘の可能性もあった。どちらかといえば僕にはそちらのほうがうれしかった。
ただあらためて顔を見てみると、雰囲気として引きつったところがあるのはたしかだった。ちょうど頭痛を抱えている人に見える。いろいろと総合して考えてみると、真垣さんの言うことを信じたほうが正しいことのように思えた。
「それじゃああんまり話すのもつらいね。先に帰るよ、お大事に」
「ありがとう」
いつもより雑に階段を下りて、さっさと靴を履き替えた。空はオレンジ色がうすく滲み始めていた。かすかすの平べったい雲が、はがすときにガムテープにくっついてきてしまった段ボールの紙みたいにへばりついていた。見ていない方向から運動部の声が聞こえてきた。いまはそっちのほうが好きになれそうだった。
あたたかい夜だった。僕は当然のことのように家を出て、二番目に近いコンビニを目指した。ナツミさんとマサさんに会う必要があった。
はたして彼らはそこにいた。僕がいなくたってそれはそれでよさそうに楽しそうにしていた。でも僕はその輪に入ることを許してもらっていた。ナツミさんの言葉に社交辞令のようなものは嗅ぎ取れなかったから、僕は何も疑わずにまっすぐ向かった。
ナツミさんは僕のほうには背中を向けていて、マサさんが視線の合う位置にいた。僕を見つけるとマサさんは声を張って僕に手を振った。その合図をもらうと僕は小走りで寄っていった。
「こんばんは、来ちゃいました」
「おう、待ってたぜ。そろそろ来そうだなって思ってたんだ」
「やっほー」
僕は店にも寄らずにすぐにしゃがみ込んだ。
「何の話してたんですか?」
「どーでもいい話だよ。学校で友達とするような話」
二人の側にはビニール袋が置いてあった。カップの飲み物と何かのゴミが入っているように見える。間食ついでに話しているのかもしれない。
そこからどんな経緯をたどったのか、僕らの話は蚕の話になった。
僕はそれほど蚕について知らなかった。絹のために必要な存在であること、それと白い幼虫であることぐらいだ。虫について積極的に知ろうとするような人生を送ってこなかったせいかもしれない。一般的な知識かどうかもわからなかった。ただ、なんとなくの印象で言うと僕は蚕が好きではなかった。
「蚕はね、自分の力だと生きていけないの」
「どういうことですか?」
「あのね、飼ってもらってやっとなんだって。どう言うんだっけ、マサちゃん」
「家畜ってやつだ。牛とか豚と似てるけどよ、ちょっと違うんだよな」
マサさんがすこし寂しそうな顔をした。
「あいつらさ、家畜以外に生きる道がねーの。自然界にほっぽっとくと驚くほどすぐ死んじまう」
「そんなにですか」
自然の生き物は僕にとって強かな存在で、それがたとえ小さくてもいろんな独自の技術で生き延びるものだと思い込んでいた。そこらの公園にいる毛虫だってあの毒のある毛で生存確率を上げているのだ。そう思うと蚕がちょっと不思議な生き物に思えてきた。
「頑張りがきかないし、ちょっと間抜けなんだよ。風が吹いたら葉っぱから落ちちゃうし、エサの桑の葉に乗ってても食べるの忘れちゃったりするんだって」
「聞いてるだけだと何にもできないんですね」
「本当に何もできないよ。大人になっても飛べないし。そのくせ真っ白で目立つからすぐに標的にされるんだろうね。外の世界だと」
いちど僕は目を外して明るいコンビニのほうを見た。次に夜空を見た。とても変な状況だと思った。知り合ったばかりの人と蚕の話をしている。いま僕がしているのは蚕の話で他のことではない。翅があっても飛べない蚕は、電灯に群がる馬鹿みたいな虫の真似さえできないのだ。
「だからもう野生の蚕っていないんだぜ」
「え、ゼロなんですか」
「ゼロだ。一匹残らず家畜になってる。日本だけじゃねえよ、地球上の話」
「別にあたしたちも家が養蚕やってるとかってわけじゃないんだけどね。でも草むらに蚕がいないっていうのはもう決まり切ってるんだって」
ショックとも違う奇妙な感じが僕を駆け抜けた。それは同情や哀れに思う気持ちが近いはずだったけど、どこかが決定的に違っていて似ているとは言えなかった。蚕の生存のことはただの事実だ。たとえば新聞を読んで知る情報と差はないはずだった。けれどそれは僕の中の何かを揺さぶった。僕はそれを表に出さないように頑張った。
足を止めて考えれば考えるほど蚕は変な虫だった。まず僕は虫の家畜というものを聞いたことがない。自然界にいないということもそうだ。その理由も生存に不利なものが積み重なって、そうして必然として居場所を失っている。生命として奥深いところで矛盾している存在に思えた。
だから僕はこう言うほかなかった。
「変な虫ですね」
「もしかしたら世界で一番かもしれないね」
ナツミさんは同意を求めるように笑んだ。僕は付き合うように笑った。マサさんは飲み物を口にした。
こうしてみると僕らはふつうの友達みたいだった。