04 洪水の中で
また終業のチャイムが鳴った。
いくつかの授業はただノートをとるだけの機械だったし、その他の授業は窓の外のほうが気になった。今日も天気はよかった。
浅田たちに手を振ると僕はゆっくり教室を出た。なんとなく今日は部活にでようかという気持ちになった。
校舎の端のほうにはいくつも空き教室があって、そのうちのひとつが文芸部の活動場所というか集合場所になっている。僕たちはいちどその空き教室で顔を合わせて、そうしてから散り散りになる。それは別々の座席に座るという意味ではなく、部活が終わる時間まで校舎のどこかに行ってしまうことを意味している。図書室、自分の教室、他はちょっとわからない。
空き教室の扉は開きっぱなしになっていて、何人かが座って顧問の先生が来るのを待っていた。みんな机の上にカバンを乗せていて、顧問の話が終わったらすぐにでもこの教室を出て行くつもりなのがわかった。
すこし経つと僕のあとにも部員が何人かやってきた。そして顧問が来て簡単にあいさつをした。するとまるで任務を受けた忍者みたいにほとんどの部員はさっさと出て行ってしまった。文芸部員は真面目なのだ。僕が例外的存在なだけで。
僕は周囲を見渡した。二人だけ残っていた。
「先輩だ。どうしたんですか?」
「僕だって文芸部だぜ。ただみんなみたいに作品を書かないだけ」
「逆に幽霊部員じゃないの変ですよね」
冷淡とも言える同い年以上の部員たちと違って、この二人は僕を見放したりはしない。とはいえ僕もアリバイ作りみたいな気持ちでこの部に入ったから、真面目な部員たちのことを責める気にはなれなかった。
「読む専門の文芸部員がいたっておかしくないよ」
「あ、じゃあ俺の読んでくださいよ」
「ダメだね。僕はマンガまでが限界なんだ」
「マンガだってすごいのはよほど複雑な構造してるじゃないですか」
橋本と光山は僕が部に顔を出すとちょっかいをかけるのが常だった。
この後輩たちはいちおう丁寧語を使うだけで、扱いとしては僕を同い年と見ているような気がする。とはいえそれに腹が立つということもない。気安く話せる相手は多いに越したことはない。もしも彼らがいなくなったとしたら、僕は他とは比較のできない傷を負うことになるかもしれないと思っていた。
この二人との会話では僕が教わるかたちが多かった。橋本も光山もアンテナを多く張っていて、僕なんかじゃどうやってもたどり着かないようなことを教えてくれる。そういう意味だと僕はいつだって時代遅れの感覚を二人に修正してもらっているのと変わりはなかった。たとえば僕は二年前に気に入った音楽をずっと聴いていることを当たり前のことだと思っているけど、彼らは遅くとも月ごとには新しい音楽について良し悪しの判断を下している。そして僕からすれば洪水に思えるそれの中から、選り分けたものを届けてくれるのだ。もちろん音楽に限った話じゃない。
さて、言い訳をしないと。
「厳密に読めばそうかもしれないけど、単純に楽しむことができるのもマンガのいいところなんだ。僕みたいなのもそうだし、子どもだってそれでいい。凝りに凝ったものはわかる人にわかればいいんだよ」
「橋本、これは先輩に一理あるよ。まず面白くないと話は始まらないって」
光山の言葉に橋本はほんの短いあいだ考え込んで、そうして顔を上げた。
「たとえばきちんとパンチを当ててラウンドごとのポイントを稼ぐよりもノックアウトのほうが盛り上がるみたいに?」
「わかんないたとえやめてよ。サッカーとかテニスにして」
女子の総意かのように光山が橋本を止めた。実際のところ、格闘技がわかる女子は少ないだろう。男子だってよくわかっていないのが大半だ。橋本のこの比喩グセは聞いていると面白いのだが、ときおり通じないものを使うことがある。そこもふくめて僕は好きなのだが、まあ不評なのもわかる。
「とにかく橋本の作品は読まないよ、悪いけどね」
「私のは?」
「いっしょ」
どっちも僕に構わずに自分の作業に集中したって文句は言わないのに、そうすることが当然のように二人は僕のところにいる。はっきり言えば、僕が甘えている側面が大きい。部活動という観点で用事のない僕が文芸部によく顔を出すのは二人と話すのが楽しいからだ。そのことに気付くといつも僕は自分がすこし嫌いになる。
「先輩はまだ書く気にならないんですか?」
「まだ、っていうかずっとだよ。たぶん」
「先輩ならなんかいいの書けそうだと思うんですけどね、俺」
「それ私も思う」
そうさせるような行動をひとつも取っていないのに、彼らは見事に僕を買い被っていた。学年がひとつ上というだけで下駄を履かされているのかもしれないけど、だとするとそれは困りものだ。ちょっと下駄の歯が高すぎる。バランスがとれなくて転んでしまうかもしれないし、もし転んだら痛そうだ。
説明する必要がある。
「書かないんじゃない。書けないんだよ。橋本も光山もどうもよくわかっていないみたいだけど、それは特殊な才能なんだ」
「そうですか? 誰だってなんとなくストーリーを考えることあるじゃないですか」
「そういうのとはちょっと違う。心構えが先に立って、そうしてから物語を考えて、かつ本当に手を動かすっていうのは特別なことなんだよ。世の多くの人はこの部分を意外と知らないし、書ける側はそんな断絶があることを思いつきもしない」
それぞれ考える仕草をとった。自分に当たり前にあるものが他の誰かには備わっていないと考え直すのはきっと難しいことだろう。感覚としてはスキップができる人とできない人の差に近いと僕は思っている。
僕の後輩の美点であり損なところだ。そういうものだと認めてしまえばいいのに、想像力を駆使して理解しようとしてしまう。今回のパターンはその能力を使えば使うほど遠ざかってしまうのに。けれど僕は彼らを止めなかった。それがいいことだとも思えなかったから。
橋本も光山も似たようなタイミングで首をひねった。そうだろう。
世間の流行の話を教えてもらって、僕が目をつけているものの話をした。やっぱり僕と大多数のあいだには距離があるらしかった。掘りもぐだってそうだ。サブスクリプションで人気の映画もアニメもひとつずつしか僕は見ていなかった。パッケージで見て面白そうかどうかで決めているからいけないのかもしれない。
そのうち空き教室を出て行った部員たちが戻り始めた。外が暗くなってきていた。もうそろそろ部活動の時間が終わる。授業が終わって二時間半。これが活動時間だ。顧問がやってきてあいさつをするとそれで解散。作品の相談があれば解散後に顧問のところに行く部員もいる。もちろん僕はしたことはないけれど。
夕食を終えて動画サイトでいくつか音楽を探した。後輩二人のおすすめの曲も検索すると簡単に見つかった。モントジッヒェルという曲名だった。橋本はその言葉がドイツ語だということだけ知っていた。逆にドイツでは日本語のタイトルの曲が発表されていたりするのだろうか。頭に思い浮かべるだけで考えることはせず、僕は動画サイトに意識を戻した。あらためて立ち止まってみると毎日誰かがかならず作品を発表していた。とんでもないことだと僕は思った。
適当に画面をスクロールすると、見かけたこともない誰かがまったく知らない曲を何年も前に出していた。地層のようなものか、と思ってすぐに僕は首を振った。この世界のものは小さなきっかけで、確率こそ低いにせよ驚くほど浮上することがある。そういうふうに見ると積もった埃みたいなものだった。
でも僕には浮上するものを見抜く力なんてなかった。
野球に関する掲示板の書き込みをまとめているサイトを覗きにいくと、ドラフトにかかりそうな選手についてのページがあった。ドラフト一位なんていうのはその年のトップの十二人の選手ということになるはずなのに、僕が知っている名前はどの年もよくて二人だった。それ以外はスポーツニュースを見てても、もしかしたら聞いたことがあったかもしれない、くらいのものだった。そしてそんな彼らが技術的にどれほどすごいのかも正直なところ理解できていない。いつか野球部に聞いてみてもいいかもしれない。
そうして時間を潰していると八時が近づいてきた。ナツミさんとマサさんのところに行くならいまだった。けれどなんとなく今日は二人はコンビニの前にいないような気がした。それに学校の宿題もやらないとならなかった。