終 地球人の僕は
「すげえ疲れた顔してるけど、お前どうしたの?」
「筋肉痛。たぶん全身。あごも。はじめてだよそんなの」
「なんだそれ。なにがあったらそうなるんだよ」
「説明してもいいけど、まあ信じないと思う。賭けてもいいくらい」
浅田は腕を組んで僕に起こり得るありえなさそうなことを考え始めたが、どうやっても当てることはできないだろう。まず一言目が意味不明だからだ。海底人と、で始まる出来事を予想できる人間はいない。嘘をつくなと怒られそうだけど、僕にとってそれは現実なのだ。
たっぷり二十秒は考えて浅田は降参した。いったいどんな予想をしたのか聞いてもみたかったけれど、口にしなかったということはそれほど出来のいいものではなかったのだろう。
「で、結局なにがあったんだよ」
「信じられない部分は省くけど、全身で力み続ける事態になって。しかもけっこうな時間」
「いま聞いた部分もまあまあ信じにくいけどな。そんなんなるか?」
「なったものはしょうがないだろ。僕だって驚いてるんだ」
これ以上は言えることがなかった。結果が出てしまっているものにありえないとは誰も言えない。浅田はとくに気にしたふうもなく、あ、そう、と返した。
「まあいいけど、そんなんで体育出れんのお前」
「無理。その時間は保健室行く」
「それはもういっそ学校休んだほうがよかったんじゃね?」
「かもしれないけど、学校は来ておきたかったんだよ」
「キツかったら体育のときじゃなくても死ぬ前に保健室行くか帰るかしろよ?」
「そうする」
それきり浅田は前を向いてしまった。たぶん気を遣ってくれたのだと思う。教室は僕が入ってきたときと変わらず騒がしかった。僕はそんななかにいて、たったひとり遊離したような気分になっていた。体調が悪いときによくある現象だった。みんなが動いていないときにだけ自分が動けているような奇妙なズレの感覚。いつもよりわずかに耳が遠くなったような感じ。あまり面白いものではなかった。
ノートを取るだけの授業がこれだけ大変だったこともない。腕が軋み、指が震えてペン先が定まらなかった。普段とは違った字の汚さと書く遅さに愕然とする。まるで筋肉のかたまりごとに細長い板を張り付けられているように動きが制限されていた。目を黒板に向けるために首を上げたいだけなのに、連動して背中の筋肉が痛んだ。頑張るために歯を食いしばろうとしても今度はあごから首が痛んだ。
三時間目の体育はどうやっても参加できそうになかった。だからさっき浅田に言ったようなことをほかのクラスメイトにも伝えて、僕は体育を休むことにした。彼らがさっさと着替えて出て行くのを見送るのは取り残された感じがしてさびしかった。
次に僕がしなければならないのは保健室に向かうことだった。そうでないと道理が通らないし、変に教室に居続けては誤解が生まれる可能性もある。重い足を引きずって、僕は廊下を歩いた。階段をおりている途中で授業開始のチャイムが鳴った。みんなが授業を受けているなかで僕だけが歩いているのは奇妙な気分だった。一階に行くまでの階段の一段一段がつらかった。
二階から一階に下りる途中の踊り場に真垣さんがいた。
思わず僕は手すりをつかみ損ねそうになった。どうして真垣さんがこんなところにいるのだろう。彼女だって授業中のはずだ。
「真垣さん、なんでこんなところに?」
「気分悪くなっちゃって。それで保健室に行こうとしてたんだけど、ちょっとね」
僕が踊り場を視界に入れたときには彼女はしっかり足を止めていたから、時間で考えるとしばらく前からここにいたのだろう。踊り場、なんとも中途半端な場所だ。突然に気分が悪くなったのだとしたら、ずいぶん大きく影響を残したことになる。
「大丈夫? 動けないなら人を呼んでくるけど」
「ううん、もうすこしじっとしてたら良くなるから」
真垣さんは力弱く首を振った。
「それより、授業は?」
真垣さんは逆に僕に質問を飛ばした。たしかにそれはお互い様だ。本当ならいないはずの時間に僕らはこんなところにいる。僕は筋肉を駄目にして、彼女は気分を悪くして。隠すようなことでもないから、僕は自分の状態を話した。全身筋肉痛なのだと聞いたとき、彼女は一瞬だけ変なものを見る目をした。
「あ、事情は聞かないで。説明するのが難しいから」
「そんな大変なことに巻き込まれたんだ」
「どうなんだろうね。ただ説明が難しいだけなのかもしれない」
評価の難しい出来事なのは間違いがなかった。それでも人によっては僕がいけないというのかもしれない。僕が勝手に事態を複雑に捉えた可能性は否定できない。もしあの場に立っていたのが瀬川さんだったなら、もっとスマートに事態は進行していっただろうとは僕も思うところだ。浅田だったら、古野だったら。こんなことを考えるのは無意味かもしれないけど。
本当に説明するのが面倒だということもあったけれど、ミズタとの話はしたくないというのもあった。あの公園での話にはいろいろな感情がまとわりついていて、どこか記念碑的なところがあった。そしてその価値はたぶん僕にしかわからない。
真垣さんからすれば謎の出来事についての話を拒否した僕は、どうにも居心地が悪くて軋む腕で頭に手をやった。
「よく変なことに巻き込まれるの?」
「そんなこともないと思ってたんだけど、実情は違うみたいで」
「屋上の扉が開いてたり?」
「そう、屋上の扉が開いてたり」
ここ数か月を振り返ってみれば変なことばかりに出会ってきた。考えてみると妙な感じだった。これまでの僕の人生の全部とここ数か月を比較すると、よっぽど最近のほうが変なことに遭遇していた。もしかしたら他の人は僕以上に変なことに巻き込まれているのかもしれなかったけど、それは確かめようがなかった。
「あとはどんなことに巻き込まれたの?」
「小さなことだよ」
「いいじゃん、教えてよ」
「まあ、全然だれもやってないゲームがあるんだ。世界中で千人もやってない。僕はその少数派のひとりなんだけど、ある日そのプレイヤーと出会ったんだ。二人も」
言ってみてずいぶんとスケールの小さい話だなと自分でも思った。実際にはかなりすごいことではあるのだ、確率的に言えば。集まろうとして集まったわけでもなく、そもそも僕も探そうとしていなかった。それはある種の奇跡だった。
何を素直に話しているんだろう、と内心で自分に呆れた。こういうときに出すことのできる面白い話を僕は持っていない。ここで楽しませることができれば、と思ったけれど、それは傲りだ。僕はそういう種類のものではないのだ。
「なにかその、大きなゲームのイベントとかじゃなくて?」
「違うよ。夜にコンビニに行く途中」
「けっこう近くに住んでたんだ」
「うん。向こうも驚いてた。僕だって信じられなかった。仮に世界中に千人の人間が散らばって、それで三人が一か所に集まると思う?」
「ちょっとずるい言い方かなって思うけど、でもたしかにすごいね」
真垣さんはすこしだけ首を傾げてそう言った。
授業開始のチャイムからしばらく経つと、踊り場のそばは一気に静かになった。学校に僕らしかいないみたいな勘違いをしてしまいそうだった。音のない校舎内はあの夏を強烈に思い出させる。僕は夏休みには誰かに見られたらいっそ疑われるほどに静かな校舎をうろついたのだ。
感傷から立ち直ると真垣さんの目が僕を捉えていた。話の続きか、もしくはほかの出来事を話すのを待っているのは明らかだった。僕は話したくないことを避けるために次の出来事に話を移さなければならなかった。
「これは夏休みのことなんだけど」
「屋上で私と会ったっていうのはナシ」
「わかってるよ。変な人に声をかけられたんだ。夕方だったと思う」
「変な人?」
「あ、なんだろう、順番が違うな。ストリートミュージシャンだったんだ。ただの。それで話をするようになって。その中身がちょっと変わってる人っていう話」
「どんなふうに?」
僕は記憶の棚から埃をかぶったアルバムを取り出すことにした。その棚はしっかり厳重に封をしたものだったから鍵を使う必要があった。持ち手のところにトゲがついている。僕はそれをぐっと握った。
「……僕を使って曲を書くって言い出したんだ。初対面のときに」
「初対面で? とんでもない気に入られ方」
「そうかな、微妙なところだと思う。たまたま僕がものすごく珍しい条件に当てはまってただけかもしれないし」
「まあ、そのへんは実際に会ってないから私にはわからないけど」
僕の何かを嗅ぎ取ったかのように真垣さんは一歩退いた。いま明らかに僕の情緒は不安定な状態にある。自覚はあった。いまの僕は嫌な奴だ。こんなに否定ばかりする人間じゃなかったはずだ。けれど僕にはそれを修正するだけの精神力がなかった。
けれど状況としては正しいものに近づいているように僕には感じられた。正しいという言葉の厳密な意味合いこそ不明瞭だけど、大雑把な方向性としては間違っていないと頭の奥から声がする。そうなれば僕に抗う術はなかった。
「とにかく、それから街で出くわすようになったんだ。約束なんてしてないのに」
「それで?」
「話をしただけなんだ、結局。芸術について教わった」
真垣さんは判断に困ったような表情を浮かべている。それもそうだろう。手放しにいいことだと言うのも変な話だし、災難と呼ぶのはさすがにやり過ぎだ。僕が芸術に興味を持っているならそれはいいことかもしれないけれど、彼女は僕が芸術に興味を持っているかどうかは知らない。広げるにしても程度の難しい分野だ。
だからここは僕が助け舟を出すしかない。別に僕は真垣さんを苦しませたいわけではないのだ。
「僕にはよくわからなかったけどね。だからだいぶ忘れちゃった」
「ずいぶん昔のことみたいだけど」
「何月何日の出来事かは大事じゃない。ほかの何ともつながってない独立した過去なんだ。だからかんたんに記憶の棚の奥のほうにしまえちゃうってだけ」
独立した過去、と真垣さんは繰り返した。そう、それはもう閉じてしまっている。その人間関係が持続しているわけでもないし、そこから新しい場所に行けたわけでもない。もうすべてが終わってしまったから、僕が意図的にそこへエネルギーを送らない限り、ただ風化していくだけのもの。時間がきっとそれをぼろぼろにしていく。
そう思うと僕は悲しくなった。僕は独立した過去以外の何者にもなれないからだ。僕は何も残さない。
「その人はどうなったの?」
「いなくなったよ。思い出になってくれ、って最後に」
「なんだか芸術的」
「そうなのかな。でも、うん。あの人は正しかったんだと思う」
言い終わると同時に喉の奥がきゅっと締まるような感じがあって、涙があふれそうになった。僕はそれを頑張って堪えなければならなかった。そうしないとあの時間に感じていた特別ななにかがいっしょに流れていってしまいそうな気がしたからだ。
本当は誰かにこの思い出を持っていてもらいたかった。そうすれば僕がもしこの記憶をなくしたとしても、その託した誰かが教えてくれる。でもそれは不可能だった。僕とまったく同じ体験をし、同じ印象を抱かない限り、その思い出は共有できない。寂しいと同時に尊いことだった。
「ほかにもまだあるの?」
「あるけどさっき言った説明できないやつだよ、それと屋上の話」
「そっか」
「うん。言ってみて思ったけど、本当に変なことに巻き込まれてる」
「ずいぶん楽しそう。学校だとそんな雰囲気しないのにね」
「楽しい、まあ、うん。楽しかったよ」
実際に僕はそう思っていた。でも傷ついてもいた。ひとつを除いて、僕はそれらを手放すことになったからだ。どうして僕は真垣さんに出会ってしまったのだろう。たぶんすべての間違いはそこにあった。何があっても彼女を傷つけるわけにはいかない僕は、その代わりを見つけないとならなかったのだ。そして見つけたのは。
地球人の僕は地球人に恋をするべきだったのに。
「ちょっと気分もラクになってきたし、続きは保健室で話そうよ」
「うん。でも先に行ってて。筋肉痛であんまり早く動けない」
わかった、と真垣さんはさっさと階段を下りていった。僕は変わらずに一段を下りるごとに苦しんだ。いまいる位置よりも低いところにやさしく足をつけるためにどの部位の筋肉をどれだけ使っているかが身に染みてわかる。そして連続してその動作を行わなければならない。歩くという行為は連続性を要求している。
僕はどうにか階段を下りた。廊下は平坦だからさっきよりもずっとラクだった。けれどかかった時間を考えると保健室にいられる時間はそれほどなさそうだった。次の授業に間に合わないのなら体育だけ休んだ意味がない。うんざりしながら保健室の扉を横に滑らせた。
保健室だというのに担当の養護教諭はいなかった。僕は筋肉痛で体育を休んだという報告をきちんとしておきたかった。そうでないと体育教師にサボりと認識されてしまう可能性もあるからだ。浅田が伝えてくれてはいるだろうが、それをそのまま吞み込まないパターンがあり得るタイプの人間なのだ。僕はうんざりしながら利用者名簿にクラスと名前を書いてからベッドに腰かけた。そして辺りを見回した。
真垣さんの姿はなかった。
「あれ、先に来てるはずなのに」
保健室の窓は開いていて、弱い風が白いカーテンを揺らしている。はっきりと人の気配はない。どこかに隠れているということもなさそうだった。もしかしたら気分の悪さが急に治って教室に帰ったのかもしれない。それならそれでいいけれど、心配は心配だった。
保健室にたったひとりだと何もやることがなくなって、僕は急に眠気に襲われた。まあいいや、と僕は思った。たしかにすさまじく疲労していた。ベッドの周りにあるカーテンも閉めずに僕は布団をかぶった。すべり台を下りていくように滑らかに眠りに落ちていった。
僕の目を覚ましたのはチャイムの音だった。すこしぼんやりする頭を起こして周りを確認する。カーテンは開いたままのうえに誰もいない。なんだかひどい話だった。せめて養護教諭くらいはいてもいいのにと思ったけど、言ったところでどうなるものでもなかった。僕は布団から足を出して上履きの上に置いた。
あくびをすると急に強烈な空腹の感覚がやってきた。珍しいことだった。しばらく感じたことのないものだった。
教室に戻ることを考えるべきだった。この状態で登校しているのだから四時間目の授業は受けなければならない。僕が僕に許した例外は体育だけなのだ。わずかにでも不自然な動きをすると、また筋肉に貼り付いた細長い板が意識された。上履きのかかとを履きつぶしたまま立ち上がると、なにかがおかしい感じがした。
辺りを見回しても僕はその原因を見つけることができない。僕は焦りを感じた。記憶に関する脳のどこかをいじられて、なにかとても大事なものを思い出せなくなっているような気分になった。僕は必死で保健室のなかを見回した。何も見つからない。
そうこうしているあいだに、扉が横に滑った。
廊下から顔を覗かせているのは、瀬川さんだった。
「瀬川さん? どうしてここに?」
「月子が帰ってこないから迎えに来たんだけど」
「いないよ」
真垣さんが帰ってこない? それは妙な話だった。ここは学校で、彼女は僕よりも先に保健室に向かったはずで、その姿がここにないのだとすれば教室にいなければおかしなことになる。だって彼女は荷物なんて持っていなかった。
首をかしげた瀬川さんを見て、僕はもうひとつ奇妙なことに気が付いた。どうして瀬川さんがここにいるのだろう。なにかを間違えている気がする。
「ちょっと待って。いま何時?」
「え、三時半くらいでしょ。ほら、時計見なさいよ」
彼女の指したほうを見ると、たしかに帰りのホームルームが終わったあとの時間を示した時計があった。室内を満たす光の感じをあらためて見ると納得がいく。たったひとりで僕は眠りこけていたのだ。あいだに鳴るチャイムを全部すっ飛ばして。
僕は混乱していた。ここにはしばらく誰もいなくて、来ているはずの真垣さんもいなくて、僕だけがいた。そして瀬川さんがやってきた。真垣さんはどこにいったのだろう。消えてしまったのだろうか。真垣さんを探さないと、と思って瀬川さんの顔を見た。その瞬間、僕は雷に打たれたように理解した。
「まあいないならしょうがない。あんたも教室戻る?」
僕は口を開かないとならなかった。
僕は僕の儀式を続けるかどうかを決めなければならなかった。
お付き合いいただき、ありがとうございました




