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造花を焼く  作者: 箱女
3.分銅を見比べる
19/20

19 優先順位

 次の日の夕方、僕はまたあの公園に来ていた。

 ミズタはまたブランコに座っていた。クラゲの集合体である彼が地上で太陽の光を浴び続けて大丈夫なのだろうかとも思ったが、きっと彼はそんなことくらい簡単にクリアしているのだろう。もしかしたら普通に水を買って飲むのかもしれないし、水筒に海水を入れて持ってきているのかもしれない。

 彼は視線を足元に落としていた。その様子から判断するに、とくに僕を待っているわけではなさそうだった。思索にふけっているというよりも、本当に足元にある何かを見ているようだった。たとえばアリとか。

 僕は何も言わずに彼の隣のブランコに腰かけた。ブランコはすこしだけ揺れて、そして靴と地面との摩擦で止まった。

「あまり驚かないんですね」

「近いうちにまた来ると思ってたから」

「なにか理由が?」

「いいや、なんとなくだよ」

 ミズタはからかう調子もなくそっけなくそう言った。僕に戻ってきそうな雰囲気があったのかもしれない。僕自身にはそういうものを感じ取る能力はないけれど。

 僕たちはすこし黙っていた。急いでするような話題はない。

「あれからね」

 不意にミズタが口を開いた。

 語り聞かせるような口調にも聞こえたし、独白のようにも聞こえた。

「あれからすこし考えたんだ。僕はクラゲできみは人間だ。僕らの世界には僕らの世界のルールがあって、それはきみらも同じ。線引きはどこにあるんだろうって」

 種族から違うと言いたかったけれど、そういう話ではないことくらいさすがに僕も理解できた。こうやって会話ができて、見た限りでは同じ人間だ。前提として決定的に違うのだけれど、同じようなものじゃないかと言われれば否定のしようもない。

 ほんの短いあいだだけど僕も違いを考えてみた。人間という種にだけ存在する特殊なもの。でも僕は彼らの生態を知らなかった。

「でもこれは僕という塊だけが持つ疑問なのかもしれないね。こう考えるためには言語を習得しないとならないし」

「あなたと人間という種の比較なら、まずはあなたがどんな存在なのかを知る必要があると思いますが」

 ミズタは地面を蹴ってブランコをすこしだけ漕いだ。キイキイと金具がきしむ音がする。僕はミズタのブランコの揺れを求める時間の残量と見た。

「僕がどんな存在か、か。説明するのは難しいね、ここにいるとおりの僕が全的に僕だと言ってしまえばラクなんだけどそれだと伝わらない」

「意地悪しようとかそういうことじゃないんです。こっちもそれを聞いたら人間との相違を探さないといけないですし」

「そうだよね。でないときみたちはクラゲと区別できなくなってしまう」

 問題がそこに帰結するのかはわからなかったけど、それでもたしかに重要な部分と言えた。人間とクラゲは区別されるべきだ。そうでないと僕らがしたり顔で作り上げてきた歴史というものが唯一性を失ってしまう。どこかの王朝が生まれて滅んで、誰かが学問の分野で大きな発見をして、戦争が終結して。それが過去の出来事の羅列に成り下がることに人類は堪えられないだろう。

 その意味では僕は人類の歴史の突端に立っていた。僕次第で歴史というものの意味が変わりかねない。意味が変わればきっと何かが崩壊する。それが僕の知っている言葉なのかもわからない。あるいは言葉で表現することそのものが不可能なものなのかもしれない。

「人間だけがしてあなたがしない行動、もしくはその逆があればいいんですけど」

「さらに言うならそれが人間らしさを含んだ行動だよね。食事睡眠どうこうだなんて僕がクラゲでみんなが人間だから別物だって言ってるのと変わりないし」

 僕はかなり真剣に考えた。隣のブランコに座っているのは嘘偽りのない海底人だ。別に僕が歴史に対して責任を負っているわけではないけれど、この区別をすることは僕にとって大事なことのように思えた。

 どこがキーポイントになるのだろう。僕はとりあえずいまわかっている事実を並べてみることにした。

・ミズタは海底人、クラゲである。

・ミズタは単体のクラゲではなく、いくつものクラゲが集まってできている。

・ただし機能としては一個の人間と遜色ない働きをする。

・ミズタは観光のために言語を習得した。

 ぱっと僕の頭に浮かんだのはこれくらいだった。

 しばらく何も言わずに考えてつかんだ糸口のようなものは、彼が人間ではないということだった。こう表現すると馬鹿らしく聞こえるかもしれないけれど、それは重要なことだった。ミズタは観光、つまり別個の存在として地上にやってきたのであり、それは彼が他者との関係性を持ったうえで訪れたのではないことを示していた。彼は言い換えれば孤独なのだ。

 僕は僕なりの強引な論理を展開していった。強引と認識していながら、僕は自分の考えが正しいものにしか見えていなかった。

「嘘ってつきますか?」

「嘘? つかないよ、必要ないし」

「じゃあそこがあなたと人間の差です。人間は嘘をつくんです」

 ミズタは空を見上げた。薄い雲が空に広がっていた。

「……そうかもしれない。きみたちはよく何かを隠すし、そのために嘘をつくね」

「そうしないと守れないものがありますから」

「きみもかい?」

「はい」

 ミズタの目は不思議そうだった。彼には嘘をつく習慣がない。さっき彼自身が言ったように、彼は何も隠す必要がないからだ。隠す相手がいないのだ。だから自分が海底人であることも言ってしまう。別に知られて困ることもない。だって最終的に彼は海に帰るのだから。クラゲの居場所は海なのだから。

 だからきっと嘘をつかないとならない僕たちのことが不思議なのだろう。良くない影響が出ることがわかっていながら嘘をついてしまう僕たちのことが。

 たとえば小学生や中学生のとき、誰か好きな女の子ができたとして、それは秘密にされることが多い。それが明るみに出ると恥ずかしいというのもあるし、何より本人に伝わって気まずくなってしまうかもしれない。もちろん場合によってはいい方向に転がることもある。でもそんなのは例外的なものだ。だから「好きな人はいるか?」という質問に対してみんな嘘をつく。ただ僕は最近、もうひとつ嘘をつく理由があるのではないかというような気がしていた。

 そんな気持ちが周囲に明かされたとき、彼らの向ける目の色に違うものが含まれるようになる。ああこいつはあの子が好きなのだ、と。誰もがそういう前提を置いて接するようになる。その意味では相手に思いのたけをぶちまけて玉砕してしまったほうがずっと健康的だろう。もちろん成功するのが最善だけど。つまり僕たちがそういう気持ちを家宝のように大事にしまうのは、知られることによってその大事な気持ちが純粋さを失うからなのだと思う。他人の手垢がつくのがいやなのだ。だから僕たちは嘘をつく。たぶんどんなに悪質な嘘も、詐欺でさえ、これの変奏なのだ。

「言われてみると不思議な文化だ。そんなのないほうが世界は円滑に回るのに」

「それは違います」

「え?」

「もし誰もが本音で話す世界なら、それは文明を手に入れた野生動物がいるだけの世界です。簡単に戦争が起こって、そうして大して時間もかからず滅亡します」

 ミズタはきょとんとしていた。予想を超えて攻撃的な世界が提示されたからかもしれない。でも僕にはそうなる確信があった。時間の流れとともに太陽が動いて、いずれ沈むように。

「すごく奇妙だ。きみの考えに従うと、この世界は嘘で成立していることになる」

「嘘には幅もあります。思いやりとか妥協とか、一〇〇パーセントの本音以外を嘘と呼ぶなら、っていう前提なんですけど」

「わからないな。海の底とはコミュニケーションの形態が違い過ぎる」

「嘘をつけるから人間がどうこう、っていう話じゃないんです。僕たちのほとんどはそうしないと立っていられないくらい弱いんです」

 まるで自己紹介だった。僕も嘘をつく。ただ僕は嘘がどうやって弱さを補強してくれているのかの仕組みはわかっていない。ただ経験的にそうなってくれることを知っているだけだ。それは冷蔵庫の中が冷えているのを当たり前のものとして受け取っているのと似ていた。

 だから僕は対極にいるひとに憧れた。僕はふつうで、強いひとたちはふつうではなかった。彼らは僕が味わっているような苦しみなんて夢にも思わない。そんなはずがなかった。水族館のガラスみたいに決定的に隔たっているべきなのだ。

 その意味ではミズタも該当しそうに思えたが、残念なことに彼はクラゲだった。僕はクラゲには憧れない。嘘だらけの沼のなかで暮らしながらも汚れていないからこそ輝きが際立つのであって、はじめから嘘のない世界に属しているミズタは別に輝きを見せない。僕が彼に気安く接することができるのはそれもあったのかもしれない。

「きみも弱いのか」

「僕だってできれば嘘なんかつかずに生きていきたいですよ。でもダメなんです。それだとすぐに壊れるんです。生きている現実をぜんぶ真正面から受け止めるなんて、そんなのとてもできることじゃない」

「きみの言っていることがうまく理解できない。現実は現実だろう?」

「……見ないふりでもまともに取り合わないでもいいんです。要はちょっとだけでも中心からずらせればいい。そうすればなんとか受け流せる」

 ミズタは口を閉じるのを忘れていた。人類という種がこんな弱点を抱えているだなんて彼が知るわけがない。彼は人間ではないのだから。

 ミズタはうなだれた後にじっと固まって、僕もそれを見据えたままだった。時間は止まってはいなかった。風が吹いて葉っぱのこすれる音がした。鳥も空を横切った。ただ僕たちが動くのをやめただけだった。

「きみたちは自分にさえ嘘をつくのか」

 跳ねるように顔をあげて、ミズタは慄いたようにつぶやいた。

「はい」

「そんなことをして何が、そんなになってまで何を」

「わかりません。ひとつだけたしかなのは、僕たちは大変なことにならない限り生きていくってことです。その先のことはそれぞれ個人で違うんでしょう」

 僕のこれまでの言葉のなかでいちばん威力を持った言葉だった。

 手で口を覆ったミズタの姿は大きなショックを受けたように僕の目に映った。こうしたくて僕は人間についての話をしたのではない。僕は僕に対して言い聞かせないとならなかったのだ。僕自身を肯定とまではいかなくとも、すくなくとも許してあげる必要があった。誰かを傷つけてでも歩いていくことを。

 いちばん大事なものを傷つけてしまいそうになる衝動を抑えるために、釣り合いの取れる中でできるだけ僕にとって順位の低いものを代わりにしてきた。僕の人生とはそういうものだ。より価値の高いものを守るために価値の低いものを切り捨てる。そのたびに僕そのものがすり減って、僕自身の順位は下がっていく。間違っているのかもしれない。でも僕はほかのやり方を知らなかった。

「あやうい、とてもあやういバランスだ。ちょっとしたことですぐに崩れる」

「だから世の中には事件があふれているんですよ。毎朝あたらしいニュースが報道されるんです」

 もう僕はほとんどヤケになっていた。口からでまかせのような気分で頭に浮かんだそれっぽいことを続けた。深い考えは何もない。普段から思っていることをぶちまけているわけでもない。考えてみればそうじゃないか、ということをアドリブで続けているだけだ。ひどい風邪をひいたときに胃の中のものをぜんぶ吐き出しているような気分だった。つらいのに決まっていた。

 川面にガスガンを打ち続けていた男のことを急に思い出した。僕が何かを傷つけて代わりにしてきたように、彼にはあの儀式が必要だったのだ。発露の仕方が異なっているだけで、根本的には僕とあの男は同じ種類の人間だった。でも。ということは。さまざまな接続詞が洪水のように押し寄せてきた。

 僕の頭は軋み始めていた。

 きっと僕の雰囲気が異様なものになっていたのだろう。なんの力もないのに暴れだしそうな、か弱い手の出しにくさ。ミズタの声色が優しくなった。

「ねえ、休んだほうがいい。疲れているかどうかはわからないけど、ちょっと無理をしてるように見える。いいんだよ、ぜんぶ言葉にしなくても」

 いくつか採れる行動の選択肢はあったけれど、どれが正解なのかはまるでわからなかった。どれもが同程度に正しいように見えたし、どれもが同程度に破滅の匂いをさせていた。

 うまく口を開くことができなかったし、仮にそれができてもまともな言葉を発することができるとは思えなかった。視線を膝のあたりに落とすと、知らないうちに拳が固く握りしめられていた。ほどくことができなかった。両手がそうなっていたから一本ずつ指をどうにかすることもできない。この公園が家の近くでよかったと思った。これでは電車に乗ることさえできないからだ。僕は家に帰ることにした。

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