17 深層海流
電車から降りると空気がまた一段と冷えていた。さっさと学校から駅へと向かったくせにまっすぐ家に帰る気にはなれなかった。どうしようと考えて思いついたのが公園だった。この季節のこの時間なら子供たちはもういないだろう。ベンチでもタイヤでもブランコでもいいから腰を下ろして息をつきたかった。
小学生のころによく通った公園は、通学路からはちょっと外れた位置にあった。当時のことを思い出すとそのことを神秘的に思っていた自分がいて、どうしてそんなふうに感じていたのかいまでは不思議なくらいだ。
夕焼けに沈んだ公園は思ったとおりに子供の姿はなかった。赤い光の影は極端なほど暗く見える。絵の具で塗ったみたいだった。僕はそのなかのブランコに腰かけた。かつて危険なくらいに漕いだものだ。何も考えずに半円に近いところまではみんなで漕いだ記憶がある。靴も飛ばした。ジャンプもした。そのだいたいが褒められないものばかりだった。けれどいまはそんなことはしない。想像してぞっとするのがせいいっぱいだった。
いつの間にか隣のブランコに誰かが座っていた。音も気配もなく、ただはじめからそこにいたのだとでも言いたげに、そのことにお前が気付かなかったのだと主張するようにぴたりと座っていた。
まるで現実にあってはいけないものを見たかのように寒気が走った。筋肉がぴしりと固まって、右に向けた首が動かせない。夕日の位置の関係で、その男の顔にはおそろしくはっきりした陰影が刻まれていた。
「驚いているね」
粒子が異様なほど細かいせいで身体に浸食してくるような声だった。透き通ってもいる。現実にあり得るのかは知らないけれど、表面張力のない液体のような声と表現できるかもしれない。
言葉を失っていた僕はその声に頷いた。驚いたものは驚いたし、ここで嘘をつく意味もなさそうだ。
「気にしなくていい。生来のものなのかな、影が薄いんだ」
彼自身ももうそのことを受け入れているかのような落ち着いた話し方だった。
「あ、あの……、あなたは?」
「海の底から来たんだ。観光」
海底人という言葉が僕の口からぽろっとこぼれた。僕も目の前の男も正気とは思えなかった。言い出すほうも言い出すほうだし、それをまともに受け止めて思い当たる単語を無意識に発するほうも異常だった。
「それが捉えやすいならそれでいい。海底人だよ、名前は必要かい?」
「え、あ、どういうことですか」
「僕たちはこっちと違って言語によるコミュニケーションを構築していない。だから名前そのものが存在していないんだ、あっちはね」
僕は仮に言語がないのだとして、それなら個体の区別はどうするのだろうと疑問に思った。それだと自分とそれ以外の区別の方法すら微妙になってしまうような気さえした。自意識だけがそれを確定するのだろうか。それとも僕の想像力が足りないのだろうか。
「あ、じゃあ名前はあったほうが……」
そこまで言って相手は妄言を吐いているだけの不審者でしかないことに気付いた。初対面で海底人を名乗り、しかも言語を要さないと口で説明している。まともに対応する要素を探すほうが大変だった。けれど僕は最初の対応を間違えていた。
「そうだな、あまりこだわっても面倒なだけだし、ミズタにしようか」
「え、ああ、そうですか」
僕の歯切れが悪いのも当然だった。自業自得の部分もあるとはいえ、奇妙なことに巻き込まれたのだ。頭のおかしい人間に目をつけられて喜ぶ人間を僕は知らない。逃げ出そうにも追いかけられては冗談にもならない。家も近いのだ。つまりここで相手をしてある程度は満足させないといけないということだ。気が重かった。
「なにか聞きたいことはあるかな?」
「……その、なんであなたは日本語を使えるんですか」
「うん。僕の趣味は地上の観光でね、まあ見た目はどうとでもなるんだけど、会話ができないとなると不便だし怪しまれる。だから趣味の一環として習得したんだ」
納得できる理由だった。海底から来たという前提さえ呑み込めば、僕には文句のつけどころが見つけられなかった。
いつの間にか隣のブランコに座っていたという驚きから立ち直りつつあった僕は、次第にどうでもよくなってきていた。この人が嘘をついていても、仮に本当に海底人だとしても、それがなんだというのだろう。腹さえ立ってきた。どうして僕が一方的に怯えなければならないのか。積もったやり切れない感情を吐いてしまえとさえ考え始めていた。
「とても言語のないところから来たとは思えませんね。立派です」
「正直なところ、こんな複雑な言語がどうやって生まれたのか興味があるよ。初歩は表音の文字なのに発展すると表意文字が混じりだす。別の語系も使うし意味を曲げて使ったりもしている。そして驚くべきは言葉の省略」
「そんなものなんですか」
「いまきみが使ったその簡単な文がどれだけのものを含意しているか」
ミズタはため息をついた。僕は彼がそう振る舞うほど返事に意味を込めたつもりはない。相槌の範囲を出ないもののはずだが、ミズタにはそう捉えられないらしい。
ここで僕はそうですねと言うことはできず、そうではないとも言えなかった。だから僕にできることは話題を変えることだった。
「海底はどんなところなんですか」
「おおむねこっちで理解されているとおりで間違いないよ。水圧はとんでもないものだし、深海魚の見た目はなかなかグロテスクだ」
「それじゃああなたが人のかたちを保っているのは変じゃないですか」
「さっきは便宜的に海底人と言っただけで、僕は正確には群体生命だからね。どんなふうに説明したものかな。ああ、あれだ、スイミー。ちいさな魚が体を寄せ合って大きな魚に見せる話があったろう。僕はあの魚がクラゲになったものなんだよ。擬態しているんだ」
そう言うとミズタは左手の手のひらに右手の人差し指を突き立てた。するとまるでやわらかい砂浜のなかに沈んでいくようにずぶずぶと指が埋まっていって、そうかと思えば突き抜けた。血も流れない。僕はただ目を見開いてその光景を眺めていた。
自分をクラゲだと言った男は貫いた指を引き抜いて手のひらを僕に向けて、そして空いた穴の向こうから僕を見つめた。すぐにその穴を侵食するように、じわじわと周りから何かが埋めていくのが見えた。すくなくとも僕たちと同じ人間ではないことは認めないとならないようだった。
「怖い思いをさせたね。でもわかりやすいやり方だったんだ。許してほしい」
僕はその声に頷いたのかどうか覚えていない。けれどミズタがちいさく縦に首を振ったのを見ると、彼の求めるアクションをしたのだろう。
「目、目は見えているんですか」
「基本的に身体機能は人間と変わらない。細胞の働きをクラゲが代行しているんだ。光も受容する。思考もする。実は匂いも感じ取れる」
ミズタは指先を繊細に動かして目を指し、脳を指し、鼻を指した。さらにその動きでぎこちなさのないことを示した。すさまじいのはそこに骨の存在を感じられることだった。目で見て僕らと彼らを区別するのは不可能であるように思われた。すくなくとも僕にはできなかった。
僕はもう海底人の存在を呑み込むことにした。手に取って確かめられるほどの距離で見せつけられたものを僕は疑えない。混乱していたのは間違いないけれど、ひとつだけたしかなものとして僕はそれを置いた。
「クラゲってそんな働きの代わりができるんですか?」
「できる。というかクラゲも海をふわふわ浮いてるだけじゃない。きちんと外部刺激に反応しているんだ。だから擬態が成立する」
「でも海底に光は届かないのでは」
ミズタは軽く二度頷いた。
「そこはこっちの理解がずれている部分だ。海底にも光は届く。もちろん量は少ないけどね。海底には特殊なコケが生えていてね、そいつが光をつかまえる。離さない。そうするとそのコケがぼんやりと発光しているように見える。ちょっとだけ明るくなる。そんな具合なんだ」
僕は光についてはあまり詳しくない。おおまかにはまっすぐ進むこと。理解を拒むくらいの速度を持っていること。水中では屈折すること。つまり中学校で学ぶ程度のことしか知らない。だから正直なところ、どうして深海に光が届かないかということを僕は理解していない。光が途中で消えるということが僕には想像ができない。実は少量だけなら届くと言われても僕は大して不思議に思わない。
そしてその特殊なコケが光をつかまえるところを想像してみようとした。でもそれは失敗した。
「本当ですか? 光をつかまえるのは無理ですよ、速すぎる」
「言いたいことはわかるよ。でも事実として海底には光がある。すこしだけどね」
水掛け論にしかならないと確信した。そもそも否定することに大して意味はない。海底に光があってもなくても僕の人生は変わらない。間違いなく。だから僕は大人の態度で、そうですか、と引き下がった。そして次の球を投げる。
「潜水艦による海底調査でそういうものは見つからないんですか?」
「潜水艦か。あれは眩しいから僕たちは近寄らないんだ」
「眩しい?」
「あれは周囲の様子を観察するためにライトが点いてる。そのせいでコケが光ってるところも見つからない。考え無しか泳ぐのが遅いやつばっかり逃げ損ねる」
「あまり歓迎してはなさそうですけど」
「別にカメラに撮られるのが悪いっていうんじゃないんだ。単に異物なんだよ」
異物、という言葉を発するときにミズタからわずかに憎悪が覗いた気がした。ただ彼の顔を確認してもそこにそんな感情はなかった。すくなくとも表面上には。
僕が何かを返す前にミズタはあごに手を当てて何かを考え始めた。しぐさがいちいち人間臭い。
「たとえば、そうだな、きみは学生だろう? きみのクラスに一目でわかる明らかに違う何か、歩く岩がやってきたら警戒するだろうと思うんだよ」
「まあ、たぶんそうだと思います」
「そういうことだよ。コミュニケーションの取れない異物。群れとしてはいい感情を抱くのは無理なんだ」
いったい僕は何の話をしているんだろう。急に無益なことを話しているような気がしてきた。けれど頭の奥から声がする。お前は有益な会話なんてしてこなかったじゃないか、と。
僕は会話を続けることを選んだ。
「海底は静かなんですか?」
「基本的には音はない。さっきも言ったけど僕たちは言語を使わないからね」
「イルカとかクジラは超音波を使うって聞いたことがありますけど」
「まず彼らは僕たちと交流のある深度にいないからどうとも言えない。聞いてみたら騒がしいと思うのかもしれないけど」
僕は目を閉じて知りもしない海底の様子をイメージした。イルカもクジラもいない海の底。いまいることがわかっているのはクラゲとうすく光るコケだけ。寂しいものだった。グロテスクな魚がいるとも言っていた。岩肌と粒子の細かい砂。音のしない世界。僕らの住んでいる地上の夜よりもずっと匂いがしなかった。
そこまでやって気付いたのは僕には圧倒的に知識が足りないことだった。想像力が貧困だから生まれた寂しい世界なのかもしれないけれど、もっと知っていればもっと色がついた海底を思い描くことができたのかもしれない。
「海底の面白い話はありますか?」
「思うような面白さじゃないかもしれないけどね」
「教えてください」
「一番は海流さ。川が海に向かって進んでいくように深海にも流れがある」
「深海にですか? 親潮とか黒潮とかでなく?」
「それは海の表層の話。それはそれで大事なんだろうけど、僕たちは深海の住人」
クラゲが集まってできた手でミズタは自分を指した。何度見てもそれは人間の手にしか見えなかった。近づいて見たら毛だって生えていそうに思える。いや、頭髪のことを考えれば当たり前に生えているのかもしれない。
僕はそんなことをぼんやり思ってから気を取り直した。深海に流れがあるとはどういうことだろう。
「その言い方だと表層の海流とは違うってことですか」
「理解が早い。海の底は立体的というか、縦に海流があるんだ。上から下に降りていって、底をゆっくり這うように移動して、そして下から上に戻っていく」
僕はそれを聞いて洗濯機のことを考えた。水がぐるぐる回るのだ。大きく外してもいないだろう。でも洗濯機がそうなるのは外部から力を加えているからだ。どうして地球でそんなことが起きるのだろう。まさか誰かが地球に水を注いだのだろうか。
「どうして海が上から下に移動するんですか」
「海が重くなるポイントがある」
「は?」
「塩分濃度が増し、さらに水温が下がれば海は重くなる。そうなると海水は沈んでいくんだ。理屈としてはわかるだろう?」
納得の証に僕は頷いた。
「下へ向かう海水が生まれれば押し出される海水も生まれる。もともと下にいた海水だよ。ほら、深層海流の出来上がりだ」
「もしあなたの言うことが本当なら、塩分濃度が下がって水温の上がる海だってあるってことですよね」
「そうだよ。そしてそのポイントはやはり決まっているんだ」
理屈は理解してもその要因が僕には理解できていなかった。水温が下がるのはまだわかる。北極や南極の寒い地域の海水はたしかに冷えるだろう。けれど深海の海水が温まるというのはどうにも呑み込めないものがある。何が深海を温めるのだろうか。たとえば赤道直下では深海も温かいのだろうか。
「あの、僕の頭ではどう考えても深海の水が僕らの知っている海の浅さまで上がってくる理屈が通りません。どういうことなんですか」
「興味を持ってくれてうれしいよ。あのね、月が関わっているんだ」
ミズタはうれしそうに僕の疑問に答えた。けれどそれは相変わらず僕の抱いている不満への回答としては不十分だった。だってそんな答えはファンタジーだ。深層海流に月の力が働いていたら、それはきっと魔法が存在する作り物の世界に違いない。
僕は黙り込んだ。意志のひとつの表明として。
「潮の満ち引きは月のものだ。そしてこれでも海流が生まれる。水が動かされるわけだから。これは表層のものだけどね。これは納得いく?」
「まあ、はい」
「さて、地上に山があるように海にも地形がある。海溝とか海嶺とか言われている。地上の山や谷と変わらない。これが大事なんだ」
いよいよ言葉が熱を帯びてくる。授業中に脇道にそれた先生みたいだった。それも自分の趣味に走ったときの。チョークを渡せば精緻な図を描くだろう。
「さっきの潮の満ち引きで生まれた海流は海嶺、海の山にぶつかってまた別の海流を生み出す。でもさっきと違うのは、これは不規則な動きをする。これを乱流という。この乱流が深層の海流を上まで持ってくるんだ」
「不規則だから、っていうのが理由なんですか?」
「違うよ。いいかい、この乱流っていうのは温かい。だって表層の水だからね。それが不規則な流れとなる。いろんな方向に行く。もちろん深海に向かう乱流だって生まれる。温かい乱流だ。それが深海まで届いてそこの海水を温める。ほら、深層の海流が上に行く理由ができた。秘密のひとつが解けた」
スケールが違い過ぎていまひとつピンとは来なかったが、無理のある筋だとまでは思わなかった。彼の言う乱流が本当に深海に届くほどの力を持っているのかどうかもあやしかったけれど、でも僕は潮の満ち引きで生まれる海流の力を知らない。だから彼に反論するだけのものを持っていなかった。海はたしかに規模が違う。宇宙から見たって地球の70%が海なのだ。それは広く深い。そのパワーは僕の理解を拒んだ。
また僕は口を開かなかった。けれど今度は返す言葉が見つからなかったからだ。
「こんな大きな仕組みが地球規模で働いている。面白いだろう。これが止まればおそらく地球環境は大きく変わるよ、見たことはないけどね」
ひとつ呼吸を挟んで、ミズタは強調するように言葉を置いた。
「月がこの状況を作っているんだ」
「月が?」
「そう。すくなくとも深層海流において月の果たす役割は最大のものと言っていい。あれはただ夜に白く光るだけのものじゃないよ。さまざまなものに影響を及ぼす」
「僕にもですか?」
「もしかしたらそうかもしれない。仮にきみの中に深層海流のようなものがあって、それを動かすのは月ってことはありうるよ」
僕の中の深層海流。たぶん僕には気付けないだろう。そして僕に気付けない何かは外部のものに影響を受けて動作を変えている。本当だろうか。僕の行動は僕の意識している意思を超えたものを含んでいるのだろうか。それは怖いことだった。
そして僕は自分がバカな質問をしたことに気付いた。どうして衛星が僕に影響を与えないとならないのか。ワンテンポ遅い。質問をする前に取り下げておくべき考えだった。つまり僕はいま動揺しているのだ。この海底人の勢いに吞まれている。
公園は訪れたときよりもぐっと暗くなってきていた。夕日はもう家屋の向こうにかくれてしまって、悲鳴のような赤を空に残しているだけだ。地平に沈んでしまえばすぐに夜の暗さが空を覆うのは誰の目にも明らかだった。
タコ殴りにされたような気分になった僕は、ろくろくあいさつもせずにブランコを立って公園をあとにした。後ろから声が聞こえた。僕はしばらくここの公園に来るよと言っていた。




