16 誰の上にも平等に
あの屋上での奇跡以来、真垣さんとの距離を僕は測りかねている。これまでと同じように顔を合わせればあいさつはするし、簡単な話もする。けれどその際の心構えのようなものがよくわからなくなってしまった。彼女と話を終えたあとに、常にこれでよかったのだろうかと不安を抱くようになった。そして僕はたったひとりで反省会を始めては自分に警告を出す。
そんな状態が僕はあまり好きではなかった。ジレンマというか、そういうものは割り切ってしまったほうがいい。もっと僕は単純に生きたほうがいい。僕は複雑なものを抱えて歩けるほど強くできてはいない。けれど、じゃあ割り切ろう、と言って簡単に実行できるわけでもなかった。それは言い換えればできれば捨てたくないものを躊躇わずに捨てることであり、そこにはかならず苦痛が伴う。要は僕には明確に正しい順路が用意されてはいなかった。
僕はどちらかといえば家にこもりがちになった。必要に迫られない限り買い物にも出なくなった。代わりにすることはといえば読み終えたマンガを読み返したり、インターネットで何にもならないものを見てばかりいた。もともとなかった生産性がより悪質なかたちでなくなっていった。
人によっては地獄と呼びそうな生活は、それでも僕にはそれしかなかった。選べるものが他にない。失うことでついた傷が想像を超えて深く、そのことと合わせて僕は動揺し続けていた。夏休みは僕に新しい友人を与え、そして僕の名前をつけていない部分をごっそり持っていった。気を抜いていると泣きたくなるときもあった。けれど僕には泣く資格も能力もなかった。ただつらかった。だから細胞のひとつひとつから滲み出す無気力を理不尽になぎ倒す学校という強制力に僕は感謝していた。
家を出てから電車に乗り、教室につくまでのあいだ、僕は自分の足に指示を出しているつもりはなかった。勝手に動いて運んでくれる。平らなエスカレーターに乗っている気分だった。
「あれ、お前この時間だっけ、はじめて見かけたけど」
「ああ、古野。今日はたまたま早く目が覚めたんだ」
「なんか違和感あんな、ふだん見ないやつが通学路にいると」
「僕も似たような感じだよ。周り歩いてる人がぜんぜん違うし」
別の学年の廊下に間違えて入ってしまったときのような感覚に似ていた。誰も気になんてしていないのに見られていると勘違いしているときのようなあの感じ。
僕と古野は絶えず会話をしていないと間が持たないような関わり方にはならなかった。無言で歩いていても居心地の悪さはない。それどころか古野は別の友達と話をしながら僕の隣を歩いているくらいだった。たまたま僕と古野は歩く速度がぴったりと同じだった。
「そういえばさ、リハビリってどうなの」
「なんか気持ち悪いな。筋肉が落ちてるからバランス変なんだよ、腕とはいえ」
「けっこうかかる?」
「医者の話だとそこまでかからないらしい。努力が必要とも言ってたけど」
袖をまくった古野の左腕は露骨に細くなっていた。骨折の影響は大きいらしい。
「たとえば来年の夏には間に合うの?」
「さすがに余裕。年明けには完全に元に戻す予定だしな」
僕と古野はクラスが別だから下駄箱のところで別れた。さすがにわざわざ上履きを履き替えるまで待つようなことはしない。離れた教室だから使う階段も違う。教室につくまでに何人かの知り合いに会った。廊下の窓は開いているのに誰も寒そうにしていなかった。
浅田よりも僕が先に席につくのはなかなかないことだった。
クラスごとにひとつは教室とは離れた場所の掃除当番が割り当てられていて、僕のクラスはそれが渡り廊下だった。高校生にもなって掃除をサボるのも子どもすぎるだろうということで、週替わりで出席番号順に二人が担当することになっていた。意外にも一週間ごとだと出番はそれほど回ってくることはなく、十一月になったのに僕はこれで二回目の担当だった。
することは少ない。目につくところをざっとほうきで掃いて、そしてちりとりで取ってそれでおしまい。真面目さだとかそういうものは要求されていなかった。言われたことをこなして、それでよかった。今日もそれが終わって僕は教室にカバンを取りに戻ることにした。もうひとりは渡り廊下にカバンを持ってきていた。
この季節は授業が終わるころになると廊下に太陽の光が射し込んだ。時間が深くなればなるほどその光に色がついて幻想的になる。日が沈む直前の赤に近い陽光はそれだけで意味を持ちそうなほど印象に残るけれど、それを見たことのある人間はほとんどいないだろう。部活動にいちばん熱が入る時間だし、それにほんの短いあいだしか続かない。僕も去年になにかの偶然で一度だけ見たことがあるだけだ。
その特殊な光の時間までもまだ間があって、廊下の床には窓に四角く切り取られた光が浮かんでいた。周りを囲む影がそれを際立たせている。僕はその明るい部分を踏まないように廊下の端に寄った。僕の視線は自然と下がっていた。
ある地点で誰かの上履きが見えた。
「こんなところでどうしたの」
真垣さんが立っていた。
「渡り廊下の掃除だったんだ。終わったから教室に戻るところ」
「あそこ掃除してるクラスあったんだ」
「ほうきでささっとやって終わりだから掃除ってほどの気もしないけどね」
真垣さんはとくに気にしたふうもなく床に目を落とした。廊下がどれくらい汚れているのかを見てみたのだろう。ぱっと見てわかりやすく汚いことは多くない。もしもあるとすれば直前に何かをこぼしてしまったとか、そういったシンプルな原因がなければ学校は目につくほど汚れたりはしない。
「真垣さんも掃除?」
「ううん。教室でちょっと大学について調べてた」
「もう志望校決めたの?」
「さすがにまだだけどちょっとは絞ったって感じ」
高校二年生の十一月はこういった話題も増えてくる。吐きたくなるほどつまらない話だった。僕はこうやって追い立てられるように学校のことを考え続けなければならない制度が好きではなかった。二年生でもう進学あるいは就職のことを考えなければならない。僕は要領がよくはないから、二年生になってやっと高校に馴染めたのに、はい次、と先のことに頭を割かなければならないのは大変だった。いっそすべて義務教育で済ませてほしいくらいだった。
僕が距離を感じるのはこういうときだ。なんでもないようなタイミングのなんでもない話だったはずなのに、それが僕の水準と違うとき。足元が急に沼地に変わって、そうしてそこに引きずり込まれていくような錯覚に捉われる。
「受験か。もう大して遠くないのか」
「でもまあ、別にふつうのことじゃない?」
僕は下を向いてひとつ息をついた。
「そうかもね。でも……」
「でも?」
「いや、なんでもないよ。正しい、ふつうのことだと僕も思う」
真垣さんは不思議そうな顔をしていた。それを見て僕は安心した。自分の思いが簡単に伝わらなくてよかったと心底思う。
「ふつうのことは誰の上にも平等に降ってくるんだよ。雨といっしょ」
「それなら雲の上に住んでいたいね。雨なんか降らない。月も太陽も近い」
「はは、なにそれ、死にそうじゃん」
なるほど、と僕は言った。たしかに雲の上に行くには死ぬくらいしかない。
とはいえそのアイデアはずいぶんと壁の高いものだった。逃げるために本当にすべてを放り出してしまうというのは難しそうだった。死というものが僕にはいまひとつ明確ではない。仮に意識のない永遠だとして、それが想像できなかった。
「でもすぐに選べる選択肢じゃないと思う」
「当たり前だよ。大変なことにならない限り私たちは生きるんだから」
「雨が降っても?」
「傘さしなよ」
いまさらながら秋の放課後になんてことを話しているんだろうと僕は思った。誰がそんなのどかな状況で死について話して楽しいと思うだろう。それも来年の受験のことが皮切りだ。面白くない話題から面白くない話題へと飛躍していた。北極の氷の上を跳び移っているようなものだった。何も変わらないどころか悪化している可能性がある。いつ流されてしまうかもわからないし、シロクマに出くわすかもしれない。
話の変え方がわからなくて僕は意味のない笑いを浮かべた。
「そういえばさ、瀬川に聞いたんだけど、最近よく文芸部に行くんだって?」
「え、そうだけど、瀬川さんと知り合いなの?」
「だってクラス同じだし」
知らなかった。他のクラスに誰がいるかなんて気にかけたこともない。僕にとってクラス分けなんて自分と同じかそれ以外の区別しかない。言われてみればその可能性は常にあったのだ。もしかしたら古野ともクラスメイトなのかもしれない。
それはよしとして、ひとつ気になることがあった。
「なんでまた僕の話なんか」
「数少ない共通の知り合いだからね」
「話せるようなことなんてなさそうに思えるけど」
「たしかにちょっとしたことかもね。いま言った部に顔出すようになったこととか」
自分について話題にできそうなことは僕にも思いつけなかった。そう考えてみると自分がおそろしくつまらない人間のような気がした。
けれど僕について話をしてくれていることそのものはうれしいことだった。まずは嫌われているわけではなさそうだ。久しぶりに明るい気分がやってきた。ただ生活を送っているだけでは出会えない気分。
「まあ、瀬川さんも言ってると思うけど、行ったところで何もしてないんだ、僕」
「私はそんなに変だと思ってないかな。むしろ全員が小説書くのに取り組んでるのがすごいを通り越しておかしいと思うんだけど」
「そう言ってもらえると救われるよ」
「ただそんな環境にいて染まらないのもすごいと思う」
「なんというか、ちょっと違う話になるんだよ。タネを植えてないのに植木鉢から芽は出ないのと同じことなんだ」
「ふうん」
納得とも不服ともつかない反応をして、真垣さんはあごに手をやった。彼女なりに考えているというふうに見えた。僕にはそちらの世界で呼吸をするための意志というものが決定的に欠落している。文芸部員たちにはそれらが備わっている。だからこそ僕は現状が生まれていると思っているのだが、真垣さんが悩むということは、もしかしてそれは間違っているのだろうか。だとしたらどんなふうに。
僕はなんだか不安に捉われはじめた。
「つまり、花は咲かないってこと?」
「……僕は、そうだと思ってる」
「まあいいんじゃない。花は花屋に売ってるし。無理に頑張ってもね」
真垣さんが僕を気遣っているのはわかっていた。それはある程度はふつうのことだったし、勝手に落ち込んでいる僕にとってはありがたいことだった。でも僕が真垣さんに求めていたものは別のものだった。これはただのわがままだったし、誰もそんな僕の心情を理解しないだろう。僕が求めていたのはあの夏の屋上の真垣さんだった。
そこから話は進む方向を失った。新たに盛り上がれる話題を見つけられる気もしなかった。お互いにそれは感じ取っていて、わざわざそれに触れて気まずくする必要もない。だから僕らはそのまま別れた。
僕は教室にカバンを取りに行くつもりだったのを忘れて下駄箱まで行き、いちど戻ることになった。




