15 触れていいもの、いけないもの
僕がいるだけで橋本と光山は話をしてしまうから、彼らのするべきことのために僕は空き教室から出ることにした。夕暮れは加速して、もう空は暗いと表現したほうがいいくらいだった。開いた窓から運動部の声が聞こえてくる。ヤケを起こして方向を失ったような声だった。グラウンドには電灯があるが、それでもそろそろ競技自体は控えたほうがよさそうだった。明るさと疲労の問題できっと事故が起きやすい。
でも僕はまだ帰る気にならなかった。さてどこに行こうと考えたところで、僕には大して行き先がなかった。他の部が活動しているところに顔を出せるほど厚かましくもない。かといって校内の誰もいないところに向かっても面白くない。残った選択肢は図書室だけだった。
図書室までの廊下はやけに眩しく感じた。外が暗いせいかもしれない。
夏休み以降はそれまでと比べて図書室が時間潰しの候補に入るようになった。僕は相も変わらず本は読まないけれど、この場所の空気は好きになれた。静かだったし、他にいる人も自分の何かに集中して打ち込んでいた。僕は調べ物をするふりをしながらその雰囲気を楽しんだ。
後ろ手に扉を閉めると、すっと空気が締まったような気がした。不用意なものは咎められる。そういう空間で、そんな空気だった。先にいた人たちのほとんどは僕に目さえ向けなかった。
僕は迷惑をかけないように、まずはあまり人のいない一画の本棚に陣取って、本を選ぶふりをしていた。あまりにずっと同じところにいるのも変だから、ある程度の時間が経てばそこから一冊を持ち出して机についた。その本は開いても読むほどのことはしなかった。ただページをめくって流し見するくらいだった。その工作がうまくいったのか、もしくは初めから誰も僕に興味なんてないのか、僕は図書室という空間によく馴染んだ。
今日も同じ手順で席についた。きょうたまたま僕に選ばれた一冊は天体についてのものだった。
頬杖をつきながら不真面目にページをめくっていると、視界の上からメモ用紙が滑り込んできた。夏休みのことが懐かしく思い出された。
僕はそこに書かれた内容をほとんどチェックもせずに席を立った。どうせここだと声を出して話はできない。メモでのやりとりも趣はあるかもしれないけど、ちょっと不毛だ。だからいちばんの結論は廊下に出ることになる。瀬川さんもたぶん同じことを考えていたのだろう。僕らは何も言わずに扉へ向かった。
さっきよりも空は暗くなって、蛍光灯の明かりのほうが外よりも強くなった廊下は物寂しさが生じている。校内のどこか光の届きにくい隅には邪悪ななにかが潜んでいても受け入れられそうな場所に変わっていた。
「どうしたの」
「最近よく図書室に来て調べものしてるみたいだから。やっぱりなにか書きたくなったのかなって」
「書かないよ、大丈夫」
「そうなの? 大丈夫の意味はわからないけど」
たしかに瀬川さんからはそう見えてもおかしくない。いちおう僕は文芸部員だし、それが図書室に来ては調べものをしていたらそう取られる。詳しくは知らないけど、もともと自前の知識だけで書ける小説なんて存在しないのだろう。たとえば魔法みたいなものが出てくるファンタジーなら話は別だけど、そうでないのならまるっきりの嘘はつけない。地球には地球の、現在の国際社会にはそれに準じたルールがある。
「前から書くつもりはないって言ってたと思うんだけど、学ぶ機会があったんだ。僕にはその能力がないんだ。欠落してる」
「あんた不思議な言い回しするわよね。作文くらい授業でやるじゃない」
「そういう、ただ書けばいいものとは違うんだよ。もっと、根源的なところに意図があるべきものと僕は関係を持てないっていうか」
「ガラスみたいな仕切りがあいだにあるってこと?」
「たぶんそれより酷いと思う。地動説と天動説くらい相容れないんだ」
瀬川さんはすこし考え込んだ。おそらく世界史の授業でそのふたつがどんな扱いを受けていたかを思い出していたんだと思う。まあとにかく決定的な対立だったのだ。僕はそう記憶している。
振り返ってみるとずいぶん変なことを力説しているな、と思った。逆ならまだしも自分に創作ができないことを強くする主張する人間なんて聞いたことがない。それが何を生むのか。きっと何も生まないだろう。僕はまた僕を傷つける。まるでそれしかできないみたいに。でも意外と間違っていないのかもしれない。
「まあいいけど。でもそれだと橋本と光山が懐いてるの不思議ね。あの子たちってかなり真面目に作品に取り組んでるはずだけど」
「僕もそう思う。図書室に来る前に話してたんだ。どっちもびっくりするくらい芯のある考えを持ってた」
「まあ、純粋に息抜きの面っていうのもあるのかもね。うちってあんたみたいな読みません書きませんって人いないし」
「雑談相手として?」
「そう、雑談相手として」
たしかにその通りだった。文芸部員にはあまり余裕がない。いつも何かに追われているように机に向かっていた。部活のとき以外はそんな印象はないのに、時間が来るとそうなってしまうのだ。彼らのそんな姿を見ているとよく鳩時計が頭をよぎった。言い方がよくないことはわかっているけれど、いちばん正確に表現しようとするとこうなってしまうのだ。
「でも僕はそれで満足だよ、ある意味特別ってことにも取れるし」
「間違ってはない、か。たしかに悪いこととも言えないし」
瀬川さんは僕に同調してくれた。
「でもまあやっぱり書けばいいのにとは思うんだけどね、小説」
「どうしてそんなに僕を気にかけてくれるの?」
「同じ空気を吸うのも悪くないものよ」
小首をかしげた瀬川さんのしぐさには強烈に誘惑するものがあった。その先に崖があったと理解していても足を止められない魅力があった。でも僕は自分の意志で歩くことができないのだ。足の喩えを使い回すのなら、僕の足にはひもが括ってあって、もう一方の括ってある先は月だった。地球の周りを回る月に引きずられて僕はぼろぼろになっていた。瀬川さん、文芸部員のみんなと同じ空気を吸うためにはそのひもを切らないとならないんだ。でも僕にはそんなことはできない。
地球人の僕の心ははるか遠くに置いてあって、でも肉体はここにあって、どうにも苦しい状況だった。心くらいさっさと取ってくればいいじゃないか、と思う僕も存在する。でもそうすると僕が崩壊するような気もしていた。実は心は月に置いてあることで機能する楔石なのかもしれない。そんなものを取り外したらどうなるかわかったものじゃない。
「同じ空気が吸えたらいいなと思う、憧れるよ」
「二の足を踏む理由がわからないわね。挑戦してみるだけしてみればいいのに」
「言い訳っぽく聞こえるけど、憧れは憧れのままがいいと思うんだ」
「まあ、わかるけど。でもそれだと先々苦労しそうね。お互い様とはいえ」
瀬川さんはやさしく苦笑した。
「どうして?」
「その考え方だと憧れには手が届かないから。触らないようにしてるんでしょ」
また瀬川さんは僕よりもずっと深くまで考えを進めているらしかった。僕はただそう思うということを口にしただけだ。それ以上の意味は持たせていない。僕の口からこぼれるのはただの言葉であって、思考の果ての結晶ではない。
だから瀬川さんの思うところを聞いてみたくなった。そして僕はひとつズルをすることを選んだ。じくじくと痛む。
「瀬川さんもそうなんだ。なにか、理由みたいなのはあるの?」
「価値、というところに帰ってくるんだと思う」
「価値?」
「手が届かないからこそ思い切り憧れることができる。そう思うの。別に近くにいたら嫌なところが見える、みたいな話じゃなくて、これは願望」
「なんとなくわかる気がする」
ここの部分を言語化できるかどうかというのが僕と彼女との差なんだろう。言われれば受け入れることはできる。でも僕は自分からその考えを出力できないのだ。
秋の乾いた空にちいさな星がちらちらと輝き始めていた。
「そ、私は自分の近くにいる人に憧れるっていうのがうまくイメージできないの」
「別格の人には遠くにいてほしい」
「その通り」
我が意を得たりと瀬川さんは頷いた。たぶん彼女の言うことを正確な意味では理解できていないだろうことが僕には予想できていた。でもそのことをわざわざ口に出す意味もなかった。そんなことをしたら瀬川さんはきっとがっかりするだろう。もしかしたら僕のことが嫌いになってしまうかもしれない。それは避けたかった。
外がすっかり暗くなったということで僕は帰ることを瀬川さんに告げた。彼女はまだ図書室に残ることを選んだ。部活動の目いっぱいの下校時間まではまだまだ間があって、だから下駄箱、校門と僕のほかに生徒の影は見当たらなかった。
日が落ちてしまうとすっかり気温は下がって、家々の明かりや電灯が道しるべになった。暗い空が地上を覆っていた。夜空の色は実は黒とは違う。とても沈んだ青なのだ。月が白く映えているとそのことがよくわかる。絵に描いたみたいに色の層が段々に分かれている。僕の好きな眺めだ。そんなものに包まれて波風もなく帰る。そんな日がしばらく続いていた。




