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造花を焼く  作者: 箱女
2.必然の檻
13/20

13 121.5日の実質的経過

 そういえば雨は降るのだった。夏休みに入ってからは一度も降っていなかったせいで、僕は天候には晴れと曇りしかないのだと勘違いしていた。ひと月前までは呆れるほど傘を持っていたというのにだ。目が覚めてカーテンを開けて僕は妙な種類の感動を覚えていた。

 別にそれほど強く降ってはいなかった。長く続く種類の雨ということもできたし、すぐに止んでしまう雨と見ることもできた。家の中にいると雨音が届かない。これが庭のある一軒家で縁側かなにかがあればそこで風情を楽しむこともできたのだろうけれど、残念なことに僕の家にはそんな環境はなかった。それ以前に雨が降っていてもおそろしく気温が高いせいで窓は開けられなかった。エアコンが何よりも優先された。

 強制された退屈に僕は苛立ちを覚えた。そのせいでマンガもゲームも勉強も、どれひとつとして集中しきることができなかった。こんな日があってもいい、と悟るには僕はまだ幼すぎるらしい。そうやってただ何をするでもなく午前中を過ごした。

 やがて僕は異質な反骨心を叩き起こし、外に出る決断をした。雨が降っているからといってどうして家でじっとしていなければならないのか。暑くて湿度が高くて不快でも目的なく出歩いていい。それは保証されてはいるけれど使いたがる人の少ない権利だった。雨の日にわざわざ出かける人は多くの場合目的を持っているものだ。

 そして僕には理由のない確信があった。きっとキンセイと出会うだろう。


 雨粒が傘を叩く感触はほとんど感じられない。しとしとと降る六月の雨のようだった。それなのに足元の水たまりにはちいさな波紋がいくつも広がっていて、そこには別の世界があるみたいだった。その世界では音の調整が違うのだ。僕には聞こえないから、何もわかってあげることはできない。音は場合によっては視覚情報よりも伝えてくれるものが多い。

 くだらないことを考えながら僕は定期券を使って商業ビルのある駅まで電車に揺られた。雨が降っていると窓の向こうの街はくすんでいるように見えた。空の雲の色がそのまま地表に貼り付けられたみたいだった。

 改札を出て地下通路から商業ビルに入る。僕が想像していたよりもずっと人の数は多かった。僕が思うよりもみんな遊ぶ約束をしているのかもしれないし、あるいは目的もなく出歩いているのかもしれなかった。どちらにせよ僕よりは活動的だということだ。湿度やら誰もが持っている傘のせいで普段よりも快適とは言えなかった。

 本当に家から出ることしか考えていなかった僕は、さてここからどこへ向かおうかと足を止めて考えることにした。よく使っているお決まりのコースでもよかったし、生まれた反骨心のままにまた知らない店に入ってみてもよかった。いまの僕には大事なものなんて何もなかった。まだ僕の胸にはすっきりしないものが詰まっている。

 結局行く先も決めずに歩き出すと、ほどなくして学生や若者向けのアクセサリーショップが目についた。二人組と三人組が店舗のスペースで商品を見ていた。通りすがりに確認すると、指輪やイヤリングがずらっと並んでいるあたりだった。僕の前にはショーケースにネックレスが飾られていた。三日月の意匠のものだった。店としては高級品の扱いということなのだろう。立派に五桁の値札がついていた。買うつもりもなかったけれど、手の届かない値段だった。

 そのアクセサリーショップを通り抜けると、見慣れたフードコートについた。どの店もいつも客がいた。それなりの量があるはずのラーメンやうどんの店のエリアでもすべての席が空いているところを見たことがない。

 僕はこのフードコートをよく使うけれど、それでも食事らしい食事をしたことは数えるほどしかなかった。僕が食べるのはたこ焼きとかソフトクリームとか、そんな軽食ばかりだ。だからこそ気軽に来ることができる。それは素晴らしいことだった。

 後ろから肩を叩かれた。僕は驚きもしなかった。

「よく会うね、少年。なにか縁でもあるのかな」

「どうも。偶然ですよ、きっと。それがたまたま重なってるだけです」

 僕は意識して毒にも薬にもならないことを言った。けれどその意識の根のあたりにどんな考えが絡みついているのかわからなかった。でも気が付けばそんな言動をとっていた。

 キンセイは僕の言葉を聞く前からなんだか微妙な表情をしていた。

「そうだね。たぶん世界中で起きてることはぜんぶそうだ」

 言葉の内容のわりには皮肉っぽいところがなかった。それどころか真剣な感じが匂ってきて、どこかイヤな感じがした。

「どうかしましたか。疲れてませんか?」

「疲れてはいないよ。ただ、どう言おうか。空気が詰まって感じる」

「雨のせい?」

「あるかもしれないけど、もっと大きい原因がある気がしてる」

 キンセイが言うのならそうに違いなかった。彼女は誤魔化すことをしないものだと僕は確信している。たった二度だか三度だか話をしただけなのに、僕はそんな信頼を抱いてもいいと思っていた。なぜならキンセイは僕に一度も遠慮をしていない。僕が間違っていると思えばそう言ったし、納得すれば同意もした。

「じゃあ何が」

「ううん、難しいな。これは完全に気分の問題なんだ。体調はいいよ、むしろ。あと君に会って気分が悪くなったってこともない。ただいつも通りにいかないだけ」

「気分に大きな原因があるんですか」

「断言はできないけどね」

 なんとなくわかってあげられそうに思えた。僕にもそういうときはある。なんだかわからないけれど気分が沈んで、そして何が解決したかもわからないままにいつもの調子に戻る。知らないうちに体の内部の構造が変わったような気がする。表面上はまったく変化のないままに。だから具体的な出来事の伴わない気分の浮き沈みが僕は好きではなかった。ほとんどの人がそうだと思うけど。

 僕らはフードコートに席を取った。どちらもコーラだけを注文した。

「コーヒーは飲まないの?」

「そういう気分じゃないだけです」

「あまり君には似合わないぜ、コーラ」

 おどけたことくらいは言えるようで僕はすこし安心した。

 僕はこういう店舗や映画館なんかで出されるちょっと薄味のコーラのほうが好きだった。缶やペットボトルで売られているものだと喉にひっかかる感じがする。もしかしたらコンビニなんかの店や自販機で売られているものよりもわずかに特別感があるのも手伝っているのかもしれない。

「曲作りはどうですか」

「まあ、悪くない。悪くはないけど何かがひとつ必要な気がしてるかな」

「あやふやな感じですね」

「自己中心的で個人的な感覚だもの。確固たるものなんてないよ」

 そう言ってキンセイはストローを口にした。見ているとコーラがストローを通るのがわかった。何かのメーターが高速で動いているようでなんだか面白かった。

「私のコーラが欲しいの?」

「違います。ストローを見てたんです」

 変なの、とキンセイはつぶやいた。

「ひとつ足りないっていうのはよくある感覚なんですか?」

「あんまりないかな。こういうのが作りたい、っていうのがスタート地点だからね、私の場合」

 大玉のスイカをなでるように手を動かしながらキンセイは説明してくれた。でも僕にはよくわからなかった。何かを作ろう、という願望を僕は持ったことがないのだ。数少ない理解できた部分としては、違ったスタート地点もあることぐらいだった。

 表現したいこと、伝えたいこと。でも単純に言い表すのが難しい。これらが強烈に揃って芸術が生まれると仮定する。これは僕がキンセイから学び取ったことだ。そう考えると芸術の土壌はそこらに転がっている気もした。それともそれらは想像よりも両立しにくいものなのだろうか。僕にもそのタネはあるのだろうか。

 考えがまとまりそうになくて、僕もストローに口をつけた。たくさんの小さな氷のおかげで冷えたコーラがきれいな差し色のように僕ののどを滑っていった。

「それが埋まる目処は立ちそうですか?」

「わからないなあ。ずーっと穴が空いたままかもしれないし、突然にすぽっと埋まっちゃうような気もしてる」

「人為を超えた部分」

「その通り。と言いたいところだけど人為の賜物だからね。言い訳がましいけどさ、天啓とかひらめき。埋めてくれるのはその辺な気がするよ」

 あまり適当にものを言うものじゃないなと僕は思った。たしかに音楽なんて人間が作るものの極致みたいなものだ。偶然の助けやそういったものがあったとしても、最後にバトンをゴールに運ぶのは人間以外にありえない。この場合はキンセイだ。

 僕はキンセイに明確に嫉妬した。僕の適当な言葉に対して、それほど困ることなく彼女なりの組み立てられた世界が返されることに。それは大人のいうしっかりした考え方ではないかもしれない。けれども彼女の目に映り思考された世界観だった。僕の持っていないものだった。

「そういうひらめきって、いつ降ってくるんですか」

「そもそも体験自体が少ないからこれだとは言えないんだけど、前はお風呂に入ってるときだったかな。なんかピンと来て、そのアイデアを書き留めるまで服も着なかったっけ。風邪ひいたよ」

「なんでまたそんなことを」

「ええとね、伝わるかな、ぼんやりしているときに浮かんできた良さそうなアイデアってすぐ消えちゃうんだ。走ってる電車の窓から見えた看板みたいな感じでね。どうしてなんだろうね、考えようとして考えてるわけじゃないからなのかな。似たようなことなら何度か経験あるよ。すごくいいと思ったアイデアをお風呂上りにはすっかり忘れてること。悔しいんだ、まったく思い出せなくて」

「お風呂で考えてたことを忘れるだけならわかります」

 アイデアなんてものと無関係な生活を送っているのだから、僕の返答はそこまでしかいかなかった。僕が風呂で考えるのはくだらないことばかりだ。それこそその場で忘れてしまっても問題のないようなこと。風呂場から出て体を拭き終わるころには水気といっしょにきれいさっぱりなくなっていた。

 キンセイの顔には苦笑があった。きっとこれまでに思いついてきたアイデアを惜しんでいるのだろう。彼女のような表現者にはそういったものが何よりも大事なのかもしれない。

 僕はフードコートの外に目をやった。やっぱり人の数が多い。そのことはある種の驚きと安心感を僕に与えた。その代わりなのか、僕たちみたいにフードコートに席を取っている人はあまりいなかった。たしかにいちばん少なさそうな時間帯だった。

「きっとリラックスって大事なんだよ。本当に解放されているというか」

 僕の言葉なんてあまり聞き入れてはくれていないようだった。たしかに上辺だけの同意にしか思えない。でもそれ以外の返答は僕にはできなかったのだ。これだと彼女特有の一方的に話を進めるやり方に文句は言えない。会話なんて発展してこそ意味がある。同意だけしてハイ終わり、なら機械でもじゅうぶんに上手くやれる。

 僕はもう一度フードコートの外を見た。見知らぬ顔がさまざまな方向に歩を進めていく。僕はこの映像に何の意味も与えていない。けれどキンセイはきっとここに解釈を与えているはずだった。だから僕からの質問にあまり詰まることなく答えることができたのだし、自身のものの見方を説明することができるのだ。残念なことにそれは僕にはとても難しいことだった。だって人混みに対して人混み以上の別の意味なんてどうやって見出せばいいのだろう。こういう理由があるから僕にとって人混みとはこういう意味なのだ、と言うための理由の部分が僕には欠けていた。

「そういえばきみは二年生だっけ、修学旅行はもう行った?」

「うちの高校は十月です。沖縄ですよ、終業式前に聞いたばっかりです」

 沖縄、と口にしてからナツミさんとマサさんのことを思い出した。あの人たちはいまもあのコンビニの前で話し込んでいるのだろうか。懐かしかったし、悲しかった。でも僕は後悔してはいけなかった。僕が彼らにしたことは邪悪すぎた。もっと言うと自分を守るためにそうしたのだから、僕は前を向き続けるしかなかった。後ろで燻っている灰を目にしたら足元が崩れ落ちかねない。

 僕はつらくなるのが嫌で意識を会話に集中することにした。

「沖縄。行ったことない。やっぱり十月でも暑いのかな」

「暑いらしいですね。日焼け止めとか買っておけって言われました」

「学校側からそんなこと言われるんだ、よっぽどなんだね」

 僕も経験がないから正直なところ半信半疑だった。なくたってなんとかなりそうな気がする。とはいえ無意味に反抗するつもりもない。備えあれば憂いなし。はたして修学旅行に対して使う言葉なんだろうか。使うのかもしれない。

 僕たちは知らないものについてはうまく話せず、沖縄の話はすぐに終わった。海が綺麗で、サンゴ礁が広がっている。有名な首里城があって、美ら海水族館もある。すべて情報を持っているだけで実際に知ってはいない。面白い会話ができるわけもなかった。すこし居心地が悪かった。

「少年、学校にはどんな友達がいるんだい」

「え、ああ、クラスのやつと後輩です。あとバドミントン部のが増えました、最近」

「ふうん、少ない。というよりも友達判定するハードルが高いのかな」

「どうなんでしょう。考えたこともありませんけど」

「きみ学校ではどんな話をするの?」

「特別なものはないですよ。テレビとかネットの話、マンガもそう。全国の高校のどこの教室を覗いても誰かがしてるような話です」

「むりやり平均的に作った学生像みたいな学校生活してるんだね」

 言われたことのない感想だった。けれどそう見えてもおかしくない気もした。

 特別に優れたところがあるわけでもなく、仲の良い友達が何人かいる。くだらない失敗を繰り返しながら、普通でなくなりたいと願っている。そして恋をしている。

 たとえば物語の主人公ならこんな状態から始まっても不思議じゃない。瀬川さんに話したらうなずいてくれるだろうか。それとも鼻で笑うだろうか。

「前に話したじゃないですか、僕は凡庸なんです」

「私はそのふたつは違うものだと思うけどなあ。それに私はきみを凡庸だと思っていないよ」

「本当にそう思ってます?」

「でなきゃ道行く人のなかからきみを選んで声をかけたりしないさ」

 ぐうの音も出ない返しだった。とはいえ僕は僕をどの意味においても取り柄のある人間と思っていないのも本当のことだ。認識にずれがある。僕はここしばらくの自分の行動を思い返してみた。やっぱりふつうだった。誰にだってできることだし、誰だってやる。開いていないはずの屋上の扉を目指すことだって異常な行動にはならないだろう。夏休みを通してひとつの笑い話もないのはさすがにちょっと寂しい。

 ならばキンセイは僕のどこに凡庸でないものを見出したのだろう。あのときの僕は歩いているだけだった。才能の発露のようなものはない。もしあるとするなら、なにか、立ちのぼる香りのようなもの。

「僕の雰囲気かなにかでわかったんですか? その、そういうの」

「前に言わなかったっけ、ピンと来たんだよ。それだけ」

「どう凡庸じゃないんでしょうね」

「言っていいのかい?」

「どういう意味ですか?」

「冗談だよ。そうだな、たとえば私はきみと話していると不安になることがあるよ。ねえ、ひよこのオスとメスを区別する動画とか見たことあるかい? 箱から出されてじっと見られてぽいっと投げられる。そんなひよこの気分になる」

 僕はひよこのオスメスの区別に方法があることさえ知らなかった。もちろんそんな動画を見たこともない。だからそれがどんな気分なのか想像はつかなかった。

 僕はすこし泣きたくなった。キンセイは笑顔のままだった。

 近くの席に新たに誰かが座った。知らないおじさんだった。そういえばだいぶ前にニュースで見たおじさんはどうなったのだろう。川辺でガスガンを打ち続けていたという男性。数か月ぶりに頭に思い浮かんで僕は驚いた。身近でもないのだから覚えている必要はまったくなかったのだけれど、その印象深さは一度も思い出すことがないほど極端に忘れなくてもよさそうなものだ。

 考えようとしたわけでもなく侵食された思考から意識を戻すと、キンセイも視線をどこかに飛ばして物思いにふけっているらしかった。そのことを顔つきだけで表現できる仕組みが僕にはわからなかった。僕だったらただのよそ見で片づけられてしまうだろう。

 フードコートの外を向いていた視線が僕のほうに戻ってきた。

「そういえば、なんですけど」

「ん? どうしたの」

「学校の友達が美人だって言ってましたよ」

「誰を? 私を?」

 僕は頷いた。

「こないだファストフードに行ったじゃないですか、あれが誰かに見られてたみたいで、僕のところまで噂が回ってきました」

「あはは、私も捨てたもんじゃないのかな。それよりきみ、大変だっただろう。噂になるような美人といっしょにいたんだから」

 僕は今度は首を横に振った。

「僕にその噂を教えてくれた友達の誤解は解いておきました。だから大丈夫です。あとは放っておけばいいんですよ、夏休み明けには忘れますから」

 誰が好き好んで僕の噂で遊ぶのだろう。そういうのは目立つ人の役割だ。もし仮に矛先が僕に向くのだとしたら、その根っこにあるのは陰湿なものだ。たとえばいじめみたいなものになるだろう。こそこそした噂話。笑い飛ばせる人間を相手にしないとそうなるのだ。僕本人を相手に噂の確認を取るくらいならまだわかるけど。

 キンセイはつまらなさそうな顔をしていた。

「なんだか高校生っぽくない反応。それともいまの高校生ってみんなそうなの?」

「僕に似たのもいますし、きゃあきゃあ騒ぐのもいますよ」

「バランス悪いなあ。でもまあそういうものって言われたらそうなんだけど」

 ひどくあいまいなことをつぶやいてキンセイはため息をついた。僕も真似をしたかった。高校生という大雑把な枠組みを作って、たまたま僕はそこから漏れただけでしかない。キンセイが僕を通してなんとなくの高校生像をつかもうとしているのが残念だった。

「あ、もしかしてきみ、もう彼女がいるんだな?」

「いませんよ」

「じゃあ好きな子が」

「いません」

 正月に母方の実家に帰ったときの親戚のことを思い出した。こういう素直なうっとうしさは学校の人間関係では見られない。たしかに考えてみればお互いに名前だって知らない間柄なのだ。ちょっと特殊な他人。距離感をうまく説明できない。キンセイならこれを表現するために音楽を作るのだろうか。

「そうなの? これお節介かもだけど、そういうのはしといたほうがいいよ。年寄りがよく言うような生活にハリが出るみたいなことは言わないけどさ、生きていた証になる」

「生きていた証?」

「そう。あのとき自分は確かに生きていたって納得できる」

 難しそうな話だった。これまでの僕には縁のなかった哲学に片足を突っ込んでいそうな気さえする。僕では支えきれないテーマに思えた。だって僕はまだ生きている。先が見えたこともない。そんなものを欲しがったこともない。

「いつか将来、僕はいまの時代を振り返るんですか?」

「そんな甘いもんじゃないよ。遠い未来でもない。何度も何度も、ことあるごとに振り返る。きっとびっくりするよ、何気ないことがきっかけになる。ゴミ箱にゴミを放り投げて失敗したときに、雨の日になんとなく遠くを眺めてしまったときに」

 キンセイは遠い目をしている。明らかに経験した人間の目だった。それを見て僕は何かを思い出しそうになって、結局はそれに失敗した。

 キンセイは自身が僕らの年代だったころを思い返すのだろう。そこで何があったかは僕にはわからない。良かったこと、悪かったこと。どのきっかけでどちらの思い出が帰ってくるのかもわからない。思い出は本当の意味では孤独なのだ。

「ちょっと想像が難しいですね」

「そんなものだよ。小学生のときに中学生になった自分を想像できなかったでしょ」

 僕は答えに窮してコーラを飲んだ。

「じゃあ考えておきます。いい人がいれば」

「それはノーの言い換えだぞ。さすがにわかって使ってそうだけど」

「これから好きな人を作ります、なんて誰が言うんですか」

「実際に口に出して言うかどうかはさておいて、意外とあるもんだよ、そんな状況」

 本当にキンセイは僕の理解を超えたことをぽろっとこぼす。僕にはどうやってもそんな状況を思いつけなかった。それとも僕以外のみんなにはできるのだろうか。浅田や古野にはできるのだろうか。文芸部にいる橋本と光山なら、瀬川さんなら苦もなく思い描くことができるのだろうか。

 一日を過ごすたびに人間というものの実体がつかめなくなっていく。雲みたいだと僕は思った。雲を知ろうと近づいたのに、雲の中に入り込んでしまって全体像どころか周りが何も見えなくなってしまったのだ。そして奥はさらに密度が上がっている。息が苦しくなっていく。けれどもがけばもがくほどさらに奥へと絡めとられていく。生きているのに人間を拒絶するのは僕にはできないことだった。

「そんなに複雑に考えない。気が付けばそのことを理解しているきみがいるさ」

「怖いですね。いつの間にか僕が変質してしまっているみたいで」

「好きな表現だ。そうだよ、人間はなにかの出来事に出くわすごとに変質するんだ。これは私の考えだけどね」

 キンセイはおそらくずっと一貫した言葉を吐き続けていた。彼女は理解してもらうことを目的には置かず、ただ自分の考え方があることを主張していた。そしてやっと彼女の言う生きていた証に僕なりの解釈を与えることができた。ゲームで言うセーブデータ、実在するものとして近いものでいえば写真のことなのだろう。人間は変質し続けるものだから、どこかでピン留めをしないと現在における姿しか残らない。おそらくその方法が恋をすることなのだ。

 もしかしたらこの理解は間違っているのかもしれない。明日になったらまるで違う考えが僕に浮かんでいてもおかしくないし、死ぬ間際でも同じふうに考えている可能性もあった。それこそ先のことは誰にもわからない。

 僕は二十歳になったあと、ふとしたときに真垣さんのことを思い出すのだろうか。

「キンセイも変わり続けてきたんですか?」

「それはもう。高校一年生までの私はどちらかといえば無口なほうだったくらい」

「でも何かの出来事があってそれが変わった」

「そう。ちいさなことだよ。公園で子どもが楽しそうに話しているのを見たんだ」

 本当かよ、と僕は思った。けれどキンセイは嘘をつかない。僕はそう考えることに決めたのだ。だから実際にあったことなのだろう。

「音楽はいつから好きなんですか?」

「わからない。物心ついたときにはピアノ習っててね、当たり前のものだった。たとえば、そうだな、きみマンガ読む?」

「はい」

「週刊で雑誌出るでしょ、ああいうのを読む感覚。曜日が来たらじゃあ弾くか、みたいな感じだよ」

「アタリもハズレもありましたか?」

「ああ、言われてみればそうかも。楽しくない日もあったっけ」

 思い出すしぐさが様になっていた。いちいち記憶を掘り返してみないとならないところを見るに、本当に音楽が生活に含まれていたのだろう。彼女の言う出来事にすらなれない事柄。僕は自分に当てはめて振り返ってみた。日常にまで入り込んでいる日常的でないものはないな、とすぐに結論が出た。

「まあそうやってギターと出会って成長してきみに出会うに至るわけだ」

「まるで僕との出会いが大きな出来事みたいに聞こえますけど」

「サービスの部分もあるし、本音の部分もある。私は自分の勘を信じるタチでね」

「平凡な僕から得られるものなんて無さそうに思えるんですけどね」

 キンセイは僕の目を見てから首を振った。

「私がきみから何を受け取るかは私にかかってる。きみの自己評価は悪いけどあまり大事なものじゃないんだ、この場合はね。だからそう悲しいことばかり言わない」

 しっかり茎にトゲの生えた励ましの言葉だった。けれどキンセイの言うことにはやっぱり彼女なりの筋が通されていた。勝手に僕で曲を作ろうとしているのだ、誰かの僕への評価なんて余計なものでしかないのだろう。それが僕のものであっても。

 視線をキンセイから外すとフードコート内の簡素な店構えがあって、そこにある食品サンプルが目に入った。そっくりだと僕は思った。怒りが腹の底からこみあげてくるほど似ていた。視界が狭くなった。でもその視界はすぐに元に戻った。僕は自分の感情のコントロールもうまくできないようだった。

「それこそ寂しいじゃないですか」

「ごめんごめん、言い方が悪かったね。私が言いたかったのは自分を卑下する言葉ばかり吐いてほしくないってことなんだ。それは別に誰も救わないから」

「キンセイみたいに強い人間が近くにいるとき、どうしても僕はつらくなるんです。だって考えてみてください。まぶしく光る光源のそばにただの小石を置いたら、その後ろにだけ影ができるんですよ」

 情けないことを口喧嘩みたいに言い放ってしまった。彼女の言葉をほとんど受け取らずに自分の意見だけを投げている。ヒステリーだ。また僕は僕を嫌いになる。僕はこのサイクルのなかで生きているみたいだった。自分を好きになったときのことは思い出せない。ないのかもしれない。

 キンセイは背もたれに身を預けて腕を組んだ。困ったように目を閉じてすこしだけうなった。

「んんん、これねえ、水掛け論になるよ。強い強くないは結論が出ない。ってことはこの話題はやめるべきだ。はいおしまい、できる?」

 もっと僕の思いを知ってほしいというのが本音だった。どれだけ僕が弱いかということを考えてほしかった。僕は海に突き出た崖の突端に立っていて、キンセイは吹きつける強い風だった。彼女が正論を言うたびに僕は飛ばされそうになる。

 子どもの感情論だとわかっていたから、僕はそれをしまった。ちいさく頷いてその話題を閉じることを選んだ。


 外の天気とこの場の空気は同じ色をしていた。重く、湿気ていた。誰がどう見ても僕が悪かった。僕個人の傾向がキンセイとの会話をそちらに引っ張ったのだ。後悔をしようにもそれも難しかった。どこをうまくすれば違う道筋をたどれたのかが僕にはまるでわからなかった。

 僕が感情論をぶつけるのをやめてから五分。どちらも一言も発さずにいた。ときおりストローがちいさな氷をかき混ぜる音が聞こえた。とても視線を合わせる勇気はなかった。

「なんだか私はきみに悪影響を及ぼしているみたいだね」

「そういうわけじゃないんです。僕が僕のことばかり考えているから」

 キンセイが目を大きく見開いていた。それほど深く考えずに口から出た言葉は僕の想像をはるかに超えて芯を食っていたらしい。重みを持たせたつもりもないのに、言葉は勝手に重みを増して膨らんでいった。その丸くて滑らかな圧が僕を平らに押しつぶした。

 涙が頬を伝ってないのが不思議なくらいだった。それはお前が水中にいるからだと言われたら納得できるほどだった。むしろ他の理由が思いつけなかった。前に泣いたのがいつだか思い出せないけれど、いまは泣いたって許される状況だった。

「ねえ」

 キンセイの声を無視するわけにはいかなかった。

「いままたピンと来たんだ」

 僕にはその内容がわかるような気がした。いいことではないだろう。僕はいま悲しいのに、どうして追い討ちをかけるようなことをするんだ。ねえキンセイ、その先は言わないで。僕がこんなことを言うのは最低だってわかってるけど、捨てないで。

「私ときみは離れたほうがいいと思う。ここがさよならのタイミングだよ」

「僕はそう思いません」

「きみは私といたら傷つくんだ、たぶんね。それはいいことじゃないよ」

「それでもあなたからもらったものもあります」

「私のためでもあるんだよ。むしろそっちのほうが大きい理由になるかもしれない」

 言葉の端々から僕への気遣いが感じ取れた。キンセイの言うことは嘘ではないのだけれど、そこに別の意味を付け加えていた。僕のため、というのが言外にちらついているのがいっそつらかった。きみが嫌いになった、と言われたほうがラクだった。それでも傷つきはしただろうけど。

 そしてそう言われてしまうと僕から言えることはなくなってしまうのだった。僕のことはついでだけど、それでも結果として良い方向に転がるならいいじゃないか。反論の余地もなかった。たしかにキンセイといると僕は傷つく。でもそれはキンセイが悪いのではなかった。世の中には存在するだけで周囲に力を放つ人がいる。そして、弱い人間はそれに負けてしまうだけなのだ。僕は月の光にさえ肌を焼かれてしまう。目を閉じれば光をないことにできる場所でしか生きていけないのだ。

「キンセイはそれで何を得られるんですか」

「いま作ってる曲の足りない部分が埋まる。どうか思い出になってくれ、少年」

 かねてからのキンセイの願いを無下にするような意地の悪さも僕にはなかった。

 僕は静かに席を立った。歩き出したとき、見てもいないのに後ろでキンセイが頭を下げているのがわかった。それがどの気持ちに準じたものなのかは考えないことにした。

 不思議なことに視界のすべてがぼんやりするようなことにはならなかった。むしろその中心あたりは妙にくっきりしていた。代わりに視界の端はぼやけていた。店内を行く人々がさまざま移り変わって、一秒経つと直前までいた人の顔が思い出せなくなった。

 地下通路にさしかかったあたりで傘をテーブルに忘れてきたことに気が付いた。でも戻る気なんて起こらなかった。雨に濡れるくらいどうでもいい。風邪を引いたってよかった。夏休みなのだから。

 家につくころには僕はびしょ濡れになっていた。母がそんな僕を見て、あんた傘はどうしたの、と聞いた。失くした、と僕は答えた。母は空模様を見ながら不思議そうにうなずいた。

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