12 神性への願望
日差しの入らない学校の廊下は空の青が反射して涼しそうに見えたけれど、実態はとてもそうとは言えなかった。窓が開けてあってもほとんど風は入らず、もしも風が吹いたとしても外の空気はひどく暑いものだった。気温のせいで視界にあるすべてがゆらゆらと波打っている錯覚さえした。リアリティは気温が上がると水蒸気のように飽和までが遠くなるらしかった。思えばたしかに冬のほうがリアリティは近いような気がする。僕の冗談にしては面白いほうだった。
しんと静かで、遠くに運動部の声が貼り付いていた。誰もいない廊下は時間の流れから取り残されたようで、神秘的な場所にも思えた。たとえば学校の怪談はこういう状況に出会った生徒が生み出すのだろう。廊下の曲がり角に違う何かが潜んでいてもおかしくはない。
図書室に向かう前に、試しに屋上へ出られる扉を試したくなった。夏休みに学校の屋上となれば定番のような感じがする。もちろんさほど期待はしていない。そもそも屋上自体が開放されている場所ではなかったはずだ。ただなにかの偶然が奇跡的に重なっている可能性もゼロとは言い切れない。そんな言い訳じみた希望だけを持って、僕は階段を上がり始めた。
屋上につながる扉まで続く階段はひとつだけで、それは校舎の端にある。教室が端にあるクラスでも大して使わないような階段だった。僕も数えるほどしか使った記憶がない。きっとうちの学校でいちばん薄暗い場所だった。
静けさが一段と深まった。明らかに別の場所へとつながっている、そう思えた。
夏休みの期間で、さらに誰も使わないのだから電気もついていない。ここの階段は窓もなかった。日の射し込んでいない廊下の光の反射が助けになった。
一段ずつ上がっていく。
屋上の直前まで行くと踊り場だけがあって折り返す、どの廊下にもつながっていない塔に似たような構造の階層があった。ここは本当に暗くて、僕はスマートフォンのライトを使わなくてはならなかった。見知らぬ建造物の中を探検しているような気分になってきた。いや、実際にそこは知らない場所ではあった。僕は屋上に行ったことがない。
スマートフォンのライトにクリーム色に塗られた扉が浮かび上がった。あまり学校では見かけないどころか、ここでしか見たことのないものだった。ドアノブがライトできらりと光った。そこはむき出しの金属で、錆びてもいないようだった。
僕は疑いもせずにドアノブをひねろうとした。もちろんひねり始めで引っかかって鍵が閉まっているのがわかって残念でした、こういう想定だった。しかし僕の想像を裏切るようにドアノブはやわらかく下まで降りた。がこん、と内部の機構が動いた感触が伝わってくる。扉を手前に引く許可が下りた。
現実が捻じ曲げられているかのような感覚が走った。そもそもここの扉の鍵は開いているべきではなかったし、その扉を僕が開けるべきではなかった。そんな奇跡に立ち会うような人間ではないはずだった。けれど扉の向こうを見ないわけにはいかなかった。
一気に目が眩んだ。自前で明かりを用意する必要があった暗がりから、一年のあいだでもっとも光が強い空の下に躍り出たのだ。眼球が粟立った。あらゆる跳ね返りを使って光が僕に集まった。普段通りに目を開くのに一分近くかかった。
開けた視界の先には見たことのない風景が広がっていた。校庭から見上げたことのある給水タンクのようなものやアンテナ、変色して黒ずんだ床。ふちのところには金属製の柵があった。その気になれば簡単に乗り越えられそうだったけれど、ちっともその気にならなかった。風は強くない。床からは校庭とは違う熱の反射があった。
特別感もあったけれど、それ以上に来るところまで来てしまったなという感じがあった。過剰な表現だとは思うけれど、すくなくとも相似形を成していた。
上履きで踏み入ったら怒られそうなほど汚れた床にはじゃりじゃりとした感触があった。平らで季節を問わずに風雨にさらされているとこうなるものらしい。帰る前に上履きをはたけばなんとかなるだろうか。ならないかもしれない。
屋上は想像を超えて広い空間だった。考えてみれば自然なことで、ふだん廊下と教室とを区切る壁をすべて取っ払って空の下に置いているのだ。この開放感は校内だとちょっと他には見当たらない。もちろんところどころによくわからない設備のようなものや何があるのかわからない高台もあるけれど、それにしたって歩ける床面積と比べれば大したものじゃない。僕は高校生にもなって屋上で高揚していた。
とりあえずまっすぐ端のほうへ歩き、そこにつくと柵に肘をついて校庭を眺めた。ゴマ粒みたいな大きさの生徒が校庭を走り回っているのが見えた。彼らが大きな声で何かを叫んでいるのがわかった。けれど距離がその大きさと内容を削り取ってしまっていた。遠くにいる人の声は聞こえにくい。当然のことだった。
視線をちょっと上げると学校を取り囲む街並みが一望できた。家屋にマンションにアパートにビル。そのどこにも誰かがいるのだと思うとちょっと信じられなかった。僕が思うよりずっと世間は広く、そして細分化されているらしかった。遠くに電車が走っているのが見えた。近くの道路を車が走っているのも見えた。いろんなところを眺めていると疎外感が僕に寄り添ってきた。僕らはいっしょに街を眺めた。
しばらくして僕は屋上の高台に目をつけた。はしごを登って上に行ける。それほど極端に高いわけじゃないけれど、それでも高いところに行ってみたかった。人目なんて気にしなくていい。いまは興味を最優先に動いていいと自分に言い聞かせた。
衝撃が走ったのははしごを登り切る直前だった。
人がいたのだ。屋上の、高台に。
僕は動揺してはしごから手を離しそうになった。とっさに視線を手元にやって、そしてもういちど前に目を向けた。女子生徒が縁のところに腰をかけてこちらを見ている。真垣さんだった。
「どうしてこんなところにいるの」
「それはお互い様じゃない?」
正論だった。
青空を背負った真垣さんはなにか壮大なもののように僕には映った。たまたま顔の向きが太陽の位置と反対になっていて、太陽の光に塗りつぶされていなかった。硬ささえ感じられる入道雲が見事に翼のように陣取っていた。上手くすれば彼女は右肩の翼だけで空を飛べそうだった。
異常事態ではあったけれど、どこかで納得のいく部分もあった。たしかに屋上への扉の鍵は開いていたし、この学校の生徒が夏休みに来てはいけないルールもない。その意味では僕らはただ珍しいだけの存在だった。
「開いてたけど、鍵かけ忘れたのかな、先生」
「私が開けたの」
果物を買っておいたよ、とでも言うような平凡さで真垣さんは僕の予想していなかった事実を口にした。表情にも変化はなかった。
「よく先生が貸し出してくれたね、鍵」
「ハリガネよ。ピッキング」
彼女は両手を顔の前に持ってきて、それっぽく動かした。ハリガネを持っていないだけで、その動作は僕には真に迫るもののように見えた。技術的に真垣さんにそれができそうかどうかと考えると、僕に断言はできなかった。ふつうに考えればできないのが自然だけど、できてもそこまで不思議ではない気もした。
「嘘でしょ?」
「本当だけどどっちでもいいことよ。それよりはこの場所のほうが大事」
「いやピッキングってけっこう大きなことだと思うけど」
「学校の思い出のひとつ。そう考えなきゃ。だって来ちゃったんだし」
真垣さんは僕を見ながら言った。
言われて僕はこの侵入の共犯になっていることに気が付いた。僕の思い出は屋上に入れないところまでで完結するはずだったのだ。そうしたら浅田も橋本も光山もくだらないと言って笑ってくれるはずだった。立ち入り禁止の場所に入ってしまったら、それはちょっと意味が変わってしまう。話はできるし笑ってもくれるだろうけれど、微妙に違ったニュアンスが含まれてしまうことになる気がした。そして僕はそれを求めていない。
真垣さんは体の向きを変えて遠くを眺めていた。風はなかったから、それはぴたりと風景画のように収まっていた。綺麗ではあったけど、それは人間的なものに見えなかった。それこそ風景の一部として調和していた。もしもそこに僕の指先でも映ろうものなら、一気に瓦解するだろう繊細なバランスのように思われた。
「バレても気にしないって感じで来たの?」
「もちろんバレるのはイヤだけど、でもそのためにさっさと帰るのもイヤ」
「まあ、わざわざ鍵開けたんだもんね」
「そこはあまり大事じゃないの。ここに来たいって思ったことのほうが大事なの」
僕は首を傾げた。そのふたつが違うこと自体はわかっても、そのふたつに差をつける必要があるかがわからなかった。僕が本を読まないからだろうか。うまい言い訳には思えなかった。
「なにかしたいことがあって来たの?」
「ううん。来てみたら景色がよかったから眺めてるだけ」
「真垣さんってもっとおとなしいタイプだと思ってたよ、僕」
「そうでもないよ。走るし笑うし、タンスの角に足をぶつけたりもする。修学旅行で枕投げだってするよ」
そう聞くと彼女もふつうの高校生だった。僕と変わらない。それはなんだか強烈な違和感だった。たとえ事実そうなのだとしても僕自身がうまく呑み込めなかった。視座を大きくすればその通りなのかもしれない。でも僕は自分で観測できる範囲でしか生活ができない。僕の枕投げと彼女の枕投げは別物にしか思えなかった。
僕はいつもよりもずっと話が下手になった。楽しませるための会話ではなく、ただ話を続けることでさえ難しかった。何を話せばいいのだろう。思えば僕は彼女のことをまったくといっていいほど知らなかった。
「……宿題はやってる?」
「どうしたの、父親みたい」
「えっと、このあいだ宿題に手をつけてることを話したら驚かれたんだ。それで」
「人によるんじゃない? 私はまだ何もしてないし」
「後半で頑張るタイプ?」
「うん。たぶん友達と終わりの一週間とかでどうにかこうにかだと思う」
聞いたことのある夏休みの宿題のやり方だった。マンガやアニメで見た情景なのかもしれない。僕は体験したのことのない手段だった。僕の周りもたいていはきっちり期間内に仕上げてきたし、やるつもりのないやつは初めから堂々としていた。成績はひどかったけど。
そんな話をしていると、遮るもののない真夏の太陽の下にいることを思い出した。あまりにも突然で、安全地帯から危険地帯に放り投げられたかのような感覚に囚われた。さっきまで体内に充満していた開放感が抜けてしまったのかもしれない。そしてその空いた隙間に現実が滑り込んできた。現実は暑かった。こんなところでそんなものを直視したくはなかった。
僕はハンドタオルを出して汗を拭った。いつの間にか肌も赤くなっている。耳を近づければちりちりと焼かれる音がしそうだった。誕生日から数えるとこれが十六回目の夏だったが、こんな体験をその回数くり返しているのかと思うと疑問だった。
「ねえ、どうしてこんなところに来たの? 鍵は閉まってるはずなのに」
出し抜けに真垣さんが口を開いた。彼女からすればそれは奇妙なことに違いなかった。情けなくはあるけれど、僕は理由を話すことにした。
「笑い話にするつもりだったんだよ。屋上に行ってみたけど開いてなかった、って。そんなにすごいことじゃないけれど、でも話のタネにはなるから」
「それで偶然私が開けちゃったところに」
「驚いた。まさかって思った。真垣さんがいるのを見てもう一回思った」
「運がいいのか悪いのか判断がつきにくいところね」
「いまはもういっそ面白い体験をしてるって思ってる。運はいいよ」
出来事の貴重さでいえば僕の人生ではいまのところ一番にランクインした。簡単に表現するなら、あってはならないことなのだ。この先、死ぬまで人生が続いたとして同じくらい珍しいことに出会えるだろうか。僕は難しいと思う。
僕はあらためて真垣さんを見た。その姿はやっぱり情景というものに馴染み過ぎていて、悪い表現を選べば人間性が欠落していた。でも別の意味でそれは自然だった。人間的でないという前提条件さえ呑み込めば、ついさっき自分で口にした、まさかという言葉の入り込む隙間は見当たらなかった。むしろ彼女はここにパズルのピースのように当てはまっていた。僕はそういう納得をいつの間にか握っていた。
「ねえ、私はもう暑くなってきたから出て行くけどどうする? もし残るならどれくらい残るか教えて。あとで鍵を閉めないとならないから」
「僕も出るよ」
彼女も暑さを感じているのだと思うと奇妙な感じがした。思い込みには違いないのだけど、真垣さんはそういう感覚からは離れているような気がしていた。彼女の白い肌は太陽の光を反射して光っているように見えた。
僕たちははしごを降りて扉のところに行き、とりあえず上履きをはたいた。かなり粒のようなものが落ちたけれど、全部が落ちた気はしなかった。僕と真垣さんは扉を閉めた時点で別れることにした。彼女が鍵を閉めるところを見たくなかったからだ。もともとの予定では図書室に向かうつもりだったけど、僕はそれをとりやめた。どこかに鍵の開いている教室がないだろうかと探して、それに失敗して、結局は廊下の窓を開けて空を見上げた。大きくため息をついた。けれど何もすっきりしなかった。




