11 舞台と拡大鏡
「夏の大会とかあるの?」
「二週間後くらいにインハイ。終わってるぜ、北海道だよ今年」
また下駄箱の自販機前で古野と出会った。たまたま行動のリズムが合っているのだろう。僕らは驚きもしなかった。
僕から古野に振れる話題なんて彼の部活についてだけだった。それ以外のことは何も知らない。たとえ知っていてもその話が盛り上がるかは疑問だ。だからこれでいいのだと思う。
「インターハイ? すごいじゃん」
「そう言ってもらえんのはうれしいね。目標達成、みたいなとこあるし」
「おめでとう。次はインターハイ優勝?」
「冗談だろ」
子どもの悪ふざけを聞き流すように古野はそれを否定した。聞き飽きたようにも見えた。僕みたいに事情を知らない人間がよく言うセリフなのかもしれない。
古野の体からは熱気のようなものが立ち上っていた。外の暑さとは違う種類のそれは、膜のようなものを形成していた。きっとついさっきまでハードな練習を積んでいたのだろう。汗だって額のところで玉を作っている。着替えを用意してやりたいくらいだった。
「あのさ、インハイって高校生の大会だろ、でも上のほうのやつらってふつうに実業団の選手が出てる大会とか出てんの。そこでもいくつか勝ち上がるし」
「つまりプロとかと遜色ないってこと?」
「そ。そういうの倒さないと優勝は無理。ベスト8もきついんじゃねえの」
古野は自分の手を見つめて指折り数え始めた。そういうのに該当する選手を数えているのかもしれない。高校生にしてそんなハイレベルな選手が数えられるほどいるという事実は、そんな必要がないにしても僕にはうまく呑み込めなかった。頭に浮かんだのは現実感という言葉。古野が口にしたのは現実感のない現実だった。
「途方もない」
「実際そうだな。誰かを上回るってそう簡単じゃねえよ」
古野は下を向いてため息をついた。僕には想像のつかない勝利のための積み重ねをいくつも超えて、やっと古野はひとつの目標を達成した。でも左右を確認してみると同じラインに何人もの選手が横並びで立っている。さらに言えば前を走っている選手だっている。真面目になればなるほど絶望しそうだと僕は思った。
僕は勝手にやりきれなさを覚えて自販機のほうに目をやった。コーラの缶が目についた。
「バドミントンはいつから?」
「中学。ふつうになんとなくで入っただけ。たまたまそこが強い部だったんだよ」
「でも中学から始めてインターハイってすごいんじゃない?」
「まあありがたいことにセンスは悪くなかったみたいだな」
それほどありがたいと思ってなさそうに古野は答えた。その感覚も僕はよくわからなかった。もし自分に全国に通用するようなセンスがあったとしたなら、きっと僕は素直にそれを喜ぶだろう。それは短慮なのだろうか。そうなのかもしれない。実際にそんなものを持っていないのだから確かめようがなかった。
不意に僕は息を乱していない古野のことが気にかかった。たぶんはハードな練習の合間であるはずなのに負荷がないみたいだった。背すじもぴんと伸びている。僕なら腕をだらんと前に垂らしてぜいぜい荒い呼吸をしているだろう。違う世界からやってきたのかもしれない。きっとそうだろう。
「そういえばお前さ、なんか美人とデートしてたんだって?」
「は? 何それ。僕が知らないんだけど」
「いや、ウワサ回ってきたぜ。どっかの店の窓際で楽しそうに話してたって」
店の窓際、と聞いてやっと思い当たる人物が浮かんだ。それまで本当に僕と誰かを勘違いしていないかと思っていた。
男女ふたりで外で会うことをデートと呼ぶならその否定は難しそうだった。けれど僕個人としてはその扱いはできなかった。ひどい表現な気がするけれど、キンセイは性別の手前の存在なのだ。どこか、感覚としては親族に近いものがある。とくに気を遣わなくていい。ただそう置いてしまうと僕はまた僕に疑問を抱かなくてはならなくなった。
「それ自体は間違ってないけど、そういうのじゃないんだ」
「あ、親戚とか?」
「ううん、違う。こないだたまたま声かけられただけの人なんだよ」
「逆ナン? やるじゃん」
だから、ともう少し続けようとしたところで古野が話の真偽はどうでもいいと思っていることに気が付いた。からかっているだけなのだ。コミュニケーションの一種。人に受け入れられる軽薄さ。こういう人懐っこさを僕は持っていない。眩しさはあるけれどうらやましくは思わないようにした。もしも僕が急にそんな振る舞いをしたらみんな心配するだろう。
「自己紹介しないでくれって頼まれるのがありなら、まあ、そうだね」
「何それ、マジ?」
「マジだよ。お互い名前も知らない。デートかな、かなりあやしいと思うけど」
距離と取って考えてみると、僕とキンセイの関係はやはり奇妙なものだ。よそでは聞いたことがない。それなりに個人的な考え方の話はしているけれど、その根っこの個人の情報がまるで欠落している。僕はキンセイのことを上手く他人に説明できるだろうかと頭のなかで試してみた。言葉にするのが難しかった。曲作りはするらしいけれど、歌うところを見たことはない。やっぱり大事なところが欠けていた。
古野もどう反応していいかわからなさそうにしていた。僕が冗談を言うとは思っていないだろうし、実際その通りなのだ。そしてそれが事実だとするとかなり不思議な人間関係に見えるはずだった。すくなくとも僕は自分以外にそんなものを見た記憶はない。
「え、それは、友達? いや何なんだ?」
「わからない。僕も説明のしようがないんだ。話をすることがある人、くらいで」
「なんかすげえ人生送ってんな」
「よくわからないだけで意外と平穏だよ。たぶんインターハイのほうがすごい」
きっと世間的にもそのはずだった。妙な知り合いがいることとあるスポーツで全国大会に出ることを比べたら、みんな後者のほうがすごいと言うだろう。種類が違うと言われれば否定はできないけれど、それでもやはり後者を選ぶ。だってすくなくともそこには努力があるからだ。
僕の話につかみどころがないせいで古野は態度を決めかねていた。納得もできないし、あり得ないと言い切ることもできなかった。申し訳ないとは思うけれど、それは僕にはどうすることもできないことだった。
「なんか微妙な話だけど、一部はわからなくもないんだよな。なんつうか、誰とでも共通する部分があるような気はする」
「そう、たまたま偶然なんだ。僕が特別とかじゃなくて」
「違う違う。なんだろうな、まあお前はいいか。これ、あんま他のやつに話すなよ。部のやつとか俺がバドミントンで頑張ってんの知ってるやつ」
「わかったけど、なに?」
「俺の人生って俺のもんじゃん。お前もそうだろ? だからまあ人生の主人公ではあるんだよ。でもさ、バドミントン界ではその他大勢なんだよな。誇張じゃなく掃いて捨てるほどいるみたいな。そう感じるときはむなしくなるぜ。そのへん歩いてるおっさんでも昔は甲子園に出てたかもしれないんだよ」
古野の話はそれほど要領を得なかったし、表面上は共通点らしい共通点は見当たらなかった。でもたしかにどこかで僕のそれとつながっているような気がした。そしてそれとは別に古野が空虚なものを抱えていることに僕は驚いた。僕は彼ほどの高みに立ったことがないから、そういった心情が当たり前のものなのかの判断はつかない。ただ古野に似合うかといえばノーだった。古野はみんなに囲まれて笑っているほうがどうしたってイメージに合う。
そんな彼と対比すると自分がじめじめとした暗いやつみたいに思えたけれど、またそれは違う話だ。僕だってそれなりの明るさは持っている。ただ眩しいものを隣に置いたときに暗く見えるだけのことだ。
「浅田がお前とつるんでんのちょっとわかってきた。面白いところあるよ、お前」
「そう言ってもらえるのはうれしいけどね」
僕には彼らの言う面白いところがわからなかった。




