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造花を焼く  作者: 箱女
2.必然の檻
10/20

10 象嵌

 距離の長い様々なレースではチェックポイントを通らないとならないように、僕はまた商業ビルへとやってきた。不思議な感覚だった。短い期間に何度も来てみたってだいたいは何も変わらない。それなのに夏の夜の電灯のようにここは僕を呼ぶ。足を止めて考えてみるとすこし気味が悪かった。

 前に来たときとまったく同じように動いても面白くないから、普段は見ようと思ったこともないところに足を伸ばした。花売り場を見て、地下のちょっとお高い食品が並んでいる売り場も見た。陳列のされ方から包装の仕方までスーパーマーケットとの違いを並べることができそうだった。品々はどれもきらきらしていて、細かい光の粒をまぶしているようにも思えた。そんなところをやはり制服でうろついている僕は周囲から浮いているような気がした。

 商業ビルの地下の食品売り場は広く明るく、大勢の人がいた。身なりもどことなく場にそった基準を満たしているようだった。僕は無目的に歩いて、意味もなく商品に興味のあるふりをして立ち止まった。お祝いだとかお中元だとか、そういった贈り物としてもらわない限りは縁のなさそうなものばかりが並んでいた。ラベルが英語でさえない外国語で書かれているものは中身が何かさえわからなかった。

 いつしか僕はジャムの棚の前にいた。ジャムは僕の生活にほとんど縁のない食べ物だった。戸棚に入っているところさえ見たことがない。給食や友達の家に泊まりに行ったときくらいにしか食べる機会がなかった。

 それは意外に興味深い光景だった。いちごジャム、ママレード、ブルーベリージャム、アプリコットジャム。他にも名前さえ聞いたことのないジャムがいくつもいくつも並んでいた。僕にとっては別世界のその棚であっても客足が途絶えない。そこに商業ビルの地力を感じたし、同時に僕の世界の狭さを知った気分にもなった。棚の隣のほうを見ようと視線を動かした。

 すっ、と真垣さんの横顔が通り過ぎた。

 正確には通り過ぎたような気がしたというだけで、本当に彼女がこんなところにいたのかははっきりしない。けれど僕の目にはジャムの棚を抜けた先の十字路を横切る真垣さんが映ったのだ。棚と棚のあいだの人々の頭の隙間に。

 僕はそこで何も考えることをせずに真垣さんのところへ行こうとした。けれど客は思ったよりもジャムに興味があるらしく、急いで抜けようとすると体がぶつかった。無理に行こうとするとぐいぐいと抵抗にあって思うように進めなかった。それでもどうにかして客を押しのけて彼女の歩いていった方向に目をやった。

 はたして真垣さんの姿はもうそこにはなかった。きっとどこかで曲がって別の棚で何かを探しているのだろう。でももう僕に真垣さんを追う元気はなかった。この地下は広くて、棚が多くて、そして人が多い。一瞬の偶然をつかめなかったのなら、そこで諦めるべきだった。

 僕は大きくため息をついて地上階へ上がるエスカレータを目指した。そこで奇跡的に真垣さんと会うなんてことは想像もできなかったし、もちろん起きなかった。

 商業ビルの仰々しいガラスの扉を出ると夏らしい空気と日差しが出迎えてくれた。明るさという実体を持って迫ってくるような夏に僕はすこし苛立った。人を見失ってよかったと思うことなんてないはずなのに、天気はちっとも僕の心情に合わせていてはくれない。雨が無理ならせめて曇っていてほしかった。

 僕はこのぱっとしない気持ちをどうにか解消したかった。そのための手段でぱっと思いつくのは無駄遣いだったけど、そうそう何度も繰り返してはいられない。それにそういう気分でもなかった。こういうとき、僕は自分がよくわからなくなった。決まった解答があるはずなのにそれを選びたくない。それが心の奥の未解明の場所からの声だと抵抗のしようがなかった。じゃあどういう気分かと問われると明瞭な答えが用意されているわけでもなかった。なんて不便なんだろう。

 なんでもいいから目についたところに入ることにした。

 街にはいくらでも店があって、そのほとんどは僕を拒んではいなかった。けれども不思議なことにその多くは僕に店として映らない。面倒にも思えるけれど、店というものは相互関係で成立するものなのだ。僕が客として行きたいと思い、それに答える場所としてはじめて店が店たり得る。商業ビルとは違って街の店には扉がある。それも心理的には影響を及ぼしていると僕は思う。つまり気持ちが定まっていない僕は、ふらっと立ち寄れて何も求めないような場所を探していた。そして僕はそう言われてすぐにピンと来るほど街と店に通じているわけではなかった。

 そのとき必要以上にぎらぎらした電飾が目に入った。夏の真昼に対抗するように、自然界ではあり得ない色で光っている。ゲームセンターだった。夏休みということもあってか、人の出入りは好調に見える。ここなら何もしなくていい。そう思った僕は悩まずにゲームセンターへと足を進めた。

 何よりも音だった。空気が鼓膜まで貼り付いてくるような感じがする。店内放送で何かを言っているようだったけれど聞き取ることはできなかった。入口のそばにはクレーンゲームが立ち並んでいる。ぬいぐるみにお菓子、どれも取るのが難しそうに思えた。そのうちのいくつかではプレイヤーが慎重にクレーンを動かしていた。周りでその友達たちが応援したりはやし立てたりしていた。筐体のフレームの部分にはまた電飾がついていた。光ることが重要なのかもしれない。

 ふだんゲームセンターに来ないせいで、そこに並ぶものはどれも新鮮だった。なんとなくのイメージとして持っていたものがあったり、まったく知らないものが並んでいたりもした。僕に思い浮かんだのは格闘ゲームで、でもそれは大してスペースをもらっているわけではなかった。レースゲーム、リズムゲーム、メダルゲーム。他にもよくわからないものや大きなカプセルみたいなものも見かけた。ごちゃごちゃしてはいるけれど、嫌いじゃない空間だった。みんな集中して遊んでいた。


 いろんな方向に視線を飛ばしながら歩いていると肩を叩かれた。こんなにうるさいと呼びかけるよりもよほど有用な伝達手段だった。振り向くとキンセイがいた。

 彼女は親指で、出ようとサインを送ってきた。

「意外だよ。きみああいうところには無縁だと思ってた」

「合ってますよ。ほとんど行ったことありません」

 僕らはゆっくり歩いていた。ゲームセンターの空気で肌が冷えていたせいで、外の暑さにまだつらさを感じなかった。けれどそんな時間はすぐ終わるだろう。

 キンセイが目指していたのはファストフード店だった。さすがにずっと屋外は堪えるらしい。僕も同じ気持ちだった。ポテトとドリンクを頼むとすぐに出てきた。自販機とそれほど差はないと思うくらいのスピードだった。おまけにこっちはお手拭きまでついてくる。

「アイスコーヒー? 大人だね」

「気分の問題です。いつもってわけじゃ」

「私は高校生のころどころかまだ進んで飲まないよ。単に苦いし」

 だからどうした、というような気負いのない調子だった。コーヒーが得意じゃないことについて思うところがひとつもないことがありありとわかった。僕なんかの年代だと飲めないとカッコ悪いとか言い出す人もいるくらいなのに。

 彼女はコーラを頼んだらしい。けれど中身はなんだってよかったんだろう。仕草に慣れたものを感じる。すくなくともこういうふうに蓋にストローを差して飲むことが生活に根付いていた時期があったことがうかがえた。僕とは生活スタイルがはっきり違っているらしかった。

「きみ制服ってことはまた学校行ってたの?」

「はい」

「部活くらいの私的な用事」

「まあ、今日は宿題持って行きましたけど」

 この人との会話では隠し事がバカみたいなことに思えて、話したくないこと以外は話す気になっていた。その意味では僕のこれまでの人生のなかでぶっちぎりの不思議な人だった。僕は隠し事をしようとまでは思わなくとも、面倒だから話さなくてもいいやと思ってそのままにすることが多々あった。

「宿題って。まだ八月にもなってないじゃないか」

「早めに手をつけたほうが後でラクじゃないですか」

「まいったな、きみもしかして優秀な学生だったりするの?」

「それは違います。凡庸です。凡庸でなくなりたいって思うくらいに」

「あまりそうは思えないけどね。ふつうの子は凡庸なんて言葉は使わないよ」

 僕たちの年代の平均値を出すことが不可能なのだから、あとは自己判断しかない。僕よりずっと優れた同い年がいて、僕が耳を疑うような同い年もいる。その両極との距離はどちらも遠いもので、それなら僕は凡庸だ。僕はそう考えている。

 僕はトレイの端と端を指さして、キンセイに説明した。

「こことここのあいだのどこかに僕はいます。どっちにも寄ってるとは思えません。だから僕はさっき言ったとおりの人間なんです」

「言いたいことはわかるけども。まあでもちょっと視点が足りないかな」

 読書感想文を採点するように彼女はそう言った。それだけ言って、どこの箇所をどうすればいいとは教えてはくれなかった。そんなところまで国語の教師と似ていた。もちろん彼女にはそんな義務はなかったけれど、僕はあまり好きな対応ではない。

 僕はポテトを口に放り込んだ。コーヒーと合うかと聞かれると、たしかにそうでもないかもしれない。

「ところで夏休みって学校入れるの? 部活じゃないのに」

「うちは開いてます。図書室は自由に出入りできるんで」

「へー、そうなんだ。けっこう人は来る?」

「いますよ。受験勉強のために来る三年生もいますし、なにより文芸部員がいます」

「あ、それっぽいね。みんな本読みに来るんだ」

「いえ、うちの文芸部員はほとんど書いてばっかりです。もし本を読んでてもきっと読書とは本質的に違ってると思いますよ」

 それはある意味では称賛されることかもしれない。自身と真摯に向き合っていると捉えても間違いではないからだ。

「あまり聞かないタイプの文芸部なんだね。いや、書いてる子がいるんだろうことはわかるんだけどさ、そんな子ばっかって珍しいよ」

「かもしれませんね」

 僕らは窓際の席に座っていた。太陽の位置のおかげで直に日が射しこむことはなかったけど、外はやっぱり眩しかった。光の強さで街のなかにある白の系統の色が照り映えて、世界の配色が変わっているような感じさえした。そのずっと奥で突き抜けるように距離感をなくした空の青が濃く控えていた。店内はそんな過酷な外の状況から僕らを守ってくれているみたいだった。もしもし、宇宙船ファストフード号は月へと向かいます。どうぞ。

「きみは文芸部に仲の良い子がいるのかい?」

「ええまあ。いますけどどうして急に?」

「だってそんな文芸部の巣窟みたいなところに単身つっこんでいくんだろ? ひとつくらい安心できる要素があるんじゃないかと思って」

 キンセイは僕が文芸部員であることを知らないのだった。彼女と初めて会った日の僕が変にひねくれていたせいでそれを教えていないからだ。ちょっと考えてみたけど隠しておく意味はやっぱりなかった。

「文芸部入ってますよ、僕」

「あれ。てっきり帰宅部かと思ってた」

「なんていうか、その、うちの文芸部だと僕は例外的存在なんです。僕は文章を書かないから」

「なるほど」

「だからって本を読むってわけでもないんです。適当に入っただけで」

 言ってて情けないような気分になってきた。それを誤魔化すためにアイスコーヒーを口にした。ただ苦いだけだった。

「そういうのもあるよなあ。みんながみんな希望に燃えてても怖いもの」

 この人の言葉ではなく調子に僕は救われていた。きっとキンセイには僕を励まそうなんてつもりは微塵もなくて、ただ僕のような人間がいることに勝手に感想を抱いているだけなのだ。人の意識に上がらないことで安心を得ることはたしかにあるのだ。僕は善意の人を否定するつもりはないけれど、能動的だと傷つける場合があることも事実だ。今日のキンセイは偶然だけど。

 話の合間にキンセイはよく窓の外へ目をやった。それは必要な動作のようにも見えたけれど、僕にはその意味がわからなかった。

「そういえばきみ、本当にまったく本は読まないの?」

「きょう試してみました。ダメでしたけどね」

「面白くなかった?」

「正直そこもわかりません。もっとわかりやすく、この作品で言いたいことはこれだって書いてくれれば読みやすくなるんだと思うんですけど」

 僕がそう言うとキンセイは大きくため息をついた。言葉にするよりも彼女が思っていることが伝わってきた。

「……まあ、きみはまだ高校生だし、分野として縁がないみたいだからね」

「そんなに的外れなこと言いましたか?」

「根本的なところだね。小説、音楽、美術。そんなものの存在意義に関わるよ」

 キンセイの口ぶりは残念そうなものだった。これから先、僕への接し方がちょっと変わりそうな気さえした。本当に微妙な、見えないところ。穏やかな海面のずっとずっと底のほうの海流に種類があるように。

 けれど僕はそれがどう間違っているかすらわからなかったから、そのまま間違いを認めることもできなかった。

「でもわかりやすいことはいいことだと思いますけど」

「そんなものいらないんだ、簡単に言えるなら。作品が生まれるのは言葉にするのが難しいからなんだよ。だから物語のかたちを取るし、音楽の力を必要とする。絵による表現かもしれないし、映画になったりもするだろうね。祈りを背負うのさ」

 キンセイの言葉には僕に対する感情よりも自身に対する諦めが滲んでいた。それが僕にはわからない。彼女の声の調子は平坦で、年月の重みを感じさせた。聞いたわけではないけれどキンセイはせいぜい二十歳前後だ。感情と年齢が釣り合っていない。これまでの穏やかな調子がそのまま色だけ落として老成していた。

 僕はただ圧倒されていた。

「伝えたいものがあるから曲が生まれて、そしてそれを歌う。私の場合はね。だって一言で説明できるならそうすればいいじゃないか。そう思うんだよ」

「言葉ではうまく表現できないものを別のかたちで表現する」

 僕はあえて口に出して言ってみた。まだ実感が湧かない。言葉では表現できないものの存在はわかる。何度も胸の内で渦巻いていたし、頭の一部を苛立たせた。けれどそれを別の手段で出力するなんて思ってもみなかった。

「そう。だから芸術は発展してきた。持論だけどね」

「考えたこともありませんでした」

「とはいえそう偉いものでもないよ。結局は自己中心的なものなんだ。ちょっとまあこの辺りのことは面倒な話で、しかも私の考えだから正しいかもあやしいけど」

 キンセイは視線を落として頬をかいた。かなり突き詰めて考えたのかもしれないと僕は思った。自分で結論を出してそれを誰かに教えるとき、人は勇気を要求される。同じ状況に置かれたら、僕も彼女と似たようなしぐさを取りそうな気がした。

 自己中心的なもの、自分の言葉にすることが難しい思いを表現することに端を発する芸術はただそのためだけに発展してきた。そう考えると芸術は個別の環の中でぐるぐる回っているように思えた。孤独と言い換えることもできそうだった。そのことに僕はとくに違和感を覚えなかった。

「たとえば僕が好きな曲も?」

「どう言えばいいかな。違う可能性もふつうにあるっていうか」

「それだとちょっと話がおかしくなりそうに思えますけど」

「私にとって音楽は個人的なものだっていうのはわかってもらえたと思うんだけど、そうじゃない人もいるってこと」

 言葉の通りに受け取れば、個人的ではない音楽が存在するということだ。なんだかそれは変に思えた。簡単には言い表せないものを音楽にするのに、どうして他の人が入り込める余地があるのだろう。それはキンセイの考え方と相反するものだった。

 そのことを考えるにはいちどキンセイの論理から離れなければならなかったけど、そのことにすぐに思い当たるのは僕にはどうも難しかった。僕にはキンセイの意見が完成しているもののように思われたからだ。

「ちょっと思いつきません。どんな音楽なんですか」

「100万人のために作られた音楽」

 僕はキンセイの言うことの意味がつかめず、彼女に視線を送り続けた。

「多数の共通の感動を目指して作られた音楽だよ。私とは真逆の論理。もしかしたらきみには合うのはこっちかもしれない」

 自分の言ったことを恥じることは間々あるけれど、これはすこし痛かった。きっとさっきの言葉を拾われたのだ。わかりやすいほうがいい。数多くの人が感動できるような、自己中心的でない音楽。それは孤独の否定でもあり、孤独の否定は僕がしてはいけないことのひとつだった。いつのまにか僕は芸術の意味を定めていた。

「そういう意味なら僕には合いません。僕は感動が欲しくて音楽は聴かない」

 そう、とキンセイは薄く笑った。

「でも自己中心的な曲を書く売れてるミュージシャンもいる。矛盾だね」

 もう考えが追いつかなかった。たしかに矛盾しているように聞こえた。疎い僕でも売れる音楽が多くの共感を呼ぶものだということくらいはわかる。けれどその一歩先のことは何もわからなかった。

 僕は言葉を返すことができなかった。ラリーは失敗だ。キンセイが次にどんな球を待っているのかもわからなかった。

「私も複雑に思ってる部分だよ。憧れてもいるけどね」

 そう口にするとキンセイは立ち上がった。もう話は、あるいは時間潰しは済んだと思ったのだろう。僕はそのまま席を立てずにいた。ポテトも飲み物も残っている。けれどそれは理由には数えられないものだった。彼女にそんな意図がなくとも叩きのめされたこと。それが僕を縛り付けていた。

 そのことを周囲に悟られないように僕はスマートフォンを出した。細かく手が震えていた。

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