episode H
「やっぱり、部屋の前を通ったら足音が聞こえるわね」
客間から顔を覗かせた照虎が、廊下で待機していた羊にそう告げた。
廊下は薄暗かった。低い天井に等間隔でぶら下がる豆電球が、ポツリ、ポツリと揺れているだけである。日中でさえこの明るさなのだから、夜は田舎の田んぼ道より視界が悪い。身を隠すにはもってこいだが、あいにく足音の方は誤魔化しようがなかった。
その日の午後。2人は廊下の足音が何処まで聞こえるのかを確かめていた。先ほどから歩く役をしていた羊は、端っこを歩き、尚且つ相当な忍び足をしていたのだが、それでもギシギシと音がなってしまう。廊下は相当に老朽化しているようだった。
「でも、隣の部屋の前まで行ったら、さすがに聞こえない……かな?」
「これじゃどう頑張っても無理だ。壁を歩くとか、天井を歩くとかしないと、どうしようもないね」
羊は諦めて肩をすくめた。スパイ映画や忍者活劇ならまだしも、そんな奇天烈グッズが現実においそれと転がっているはずもない。実験は敢えなく失敗に終わり、2人は途方に暮れてしまった。
どうにかして音を鳴らさずに廊下を渡れないかと思ったが、無理だった。事件が起きたあの晩。羊は朝まで眠れずに過ごしていたのだ。もし犯人が客間の前を通ったら、廊下の足音に気づかないはずはない。
「私たちがリビングにいる間……羊くんが推理している間に、殺されたってことはない?」
「あの時部屋にいなかったのは……管理人の2人か」
照虎の問いに、羊はあの時の様子を思い出しながら答えた。ほんの数日前の出来事なのに、もうかなり昔のことのように感じてしまう。
「……でも、だったら余計足音には気づくはずだよ。いくら推理に熱中してたからと言って、あの時僕らは全員起きてたんだから。それに、中庭に面する窓も開いてた。もし誰かが中庭を通ったら」
「ねぇ、何も廊下や中庭にこだわらなくても良いんじゃない?」
照虎が間取り図を見ながら、暗がりの中目を輝かせた。
「見て、これ。玄関を出て、廊下の裏側、窓のない裏庭……と呼べば良いかしら? とにかくそっちの方を迂回すれば良いのよ!」
確かに廊下には窓がなく、アルファベットのJの右部分は死角になっていた。しかし、
「リビングから玄関は丸見えだったじゃない。センサーが反応して、達彦さんが帰って来るところ、君も見ただろ?」
「センサーの電源を落としておけば?」
「うーん……でも、窓際で、ケンと兎子がチェスをしていたんだよ? さすがに玄関に人がいたら気づくと思う。それに、だったら足跡がないとおかしいじゃないか」
「足跡は、消したのよ。雪を掻き集めて」
「それだとその跡が残るし……それに、裏から外に出て、窓はどうするの?」
「窓? 窓は……最初からこっそり開けておけば良いじゃない。開けておいて、裏からこっそり回って書斎に侵入して……犯行の後……あっそうか」
照虎が何かに気づいたように小さく舌を出した。羊は頷いた。そうなのだ。その方法で入ったとしても、今度は出るに出られなくなる。
犯行後、①廊下に出て自室に戻ったとしても、リビングを通る際にどうしても足音がするし、②もし書斎の窓から出たのだとしたら、外側から窓を閉めなくてはならなくなってしまう。
「窓の鍵は閉まってた。10年前と違って、壊されてもいない」
「待ってよ、まだ可能性はあるわ」
照虎はよほど悔しかったのか、なおも食い下がった。
「まず犯人は裏庭を通って窓から侵入し、被害者を殺害、それから館の内部・廊下側に出た。管理人ならマスターキーがあるから鍵はかけられる。それから……それから、客間に忍び込んだんだわ。これならどう!? 客間の窓から中庭に出た。それでまた裏側を通って、玄関に迂回したのよ!」
「あの日、部屋の窓、開いてた?」
「それは……いいえ。開いてなかったわ」
照虎が観念したように力無く首を振った。一昨日は、リビングであんな話をした後である。羊たちももちろん客間から中庭を覗いてみたし、窓に鍵がかかっているかは、確かに確認した。
それに、この方法だとかなり偶然に左右されてしまう。
もし犯人が玄関にいるところを、窓際にいた犬飼や兎子が目撃したら。
もし被害者の俊哉が、事前に開けられた窓に気がついてしまったら。
何より殺された時、もし被害者が叫び声を上げたら。
たちまちこの【裏庭をこっそり通ったよ説】は瓦解してしまう。少しでも状況が変化すれば、このロジックは成り立たない。
「良い推理だと思ったけど……中々難しいわね」
「やっぱり殺されたのは、夜の間じゃないかな。全員起きてたのに、物音に気づかないって言うのはどうも」
別に館の防音設備が整っている訳じゃないことは、先ほどの実験で証明したばかりだ。
「じゃ、羊くんの考えは?」
「うーん。最初は天井を張って歩ける屋根裏とか、隠し扉みたいなのがあるのかと思ったけど」
「だけど、なかったわね。壊れそうなのは、この廊下くらい」
「危ないよ、気をつけて」
足でドンドンと床を踏み鳴らそうとする照虎を、羊は慌てて止めた。
「よっぽど、忍者屋敷でもない限り、そんな便利なものある訳ないわ」
「後は、館の外から、壁の向こうから狙撃したとか……」
「ダメだダメだ」
すると、ちょうど中庭を探索していた犬飼と伊井田の2人が戻ってきた。2人は玄関からではなく、客間の、中庭に面した窓から泥棒みたいに入ってきた。
「壁が高すぎる。外からじゃ、どう頑張っても寝室までは届かねえ。せいぜい窓際の床が見えるくらい。角度的に無理だ」
「壁に穴が開いてたってことは?」
「ない」
犬飼が首を振った。
「それに、だったら窓が壊されてなきゃおかしいだろ? 仮に窓が開いてたとしても、だ。どうやって閉める?」
「やっぱり無理か……」
羊は肩をすくめた。【外から狙撃説】が真実だとは思っていなかったが、最近はドローンも一般化しているし、様々な仮説を検証をするのは悪いことではないだろう。
検証の結果、要するに無理だと言うことが分かった。
やはり犯人は、何らかの方法で廊下を渡ったのだ。
まるで幽霊のように音を立てずに。
「でも……どうやって……?」
「もう【ドローン説】で良いじゃねえかよ」
犬飼がくたびれたようにため息をついた。
「犯人はドローンを飛ばしたんだよ」
「だったら窓が……」
「まぁ待て。誰も外とは言ってない。廊下で飛ばしたんだ。ドローンにマスターキーを持たせて、鍵を開けさせた。遠隔操作でな」
「それで、ドローンが被害者を殺して、また鍵をかけたって? それ何てSF?」
「最近の科学技術なら、それくらい出来るだろ」
「無理でござる」
さっさと結論づけようとする犬飼を、隣にいた伊井田が完全否定した。
「2024年現在、どんなに静音な小型ドローンでも、60dbは出るでござる。これは一般に掃除機やセミの声と同じくらいの騒音で」
「そんなものが廊下を飛んでたら一発で分かるわね」
「だけどよ、軍事用とか、秘密裏に無音ドローンが開発されてるかも知れないじゃねえか」
「無理でござる。プロペラとモーターで動かしている以上、どうやっても音は出るでござる。最近はヘリウムガスを使った風船型もありまするが。しかし、仮にそんなものが開発されていたとして、そのレベルの軍事秘密兵器を一体どうやって入手するかという問題が」
「分かった分かった」
犬飼は諦めたように両手を上に掲げた。
「お前らがドローン嫌い、SF嫌いだってことが。しかしな、見てろよ。今にドローンはミステリー小説を一変させるぜ。無音の、空飛ぶナイフ型ドローンなんてのが発明されてみろ。お前らの有り難がっている不在証明なんてのは、何の役にも立たない……」
「どんなマッド・サイエンティストの発明だよ」
「拙者は決してSFが嫌いなのではなく、しかし、ろくに世界設定すら作り込んでいないような作品を、SFと言い張って売り物にされている現状があまりにも羊頭狗肉であると」
「ハイハイ。そんな先の話より、まずは今の謎を解かなきゃ」
男子高校生の悪ノリを、照虎が軌道修正した。
「そもそも寝室にはマスターキーも使えなかったんだから。あの謎を解かない限り……」
「嗚呼……それなら大丈夫だよ」
「え?」
羊がそう言うと、他の面々がマジマジと彼を眺めた。
「大丈夫……って?」
「もしかして……解けたの?」
「解けたって言うか……鍵自体は何とでもなるんだよ。いくらでも前例があるし」
羊はのんびりと答えた。外から密室を作る方法。ミステリー作家の間では何十、何百通りと、今もなお研究が進んでいる。全く彼らの犯罪に対する熱量は凄まじい。
「何とでもなる?」
「ど、どうやったの?」
「簡単だよ。鍵を壊せばいい」
「は?」
「つまり……」
犯人は被害者を殺害し、そのまま鍵はかけずに寝室を出た。そして外から、接着剤を使うなり、釘を使うなりして、扉自体を開かなくしてしまえば良い。
「……扉を開ける時、壊して開けただろ? 扉が開かないフリをして、壊して開ける。その時仕掛けも壊れるってわけ。良くある手だよ」
「……そうなの?」
「そんな単純な……」
「他にも、外から鍵をかけて、排気口や扉の隙間から鍵を部屋の中に戻す方法とかね。氷を使った古典的トリックなんてのもあって。種類は限られるけど、上からつっかえ棒を下ろすタイプあるだろ?」
「嗚呼……たまにトイレとかで見かける……」
「つっかえ棒とストッパーの部分に、氷を挟んでおくわけ。時間が来たら、氷が溶けてガチャンと鍵が降りる。そして証拠は溶けて隠滅し……」
「もういい。お前らのその、自分の得意分野になったらベラベラ喋り出すのやめろ」
犬飼が半ば呆れたように羊たちを見た。
「延々と野球の話をしてやろうか」
「ごめんなさい」
「羊さん! ありました!」
そう言って、書斎の扉から兎子とりょうが飛び出してきた。誰かが死体をもう一度調べなければならないとなって、でも皆尻込みしていたので、結局、元幽霊の2人がその役に選ばれたのだった。りょうは羊の顔を見るなり、嬉しそうに顔を綻ばせた。
「扉の破片に、接着剤のようなものが!」
「ありがとう、おりょうさん」
「なるほどなァ。外から開かないように固定して、さも内側から鍵がかかってる、って演技をしていたわけか」
「それに……あの死体、何だかちょっと動いてたなァ」
りょうの隣で、兎子が欠伸をしながら言った。犬飼が目を丸くした。
「は?」
「実はまだ生きてたんじゃないの?」
「何言ってんだお前……首を切られて生きていられる人間が……」
「でも、ホントだもん。口から泡吹いてたんだよ」
「適当なこと言ってんじゃねぇぞ兎公」
「嗚呼……それは解硬だよ」
羊が苦笑した。
「死後硬直の後に、一度硬くなった死体がまた柔らかくなって、その時に口や鼻から……」
そこまで言って、羊ははたと固まった。頭の中で、パズルのピースがカチャカチャと埋まっていく感覚がする。羊は目を見開いた。
「待てよ……おかしいぞ……?」
「どうした?」
「そうか……そういうことだったんだ……」
「羊くん?」
「でもそれなら……4人なら可能だ。それで……それで足音がしなかったんだ」
「何だよ? 自分だけで完結するな。探偵の悪い癖だぞ」
「じゃあ……10年前の事件って言うのは……犯人はやっぱり……」
その時だった。
「君たち……」
不意に背後から低い声で呼びかけられた。廊下の向こう側、髑髏の描かれた日本画の方から。城之内達彦を先頭に、麻耶、それから管理人の2人が、ゆっくりと羊たちの方にやってきた。
「そこで何をしている? 危ないじゃないか……現場に近づいたら……」
良く見ると、管理人の手には、ボウガンのようなものが握られている。射出器だ。6人は息を飲んだ。
「こんなところを彷徨いて……殺人鬼が戻ってきたらどうするんだ?」
「達彦さん……あなた、やっぱり……!」
羊たちの間に緊張が走る。どう見ても友好的な雰囲気ではない。暗がりの中、達彦が、ニタリとぎこちない笑みを浮かべた。
「君たちもぉおっ、殺されてしまうかもしれないよぉぉぉっ!?」