episode F
「警察が到着するのは、やはりまだ先になりそうだよ」
携帯電話を片手に、達彦が苦虫を噛み潰したような顔でそう告げた。
外は再び吹雪き始めていた。
Jが岳の山頂と麓を結ぶロープウェイ、その唯一の移動手段は、今もなお壊れたままだ。さすがに警察や救助隊といえど、この吹雪の中で急勾配を登るのは容易ではなかった。
死体発見後、管理人の山下がすぐに警察に連絡した。今のところ電波は繋がっているが、しかし、またいつ途切れるとも限らない。羊たちはこの館に閉じ込められる形となった。
窓の外で、叩きつけるような風が部屋全体をガタガタと揺らした。リビングには全員が集まっていた。重苦しい雰囲気で、誰も一言も喋ろうとしない。それもそのはず……一家の主人である城之内俊哉が亡くなったのだ。
館に誰か怪しい者が侵入したのではないか。死体発見後、羊たちは手分けして館を探して回った。だが、結局誰も見つからなかった。侵入者はおろか、足跡も、凶器も、手がかりになりそうなものは何一つ出て来なかった。再び惨劇の舞台となった館は、何処までも続く白い闇で染められていた。
自分たちのいる部屋のすぐ近くに死体が転がっている……背筋が凍りそうになるのは、決して北国の大地のせいだけではなかった。現場は出来るだけそのまま保持した方が良いという羊の提案で、結局書斎は手付かずのまま放置されたままだ。
部屋の中央、さっきまで昼食が並べられていたテーブルには、一枚の文書が置かれていた。俊哉の書斎、ノートパソコンから見つかった一枚のWordファイルを印刷したもの……すなわち彼の遺した『遺書』だった。
『会社の経営が上手く行かず、莫大な借金を抱えているため、責任を取って命を断つ』
……遺書にはおよそそのような内容が書かれていた。日付を確認したところ、文書が作成されたのは数日前だった。達彦曰く、会社の経営が悪化しているのは事実で、実際この別荘も手放そうかと言う話も出ていたようだった。
「やはり……自殺じゃないか?」
皆が沈黙を守る中、達彦がポツリとそう言った。言いながら、チラチラと羊の顔を窺っている。
「だって、遺書も見つかってるんだし……」
「だけど、文書ファイルでしょ?」
兎子が肩をすくめた。
「手書きじゃあるまいし、そんなのいくらでも偽造できるよね?」
「じゃあ、鍵はどう説明する? 寝室はマスターキーもないし、中からしか鍵の開閉が出来ないんだぞ」
達彦が、今度は羊の方をはっきりと直視して尋ねた。
「なぁ、君は『犯人はこの中にいる』と言ったが、その根拠は何なんだね?」
「それは……」
羊は言い淀んだ。
「……俊哉さんは、首を切って亡くなっていました。手首を切るとか、腹を切って自殺する……と言った話は良く聞きますけど、自分の頸動脈を切って死ぬって言うのは、ちょっと」
死体を司法解剖すれば、自分で切ったのか、それとも他人に切られたのかは切り口で直ぐ分かる。しかしこの状況では、それは当分望めそうになかった。
「何だ、そんなことか」
達彦は少しホッとしたように表情を緩めた。
「しかし、無いとは言い切れまい。自殺の方法がおかしかったと言われても、世の中には髭剃りで喉を切って死ぬ人だって実際いるんだからな」
「だけど、これから死のうと言う人間が、前日に、密室殺人の謎をあんな風に話すものでしょうか?」
「それこそ分からんよ。自殺しようという人間の心理なんて」
「あれぇ、変だなァ」
兎子がたちまち目を光らせた。
「達彦さん、さっきから自分の父親が自殺であって欲しいみたい」
「そんなことは……!」
「オイ、兎子! 余計なこと言うな!」
犬飼がなおも食い下がろうとする兎子の首根っこを捕まえた。羊は仲間のじゃれ合いを横目に、その間にも、達彦の様子をそっと観察していた。
犯人は城之内達彦ではないか。
彼はそう思っていた。
先ほど『犯人はこの中にいる』と言ったのは羊だが、そうなると、容疑者は城之内夫妻か管理人の何れかと言うことになる。
理由は動機にある。
昨日今日、偶然この館にやって来た自分たちには、俊哉を殺す動機がない。それに、昨晩はリビングで犬飼と兎子が徹夜でチェスをやっていた。今回は足跡もなかったし、書斎の窓は閉じていた。外から侵入者がやって来て……と言うのも考えにくいだろう。部屋が荒らされている様子もないし、物取りの犯行ではなさそうだ。
すると、この中で一番俊哉を殺害する動機があるのは、息子であり、遺産を相続することになる達彦と言うことになる。考えてみれば最初からおかしな話で、見ず知らずの、遭難中の高校生を自分の別荘に招く……と言うのも何だか無理がある。
恐らく裏に理由があってのこと……自分たちに俊哉の死体を目撃させるためだったのだ。どう考えても自殺としか思えない状況で、家族以外の証言者が欲しい。それで、自分たちはJ角館に招かれたのではないだろうか。
さらには、10年前の事件のこともあった。あの事件も、もし内部に犯人がいる場合、容疑者となるのはあの時現場にいた客人以外の4人……すなわち今回の事件の容疑者と丸被りしているのだ。今回の事件と、10年前の事件……決して無関係とは羊には思えなかった。
しかし……そうなると問題が2つ出てくる。羊は間取り図を覗き込んだ。
仮に城之内達彦が犯人だったとしよう。
そうすると、まずひとつ目の問題は、①『どうやって殺したか』と言う点だ。
達彦の言う通り、寝室には鍵がかかっており、それは羊も確認した。仮にマスターキーを使って書斎の、一枚目の扉を開けたとしても、寝室の扉は中からしか閉められない。そして中には、無惨な死体となった俊哉がいるのみだった。
寝室には窓もなく、出入り口は一つしかない。10年前の事件と同じ方法で、扉の前からナイフを投げたのだとしても、被害者が寝室まで逃げ込んで鍵をかけた……と言うのも考えにくい。それなら10年前と同様、最初の扉付近に血が落ちていないとおかしい。今回、血は寝室にしか溢れていなかった。何より頸動脈を切られたら、約5秒で意識不明、12秒後には失血死だ。ベッドにたどり着く前に死んでいる。
この密室の謎を解かない限り、【自殺説】は覆せないだろう。
そしてもうひとつ。
羊が思わず口走ってしまった、②『犯人はこの中にいる』と言う点だった。
これが本物の探偵なら、水を得た魚のように大喜びするところだろうが。自分たちはごく普通の高校生なのだ。殺人犯がいるかもしれない中で、警察もしばらく来れそうもない。そんな状況で吹雪の山荘に閉じ込められるなど、ミステリーと言うよりもはやホラーに近かった。
だとしたら、犯人の目の前で『犯人はこの中にいる』なんて、格好つけて言うべきではなかった。羊は後悔した。これじゃ犯人を刺激しているだけじゃないか。『やっぱり自殺しか考えられないですよね』などとお茶を濁しつつ、警察が到着したらさっさと逃亡し、後は捜査に任せるべきだったのだ。それが名探偵の取るべき姿かどうかはともかく。
羊は間取り図から顔を上げ、恐る恐る達彦を見上げた。達彦は、自分が疑われているかも知れないと言う不安と、密室の謎は解けまいと言う自信と、半々が入り混じった表情を浮かべていた。
羊はごくりと生唾を飲み込んだ。なんてこった。自分たちはまんまと、殺人鬼が潜む館へと迷い込んでしまったのだ。