episode E
翌朝……いや、正確には翌昼というべきか。
目を覚まし、時計を見るとすでに10時を回っていた。中天に昇ろうかという太陽の光が、カーテン隙間から見え隠れする。明るい陽射しが目に沁みた。羊は布団の上に横になったまま、しばらくぼんやりと天井を見つめていた。
意識はまだ夢と現実の狭間を行き来していた。頭が朦朧として、体がズシリと重い。
明らかに寝不足だ。
昨日は結局5時か6時くらいまで起きて、特に何をするわけでもなく、携帯ゲームをしたり、ダラダラ漫画を読んで過ごした。せっかく北海道にまで旅行に来ておいて、やることはゲームと漫画という、これぞ究極の贅沢、意識の高い人間には決して成し得ない極上の余暇である。
どうやら北海道に来たからと言って、急に大志を抱ける訳ではないようだった。とは言え突然「昨今の日本の政治・経済は……」などと語り出す、そう言う目覚め方をするのもちょっと怖い。
やはり寝るのが一番だ。低い方に低い方に流されていく羊の弛んだ精神は、二度寝することを固く決意し、起きたのは結局、12時過ぎだった。
「おはよう……」
「おはよう、寝坊助さん」
最終的には空腹で目が覚めた。美味しそうな匂いに誘われ、重たい体を引きずってリビングに向かうと、なんとすでに他の面々は起きていた。ボサボサ頭の羊に気づいて、TVの前に座っていた照虎がほほ笑む。窓際で、相変わらず兎子とチェスをしていた犬飼も、羊を見てニヤリと笑った。
「今頃起きたのか、名探偵」
「……まさか、一晩中チェスやってたの?」
「嗚呼。今んところ、俺の34勝27敗だ」
中々良い勝負である。いやそうじゃなくて。
「私も1時過ぎまでは見てたんだけど、ね」
照虎がそう言って小さく欠伸した。
犬飼と兎子は昨日の話を聞いてから、何故か自分たちも今夜中庭を見張ると言い出し(若気の至りと言うやつだ)、結局リビングで徹夜したようである。
「安心して。ライトは反応しなかったし、別に変なものは見なかったよ」
「嗚呼……特に変わりなく、だな」
犬飼が少しがっかりした様子でポーンを動かした。彼らは一体何を期待していたのか。羊は呆れた。そう易々と変なものとやらが中庭に跋扈されては困るのだが。
伊井田は伊井田で、朝4時になるとログインボーナスを手に入れるためにスマホの前で待機していたし、昨日病に倒れていたりょうは、すっかり顔色が良くなり、今では食事を取れるまでに回復していた。
「羊さん! 本当にご迷惑おかけしました……っ!」
「良いのよ」
りょうが弾かれるように立ち上がって、深々と頭を下げ、羊の代わりに照虎が返事をした。まぁ、元気になったのなら何よりだ。羊はりょうの隣に座った。
テーブルにはすでに昼ご飯が用意されていた。羊がチーズフォンデュに焼き野菜を絡めていると、作業着姿の達彦がリビングに顔を出した。
「お、やっと起きたか」
そう言った達彦の表情はあまり優れなかった。昨日の豪雪でロープウェイが故障し、動かないらしい。
「部品もないし、復旧に二、三日かかるかもな……」
「食糧は十分買い込んであるから、安心して」
不安げな顔をする羊たちを見て、麻耶が殊更明るくそう言った。羊は窓の外を見た。空は晴れていたが、昨晩遅くまで降り続いていた雪のせいで、一面真っ白に染まっていた。
当初親に話していた旅行の予定から、すでに一週間が過ぎようとしていた。さすがにそろそろ帰っておかないと、怒られるどころでは済まないだろう。下手したら今後一切旅行の許可が降りない可能性もある。
「すみません、長々とお邪魔して……」
「気にしなくて良いのよ。私たちは良いんだけど、貴方達の方が心配ね。親御さんと連絡取れた?」
「今朝方、何とか」
雪が止み、朝4時ごろには携帯電話の電波も無事戻ったのだった。羊も一応親には生存確認の連絡だけ入れておいたが、どんな怒り心頭の返事が来ているか分かったもんじゃないので、未読スルーにしていた。
「そうだ、アレやってくれよ。昨日の推理ショー」
達彦が汗を拭いながら、キョロキョロとリビングを見回した。
「親父は?」
「まだいらしてないわ」
麻耶が首を振った。テーブルには俊哉の分も、まだ手付かずのまま置かれていた。
「朝食の時もお見えにならなかったし……またお具合が優れないんじゃないかしら」
「おかしいな。いつもなら朝の3時か4時には起きてるのに」
「えっ、そんなに早くからですか?」
驚く羊を尻目に、達彦が苦笑した。
「年寄りは寝るのも早けりゃ、朝起きるのも早いんだよ。ま、最近は体調を崩してて、午前中寝てることも多いけど」
昨日会った時は、そこまで体調が悪そうには見えなかったが……とは言え羊自身も今し方起きたばかりなので、あまり人のことをとやかく言える立場ではない。
「しょうがない。起こしに行ってくれよ」
「分かりました」
そう言って麻耶が丁寧に頭を下げ、リビングから出て行く。
「こう言う非常時こそ、焦りは禁物だ。怪我しちゃ元も子もない。ま、のんびり行こうや」
昼食に手を伸ばしながら、達彦が目を細める。羊は何となしに時計を見上げた。12時23分。それから数分も経たないうちに、麻耶が首を傾げながら戻ってきた。
「変ねえ。書斎にはいらっしゃらないみたい」
「そんな訳ないだろう。靴はあるぞ」
「でも、どんなに扉を叩いても、返事がないのよ」
困惑する麻耶の様子に、羊たちはソワソワと顔を見合わせた。何だか雲行きが妖しくなってきた。達彦は小さくため息をついた。
「まだ寝てるのかもな。山下を呼んできてくれ。マスターキーで開けよう」
「僕も行きます」
羊がそういうと、全員の視線が一斉に集まった。理由を聞かれる前に、さっさと立ち上がりリビングを後にする。妙な胸騒ぎがした。探偵としての勘……などと言う、ご立派なものではない。ただ単に、大勢に見つめられ、注目を浴びるのが嫌だった。
廊下を小走りに駆け抜けると、足元が壊れそうなほどギシギシ悲鳴を上げた。昼間だと言うのに、窓のない通路はやけに薄暗い。洋風の扉の前に立つと、羊は扉に手をかけた。
開かない。
確かに扉はビクともしなかった。
「どいて……どいて……」
それからドタドタと音がして、すぐに管理人の山下がマスターキーを片手に走ってきた。
「旦那様、失礼します……」
おっかなびっくりといった様子で、山下が扉を開けると、中に畳6畳くらいの書斎が現れた。
まず羊の目に飛び込んできたのは、正面の壁に並べられた、巨大な本棚だ。天井に届きそうな程の本棚に、外国語で書かれた分厚い本がズラリと並んでいる。彼には何と書いてあるのかさえ読めなかった。
「失礼しまぁす……!」
山下が肩をすくめながら、恐る恐る書斎に足を踏み入れた。羊も後に続く。入って左に窓、その前に机と椅子が並べられている。右側には再び同じような扉が現れた。
「山下さん、あれは?」
「あっちは寝室でさぁ」
山下が困ったように頭を掻いた。
「困ったなぁ。寝室は、マスターキーでも開かねえんだよ」
「え……」
「いたか?」
やがて達彦が書斎に顔を出した。山下が首を振ると、彼は寝室の扉の前で腕を組んだ。
「この中……か」
「中から鍵をかけられたんじゃ、どうしようもありません」
「寝室って、反対側に窓はないんですか?」
「ない。この扉しか出入り口がないんだ」
「もしかしたら、中で転倒して、気絶してるのかも……」
「親父! いるなら返事してくれ!」
達彦が扉を叩いたが、やはり返事はない。取っ手を回して見ても、扉はガンとして動かなかった。これはいよいよ怪しくなってきたと、3人は顔を見合わせた。
「どうします?」
「仕方ない……蹴破ろう」
結局は他のメンバーも呼んで、男子組で体当たりすることになった。
「せーの!」
頑強な造りだったが、3回目でようやく扉はミシリと音を立て、向こう側に倒れていった。
「親父! おや……」
寝室は真っ暗だった。向こう側が見えた瞬間、羊は饐えた鉄のような臭いを嗅ぎ、思わず顔を顰めた。
「おや……じ……」
一番先頭にいた達彦が、何かに気づいたようにその場で立ち尽くした。
「これって……?」
そこに有ったのは、死体だった。
シーツの上は、まるでバケツをひっくり返したみたいに、赤黒い液体で濡れそぼっていた。城之内俊哉氏の、もう二度と動くことのない、抜け殻となった死体。顔はすでに灰色がかっていた。カッと見開かれた目は天井の一点を睨んでいる。同じく開かれた口から、まるで獣のようにだらんと舌が垂れ下がっていた。
悲鳴と怒号が書斎に響き渡る。救急車を。いや警察だ。旦那様! とにかく連絡を……。
喧騒を何処か遠くの方に感じながら、羊はじっと死体を見据えた。激痛に歪んだその表情は、昨日最後に会った時よりもさらに老けて見えた。その首元に、小刀が落ちている。恐らく頸動脈を切ったのだろう。でなければこれほどの出血はない。
同じだ。
悲鳴と怒号が部屋に入り混じる中、誰かがポツリと呟いた。
あの時と同じ……10年前と。
10年前、この家の家長だった城之内蔵之介が殺された、あの時と。
あの時も確か、雪が降っていた。明け方、中庭には数10cmに及ぶ雪が積もり、その上に、犯人のものと思われる足跡が……。
「中庭はどうなってる!?」
城之内達彦が書斎の向かい側にある窓を開けて、中庭を確認した。羊たちも死体から目を引き剥がし、急いで窓から顔を覗かせる。そう、その時、羊は確かに確認した。中庭に面する窓に鍵はかかっていた。確かに、2枚とも。
「どうなってる……」
達彦の声は、次第に当惑を帯び始めた。目の前に広がる白銀の世界に、羊は目を細めた。
違う。
同じじゃない。足跡がなかった。現在は、同じ殺人事件だったとしても、10年前とは状況が異なっていた。今回の密室は、書斎だけでなく寝室にも、二重に鍵がかけられていたのだ。
そしてその中で、再び死体が発見された……。
「荒草くん……これって」
「オイ、羊……」
「…………」
不可能殺人。
呪いだの超能力だの、オカルトめいた言葉がふと頭を掠める。だけど、違う。10年前と同じ館で、同じ日に起きた殺人事件。決して偶然じゃないはずだ。
羊はゆっくりと皆の方を振り返った。できるだけ冷静に。合理的に判断を下さなければならない。皆の視線を浴びながら、羊は静かに、慎重に言葉を紡ぎ出した。
「……つまり犯人は、この中にいるってことです」