episode D
「……死亡推定時刻は夜中の2時から3時ごろじゃった」
俊哉は日本酒をくいと呷りながらそう言った。
「その頃は、ワシもまだ酔いが深くはなかったから、侵入者がいたらはっきりと見えたはずじゃ。しかし、警察は……」
「……酔っ払いの戯言だと取り合わなかった。そうですね?」
「うむ」
白髪の老人が残念そうに項垂れた。羊は黙ってジンギスカンを見つめた。
その日の夕方。
外はまだ雪が降っていた。結局、晩御飯までご馳走になった羊たちは、俊哉を囲んで、再び殺人事件の話になった。殺人事件の話をしながら食べる料理は美味しい? と照虎が半ば呆れたように皮肉を言ってきたが、殺人事件の話をしていようが、美味いものは美味い。
それも致し方ないことかも知れない。羊は羊の肉を頬張りながら思った。肉の旨さではなく、殺人事件の方だ。仮に自分が警察官だったとしても、酔っ払いの証言ほど当てにならないものはないと、早々に退けてしまうだろう。照虎が尚も冷たい目で羊を睨んだので、それからしばらくは話を切り上げて、羊たちは麻耶の手料理に舌鼓を打った。
「さて、私は一足先に部屋に帰らせてもらうよ」
晩御飯を食べ終わると、俊哉が早々にリビングを出て言ってしまった。時計を見ると、まだ18時過ぎである。羊たちが目を丸くしていると、俊哉は、
「歳を取ってから、眠りが浅くなった分、布団に入るのも早くなってしまったよ」
と苦笑した。何でも20時ごろにはもう寝ているらしい。10年前蔵之介が使っていた書斎は、現在は俊哉の物になっていた。
さすがに羊たちはまだ眠れそうにないので、食後もしばらくリビングに佇んでいた。伊井田は早速スマホゲームを、犬飼と兎子はチェスを始めた。羊は暖炉の前に陣取った。俊哉から借りた間取り図を片手に、頭の中でパズルを組み立てながら、ぼんやりとTVを見て過ごす。普段は目にすることのない、ご当地CMが新鮮で面白かった。
「すみません、こんな豪勢なお屋敷に泊めてもらって、晩御飯までご馳走になって」
「良いのよ。いつも同じ顔合わせだから、こっちも飽きちゃって」
頭を下げる照虎に麻耶が笑った。
「あ……帰ってきた」
不意に窓の外で、パッと電気がついて、麻耶が中庭を振り向いた。車のヘッドライトを当てたみたいに、中庭が煌々と輝いている。自動センサー……人が通るとセンサーが反応して明かりが点く仕組みで、羊の近所にも、同じものを設置している家が何軒もある。どうやら達彦が仕事から帰って来たようだった。
「この照明は、10年前も?」
「ええ」
羊の問いかけに、麻耶は頷いた。
「日没になったら、自動的に明かりが点くの」
なるほど、これなら今朝方、俊哉が言っていたことも頷ける。リビングからは玄関の様子が達彦の赤い防寒着まではっきりと見えた。動くものに反応するセンサーだから、侵入者が入れば一目瞭然だろう。
「ただいま」
「おかえりなさい。貴方、この探偵さんたちが、お義祖父様の事件を解いてくださってたのよ」
達彦は疲れた顔をしていたが、羊たちの顔を見ると、若干バツが悪そうに頭を掻いた。
「いやぁ、俺も騙し討ちみたいな真似をするつもりはなかったんだがね」
「いえ、こちらこそ危ないところを助けていただきありがとうございます」
照虎が、日本昔ばなしに出てくる鶴みたいなことを言った。達彦はどかっと椅子に座り込むと、麻耶の淹れたお茶を美味そうに啜った。
「親父から大方の話は聞いたんだろう?」
「ええ。密室殺人だったとか」
「まぁ、あれは親父が面白がって誇張してる部分もあるがね」
達彦は半ば呆れたように肩をすくめた。
「窓は開いてたんだから、完全な密室でもない。俺に言わせりゃ、推理ドラマの見過ぎだよ。実際問題、密室殺人なんて現実に起こるのかい?」
「それは……」
「まぁ……俺も、気味が悪いのは確かだ」達彦は憮然とした表情で唸った。
「警察は外部の犯行だと決めつけているんだが、実際のところ、まだ犯人は捕まっていないんだからな」
それから彼は身を乗り出して、全員を見回した。
「それで、探偵の諸君。謎は解けたかい?」
羊は仲間たちを振り返った。部屋は静かだった。伊井田はスマホの画面を凝視したまま、微動だにしない。犬飼と兎子は、軽く愛想笑いを浮かべただけで、すぐにチェスに戻った。照虎だけは、一応考え込む仕草をしてみたが、すぐに羊に目配せを送ってきた。まるで、考えることはお前の仕事だ、と言わんばかりに。羊は諦めて小さくため息をついた。
「……まぁ、その、ある程度は」
「えっ……本当かい?」
その答えを予想していなかったのか、達彦は目を丸くした。他のメンバーも意外そうな顔をして羊を見つめた。照虎も、片付けをしていた麻耶までもが、手を止めて聞き耳を立てた。静寂の中、TVの音と、暖炉のパチパチだけがやけに大きく部屋に響き渡る。羊はちょっと恥ずかしくなって縮こまった。
「いや、その……『誰が殺したか』ははっきりしませんが、『どうやって殺したか』くらいは」
「どうやって殺したって?」
「仮に、仮に内部の犯行だったとしたらですよ?」
顔が火照るのを感じながら、羊は必死に説明した。考えるのは好きだが、目立つのは好きではない。注目されるとそれだけで手に汗が滲んでしまう。人前で自分の意見を言うなど、もはや拷問に近かった。つくづく自分は探偵に向いていないな、と思った。
「……犯人はパーティが終わった後、廊下を渡り、蔵之介さんを殺害したわけです」
「……待てよ。しかし、部屋には鍵がかかっていたじゃないか」
「それに廊下には音が……」
「鍵は、閉めさせれば済みますよ」
羊はできるだけ平静を装って、淡々と告げた。ここで声が上擦ってしまうと格好がつかない。
「閉めさせる?」
「つまり、蔵之介さん自身に」
「あっ、そうか」
照虎が目を丸くした。羊は頷いた。
「そういうことです。犯人が誰だろうが、わざわざ管理人のところにまで鍵を取りに行く必要はない。犯人はパーティ後、何らかの方法で蔵之介さんを呼び出し、書斎の外に出るよう指示した。そして扉を開けた瞬間、ナイフで襲ったわけです。刺された蔵之介さんは……」
「咄嗟に扉を閉めた。それで密室が出来上がったのね」
「密室は偶然の産物だったってことか」
「そう考える根拠は?」
「当初、管理人の山下さんは扉の下から血が漏れているのを発見しました。つまり殺害現場は扉のすぐ近くだったということです」
「しかし、廊下の音はどうやったんだ?」
達彦はまだ納得がいかない様子で首を捻った。
「知っての通り、廊下は老朽化が酷くて、歩くたびに音が鳴るんだ。いくら忍足で書斎に近づいたところで、部屋の前を横切ったら、さすがに中にいる人間に気づかれてしまう……」
「待ってよ。じゃあ犯人は、新沼って人じゃない?」
兎子が横槍を入れ、たちまち目を輝かせた。
「ほら、書斎の一番近くに泊まっていた人! あの部屋からなら、誰にも足音を聞かれず、被害者を刺せるじゃない!」
「いや、そうとも限らないよ」
羊は首を横に振った。
「理論上は、全員に犯行が可能だ。あの日、あの館にいた全員に」
「え?」
「でも、どうやって?」
「ナイフは刺すだけじゃない。投げることもできる」
羊は皆の顔を見回して、持っていた間取り図をテーブルに広げた。
「これ見てよ。中庭が大体学校のプールくらいの広さだろ。事件当時、リビングに俊哉さんがいたとして……その手前の、トイレの端から書斎の扉まで、15mってとこかな」
「なるほど。まぁ、小学生クラスのピッチャーズマウンドから、ホームベースまでの距離ってとこか」
犬飼が野球部らしく例えたが、スポーツに疎いメンバーには話が入ってこない。
「大人なら十分届く距離ってことだよ」
「僕、届くかなぁ……」
「だけど、ナイフ投げの達人じゃあるまいし、そんな簡単にナイフが人に刺さるか?」
「何か射出器のようなものを使ったのかもね。ボウガンみたいな」
照虎が納得したように頷いた。方法は定かではないが、要するに犯人は決して書斎に近い人間だとは限らないということだ。
「これならリビングを横切って、書斎まで歩いていく必要もなくなる。玄関側にいる管理人にも犯行は可能だ。それから……城之内夫妻にも」
羊が達彦の顔を窺いながら説明した。達彦はしばらく目を丸くしていたが、自分にも容疑がかかっていることが分かり、ニヤリと笑った。
「なるほどな。確かに……この方法なら、内部からでも犯行は出来るみたいだな。オマケに密室も作れる。しかし、まだ謎は全て解けてないぞ」
羊は頷いた。あの足跡だ。
「足跡の謎はどう説明する? あれは一体何なんだ?」
「おそらく犯人が、外部の犯行だと見せかけるためにわざとやったんでしょうけど」
しかし、想定外のことが起きた。俊哉が朝までリビングで手酌をやっていたのだ。思わぬ監視者の登場で、犯行時刻、犯人が中庭を通るのは実質不可能になってしまった。
あの足跡の偽装工作……『誰がやったのか』までは特定できない。しかし、『いつやったのか』は、あの照明が教えてくれる。
「日没後はセンサーが作動するわけですから。つまり犯人は、日没前に、事前に足跡を作っておいた」
「日没前……?」
「だとしたら、客人二組には足跡は作れない。容疑者から外れるな」
「となると、犯人は、城之内家の人間ってことか?」
「ねぇ、俊哉さんが犯人ってことはないの?」
兎子が小首を傾げた。全員の注目が、今度は小柄な少女に向けられる。窓の外で風がごうごうと鳴った。
「中庭を見張ってたとか、廊下の音がしなかったなんてのは全部嘘で、さ。そうしたら俊哉さんにも殺れるでしょ? 結局金塊を手に入れたのも、俊哉さんだし」
「お前な……」
犬飼は、兎子の言うことだからとりあえず反論しようとして、しかし反論の言葉が出てこないようだった。羊が代わりに首を振った。
「嗚呼。だけど……仮に俊哉さんが犯人なら、わざわざ警察が外部の犯行だって言ってくれてるのに、10年前の事件を蒸し返す意味があるかな?」
「あ、そっか。せっかく容疑者から外れたのにね。それじゃ本末転倒だねえ」
「まぁ、動機はともかく……理屈の上では、あの日館にいた全員に、犯人の可能性があるってことか」
達彦が嬉しそうに白い歯を見せた。
「あの、あくまで内部に犯人がいるという、仮定の話ですけど」
「だが、少なくとも一歩前進だ。なぁ、明日、親父の前でそれ話してくれよ」
「なるほどなぁ。窓が開いてるからって、窓から逃げたとは限らないんだな」
「さすがは名探偵ね」
仲間たちに、特に照虎に褒められ、羊は顔が赤くなるのを感じた。
だが、同時に妙な違和感も拭えなかった。何だか最後の1ピースを見逃しているような……少なくともこれで全て解決したとは、彼には思えなかった。全てを説明し切れていない。何かが足りない。羊のパズルはまだ完成していなかった。何かを見落としているような……何か……何だろう? 喉元まで出かかっている。そう……それは、
「お風呂、沸きましたよ。さぁさ、皆さんどうぞ体を温めて」
麻耶がパンと手を叩いて、羊は我に返った。
風呂から上がっても、まだ21時前だった。こんな時間に健康優良高校生男児が眠れるわけがない。案の定羊たちは客間に戻ってからも、夜遅くまでダラダラと、何をするわけでもなく過ごした。犬飼と兎子などは、リビングでチェスの続きを始める始末だった。
この時点では、誰も、羊ですら予想していなかった。
まさか次の日、あのような怪事件に遭遇することになるなんて……。