特上本煉羊羹
「ひとまず甘味で釣ってはどうです?」
東郷は、自分の銘々皿に乗った羊羹を見て膝をトントンと叩いた。
「甘味、ですか」
「ええ。龍神さまと言えども、神前に供えられるのは米や野菜が多い。この様な甘味には目が無いのでは?」
輝子は既に三枚の皿の上から自分の腹の中へ消えた羊羹を思ってふむぅと唸った。
「確かに龍神さまはお好きかもしれません。よく練られて作られたこし餡に濃厚な水飴と寒天を合わせ、更に練られた事による歯に寸分の引っかかりもない餡。
舌先に伝わる糖の暴力とでも呼ぶべき、ビリビリとした甘味の刺激。
しかして口に広がっていくその香りは芳醇で、味わい尽くし、喉を通れば舌の根まで甘さで支配される。
最後に渋めに淹れた茶を啜れば、その余韻は得も言えず……ああ、食べたくなってきました」
「さっき、北山殿らが残した分を三つも食べただろうに……」
「わたくしとしては、糖化して表面に白い膜が張った羊羹の方がザラザラして凄く好みなのですが、皆さま糖化していない物の方が好まれるようでして。町の茶屋へ行ってもそのような物はなかなか置いていないのです……くすん」
「そうですか……で、この場にはあるのですか?」
「東郷さまのそれが、最後の一切れでございます」
輝子は大袈裟な言いっぷりでよよよっと泣き崩れた。
「流石に人に出された物を龍神さまに供えるわけにはいきませんか。足の速い者に買いに行かせたとして、村の者はほぼ町へ出向かぬ者が殆ど。使いに行かせて別の物を買ってきても困りますね。はてさて、どうしたものか」
考えを口に出しつつ、東郷は羊羹を一口分切り分けると口へ近づけた。
「ああっ!」
途端に叫ぶ輝子に東郷は手を止めると顔を顰めて尋ねる。
「……なんです?」
「いえ、何でも……ああっ!」
再び口元へ羊羹を近づけようとすれば、再び社務所に響く輝子の悲鳴。
東郷はため息をつくと羊羹が刺さったままの菓子切りを銘々皿へと置いた。
「輝子さま。まさか、輝子さまともあろうお方が人に出された菓子を強請るという、はしたない真似をするおつもりではないでしょうね?」
輝子は首をブンブンと振った。
「それなら良いのです」
すっと菓子切りへ伸びた東郷の手に、輝子の言葉が刺さった。
「お江戸には――」
「……」
「お江戸には、客は出された羊羹は食べてはいけないという風習があるようですね」
「……そのようですね。なんでも高級品故に客は押し頂くも手をつけず、茶だけを飲んで辞去するのが作法だとか」
「ええ。最終的に羊羹の表面に糖化した膜が張り、客に出せなくなった物はもてなしを行う主人の口に入るのだとか」
「なんとも馬鹿げた風習だと思いますね。出した物は客の口に入ってこそもてなしと言える。それを敢えて拒む姿はもてなしを受け取らない事と同義だと私は考えます」
東郷は菓子切りを摘むと、目をぱちぱちと瞬かせる輝子に向けて薄らと笑った。
「……東郷さまは作法がなっていないと言われることが恐ろしくありませんの?」
「輝子さまも知っての通り、私は都落ちした田舎者ゆえ、不作法の方についてはご容赦頂きたい」
そう言った東郷の菓子切りが持ち上がった瞬間、輝子はかつてない速度で畳を擦り寄り、東郷の袖をむんずと掴んだ。
「辞めぬか! はしたない!」
「後生ですから! 一口! 一口!」
「ええい! 離せ! 輝子さまのせいで、もう私の口は羊羹を食べる口になっているのです!」
「そこをなんとか! ――ああっ!」
輝子の奮戦虚しく羊羹は東郷の口へ消え、輝子はだばぁと涙を流しながら畳に崩れ落ちた。
「ふむ……ふむ。輝子さまの言う通りですね。滑らかな舌触り、このこし餡を作った者は余程腕が良いのでしょう。輝子さまのような女子供がビリビリとした甘味の刺激とも取れると言うのは、甘味の強さを煙草をよく吸う旦那に合わせているからでしょうか。
私のように煙草の刺激になれた舌に調整されたこの餡は舌先に繊細な甘みを感じさせ、かつ茶の味を引き立て邪魔しない。全く持って素晴らしい腕前です。これならば龍神さまも直ぐに出てきてくださるのでは?」
最後の一欠片が東郷の口に消えた後、東郷は名残惜しそうに懐敷のみとなった銘々皿を眺め、泣き崩れたままの輝子をチラと見下ろした。
流石の東郷も、一回りも下の女子を押し退けてまで菓子を食ったというのは少々バツが悪い。
「……悪かったですね。今度同じのを買って来ますから」
場の雰囲気に流されてしまったが、東郷の分を半々に切り分ける事もできた筈だ。あの場ではするつもりは毛頭無かったが。
「……都の韋駄天屋」
「はい?」
ボソリと呟いた輝子の言葉を東郷は聞き返した。
「……これは韋駄天屋の特上本煉羊羹です」
韋駄天屋。子供でも知ってるとても有名な和菓子屋だ。
帝の御用達を数多く納め、大名や家持ちの侍でもなければ棹売りはしないのだという。
併設された茶屋で庶民向けに切り分けられたものが売られていたが、それでも茶の一杯が付いて朱銀一枚(一両の一六分の一)はするという超高級品。金を持った地主並みの者しか通えぬ価格だ。
「……どおりで。そこらの羊羹と味が天と地ほども違う訳です。そんなら高級品、よく棹売りが手に入りましたね」
「北山さまが馴染みの侍から譲っていただいたとお聞きしました」
「北山殿か……只で譲ってもらう価格の菓子ではあるまい。何かその侍の弱みでも握りましたかね?」
全く、変なところに権力へのパイプを持っているものだ。東郷は何を考えているのか分からない北山の顔を思い出して顔を顰めた。
「私の村の者に使いを行かせるどころか、私が出向いたとしても韋駄天屋は棹売りはしてくれないでしょうね。これと同等の羊羹を売る店はなく、既に食べた物を龍神さまに供えるのは不可能。……いえ、でしたらこうすれば良いのでは?」
「何か案があるのですか? 東郷さま」
「ええ、少しばかり。耳を貸してください」
耳打ちを終えた東郷は、目を見開いた輝子へ向かってニヤリと笑った。
――――
「龍神さま、おやつの時間でございます」
本殿のそのまた奥、神の座す間にやって来た輝子は龍神が潜む大福のように丸まった布団の前に韋駄天屋の銘が入った桐箱をコトリと置いた。
「……おやつ?」
「はい。韋駄天屋の特上本煉羊羹でございます」
輝子の言葉に、ぴくりと布団が揺れた。
次いでもぞもぞと布団蠢き、合わせ目から子供の手がスッと桐箱へ向かって伸びる。
その手が桐箱に届こうかと言う瞬間、輝子はスッと桐箱を引き寄せた。
「……何をする」
目を向けずとも畳を擦る音で輝子が意地悪した事に気がついたのだろう。
龍神の潜む布団が不満そうに揺れた。
「お行儀悪いです。龍神さま。まずは布団から出て来てくださいまし。そうで無いならこれはお預けです」
布団の揺れがピタリと止まった。
「僕の食べ方にケチをつけるのか?」
ざわりと輝子の皮膚が粟立った。龍神の不満を汲んだ周囲の元素が神通力となって、輝子を屈服せしめんと襲いかかっているのだ。
だが、これに屈するわけにはいかない。輝子は気合いで跳ね除けると、桐箱を持ちすっくと立ち上がった。
「当然です! 誰が龍神さまの布団を洗濯していると思っているのですか! わたくし、羊羹のベタベタが着いた布団を洗うのなんて嫌です! 龍神さまだってベタベタのままの布団に丸まりたくは無いでしょう?」
痛いところを突かれたのか、輝子に掛かっていた圧力が急速に霧散した。
「し、しかし……」
「しかしも何もありません! 龍神さまが出てこないのなら、これは私が頂きます!」
そう言って部屋を出て行こうと踵を返した輝子に、龍神は慌てたのか、もぞりと布団を被ったまま立ち上がった。
「まっ、待てっ。そんな――あっ!」
だがそんな格好で慌てては布団の隅を踏むと言うもの。
龍神も多分に漏れず布団を踏みつけ、つんのめった先に伸ばされた手は倒れる体を支えようと、手のひらに当たったソレをむんずと掴んだ。
「えっ! きゃあ!」
そこにあったのは踵を返し、広がった輝子の白袴。
急に袴を引っ張られては輝子もバランスを崩し、尻餅をつくと言うもの。
一人と一柱は部屋の真ん中で仲良く倒れ込んだ。
「……痛たた……はっ! 龍神さまっ! 大丈夫ですか?」
放り出されて転がった桐箱に気に求めず、輝子が龍神に怪我はないかと慌てて振り向くも、龍神は布団を被ったまま、あらぬ方向を見たままだ。
「お、お怪我は無いですか? もしかしてわたくし、お尻で轢いちゃいました?」
感触からして大丈夫だと思うが、龍神さまの指先一本でも尻で轢くなど言語道断。
輝子は布団から伸びた龍神の手を丹念に赤くなっていないか確認してホッと息を吐いた。
「良かった。どこも怪我してなさそうですね。痛むところはありませんか? 龍神さま……龍神さま?」
「……のう、輝子。あれは、なんだ?」
「え? あれ、とは?」
輝子は龍神の布団の合わせ目から視線の先を推測して目線を移すと、はっと息を呑んだ。
そこには転がった桐箱の蓋と身箱。落ちた衝撃で開いてしまったのだろう。そして身箱の中にはある筈の特上本煉羊羹は影も形も無かった。
「お主、言ったよな? 韋駄天屋の特上本煉羊羹をおやつに持って来たと」
「は、はい」
「あれは、なんだ? ただの蓋と空の箱。その中身はどこだ?」
ざわざわと空気さえも騒めき、カタカタと部屋の調度品が鳴る。輝子の肌がぞわりと粟立った。
先ほど龍神が少し不満をあらわにした比ではない。これは確実に怒っている。
「お、恐れながら……」
「僕を謀ったのか? 輝子」
ぎんっと布団の中から覗く龍神の目に射すくめられながら輝子は叫んだ。
「恐れながら! わたくし、言いました。おやつの時間だと!」
「……時間?」
「本日お出しする予定だった羊羹は誤って東郷さまに食べられてしまいました! しかし、東郷さまがそれならば都の方へ馬で出向かないかと。早馬で駆ければさほど時間もかからずに韋駄天屋へ出向けます。
あそこの茶屋で熟練の茶師に淹れてもらった茶と共に食む羊羹は格別で何物にも変えられぬそうだと!」
射殺さんとばかりに輝子を睨みつけていた龍神の目が揺れた。
「……そうか」
家鳴りが収まり、極度の緊張感に包まれていた空気が緩和する。
輝子は咳き込むと、何度も荒い息を吐いた。
「龍神……さま?」
のそのそと部屋の隅へ戻った龍神は、輝子が来る前と同じように布団にきつく包まると腰を下ろした。
「僕は行かぬ」
「と、特上ですよ? 熟練の茶師が淹れたお茶ですよ? 中々飲めるものでは無いですよ?」
「行かぬと言った」
先ほど覇気は毛ほどもない龍神の声。
暫く声をかけ続けた輝子だが、帰ってくるのは同じ返答ばかり。
肩を落とした輝子は散らかった部屋を少しばかり片付けた後、部屋を後にした。
――――
「どうでした? 上手くいきましたか?」
本殿の中、神の座す間に通ずる廊下から出て来た輝子に、東郷は勇んで声をかけた。
「……いえ」
「……そう、ですか。良い案だと思ったのですが……」
「殺されそうになりました」
「は? どれをどのようにしてそんな事になるのです?」
「龍神さまに箱の中身を見られ、謀ったのかと疑われました」
話を聞いた東郷は持っていた煙管でトントンと頭を叩いた。
「失敗しましたね。龍神さまの興味を引くための小道具のつもりでしたが裏目に出ましたか」
「いえ、あそこで私が倒れてしまったのが悪かったのです。あれが無ければ、作戦は成功していました」
ずんと落ち込む輝子に東郷は首を振った。
「作戦を組み立てたのは私です。その成否の責も功も私にあります。それにまだ作戦の一つ目が失敗しただけです」
「そう、ですね……」
「そう落ち込まずとも……ふむ。では、全てが成功した暁には何か甘味でも奢りましょうか。何か褒美があれば前向きにもなれるでしょう」
珍しく優しい東郷に、輝子は儚く笑った。
「では、韋駄天屋の特上本煉羊羹と餡蜜のお茶セットでお願いします」
「……良いでしょう」
東郷は頬をひくつかせながらも頷きを返したのだった。