「『元婚約者』とは、縁なき二人を指すのです」
「あなた! パレードですよ、パレード!」
突然書斎にずかずかと入ってきたかと思えば、集中力を高めるためにせっかく閉じていたカーテンを払い、窓を勢いよく開ける。執務室の机に重ねてあった書類が吹き荒れる風に舞い上がる。
こんな時、二人のやり取りは決まっている。
王太子は飛び上がり、衝動のままに結婚相手の頬を殴りつける。呆然と頬を押さえた少女が、いつものようにわっと泣き出す。
そんなみっともない光景を見られたくもないので、せめて窓の近くから引きずって、再び手を上げる。
王太子アレクと王太子妃カサンドラは、おそらく国内でもっとも毀誉褒貶の激しい王族だった。
庶民にも開かれた国立の学園で王太子の心を射止めたシンデレラ、カサンドラ。そして、真実の愛に目覚めた王太子アレク。
そんな二人を前に、潔く身を引いた公爵家の令嬢、カノン。
王室が何とか作り上げた美談は、三年もすればボロボロだった。
学生の時は何者にも縛られず自由に振舞っている彼女の姿に胸をときめかせたが、実はそれは、肩書がなく無責任に振舞っていただけのこと。権力に付随する責任や仕事のことごとくを放棄して、遊び惚ける。
注意されれば、すぐに逃げ出し、時には讒言を用いて目付け役を遠ざける。
そんなことを繰り返しているうちに、優秀な家臣や官僚は、ことごとく第二王子の方へ移ってしまった。
それでも長兄の意地と体面を守るべく公務に励むのだが、カサンドラは権力だけは求めるのである。
権力を笠に、宮廷でパーティ、パレードと贅沢三昧。危険視した父親が、国庫から二人の予算を切り離したのは英断であっただろう。あっという間に枯渇していく財源に、悪びれもせずに増額を訴えてくる。
「もういいわ。あなたじゃ話にならないから。お父さまに、国王陛下に話を通してよ」
アレクが初めて手を上げたのは、その時だった。そしてアレクは、己がもうこの少女に微塵も愛情を抱いておらず、失望し、ただただ存在が邪魔だと思っていることに気づき、絶望した。
それでも外面はよいのだ。
実際、庶民の多くはカサンドラのシンデレラストーリーを夢見て、吟遊詩人に話をせがむ。尾ひれがついた出鱈目な物語が次々と生み出され、その内容はどんどん変質していく。
実直に執務の補佐をしてくれていたはずのカノンは、いつの間にか庶民を嬲ることが趣味の二面性のある嗜虐的な悪女に仕立て上げられ、抗議を続けていた宰相はとうとう、家督を息子に譲って引退した。
監督責任に自ら、などと囃し立てるのは政も知らぬ愚か者だけで、宰相は既に、この国を見限っているのではと貴族たちの間では囁かれている。
廃嫡されないのは、庶民のヒロインを汚さないようにする、王室の問題だからだ。隙さえあれば、様々な醜聞やあるいは直接的な危害によって、自分たちは排除されてしまうだろう。
その絶妙な綱渡りを、この女は理解しているのだろうか。一蓮托生で守ってやっている命は、なんて傲慢なのだろう。
執務の量に、精神がすり減らされる。国政に携われるような案件はほぼなく、与えられるのは陳情ばかり。実にもならない虚ろな仕事は量ばかりで、紅茶にいれる砂糖の量はどんどん増える。
イライラが続き、平手打ちした時のショックが、抵抗が減っていく。運動不足で息切れが激しく、下腹が出るようになった。剣術で、近衛兵一人倒すこともできなくなる。
アレクは愚かな女と、愚かだった自分を呪いながら生きていた。
パレードの話は、寝耳に水だった。隣国の皇太子の来訪というのが理由で、今夜夜会が開かれるという。
それを誰からも知らされなかったことに憤りを覚えたが、今更言っても始まらない。縮んだのか、締まりの悪い礼服を着て、会場に向かった。
パートナーは必須だった。しかし、カサンドラを差し置いて誰か連れていけるわけもない。そもそも、女子の方から断られるだろう。
昼には打擲した女の手を取り、エスコートしている自分を、どこか遠くで見ているような気分だった。
来訪した隣国の皇太子は、当然同列に扱われた。国の儀式に則り、最後に現れる。
その時、ざわり、と会場がどよめいた。
皇太子に手を引かれ、しずしずと歩いてくるのは、カノンであった。咄嗟に会場に視線を巡らせれば、暫く顔を出していない元宰相夫妻が目に入った。微動だにせず、娘の姿に涙を流している。
「あれぇ!?カノンさんじゃないですか!?」
カサンドラが頓狂な声を上げ、指差す。非常識に、皆が顔をしかめる。槍玉に挙げられたアレクは、自分の顔が羞恥に火照るのがわかった。
最も身分が低く、礼儀を知らぬ女を他所に、夜会が始まった。
形式的には夜会となっていたが、これはあくまで外交上の振る舞いである。一通り挨拶が終われば、国賓は、一握りの王族とだけ、席を共にし、外交を始める。
元宰相が、娘に深々と頭を下げた。外交上の当然の振る舞いであったが、見慣れぬ光景に会場がざわめく。
それに対し、娘のカノンは皇太子に目配せし、頷くのを待ってから、年老いた父をそっと抱きしめた。感涙にむせぶ、親子の再会だった。
ーーあの光景を作ってしまったのは、この女だ。
ーーこの女と、俺だーー
後悔はある。
だが、それ以上に理不尽だと思うのだ。自分は国を背負う、王太子ではなかったか。庶民との融和を実現させ、名を馳せるはずではなかったか。
それともーーあの、皇太子の隣にいる女さえいれば、堅実に、政を治める次期名君として、讃えられたのだろうかーー
カノンのことは気の毒である。申し訳なくも思う。
しかし、やはり、自分の置かれた状況に納得できない憤懣を、どうしてもこらえることができないのだった。
やがて、二人の番が訪れた。
「久しぶりですね、カノンさん!」
満面の笑みを浮かべるカサンドラに、声なきうめき声が漏れる。露骨に皇太子が顔をしかめ、控えている隣国の使節たちが、腰を落として柄を探っていた。
「申し訳ない。妻は浅学非才ゆえ」
「そうだろうな」
一瞥とともに、皇太子が言う。
ーーお前にお似合いだ。
心の声が聞こえる。
一瞬頭に血が上ったが、何とかこらえる。
「そして……その」
「初めまして、殿下」
カーテシーとともに一礼する、元婚約者。堅物だったあの頃と違い、ゾッとするほど色気があった。うなじからわずかに伸びた一筋の髪を、白い首筋に貼り付け、妖艶に笑う。
「カノンと申します。どうぞ、お見知りおきを」
呆然としているうちに、カノンは皇太子を見上げて、微笑んだ。それだけで通じ合っていた。
咄嗟に取った行動に、また会場がざわめいた。
「話っ!話はできないか!?」
アレクは気がつけば、地面に膝をつき、頭を下げていた。視線にはスカートの裾と、碧色に輝く靴がある。
ーー自分は何をしているーー
「五分でっ、五分でよいのだっ。どうか、俺と話をする時間を……」
「お止めなさい、殿下」
皇太子の声が、降り注ぐ。
「国を背負うものが、みだりに膝をつくものではありません。なにより、見苦しい」
二人はテーブルを避けるように、彼の脇を通り過ぎた。地面についた手が、ぶるぶる震えている。自然とそれが、握り拳を作った。
アレクとカサンドラの恋を実らせるために身を引く形となったカノンに、隣国の皇太子を紹介したのは王室だった。宰相も、聡明な異国の皇子に娘を託すことに決めた。
元々諸外国の情報を知るために留学もしていた皇太子とカノンは顔なじみだった。同じ時間を過ごすうちに、二人はすっかり打ち解けているーー。
「隣国では、私をスパイ扱いする方もいらしたのですが」
苦笑するのはカノンである。
「その辺りの疑惑は、この国の吟遊詩人らが打ち消してくれた。『歌の通りの悪女を、皇妃にと寄越すはずがない。そもそも実態が違いすぎる。よほど隣国の婚約者とやらは、見る目がなかったのだろう』と。そちらの吟遊詩人の歌は、『アレク殿下の僻み』と名付けられております」
キレのある皇太子の掣肘に、乾いた笑みを浮かべる王族。アレクは末席にて、それを聞くだけである。
カサンドラはその場にふさわしくないとして、夜会のマナーを咎められ、退出させられた。
それでも自分が座らされているのは、お情けと、見せつけるための半々だろうと見当をつける。
見れば見るほどに、カノンは美しかった。元からあった宝石は、隣国の皇太子によって磨き上げられ、自分の記憶の輝きをも霞ませてしまう。
しかしその宝石は、もう自分のもとにはない。あるのは思い出と、模造品の宝石だけだ。
だが何より彼を傷つけるのは、カノンがアレクを一顧だにしないことだった。
婚約者だったのに、その親しさがどこにもない。初めて出会った赤の他人のような振る舞い。
そこには後ろめたさや、こそこそとした感じがなく、あくまでも自然体で、アレクをそのへんの石のように扱っている。
婚約者という同じ立場で、自分と皇子は、こうも違った。名ばかりの婚約者。アレクは、屈辱に震える。
「ただ、結局のところ、二人がどちらともなく歩み寄らねば、何も知ることができないと、私は思いました。婚約者であるカノンにしろ、彼女の祖国であるこの国、私にとっての隣国にしろ、です。国と人を一緒に考えるのは大きすぎる話ですが、私は貴国をこれから好きになるべく、もっと知りたいと思うのです」
「皇太子殿下のお言葉、感謝いたします」
アレクの耳には、もう何も入ってこない。
夜会の会場は、ダンスフロアに場を移していた。どこかのバカな貴族の男が、女を振り回して笑い合っている。
その馬鹿な女こそ、カサンドラであり、自分の妻だった。肌がぶつかり合うのも構わずに、子どものようにはしゃいでいた。
アレクは踵を返した。
宮廷を、自分の庭のように歩き回ったのは、遠い昔のことのように思える。お気に入りの場所に、許婚である女の子を連れてきて、宣言した。
『僕はいつか、誰からも愛されるような立派な王様になる!だから、キミもついてくるんだ!』
「殿下は女性の手を引っ張ることは好きでも、歩み寄るのは嫌いでしたね」
夜風の中に、誰かの声がする。見回しても誰もいない。
自分の頭の中で、最後の自負が、プライドが、カノンの声を借りて語りかけているのだ。
「元婚約者というのは、婚約者であったことを指すのではありません。二人の関係が終わったということを示すだけです。私が新たな婚約者を見つけるより、貴方のほうが早かった。けれど、どうしてあなたは、貴方の今のパートナーを愛してあげられないのですか?」
「カサンドラは……そんな女じゃなかった」
それに値する女ではなかった。
「それも、殿下の思い込みではありませんか?」
「お前がそれを言うのか?カサンドラによって婚約者の地位を奪われた、お前が?」
「私が思い、慕う方は他におります。……貴方ではない」
声が消えた。
気がつけば、彼は自分の部屋に戻っていた。アレクの手には短剣があった。
その刃を、軽く首筋に当てる。どくん、と力強く跳ねた場所があった。
アレクはそこに短剣を突き立て、肌の中から刃を走らせた。