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6.冷たい麦畑

 ルフオノイアは、大陸随一の芸能都市である。


 その規模の肥大と同時進行した腐敗の中、踏みにじられ続けた下層階級の尊厳を取り戻そうと、特権階級の転覆を狙った革命勢力の動きが、この十年来激しさを増していた。




 『街』から離れたある村に住むオーリエ・ヒールは、今年で二十四歳になる。


 十年前から居候している家の、同い年の長男から、ある朝求婚された。


「私を、ですか。でも……」


 オーリエは、ある少年の手引きで十年前に歌劇団から抜け出し、彼の故郷である村のこの家へ逃げて来た。


 オーリエに求婚した長男はその少年の幼少期の親友であり、一家は何も言わずに彼女を匿ってくれた。


 早くからオーリエに惹かれていた長男が、これまでそれを隠して来たのは、ひとえに親友への遠慮からだった。過激な私兵を持つ歌劇団からの逃亡は、手引きした者も只では済まないから、当時十四歳の親友は特別な好意をオーリエに寄せていたに違いない。しかし。


「君が、あいつ――ジレルのことを気に掛け続けているのは知っている。俺もそうだ。でも、もういいとも思う」


 彼はオーリエを逃がそうとした際に、歌劇団の私兵の矢で頬をえぐられた。あの鮮血に染まったジレルの顔を思い出すと、オーリエの胸は今でも詰まる。『街』に残った彼は、どうなっただろう。


 長男は、返事は待つと伝えた。




 その夜、オーリエの部屋の窓をノックする者がいた。


 窓の外の人影の頬には、大きな傷があるのが見えた。


 暗闇の唇が、「僕だ。ジレルだ」と動いた。


 オーリエは転がるように家から出た。


 長男は、半開きになったドアが風に軋む音で目を覚まし、外へ出てみると、悲鳴が聞こえた。家の横の麦畑で、オーリエが黒い影に組み敷かれている。


 長男を見て、影は逃げた。


 地面に横たわるオーリエの顔は叩かれて腫れ、服は破れていた。長男は激高したが、


「待って。あの人、ジレルなの」


 泣きながら、オーリエが長男を止めた。


 ――馬鹿な。しかし、歌劇団の連中の私刑は、想像を絶する過酷さだと聞く。


 ――親友は、奴らに捉えられ、心を壊され変質してしまったのか。また、どうやら彼女は自らドアを開けて出て行った……


 オーリエだけでなく、長男もまた、深く打ちのめされていた。




 夜が明けた。


 オーリエは部屋から出て来ない。


 朝食時に、来客があった。客が名乗ると、長男は絶句してから唸り声で告げた。


「ジレル。今更何しに来た」


「済まない……オーリエは?」


 長男の嗜虐心に、一気に火がつく。


「会わせると思うのか。俺達は結婚する。お前の友人も居場所も、もうここにはない。消えろ、不幸の種め」


 ジレルは「……そうだな。今更だった。幸せに」と呟いて去って行った。


 長男は、唾を吐いた。




 二ヶ月後のある日、一人の中年男が長男とオーリエを訪ねて来た。


 男は革命兵の一員だと名乗った。


「あなた方には言っておきたくてね。ジレルなんですが、あれは歌劇団から長く拷問を受けていました。根城やらを聞き出す為、自白剤もたんと打たれて、ぼろ雑巾のようになって、用済みだと放り出されたのが二ヶ月前です」


「……ふん」


「ここへ来たでしょう。他に身寄りもなかったようだし。で、この間、あれは『街』の裏路地で野垂れ死にました。内臓が薬と栄養失調でほとんど駄目になっていたから、別にあなた方のせいじゃない」


「……何が言いたい」


「ひと月ほど前、『街』で小競り合いがありましてね、その時に拷問屋くずれのゴロツキが吐いた。ジレルの自白の時に、昔逃がした元歌姫が郊外にいることを聞いて、少々役得しようとその女を襲いに行ったとね。そいつはジレルと似た頬傷があったので、夜なら女を騙して油断させられるだろうと。皮肉なことに、どうやらその翌日に本物のジレルがここへ来た。長くはないと自覚して、最後にお二人に、ね」


 二人は息を飲んだ。長男はオーリエを襲った男をよく見ていない。オーリエは翌朝来たジレルを見ていない。


「なあ、ジレルはそれを……」


「死ぬ二三日前に知りました。あなた方には教えるなと言われたがね。彼の戦いは、特に逃亡者であるお嬢さんの為だった。歌劇団は我々の相手に忙しく、一度逃げてしまった者を追う暇はなかった。この村は平和だったでしょう」


 長男は、絶句して震えた。


 自分はあの日、ジレルに何と言った。彼は、何と言った。


「あの若者はね、馬鹿です。でも我々の求める平和は、利口では追えない」




 男は去った。


 立ち尽くす二人の前には、麦畑が十年来と同じに、風に揺れながら広がっている。




 二人の心中とは、あまりにも裏腹に。


 そこには確かに、静かな平穏が湛えられていた。


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