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5.丘の上の名前

 月夜の石畳の上で、一匹の野犬を前に、私は微動だに出来ずにいた。


 十四歳の夏。大陸でも有名な水上都市、ルフオノイアの劇場の歌い子として稽古に明け暮れていた私は、密かに月光浴をするのが唯一の楽しみだった。


 けれど、路地裏になど立ち入るんじゃなかった。泣き出しかけたその時、私の後ろから人影が飛び出して、野犬に踊りかかった。


「逃げろ!」


 けれどそう言う人影は小柄で、すぐに野犬に圧倒されそうに見えた。私は夢中で、木靴を脱いで野犬に投げつけた。それが鼻先に命中し、野犬は弱々しく鳴いて走り去った。


「凄いね。僕、格好悪いな」


「そんなことない。有難う」


 月明かりが照らしたのは、痩せた少年だった。苦笑いするその表情が、なぜか月よりも 明るく見える。


 彼は、クフロといった。




 私と同い年のクフロは、家具工房『ベル・フーチ』の見習いだった。籠の鳥の私とは違い色々なことに詳しく、私の夜の息抜きは彼とのお喋りに変わった。彼も同世代の友達が他におらず、二人で毎晩の様に話した。


 ある休日の午後、クフロは街の裏山にある丘へ私を誘った。丘から街を見下ろして、私は


「綺麗ね……」


と呟いた。


 でも、白と煉瓦色の混じった街並は、見た目程には平和ではなかった。革命軍の兵士が潜んでいるという噂で、貴族警察もボウガンの常時携帯を許可されている。


「怖いことが起こるのかしら」


「君は守るさ。いつかここから、二人で平和になった街を見ようよ」


 丘に吹く風の中で、私達は寄り添った。


 お互いに たった一人の友達。いつまでも、彼の傍にいたいと思った。




 夏の終わり、街に騒ぎが起きた。ベル・フーチの棟梁が革命兵を手引きした罪で、警察に連行された。関係者は皆容疑者だとして、クフロにも手錠が掛けられた。


 目抜き通りを警察に引かれていくクフロに、私は駆け寄った。しかし、私まで巻き込むことを恐れたのか、彼が視線で私を制した。


 立ち竦む私に、傍にいた大人が気の毒そうに告げた。


「友達かね。記録も残さず、薬殺されるよ」


「いいえ。クフロは悪いことなんてしてない。すぐに戻るわ」


 自分に言い聞かせる声は、頼りなく震えた。




 それから、私は何度もあの丘へ行った。工房が閉じた今、クフロが帰った時に会える所はここしか思いつかなかった。


 でも、誰も いない丘は、何度訪れてもただの空き地でしかなかった。


抱く期待は僅かなのに、裏切られた時の傷は容易く私の胸を両断する。一年も経つと、私は耐え切れなくなって丘へ行くのをやめた。


 こんな思いをするなら、いっそ出会わなければよかったのだと、何度も泣いた。




 五年が過ぎた頃。


 劇場で私を見初めたという若い貿易商が結婚を申し込んで来た。


 彼の純粋な好意と優しさに、知らずささくれていた心が癒されていく感覚は心地よかった。半年程して、私は求婚を受け入れた。


 相変わらずの治安の街を離れ、私は彼の故郷で嫁ぐことになった。


「離れる前に、寄りたい所はあるかい」


 彼にそう言われたが、この街に格別好きな場所などない。


 ……でも、忘れられない風景が一つだけ ある。


 丘に着くと、以前よりも少し草が伸びていた。


 相変わらず、見た目だけは綺麗な街が見下ろせる。


「こんな所があるんだね」


 彼がそう言い、続けて、


「シンシア。あの椅子は、君が置いたの?」


 私は、身動きが出来なかった。


 二つの木製チェアが、街の方を向いて置かれている。


 彼が椅子に近付き、背もたれに彫られた文字を読む。


「”ベル・フーチ謹製 Kuflo”……こっちには、”Cynthia”。君の名だ」


 胸が痺れ、眩暈がした。


 生きている。


 この世界のどこかで、クフロは呼吸をしている。


 涙が溢れた。


 なぜ私はここへ来ようと思ったのか、その理由が今解った。


 私を守ると言ったクフロ。傍にいたいと思った私。


 友達だった。でもあれは、恋だった。幼すぎて気付かなかったけど、あれが恋だった。


 初恋のまま取り残された私の恋に、私は会いに来たのだ。


 静かに、彼が傍に立つ。私は涙声を絞った。


「ご免なさい、私、どうしていいか判らなくなってしまったの……」


 勿論、彼を断ってクフロを探すことなど出来ない。けれどただとにかく、私は自分の胸も意志も今この時、粉々になってしまったのを感じていた。


「なら、何でも出来るさ。会いたい人を探すだとか」


 驚いて、私は彼を見た。


「そんなこと……」


「僕だって、どうしたらいいのか判らないのだぜ。そんな君を見るのは初めてだから」


 そう言って苦笑する。




 この冷たい世界の中で、人の想いなど一体何程のものだろう。


 でも、一度 は呪った出逢いすら間違いではないと、気付かせてくれたのも人の想いだった。この名前のある椅子が、ここでそう唱え続けてくれていた。


 それは、眼下の虚ろな街よりも、遥かに確かだった。


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