#77:私と彼の不可解な関係(後編)【指輪の過去編・夏樹視点】
五月のゴールデンウィークが過ぎた頃、やっと「今夜夕食を食べに行く」とそっけないメールが届いた。
一ヶ月半ぶりの連絡に、ホッとして喜んでいる自分の恋心に、無性に裏切られた感じがした。
そこは、今頃何しに来る訳? とか、先約がありますので……とか言って、断るべきでしょ!! と、自分自身に無駄な突っ込みをしてみるのだけど、恋する乙女は犬みたいなものだ。忙しいご主人様が気紛れに呼んでくれただけで、尻尾を振ってしまう。だから、軽く見られているのかも知れない。
久々に私の部屋を訪れた彼は、仕事帰りのためにスーツ姿だった。今までも私の部屋へ来る時はそうだったから別に驚きはしないのだけど、ファッションにそれほど興味も知識も無い私が見ても分かる程、上等のスーツだった。腕時計も今までの物とは違っていた。
でも、何より驚いたのは、少し伸びた髪を後ろへ撫でつけた様な髪型とチタンフレームの眼鏡。一瞬「誰?」と呟いてしまった程で……。彼は驚いた私を見て、慌てて眼鏡を外し胸ポケットへそれをしまったのだった。
「いらっしゃい」
祐樹さんが眼鏡を外した顔を見てホッと息を吐き、彼を迎えるべく言葉を口にした。
私の大好きな、懐かしいあの笑顔で「おじゃまします」と、勝手知ったる我が家に、いつものように上がり込んだ彼。
一ヶ月半ぶりなのに、あの笑顔を見せるなんて、ずるい。
私が諦めようとすると近づいて来た今までの様に、彼はまるでタイミングを計ったかのように、一ヶ月半ぶりに私の前に現れた。
LDKへ入ると、キョロキョロと見回している彼は、何かを探しているのだろうか?
それとも、私の部屋の様子を忘れてしまったのだろうか?
もしかして、どこか別の人の部屋と見比べているとか?
彼が来なかった一ヶ月半の間、この部屋は何も変わっていないはずなのに。
彼はやっぱり来なかった一ヶ月半の言い訳はしなかった。私も訊きはしないけれど。
彼にとっては当たり前の事、飽きたから来なくなった。気が向いたから来てみた。それだけの事。
私達はお互いこの一ヶ月半が無かったかのように、今まで通り食事を始めた。そして、何か話さなきゃと思っていた私は、私達二人の共通の友人、舞子と圭吾さんの初めての子供が三日前に生まれた事を話し出した。
「もう聞いた? 舞子と圭吾さんの赤ちゃんが生まれた事」
私は食べる手を止め、並べられた料理から目を上げると、舞子のハイテンションな話を思い出しながら楽しげに話しかけた。
「ああ、女の子だろ?」
彼は食べる手を止める事無く、目線だけこちらに上げてそう答えた。
「母子共に元気で良かったよね。圭吾さんもメロメロだろうね」
私もまた食べる手を動かし始めながら、チラチラと目の前の彼を盗み見る。
「電話してきた時は、すっかり親バカだったよ」
彼はニヤリと笑って答えた。
「もう、赤ちゃん見に行った?」
「まだだけど……、一ヶ月ぐらい経ってからマンションの方へお祝いを持って行こうかなって思っているんだ。あまり早く行くと迷惑だろ?」
「え? そうなの? 私、明日の土曜日に病院へ行こうと思っているのに
。迷惑かしら?」
「いや、女性ならいいと思うよ。どうも産婦人科は独身男性には敷居が高いよ」
彼はちょっと困ったような顔をして言った。
そうかもしれない。自分の奥さんが出産したのならいいけれど、独身男性には無縁の世界だもの。
でも、女性にとっては、出産以外にもお世話になるところだから、それほど抵抗は無いのかもね。
「よかったら、祐樹さんも一緒に行く? 明日」
独身の彼には敷居の高い場所でも、誰か女性と一緒なら入れるかもしれないと思って、提案してみたけれど、考えたら、私と祐樹さんが一緒にお祝いになんか行ったら、舞子はどう思うだろう? 偶然に会った事にすればいいか。
「残念ながら、明日は仕事なんだよ。せっかく誘ってくれたのに悪いな」
彼は苦笑しながらも、真面目に断った。相手を不快にさせない断り方を彼はちゃんと心得ているのが、少し憎らしかった。
「そうなんだ。仕事忙しいんだね? それに目も悪くなったの? さっき眼鏡かけていたみたいだけど……」
今日、この部屋を訪ねてきた時の彼の変化について、訊いてみる。彼の事はいろいろ訊きたいけれど、根掘り葉掘りも訊けない。少しずつ何かのついでの様に訊くことしかできない。
「ああ、会社変わったからめちゃくちゃ忙しくなったんだよ。眼鏡はね、伊達眼鏡だよ。眼鏡をかけている方が、落ち着いて見えるらしいんだ」
彼は胸ポケットから眼鏡を取り出してかけて見せてくれた。確かに落ち着いて見えるかも知れない。でも、落ち着いて見える必要があるのだろうか?
それに……、会社変わった? 転職したの? いつ?
「転職したんだ?」
私は心の動揺を悟られないように、落ち着いて質問した。
すると彼は一瞬ハッとした表情をして、バツが悪そうに「四月から別の会社に移ったんだ」と話した。
確か前の会社は、舞子のご主人の圭吾さんのお父様が社長をしている会社だったはず。結構業界では大きい会社だったと思う。なのに、そこを辞めてどんな会社へ入ったのだろうかと訊いてみたら……。
「え? 今度の会社? 浅沼コーポレーションだけど……」
彼は知っているか? とでも言うように、私の目を見た。その時、私が驚いた顔をしたのに気付いた彼は、「何かあるのか?」と怪訝そうな顔で訊いた。
「ううん。あんな大きな会社に中途入社できるなんて、すごいね」
「まあね、ヘッドハンティングみたいなものかな?」
……と彼は、自慢気でもなく、普通にスルリと言った。
浅沼さんの会社だ。社名を聞いた時、真っ先に思ったのはその事だった。だけど、その事は、浅沼さんにも雛子さんにも言うつもりは無い。最近彼の評価が下がっていた事もあって、彼自身が社長さんにそんな事で名前を覚えられたくないだろうと思ったから。
転職した事も恋人なら、ううん、友達だって、もっと早くに言うよね? やっぱり、私はその程度の付き合いなのだと思い知らされる。ただ、三月の終わり頃に食べに来たきり今日まで来なかったのは、今思うと転職して新しい会社に早く慣れるため仕事が忙しかったのかなとは想像できた。けれど、それまで最低でも週一で夕食を食べに来ていた彼が、約一ヶ月半の間食べに来なくて、その上、行けない言い訳メール無く、こちらからもお尋ねメールさえ怖くてできないまま、時が過ぎた。もう私の料理に飽きちゃったのかな……と思い悩み、毎日鳴らない携帯ばかり気にしていた日々を思い出すと、腹が経つのを通り越して情けなかった。
私はいったい彼にとって何だろう?
友達? メシ友? それとも、飯炊き女?
「何?」
目の前で美味しそうに食事する彼をぼんやりと見つめて、考え込んでいた。私と彼の関係を……。
私の視線に気づいた彼に、そう尋ねられて、我に返った。
一ヶ月半ぶりの来訪なのに、そんなに時間が経ったなんて思いもしない程当たり前に、目の前で私の作った料理を食べる彼。
「ううん、何でもない……。ただ、良く食べるなって、思っただけ……」
本音はいつも軽口で隠して。でも、彼は私の気持ちに気付いているはず……。
それなのに、そんな事おくびにも出さずに、相変わらずよく分からない関係のまま、私の手料理を食べに来る彼。
「ただ飯食らいとか思っているんだろ? それとも、俺に見惚れていたとか?」
ニヤリと笑う、自意識過剰男。
う、自惚れるな!!!!
「べ、別にただ飯食らいなんて思って無い。それに、あなたなんかに見惚れるはず無いでしょ!!」
熱を持ち始める頬を自覚しながらも、天邪鬼で返すことしかできない私。目の前で大笑いしている彼。
いつの間にか敬語も使わなくなった。それは、喋る機会が増えた所為。
はぁー、どうしてこんな事になったのかな。
もう一度、目の前で食欲を満たすために、食べる事に集中している彼を覗き見る。
何気に食べ方が綺麗なのよね。……その箸の持ち方と言い、茶碗を持つ手と言い。その背筋を伸ばした姿勢から、物を含んで噛む口元から、どこか上品さが漂っている。
「食べ方綺麗だよね。箸の持ち方とか……」
つい口から出てしまった。目の前で食べる姿を、無意識に観察してしまう。
「え? 俺?」と訊く彼に、そうだと頷くと、何でもなさ気に彼は答えた。
「小さい頃から、祖母さんに叩き込まれたからな。食事のマナーは。普段は優しいのに、食事中は鬼に見えたよ」
そう言って彼は思い出したようにクックと笑った。
「へぇ、祖父母と同居だったんだ。意外にお祖母ちゃん子だったりして……」
彼が自分の事を話してくれたのが、何となく嬉しかった。
「お祖母ちゃん子と言うより、祖父さんの追っかけしていたかな?」
「お祖父さんの追っかけ?」
「そう、子供心に祖父さんをヒーローの様にカッコ良く思っていて、いつも後を付いていたらしい。今じゃあ、小憎らしい年寄りなのになっ」
そんなふうに言って笑う彼は屈託が無くて、祖父母を大切にしているのを感じられる。
そんなたわいもない会話をしながら、私達は空白の一ヶ月半の時間を無かったかのように食事を続けていた。
「やっぱり夏樹の作る料理は美味しいな」
ポツリと漏らした彼の言葉に、一瞬固まる。
それは、本音? それとも一ヶ月半の間何の連絡もせず、今まで来られなかった言い訳もせずに手料理を食べに来た事を、誤魔化すため?
食べていた手を止めて顔を上げれば、優しい笑顔が私を見つめていた。
言えるのだろうか? こんな彼に……。
自分のこの想いを告げる事が出来るのだろうか?
確かに雛子さんと話した時は、彼にこの想いを告げて砕け散るつもりだった。
突然、一ヶ月半ぶりの来訪に戸惑い、また変身した彼の姿に戸惑い、そして、一ヶ月半も前に転職していた事実に、いや、その事実を今日まで教えてもらえなかった事に、彼の自分に対する気持ちが読み取れてしまって、呆気なく砕け散ってしまったのだった。
なのに、もう二度とここへ来ないでと言う元気も無く、ポーカーフェースを保てていたのかも良く分からないけれど、何とか作り笑顔でお休みなさいと彼を見送った後、これでもう本当に最後にしなくちゃと自分に言い聞かせていたのだった。
2018.2.1推敲、改稿済み。