#72:玲子おばさん【現在編・夏樹視点】
こんにちは、いつも読んでくださり、ありがとうございます。
今回は現在編・夏樹視点です。
35歳の夏樹と祐樹。誕生日から10日程過ぎたところ。
養母である玲子おばさんに、結婚のご報告と相談をする夏樹。
月曜日、定時に仕事を終えて会社を出ると、まだ明るい夏の夕暮れ。梅雨は明けたものの、昼間の太陽で熱せられたアスファルトと、ビルのコンクリートから発せられる熱は、辺り一帯の空気を暖め、むっと体を包んだ。それでも、そんな不快感も気にならないぐらい、昨夜から頭を悩ませている事で私は一杯一杯になっていた。
今日、祐樹がもしも来てくれたら、話さなくちゃいけないのに……。どうしよう? やはり、母の事だけ話して、父は死んだ事にした方がいいよね? それとも……。
同じ事ばかりぐるぐる考えるだけで、解決の糸口さえ見つからない。
でも、出来るだけ祐樹には正直に話したい。全ては無理かもしれないけれど。だって、指輪の話とか信じて貰えないよね。
正直に……それだけは決まっている。だったら後は祐樹を信じて話すしかない、よね?
家に帰ると閉め切った部屋は、外と同じように昼間の熱でむっとしていた。窓を開けて空気を入れ替えてから、エアコンをつける。デジタルの電波時計に表示された室温は35度にもなっていて、体温と変わらない暑さにますます暑く感じてしまった。それでも、シャワーを浴びている間にエアコンが頑張ってくれたおかげで27度まで下がり、やっと人心地ついたのだった。
昨夜からなかなか考えがまとまらなかったのは、暑さの所為だったのかも知れない。やっと気持ちの良い温度になると頭の中もスッキリして、あれこれ考えるより、とりあえず玲子おばさんに電話して、相談に乗ってもらおうと決心すると、エアコンで下げられた室温の様に、私の脳内温度も平常値になったようだった。
夕食を終えた後、玲子おばさんに電話をかける。約十日ぶりなのに、なんだかずいぶん日にちが経ったような気がした。十日前に電話で話した内容と、今日話す内容は180度も違う話だからだ。
「もしもし、玲子おばさん? 夏樹です」
「あ、夏樹ちゃん? こんばんは」
「こんばんは、おばさん。この前電話した事だけど……」
「ん? 会社もう辞められたの? いつ帰って来るの?」
「いや、おばさん、話がいろいろ変わってきちゃって……。あの、私、結婚する事になって……」
「えっ? け、結婚? 結婚って言った?」
「はい。それで、相手の人に会って欲しいんです」
「ちょ、ちょっと待って。話が見えないんだけど……。そもそも夏樹ちゃん、お付き合いしている人がいたの?」
「いたって言うか……。五年前に付き合っていて別れたけれど、再会して結婚する事になったんです」
「でも、この前誕生日に電話貰った時は、仕事を辞めてこちらへ帰るって言ってなかった? あれからまだ十日程しか経ってないよ? どうしてそうなったの?」
「ごめんなさい。この前電話した時は、五年ぶりに再会したけれど、その人とは縁がないって思って、その人のいるこの街にいるのが辛くなって、勢いで会社を辞めて帰るって言っちゃったの。その後、もう一度会って、今までの事いろいろ話し合って、お互いの気持ちが変わっていない事がわかったから、結婚しようって言う事になったの」
「そう……五年前も付き合っている人がいるなんて聞いてなかったけど……。なんにしてもよかったじゃない! おめでとう」
「うん、ありがとう、おばさん。……でも、いろいろ問題があって……」
「うん? 実の両親の事? 私達が養父母だと言う事?」
「おばさん……」
おばさんは分かっていてくれるんだ。私が何に悩んでいるかを……。
「もう、彼には話したの? 実の両親の事は……」
「まだ話していないの。どういう風に話せばいいか分からなくて……」
「どういう風って……。真実をそのまま話せばいいだけでしょう? 結婚する相手に真実を話せない方がおかしいと思うけど?」
そんな事わかっている。だけど……。
「うん……。玲子おばさん……私、お母さんと一緒なの。お母さんとの約束を破ってしまう相手なの……」
「え? どういう事? 夏樹ちゃん、お母さんとの約束って、まさか……」
「うん……。相手は、大きな会社の跡取りの人なの。お母さんとの約束を破る相手なの……」
「夏樹ちゃん、相手のお家の方は反対していないの?」
「ご両親はとても歓迎してくださっているわ。でも……、お祖父様が反対で……。それで五年前も別れる事になって……」
「そう……、お祖父様は相当力を持った方なの? ご両親を差し置いてあなた達の結婚を反対するなんて……」
「お祖父様は、もう八十代なんだけど、今でもお元気で浅沼コーポレーションの会長をしてみえるらしいの。彼のお父様が社長で、彼は今度副社長になるって聞いているの」
「夏樹ちゃん……、浅沼コーポレーションって、相当大きな会社よ? 大丈夫なの? そんなお家へお嫁に行っても……」
そうだよね。改めて口にして、大変な相手なんだと実感した。
お金持ちどころの話じゃない。なのに、あまりにも浅沼さんも雛子さんも親しくしてくれるし、祐樹もそんな雰囲気を見せないから、普段一緒にいると忘れている。彼が御曹司だって言う事。
「うん……。ご両親も彼もお金持ちだって感じさせない雰囲気があるから、実感がなかった。そうだよね、浅沼コーポレーションって言うだけで、とても無理な相手って言う感じだよね……」
「夏樹ちゃん、戸惑いがあるなら、結婚する事もう一度考え直した方がいいんじゃないの?」
「もう、嫌って言う程考えたの。それでも、彼と一緒の人生しか考えられないの。彼もそうだって言ってくれるの」
「それなのに、どうして戸惑っているの? もしかして、父親が誰かわからない事とか、母親が亡くなっている事とか、卑屈に感じている? それで、彼に話せずにいるんじゃないの?」
「………」
卑屈に感じているのだろうか?
話すのを戸惑ってしまうのは、やっぱり、反対理由を増やしたくないって思うせいなのだろうか?
それとも、母の事を知られてはいけないって言う、この街に出てきてからずっとタブーとしてきた所為だろうか?
浅沼さんが母の事を知っているかもしれないから、だろうか?
「夏樹ちゃん、おばさんね、夏樹ちゃんがそんな気持ちだったら、結婚には賛成できないなぁ。夏子だってきっと反対するよ。夏子はいつも夏樹ちゃんの事を誇りに感じていたよ。どこに出しても恥ずかしくない自慢の娘だって。それなのに、あなたは自分の母親の事を話せないの? 父親の事だって、夏子はとても愛した人だったから、彼に迷惑をかけたく無くて何の手がかりも残さなかったけど、その事を恥ずかしく思われたら、夏子だって浮かばれないよ? 夏樹ちゃん、よく考えてね。ありのままのあなたを受け入れてもらえない相手なら、止めた方がいいと思う」
「ち、違うの、おばさん。確かにこれ以上、お祖父様に反対されるような理由を増やしたくないって言う思いはあるかもしれないけど、それ以上にこの街で母の事が知られると、実の父親に繋がってしまうかもしれないって言う恐れがあって……」
「夏樹ちゃん、何か父親について分かったの?」
玲子おばさんの声が少しトーンダウンした。
「そうじゃないけど、母の事を知っている人が近くにいるの。……でも、私がその娘だとは気付いていないんだよ。もしも私が御堂夏子の娘だと言ったら、父親に知られるんじゃないかって不安なの」
「ちょ、ちょっと待ってよ、夏樹ちゃん。どうして、夏樹ちゃんの結婚相手に実の母親は御堂夏子だと話す事が、そんな不安につながるの?」
「実は彼の父親が、母の事を知っている様な感じなの。それに、彼の父親の友達と言う人も……私の親友の義理の父親になるんだけど、母が昔勤めていた会社で同期だったらしいの。その人は現在その会社の社長さんなんだけど……。あ、二人とも実の父親じゃないからね。母が私を妊娠した頃は、二人とも結婚していた筈だから……」
「夏樹ちゃん、どうして夏子の事を知っているって分かったの? やっぱり夏樹ちゃんは夏子にそっくりだから? それならどうして夏子の娘だって疑われなかったの?」
玲子おばさんの疑問はもっともだ。
「その二人に母の名前を聞かれた事があるの。でも、知られちゃいけないと思って玲子おばさんの名前を言ったのよ。だから、娘じゃないって思っているの。でも、実の父の事を知っているみたいなの。って言うか、その頃母が付き合っていた人の事を知っているみたいなのよ。だから、私が母の娘だと分かったら、実の父に知らされるような気がするの」
「でも、あなたの実の父親は子供が出来た事すら知らないのだから、いくらあなたが夏子の娘だと言っても、父親とは思わないんじゃないの? 夏子がいなかったら証明する人もいないし……」
でも、指輪があるのよ……って、これは母と私の秘密。玲子おばさん達には話していない事。
「でも、私の誕生日から計算したら、母と別れる前に妊娠しているのが分かるんじゃないの?」
「そこまで男の人に計算できるとは思わないけど……。それに、三十五年も前の事だものそんな詳しい時期的な事、覚えていないと思うわよ。なんにしても、あなたが生まれた事は実の父親やその関係の人は全く知らない事なんだから、娘がいるなんて思いもしないと思うけど……」
「そうだね、玲子おばさん。だったら父の事は分からないんだから、父はまだ籍を入れる前で私が生まれる前に亡くなったって言っちゃだめかしら? 母からそう聞いているって……。そうしたら、父親は母が昔付き合っていた人だとは思わないでしょう?」
「……そうね、何もわざわざ夏子が御曹司と恋に落ちて反対されて逃げてきたなんて、夏樹ちゃんはその人の子供だって言う必要は無いのかもしれないわね。実際夏子から父親の事は何も聞かされていないんでしょう?」
「母は肝心の名前や会社名は言わなかったけど、人となりについてはよく話してくれたよ。とても優しい人で甘いものが好きで、ユーモアがあって……」
母が父の事を嬉しそうに話していた顔を思い出した。
お母さん……、もしも今生きていたら、私にどんなアドバイスをしてくれる?
お母さんは怒る? 約束を守らなかった事。この結婚には反対する?
思い出すのはいつも幸せそうにニコニコしていた母の顔だけ。
お母さんは幸せだったの?
いつの間にか胸が詰まって言葉が途切れていた。
「夏樹ちゃん?」と問いかけられ現実に引き戻されると、瞬きを何度かしてこぼれそうになっていた涙を蹴散らした。
「ごめん、おばさん。お母さんの事思い出していた。……父を、亡くなった事にしても、お母さんは怒らないよね?」
「私達もだけど……、夏子はきっと、夏樹ちゃんが幸せになってくれる事が一番だと思うの。もう誰にも夏樹ちゃんの父親について証明する人がいないのだから、亡くなっているのも同じ事だと思う。もしも、夏子が昔付き合っていた人が分かっても、何も言わなければいいのよ。向こうは知らないのだから。……ごめんね。父親が分かっても名乗るななんて……。でも、それがお互いの幸せのためだから、父親に知られない事が夏子の願いでもあるしね」
私は玲子おばさんに、父は亡くなっている事にする事を理解してもらって安心した。おばさんの理解と応援があれば、前に向かって進める。
「それで、玲子おばさん達に彼が挨拶したいって言っているの。おばさん達の都合はどうかな?」
「平日はあなた達も主人も仕事があるから、土日の方がいいわよね。今度の土日は大阪の親戚の法事があって泊りがけで出かけるのよ。その次の土日はどうかしら? 八月の第一土曜か日曜だけど……。長野まで来てくれるの?」
「そのつもりだけど。彼に都合を聞いておく。それから、その後の別の日でいいから彼の両親にも会って欲しいの……」
「そうね、是非お会いしないとね。何ならいっそ彼とご両親一緒にお会いしてもいいけど……」
「そうだよね。一度言ってみる。またはっきりしたら連絡するね」
「そうね、そうして頂戴。夏樹ちゃんの選んだ人に会うのを楽しみにしているわ」
「ええ。じゃあ、小父さんにもよろしく言ってね。おやすみなさい」
私は電話を切ると、一つ山を越えた様な安堵が胸に広がった。これで安心して祐樹に話せる。何も母の事情まで話す必要はないのだから……。目の前の視界が少し開けた様な、薄暗い空間に灯りが射した様な、明るい未来の希望が見えた気がした。
2018.1.31推敲、改稿済み。