Ⅱ
よろしくお願いします!
あれから完全に復活できるまで二週間かかった。
その間に月は変わり、季節も春から夏への移行期間に差し掛かっていた。
久しぶりの学校はそこまで変わらなかった。クラスの友だちも前と同じように私の絵を褒め称えるだけだし、私は楽しそうに話す彼らの趣味の話に相槌を打つだけだ。それ以上もそれ以下もない、一線を越えることのない関係。休んでいた私のこともあまり心配している様子はなかったし(勿論内心は測れないが)誰もその理由は聞いてこようとしなかった。勿論私からしては言わなくていいということが気楽だったし、これまでもそんなに気に留めなかった。だが、今はどうだろうか。そのことを寂しく思ってしまっている。
私の口からおかしい、と溢れる。どうしてここまで疎外感を感じてしまうようになったのか理由さえも分からず、静かにそのグループから離れる。正直、彼らの趣味の話にそこまで興味がないし、興味を持たない以前に合わなかった。一応自分の身の置き場を固めるために入っていたグループだけでなくこのクラスさえも馴染めていないような気さえしも始める。
なんとか今日の授業を終え、くたくたになりながらも美術室に向かう。あそこなら―――――あの先輩方なら、私を笑顔で受け入れてくれるのではないかと淡い期待を抱きながら扉に手をかけた。
だが、そこにあったのは空っぽの、真っ暗な部屋。
毎日掃除当番の人が清掃してくれているおかげか埃っぽくはない。でもそれがより閑散とした風を醸し出し、私の心を冷たくしていった。もしかしたら誰かいるのかもしれない、と思いながらも足はすくみ動こうとしなかった。
「ここで何をやっているの?」
背後から落ち着いた、固い女性の声がした。私の不審な行動を咎められるのではないかとビクビクしながら顔を上げる。だが、そこにいたのは制服を着た、同学年のバッジをつけた女生徒だった。先生では真っ黒で艷やかな長髪が私の目の前で揺れる。
「ここの美術室になにか用でも?―――――ああ、そういえばここで活動しているらしい美術部の先輩方はコンクール前に引退したらしいよ。一応後輩はいたらしいけど最近は来てないとか……まあ、どれも噂にしかすぎないから信憑性はないけれども。」
気にしなくていい、と言う彼女の瞳はどうも馬鹿にしているように見えなかった。寧ろ日頃からなににも頓着しないタイプにも思える。振り返ってみれば先程の声の掛け方も話し上手のそれには思えなかった。
仰ぎ見たまま固まる私に彼女はさも当然だというように口を開いた。
「そこで私に何も言わないということはあなたもこの美術室の関係者なのね。」
私は一瞬その言葉がわからなかった。
「あなたが美術部に押しかけた最初の入部者で、私がその後遅れて入ったってことでしょう?」
彼女はポケットの中に手を突っ込むと――――「美術室」という緑の札がついた鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。
* * *
数日一緒に過ごしてわかった。
彼女は一切笑わないひとだった。
綺麗な外見をしているのにも関わらず笑顔を見せないために傍からは冷たく見えてしまう勿体ないタイプだったのだ。ただ感情を抑え込むのが習慣となっているだけの普通の中学生にしか見えなかった。言動がそれでなくても態度の端々から優しさが滲み出ていて、触れる度に心が暖かくなるような気がした。
それに彼女は絵が上手い。
私の得意分野が壮大やインパクトという「動」が多いとするならば、彼女のは風景画などの「静」に特化していた。繊細さというべきだろうか?一つ一つの作業が丁寧なため写真のような絵画が生まれてくる。生まれてこの方名作以外で感嘆したことがなかった私だったがこればかりは驚いた。
ちなみに彼女にはちゃんとした友人がいるらしい。私も何度か見かけたことがあったが、見るからに大人しそうな子だった。だがその子の前で笑っている彼女は―――普通の少女だった。
そんなこんなで私の日常は「普通」に過ぎていった。
クラスメイトと何気ない会話をし、彼女と無言で絵を描いていく日々はあまり辛くなかった。絵を描くことの苦しみからも開放されたような気分が私の心を高揚させ、日常を彩っていった。
だが、そんな毎日が続くわけがなかった。
「ねえ羽優。そろそろ専門学校について考えてみない?」
ある日、家に帰った私を待ち構えていたのは絵画の専門学校のパンフレットを数個手にした両親の姿だった。それを見た途端背筋が凍りついた。
「なんで?」
震える口から言葉を絞り出す。すると母は言った。
「あなたの才能を殺すような真似をする訳がないでしょ?正直、今の部活動だって意味がないじゃない。二人、しかも同級生同士だなんて教室でやっていればいいでしょう?あなたの力を最大限に伸ばすためにもこの学校だけだと足りないと思ってるの。転校とかは今気分が乗らないとしても中学卒業後の話をしたほうが現実的だと思ったの。」
ああ、と私の口から絶望の声が漏れる。一方的に「才能」を活かそうとして「精神」を殺すのはいいんだね、と小さく呟く。ただその声は二人には届かなかった。視界がうっすらぼやけ始める。
「もし……もしも、私が公立高校に行きたいって言ったらどうなるの?」
「どちらにしてもあなたの才能が一番なの。そのことをわかって頂戴。」
私はこれまで両親と「これから」について話すのを避けてきた。だって当たり前だ。自分の希望を言っても耳を傾けてさえくれないしその度に私を否定して自分の意見を押し付けるのだから。ただそうであっても、私はこうなるまで放っておくべきではなかったのだ。
「ごめんなさい」
お母さんは聞こえていたみたいだ。手を伸ばしてきたが私はそれを振り払い―――玄関に向かって走り出した。
両親の言うこともわかる。ただ相手が悪かった。初めてで凡人の域の作品を描ける天才ならともかく、どこまでも凡人の範疇にしかいられない私には通じなかった。専門学校についてもそうだ。この街で通用する技量だとしても大きな専門学校とかには本当の天才がいて、その中で私は天才だと思い込んでいる馬鹿に成り下がってしまうに違いない。
ローファーに足を突っ込む。足は止まらない。扉を勢いよく開ける。目指すのは―――学校だ。
外は雨が降っていた。そこまで大降りではなかったが少しずつ私の服が湿っていき徐々に体温を奪っていく。たとえ住宅街の中だとしても人は通る。その人たちは皆、傘をささずして走る私を不思議そうに見た。
まだ学校の門は閉じていなかった。ただ中は閑散として先生の数もまばらだった。私はその目を盗み校舎に入ると急いで屋上に向かった。
入口の扉が壊れていることは既知の事実だ。ガチャガチャとドアノブを適当に回すと―――予想通り簡単に開いた。
目の前に広がるのは雨に濡れた、所々床が捲れ上がった地面と歪んだフェンスだ。ギリギリ落ちない所にある給水タンクの横のハシゴが視界に写った途端私は登りだしていた。
奥に見える木々が音を立てて揺れる。その風景に私は嘲笑った。
あの中で死ねるのなら本望だ、と。
正直自分に飽きていた。
親の勘違いによって定められてしまった人生を歩まなければならないだなんて可怪しいと本気で思っていた。だが今思うのだ。そうなった挙句、私は絶望し愚かに死んでいく運命だったのだ。そう考えることで私の心は少しばかり明るくなれた。
それに―――私はもう嫌なのだ。もし私が必死に我が道を歩もうと足掻いても、私には彼らの、両親の血が流れている。つまり同じような性格を持っており、同様の過去を繰り返していくということだ。今、私が感じている彼らの異常さもいつの日か忘れ、似たような恐怖を周りの人に与えくのかもしれないと考えると――――一言で言い表すことができない虚無感だけが残った。その時初めてDNAという名の呪いを心の底から憎んだし、年が重なっていくことに恐怖した。
だからいいでしょ?と私の口は動く。
もうそんな呪いから解き放たれたほうが楽よね、と悪魔は囁く。
落ちないギリギリの所で、背筋を伸ばして立つ。雨と共に風が私の髪を巻き上げる。
家でも学校でも私の中でも、私は浮いていた。
いつの間にか否定されることが怖くて耳を塞いで自分の殻の中で閉じこもっていた、その代償だ。
でも、
「それでも、彼女は優しかったな」
初めて不器用な優しさに触れたような気がした。あの感覚だけは―――唯一の宝物だったのかもしれない。
「でも、それでは、救えなかった。」
私はゆっくり目を閉じた。もう身体の感覚は寒さで消えていた。
平衡感覚が失われ、やがて―――――――――
私は、勢いよく、真っ逆さまに、堕ちていった。
読んでくださりありがとうございました!
次話で終了します。