今更、愛しているなんて。
「旦那様。つい先ほど、奥様が亡くなられました」
王国軍の中将であるアルフレドは、突然職場にやってきた執事の言葉にぴたりと動きを止めた。
今、なんと言われたのか。そう思ったのは一瞬で、アルフレドの頭はすぐに諦めが混じり、冷静に思考を巡らせる。
アルフレドの妻、ビビアナはもとより身体が弱かった。だからこそ五年前、十五という齢で、もう相手も居ないような四十のアルフレドに嫁いだのだ。
ビビアナの家は侯爵家で、当時王国軍の大佐であった子爵の男に嫁ぐような身分ではなかった。しかしその身体の弱さのせいで婚約者もおらず、これからも望めないとして、ちょうど相手を探していたアルフレドの元へとやってきた。
ビビアナはずっと、人生を諦めていた。嫁いだ時から暗い目をして俯いて、口癖のように「いたらぬ妻ですみません」と悲しい言葉ばかりを吐き出す。笑うことも目が合うことも少なく、年相応の遊びも買い物もしようとしない。アルフレドにはそれがとても可哀想で、この子を必ず幸せにしてやろうと、娘ともいえる年齢の妻を大切に大切に療養させていた。
(……そうか。亡くなったのか……)
この五年で、多くの医師にビビアナを診せた。有名な薬師から、不思議な術を使う者まで隅から隅まで調べ上げて、今回こそはと力の強い魔女に診せたのが三か月前だ。その存在を胡散臭いとは思いながらも、魔女と楽しそうに過ごしているビビアナを見ては、顔色が良くなっているしきっと良い方向へ向かっているのだろうと安堵していたのだが。
たった三か月だ。あんなにも楽しそうに過ごしていたのに、ビビアナはもうこの世に居ないらしい。
「……マシアス中将。本日はもうお帰りに……」
目に見えて落胆したアルフレドに声を掛けたのは、彼の右腕のエウリコである。エウリコはまだ三十にしては優秀で、アルフレドも一目置いている。そんなエウリコが居るのならば今日は早上がりしても大丈夫かと、アルフレドは特に遠慮も無く立ち上がった。
今、ビビアナに会いたいと思った。
安らかに眠る彼女を見たくない。だけど、側には居たい。
アルフレドはどうしようもない感情を持て余しながら、執事と共に屋敷に戻る。道中もずっとビビアナとのこれまでを思い出しては、陰鬱なため息を吐き続けていた。
ビビアナ・ロエラは十五歳で、四十歳のアルフレド・マシアスに嫁いだ。
ロエラ侯爵家は、ビビアナの面倒を見てくれる、ビビアナが困らない、ビビアナに都合の良い嫁ぎ先を探していた。そのため、以前よりアルフレドと交流のあったロエラ侯爵がアルフレドに話を持ち掛けたのだ。
アルフレドはちょうど、両親から「早く息子の幸せな姿が見たい」と結婚を急かされていたために、相手を探していた。ロエラ侯爵はそれを知っていたらしい。悪い話ではないだろう、と言われては、確かにそうだと頷くしかなかった。
ロエラ侯爵はアルフレドと懇意にしていた。アルフレドは真面目で誠実で浮わついた話もなく、地位も申し分ない。それどころか将来性すらまだまだあるために、年齢差すら気にならない。その地位から与えられた爵位は「子爵」でしかなかったが、ロエラ侯爵はそんなことも気にならないほどには、しっかりとアルフレドという男を認めていた。
――ビビアナとアルフレドに愛はない。
否。愛のない始まりだった、が正しいのか。
(……治ったら、別れてやろうと思っていたが)
ビビアナだって、強制的に結婚させられたうんと年上のアルフレドよりも、若く有望な男が良いと思うはずだ。それこそ、身分の釣り合う男は多くいる。アルフレドに縛られずとも、魅力的なビビアナならば恋愛結婚だって出来るだろう。
そのための準備は整っていた。いつ治っても良いように、いつでも解放してやれるように、離婚も、次の男の選別も、何もかも終わっていたのに。
(もう、居ない……)
一緒に居ても、ビビアナはアルフレドとのんびり屋敷で過ごすだけだった。わがままも言わず、ただ植物を愛で、本を読み、静かに会話を繰り返す。アルフレドが彼女に与える事が出来た「幸福」はあまりにも薄く、アルフレドはいつも申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
もっと、外に連れ出してやれば良かった。
もっと、贈り物をしてやれば良かった。
もっと会話をして、もっと笑顔にしてやれば。
もっと、もっと――。
自責の念が渦巻いて考え込んでいるうちに、気が付けば見慣れた屋敷にたどり着く。
執事がやたらとアルフレドの事を気にしていたのだが、その様子にアルフレド本人は気付くことが出来なかった。
「……ビビアナは今、どこにいる?」
アルフレドの消沈した声。それに、執事はもちろん、使用人たちもどこか困ったように視線を泳がせる。
「奥様はお部屋の方に……」
「そうか。……しばらく近寄らないでくれ。二人で居たい」
「かしこまりました」
足取りが重い。その背中を見届けて、執事と使用人たちはさっそくパーティーの準備へと取り掛かった。
アルフレドが帰れば、ビビアナはいつでも出迎えてくれた。アルフレドが「先に寝ていてくれ」と言っても改善されることはなく、どんなに遅く帰っても起きて待っていたために、アルフレドはいつしかしっかりと定時で帰るようになった。
いつもは食べなかった朝食も、ビビアナから「実家ではいつもみんなで食べていました」と寂しげに言われてしまえば、共に食べないわけにもいかない。ずっと妹と眠っていたから一人で寝るのは寂しい、なんて枕を持って言われてしまえば、早寝しないわけにもいかない。
ビビアナがやってきてからアルフレドはすっかり健康になり、仕事も見違える成果を上げていた。
そんなビビアナを愛さないということは、アルフレドには無理だった。
二十五歳も年下の娘だ。親子と言われても違和感はない。分かっていても、惹かれずにはいられなかったのだ。
真実、幸福になってほしいと思っていた。
ビビアナが元気になった時、いつかアルフレドの元から立ち去るその時にもきっと、笑顔で送り出してやろうと。自分は花束でも持って、おめでとうと心からの祝福を告げようと。
偽りなく、そう思っていたのに。
(……どうして)
現実は残酷だ。いつだって、優しくはない。
もう何度も来たビビアナの部屋。これまでは、わくわくとした心地でビビアナを迎えに来ていた。
今日はどんな服を選んだのか。今日はどんな顔を見せてくれるのか。どんなトーンで、どんなことを話すのか。アルフレドからすればまだまだ若いビビアナは、太陽のような存在だった。
今はもう、そんな心地も思い出せそうにない。
うららかな春のような温もりは、凍てついた氷の中に消えてしまった。
扉に手を掛ける。
開けるのにも手が震えて、どうにも力が入らない。
この先に現実があることを思えば、動き出す事が出来ないのだ。
会いたいと思った。
同じほど、会いたくない、とも。
(……笑顔が、見たい)
もう見られないのだと思えば、何度も何度も浮かんでは消えて、まぶたの奥に焼き付いて離れない。
名前を呼んでほしい。おかえりなさいと言ってほしい。眠れないと枕を持って、恥ずかしそうに笑ってほしい。優しい思い出が今になって全部溢れて、薄い扉の向こう側を拒絶する。
ようやく今、涙が出た。
もうあの存在が――――自身を癒してくれていた愛する妻が居ないのだと、唐突に理解してしまったのだろう。
他人事のようだった脳みそが、残酷な現実を思い出す。
アルフレドは動けなかった。
動けないまま、扉に手をかけたままで、涙を流して座り込んだ。
開けたくない。だけど、開けないといけない。側に居たいのに、今は側に居たくないなんて、矛盾した感情しか湧いてこない。
「愛していると、言えばよかった」
どれだけ思っても、もう伝えることはできない。
絶望にとうとうずるりと手が落ちた時。内側から勢いよく扉が開いて、アルフレドの額に凄まじい音を立てて打ち付けられた。
そして――。
読了ありがとうございました。
(追記:内容の意味が分からなかった方はあらすじでネタバレしておりますのでご覧ください)
新年明けましておめでとうございます。
こちらの短編は去年の2月頃にツイッターの方で出していたものになりますが、あまりにも私が気に入り過ぎて投稿することにしました。
ここ最近短編を出さないのは「ツイッターがあるからいっか」とあちらにばかりかかりきりになっているためです。一度味をしめたら戻ってこられなくなってしまいます、本当に…。
それでは、いっそう冷え込んで参りましたが、お体には充分にお気をつけてお過ごしください。
お時間をいただき、ありがとうございました。