悲哀
この話には、非現実的な要素があります。
非現実的な描写に何か意味があるわけではございません。
その点をご理解いただいたうえでお読みいただければ幸いです。
なぜか、どうしようもなく悲しかった。
込み上げる何かを、目からあふれ出てくる透明な雫を、人差し指でそっと掬い上げる。
今宵は、満月。明るい月の光を反射して、雫がきらめく。
ふるふると揺れる一粒の雫、その揺れに合わせて揺れる奥の緑。
その光景が僕の胸にじんわりと温かさを広げ、その温かさは込み上げる何かに変わっていく。込み上げる何かを現実に映すように、また目から透明な雫が盛り上がり、みるみるうちにその体積を増して、ぽつんと落ちた。
腕を下ろす。前を、遠くを見る。何かを見るわけでもなく、ただぼんやりと前を見る。
風が僕の長い髪をさらっていく。視界の端で、髪の先が翻る。
耳の奥で、風の渦巻く声を聴く。
気温は低く、強い風が吹き、少し肌寒い中、世界はどうしようもなく悲しくて、穏やかだった。
穏やかな世界。いつまでもこのままでいたいと願ってしまうほどの、居心地のいい世界。
自分自身が自然と一体化してしまったのかのような感覚。
確かに時間は流れているとわかっているのに、時間が流れていないようにも感じる。
このまま、いつまでも。
そう願っても、生きている限りは、止まれない。
「お迎えに、上がりました」
静かで、それでいて否を言わせない凛とした女性の声が後ろからそっとかけられる。
「ああ、今行く」
冷え切り、固まった体を緩く動かして振り向く。そこにいるのは輝かんばかりの黄金の毛並みを持った大きな狐。女ではあるが、声同様に凛とした顔つき、しっかりとした手足に引き締まった体。長く太い尾が強風にあおられて時折りふわりと持ち上がる。
背につけられているのは鞍。青緑色。わたしの、色。
狐はわたしが振り向いたことを確認すると。ゆっくりと体を回転させ、わたしに尾を向けるようにして伏せた。乗れ、ということだ。
狐に跨る瞬間、わたしは少しだけ緑の景色を振り返った。
変わらず緑は揺れる。ざわりざわり、時は進んでいてもなにも進んでいないかのように。
名残惜しい、まだここにいたい。ついそう願ってしまっても、わたしの周りの時は回り、目に見えて進む。叶わないことなど知っていて、それでもなお願わずにはいられなかった。
狐が立ち上がる。けーん、と一声鳴くと、空中に躍り上がる。
満月が近づいて、そのあまりの美しさに、わたしは満月の虜になる。
雄大で、常に美しく、わたしを惹きつけてやまないもの。
地球に降り注ぐこの柔らかで神々しさを感じさせる光は、しかしそれは太陽の光がないと生じえない、借り物の光。
美しく明るい中にも冷たさが、悲しさがある。
そんな光を放つ月が、愛おしく思えてならない。
手を伸ばして、光を撫でる。悲しみがまた、胸を満たした。
狐は空中でもう一度大きく跳躍し、ある程度の高さまで到達すると、素晴らしい速さで駆けていく。眼下に広がる人間たちの街を気にすることなく、優雅に、しなやかに。
空を飛ぶ狐を、しかし人間たちが見つけることはなく。明け方の空を、赤い空めがけて一匹と一人は翔け、そして消えていった。
お読みいただき、ありがとうございました。