魔法使いさんと七つの夜
それは、背徳の味がした。
ラフィーという花がある。
森の奥深く、澄んだ泉にのみ生息する水生植物で、水面から見える白く可愛らしい花に反して水中に揺蕩う根から猛毒を吐き出しているという恐ろしい花だ。
しかもその毒が染み出た泉の水は、口にしたものをやみつきにしてしまうほど甘美なのだという。
この森に生息する動物たちは、ラフィーの毒性を把握しているのかその水に口をつけることはしない。だからラフィーが生い茂る泉の周りに、死の気配はなかった。
常ならば。
しかし、この日は違った。
滅多に人が立ち入らないその場所に、一人の少女が横たわっていた。
真っ白な髪をして、所々が薄汚れてしまった白い服に身を包んだその少女は、童話のお姫様のように泉の周りに咲く色とりどりの花に囲まれ、静かに眠っている。
そしてその少女を静かに見下ろす青年がいた。
黒い髪に宝石のような紫色の瞳をした青年で、まるで少女と対になっているかのような黒いローブを纏っている。
そんな青年は、少女から強く漂う死の気配に、ただ静かに瞳を伏せた。
◇ ◇ ◇
花の香りがする。
それは全てを包み込んでくれるような、優しい香りだった。
「ここは……?」
優しい色合いの木で組まれた天井と梁。
窓枠に置かれた花瓶。
たくさんの本で埋め尽くされた本棚。
視界に入ったそれらに何の覚えもなく、眠りから覚めた少女は戸惑いを隠せずに上体を起こした。
木で造られた小屋の一室と思われるそこは、よく手入れがされているのか塵の一つも見当たらない。
しかしながらなぜ自分がここにいるのか、少女にはまったく思い当たる節がなかった。
ラフィーの花が咲く泉の水を求めて、人里離れた森へと立ち入った。
人を襲うような獰猛な動物がいないその森は惑乱に少女を誘い込み、そして導かれるように泉の水を口にした。そこまでは自身にも記憶がある。が、そこから先の記憶がない。そもそも、ラフィーの毒が染みた水を口にして意識が遠のいた時点で、少女は自分が死にゆくものと思っていたのだ。
それがなぜこのような状況になっているのか。
ベッドから降りて自分の姿を見てみると、森で汚れたはずの衣服はなぜか新品そのもののように綺麗になっている。
訳の分からないことだらけではあるが、このままここにいたところで状況が把握できるとも思えない。少女は勇気を出してこの部屋から出てみることにした。
木でできた簡素な扉をそっと開けると、先ほどとは違う花の香りが漂ってきた。
おそらく、部屋の出入り口の側に飾られている花の匂いだろう。ベッドの窓枠に置かれていた花は赤やピンクの可愛らしいものだったが、こちらに置かれているものは紫や青の落ち着いた雰囲気の花だ。
この花の名前は何だろう。先ほどの花もそうだが、見たことがない。今ある状況も忘れ、少女はふとそんなことが気になった。
「お目覚めかな」
不意にかけられた声に、少女はビクリと体を震わせる。
声がした方を見てみると、読みかけの本から目を離してこちらを見やる、青年の姿があった。
「あ、あの、貴方が私を助けてくれたのですか?」
「……助けた? 僕が君を?」
少女の問いかけに悲しげに笑って問い返すと、青年は本をサイドテーブルに置いて腰かけていたロッキングチェアからゆらりと立ち上がった。
「ち、違ったのですか? 申し訳ありません……」
状況的に考えてそうだとしか思えなかったが、どうやら青年の反応を見るに違ったらしい。少女は慌てて謝罪の言葉を口にした。
「君は自分で泉の水を飲んだんだろう? ラフィーが咲いている泉の水を飲んではいけないのは、子供でも知っていることだ」
「…………」
予想とは反した青年の言葉に何も返せず、少女は逃げるように視線を足元に落とした。
「だから僕は君を助けたんじゃない。絶望に落としたんだ」
目の前まで歩いて来て自分を見下ろす青年をさすがに無視できず、少女はその視線を上げて見つめ返す。
憐れむように少女を見やる彼の紫色の瞳は、吸い込まれそうなほど綺麗で澄みきっている。
「でも安心していいよ。君は七日後の夜にちゃんと死ねるから」
「……え?」
しばしの静寂を打ち消すように告げられた青年の言葉は、少女の混乱する頭ではすぐに理解できるものではなかった。
確かに少女は自ら望んで泉の水を飲んだ。そうして死を待っていた少女を助けた青年は、先の言葉の通り彼女を絶望に落としたかもしれない。それは理解できる。しかしながら七日後の夜に死ねる、とは一体どういうことなのだろうか。
「君は泉の水を飲んで一度死んだ。そこにたまたま居合わせた僕は、君の肉体から離れていく魂を繋ぎとめた。でもね、一度死んでしまった肉体が魂を受け入れ続けることは難しいんだ。だから七日間。それが、君の肉体が耐え得る期間だ」
「…………」
おとぎ話でも聞かされているのだろうか。少女はあまりにも現実離れした話に、言葉を失った。
「信じられない? でも君が今ここにいることが何よりの証拠だよ。自分でもわかっているだろう? あの水を飲んで生きていられるわけがないって」
「…………」
そう、ラフィーの毒性は子供の頃から嫌と言うほど叩き込まれている。それはもう、絵本や言い伝えで飽きるほど。
だから少女はあの森に立ち入った。彼女が足を運べる範囲でラフィーが生息しているのはそこしかなかったから。
ラフィーの毒が染みた水は両手一掬いほどで致死量となる。それもまた子供の頃から散々聞いていた話であって、少女はそれを知っていた上でそれ以上の量を口にした。死に至るはずであったことは間違いない。
だからこうして生きているのは解毒剤なるものが存在していて、それをこの青年が使ったからだと思っていたのだ。
離れていく魂を肉体に繋ぎ止めたなど、そんなことどうやって……と考えを巡らせて、少女はそれができる人間が確かに存在することを思い出した。いや、存在したと言った方が正しい。それこそ今はもう、おとぎ話として語られるくらいの古き存在。
「貴方は……魔法使い、さん……?」
その名を呟くように問うと、青年は目を細めて悲しそうに笑った。
魔法使い。
それは遥か昔に存在したという、言葉を具現する力を持った人間を指す言葉だ。
"火よ出でよ"と呟けばその手に火が灯り、"水よ出でよ"と呟けばその手から水が湧き上がり、"死ね"という言葉一つで簡単に人を死に至らしめる。そんな人間たち。
そんな人間たちなら、一度死んだ肉体に魂を繋ぎとめるなど常識では考えられないことも可能であろう。
「そうだとしたら……君はどうする?」
少女の問いかけに否定も肯定もせずに、青年は悲しげな表情のまま問うた。
その質問の意図を理解して、少女は再び考えを巡らせる。
強大な力を持つ彼ら魔法使いは、かつて世界的支配者であった。
しかし己の力を誇示したい者、支配権を欲する者、私利私欲に力を利用する者、そんな傍若無人な彼らはいつしか同士討ちを始め、さらにはそれに反逆する人間たちによって完全に排除され、現在は滅亡したと言われている。
もし生き残りがいるのだとすれば……もし目の前の青年が本当に魔法使いだと言うのなら、現代において排除されるべき人間であることは間違いない。
だから青年は問いかけたのだろう。
"魔法使いだとしたら、どうする?"と。
「……どうもしません」
少女はそんな青年を憐れむように見つめ返して答えた。
彼をどうかする理由など少女にはない。元より死を望んだ人間だ。それ以外の望みなど、彼女には存在しない。
「じゃあ……お願いだ。君の命が尽きるまで、僕の傍にいてくれないか」
そう苦しげに絞り出された声と共に、青年の綺麗な紫の瞳がゆっくり閉じられた。
◇ ◇ ◇
「私はセリシアと申します。あなたのお名前を聞かせてください」
命が尽きるまでそばにいてほしいと言う青年の申し出を、少女は素直に受け入れることにした。
「……ごめん、忘れてしまったんだ。魔法使い、と呼んでくれればいい」
その為には必要なことだと思い、名乗り、尋ねたのだが、しかし返ってきた言葉は予想外のものだった。
忘れてしまった、とは。自分の名前を忘れることなどあるのだろうか。
しかしそう告げる彼の表情があまりに辛そうで、セリシアにはそれ以上何も言えない。
「誰からも呼ばれなくなって永い刻が経ってしまってね。僕の体は呪いによって刻が止まっているんだ」
怪訝そうなセリシアの疑問に答えるかのように、魔法使いは苦い笑みを浮かべて言った。
「呪いで刻が……?」
「だから僕は魔法使いの生き残りですらない。生きてもおらず、死ぬことすらできない中途半端な存在なんだ」
「…………」
なんだかよくわからない。
わからないことだらけで思考が追い付かない。
しかしながら死んだはずの肉体に魂を繋ぎ止めるという不可思議な現象が起こったばかりだ。そのようなこともあるのだろうと、セリシアは無理やり納得することにした。
これ以上細かいことは聞く必要がない。自分はもうすぐ、死ぬ人間なのだから。そう、言い聞かせて。
◇ ◇ ◇
「…………」
目の前で起こっている現実離れした光景に、セリシアはただ茫然と立ちつくすしかなかった。
サラダにクリームスープ、仔羊のステーキ、パン、ケーキ、紅茶。魔法使いが名を呟いただけでそれらはどこからともなく現れ、テーブルに並べられていく。
「君の肉体を少しでも長く維持するために、食事は必須だ。僕には必要のないことだから普段は食べないのだけど……せっかくだから一緒に食べよう、セリシア」
そう言いながら料理を次々に創り出して並べていく魔法使いは、ひどく楽しげだった。まるで長い間親の帰りを待っていた子供のようで、それだけのことで喜びを見出すほどこの人は寂しさを募らせていたのだと考えると、セリシアの胸は自然と痛んだ。
「いただきます」
魔法使いが創り出した数々の料理は、普段セリシアが口にするものと何ら変わりがなかった。何もないところから現れたはずなのに、感触も、匂いも、味も、どれ一つとして不自然はない。
「魔法とは、不思議なものですね……」
まるで焼きたてのように温かいパンをちぎりながら、セリシアは呟く。
「魔法を目にする機会なんて今までなかっただろうからね。魔法使いが滅亡したと言われてから何百年も経っているのだから」
切り分けた肉にフォークを刺しながら魔法使いは答えた。
その顔には自嘲的な笑みが浮かんでいる。
「何百年もの間、あなたはずっと一人でここにいたのですか?」
ラフィーの花が生息する森は別名"迷いの森"と呼ばれる。危険な生物は生息していないが、入ったらそう簡単に出ることはできない。
調査と称して森の奥に立ち入った者たちも、そのほとんどが戻ってくることはなかった。
わずかばかり存在する貴重な生還者によれば、何日も同じところを彷徨った後、やっとの思いで森から出てきたのだという。
まるで何かを隠しているかのように、この森は人を彷徨わせる。
「そうだよ。人に見つかって利用でもされたらたまらないからね。だからずっとここにいる。この場所だけは、静かに僕を受け入れてくれるから」
だから魔法使いはセリシアに傍にいてほしいと懇願したのだろうか。七日間というわずかな時間だけでも、その寂しさを紛らわせられるのであればと。
あまりにも哀れだ。
死を赦されない魔法使いの悲しみは、死が約束されたセリシアの胸を深く抉った。
◇ ◇ ◇
「あぁ……穴が開いてしまった」
パン生地の穴から覗いた指を見つめて魔法使いが落胆する。
「大丈夫ですよ。また捏ねればいいのです」
そんな魔法使いをセリシアは優しく慰めた。拗ねたように口を尖らせて生地を捏ね始めるその様は可愛さすら感じさせて、セリシアの頬を緩ませる。
あれから三日。魔法使いの傍にいる、と言っても特別なことをしたわけではない。
一緒に花を眺め、一緒に食事をして、とりとめのない話をして、朝を迎える。ただそれだけ。ただそれだけのことなのに、魔法使いはその一つ一つに喜びを表した。だからそれを見たセリシアが、「一緒に料理をしませんか」と誘ったのだ。
その言葉に、魔法使いは驚きを隠さなかった。
料理名を呟けば目の前に現れるのに、なぜ食材を調理しなければならないのか。複雑そうな表情がそう物語っている。
「楽しいですよ」
しかし満面の笑みを浮かべてそう言ってみると、魔法使いは半信半疑といった様子で頷き、調理道具を魔法で出現しはじめたのである。
「うーん……難しい」
根菜の皮をむきながら魔法使いは独りごちる。
これまで一度たりとも料理をしたことがない人間にはさぞ難しいことだろう。だが、何事もやらねば上達しないと、セリシアはそれをあえて魔法使いにやらせていた。
「"皮よ、むけろ"」
しばらく悪戦苦闘していた魔法使いだが、急に面倒くさくなってしまったのだろうか。セリシアに聞こえないよう小さく呟いて魔法で皮をむき、それをそっと捨ててから次の根菜を手に取った。
「あっ! ズルはいけませんよ!」
「えっ」
「魔法、使いましたね?」
「…………すみません」
しかしそれをしっかり見ていたセリシアに雷を落とされ、おずおずと根菜に包丁の刃を入れた。
◇ ◇ ◇
「料理、どうでした?」
「非合理的だと思う。これだけの時間をかけてこの程度のものしか作れないなら、その時間で君と花を愛でている方が有意義だ」
セリシアの問いに表情を歪めながら、魔法使いは自分が形成した不格好なパンを手に取った。
「できるようになる喜びを知らないからそう思うのです。最初から上手にできる人なんていませんよ」
「…………」
「何かを成し遂げた時の達成感は、何にも代えることができません。それを、誰かと共有できるならなおさら」
「…………」
聞いているはずの魔法使いから返事が返ってこないのを不思議に思い、表情を窺ってみれば、彼はどこか一点を見つめていて何かを考えこんでいる。
すぐにセリシアは後悔した。失礼な物言いだった。彼のことは何も知らないのに。
「じゃあ、明日もまたやってみる。その達成感を君と共有してみたい」
しかし、謝罪の言葉を口にしようとした瞬間に返ってきたその言葉で、セリシアは安堵の息を吐き、きらきらとした笑顔を見せた。
◇ ◇ ◇
六日目の昼。
元から器用な人間であったのだろう、魔法使いの料理の腕は目に見えて上達した。
「魔法使いさん、すごいです! あんなにデコボコだったのに、こんなに上手に皮をむけるようになって!」
「君が褒めてくれるから嬉しくて。これが達成感を共有するってことなのかな。悪くないね」
「…………」
魔法使いから屈託ない笑顔を向けられ、セリシアの頬が熱くなる。
彼は無自覚でそんなことを言っているのだろうか。だとすれば心臓に悪いからやめてほしい。セリシアは切にそう思う。
「……セリシア?」
「きゃっ……!」
しかし魔法使いから名を呼ばれた瞬間、セリシアは手に持っていたティーカップを落としてしまった。ガシャンという音があたりに響き、さらに心臓が高鳴る。
「大丈夫?」
「すみません……いたっ」
「危ないから触らないでいいよ。あぁ……切れてしまったようだね。"癒えろ"」
魔法使いは慌てて駆け寄り、破片を拾おうとして傷ついてしまったセリシアの手を取って呟く。すると一瞬にして傷は塞がり、何事もなかったかのようにセリシアの手は元の美しさを取り戻した。
「ありがとうございます」
「…………」
だが、セリシアの言葉に魔法使いは何も返さなかった。彼女の手を握ったまま、神妙な面持ちで何かを考えこんでいる。
「……魔法使いさん?」
「手が震えているね。明日の夜まであともう少し。体もだいぶ辛くなってきているだろう」
「…………」
今度はセリシアが黙る番だった。
その通りすぎて言葉を返せない。
体が鉛のように重く、腕を持ち上げただけで震える。
徐々に蓄積されてきたそれが、自身の肉体が滅びへと向かっていることを知らしめているように。
「ごめんね。そろそろ、楽にしてあげようか。僕のわがままで君を苦しませるのは本意ではない」
「あっ、大丈夫です。私は大丈夫ですから、まだ傍にいさせてください」
表情を曇らせた魔法使いに縋りついて、セリシアは懇願する。
確かに最初は哀れみだった。
自分を見つめる彼の瞳があまりにも寂しそうで、あまりにも助けを求めていたから。
でも今は違う。
今は、自分から望んで彼の傍にいたいと思っている。
何か特別なことをしたわけではない。
何か特別な言葉があったわけでもない。
ただ、彼が優しかったから。
花の名を尋ねれば一つ一つ丁寧に教えてくれ、こちらが料理の手ほどきをすれば真剣に取り組み、夜には珍しい書物を読み聞かせてくれた。
共にいる時間全てに愛おしさを感じさせたほど、それらはセリシアにとってかけがえのないものだ。
「……ありがとう、セリシア」
だからそんなに苦しそうな顔をしないで、笑ってほしい。そう、強く願う。
◇ ◇ ◇
お別れの日の朝、さらに体の自由は利かなくなり、セリシアは体を起こすことができなくなった。
どこか行きたいところはあるかと聞かれたので、"ラフィーの泉"と答えると、魔法使いはセリシアをそこに連れて行き、花の中へと横たえてくれた。
「まだ少し時間はありますよね?」
「……うん。日が落ちるくらいまでは」
「じゃあそれまで、こうしていていいですか?」
色とりどりの花に囲まれているセリシアに、「いいよ」と短く返事をして、魔法使いは傍らに腰を下ろす。
「本当は聞かないつもりでいたんだけど……どうして君はラフィーの水を飲んだの?」
そしてセリシアの白い髪を撫でながら、悲しげに尋ねた。
「…………」
ここに至るまで、どうしてそれを聞かれなかったのかセリシアも不思議だった。
だが、聞かれもしないのにあえて言うこともないだろうと、セリシアも語ることをしなかったのだ。
「もしも毒を飲む前に出会っていたら……と思わずにはいられないような理由だったら、その後に辛いのは自分だからね」
そんな疑問を見透かしたように魔法使いが悲しく笑う。「なのに尋ねてしまったのは、きっともうすでにそう思ってしまっているからなのかな」と、小さい声で付け加えて。
それを慰める術を持たないことが、セリシアには歯がゆかった。
「村へ視察に来た領主さまに見初められたのです。……五番目の妻として」
「……なるほどね」
魔法使いが目を伏せる。
それ以上の言葉はなく、彼がそこにどういう感情を持ち合わせているのか窺い知ることはできない。
「名誉なこと。両親はそう言いました。でも私は、自分一人だけを愛してくれる人と結ばれたかった……」
「…………」
「そんなことで、と思いますよね」
何も言わない魔法使いが幻滅してしまったと思い、セリシアは逃げるように視線を逸らした。
「……いや。人の心はどうにもできない。自分にも、他人にも……魔法でさえも。それは誰よりもわかってる」
首を横に振り、魔法使いは悲しげに微笑む。
「だって僕は、人の心を魔法で無理やり奪ったせいで、その身に呪いを受けたのだから――――」
魔法があれば、何でも手に入れられると思っていた。
実際、そうして何でも手に入れてきた。
だから想いを寄せる女性の心が手に入らないと悟った時、何の躊躇いもなく魔法を使った。そうすれば手に入ると信じて疑わずに。
しかしそこにいたのは、自我を失い、ただ従順に跪くだけの人形だった。
違う。
欲しかったのは服従などではない。愛だったのだ。こんな彼女は彼女ではない。だから――――"戻れ"。元の彼女に。どうせ愛されないのなら、どこかでまた笑っていて欲しい。
『――――笑えると、思っているの? 失った時はもう戻らないのに』
しかしそこにいたのは、自我を取り戻し、憎悪に顔を歪める誰か。
『返して。愛した人と結ばれるはずだった未来を』
ああ――――元には戻らないのだ。
壊れてしまった。何もかも。
身勝手な振る舞いで。自分が、壊してしまったのだ。
『憎い。貴方が憎い。"永遠に、その罪に縛られてしまえばいいのに――――"』
「……彼女も魔法使いでね。だからその強い言葉は呪いとなって、僕の刻を止めてしまったんだ」
「…………」
魔法使いの口から語られた真実を、セリシアはただ静かに聞いていた。
おとぎ話のようだ。
そよそよと風に揺れる花々から香りが漂ってこなかったら、絵本の中にでも入ってしまったと錯覚を起こしたかもしれない。
「自業自得だよ。魔法で心を奪ったって本物の愛など手に入るわけないのにね。でも、その時の僕にはそれがわからなかった」
「……そうですね。人の心を壊してしまった代償は大きい」
泣きそうな顔をしている魔法使いに震える手を伸ばす。
「でももう、貴方は赦されてもいい……。愛されてもいい。こんなにも永い間、一人で苦しんできたのですから」
「…………」
その手を、魔法使いが躊躇いがちに握った。
温かい手だったけれど、彼の手も震えている。まるで縋るようだ。抱きしめてあげたい。今すぐにでも。セリシアは切にそう思ったが、しかし体は動かなかった。
「……泉の水を飲む前に出会えたらよかったのに。だって私は貴方を――――」
「だめだ、セリシア。その先は言わないで」
握る手に力を入れて、魔法使いはセリシアの言葉を遮る。
「そうだよ。愛されたかったから君に優しくした。僕は君を……利用しただけなんだ」
自虐的に笑う魔法使いは、まるで"嫌いになってくれ"とでも言いたげだ。
そうでなければ心が保てないのだろうか。だとしても、セリシアにはここまで来て気持ちを偽ることなどできなかった。
「……それの、何がいけないんです? 振り向いて欲しいから優しくする。そんなの、ごく自然なことではありませんか」
「…………」
「私は嬉しかった。貴方と過ごす日々は優しさに満ち溢れていて、とても楽しくて、そのどれもが愛おしくて」
セリシアの言葉に魔法使いは唇を強く結ぶ。
衝いて出そうになった言葉を、咄嗟に飲み込んだようだった。
「ねぇ、魔法使いさん。名前を教えてください。貴方の名前を……呼びたいんです」
「…………忘れた」
「嘘です。だって貴方の心は最初に名を尋ねたあの時から、呼んでほしいと訴えていた」
「……ははっ」
断定するようなセリシアの言葉に、魔法使いが自嘲気味な笑みを零す。図星を突かれた、と言っているような気がした。
「……ロシェ」
「ロシェ……綺麗な、名前……」
うっとりと呟くように魔法使いの名を呼んで、セリシアはもう片方の手を伸ばす。
「君の方が綺麗だよ」
しかし魔法使いはその手を取ることなくセリシアの体を抱き起し、まるで赤子を抱えるように腕の中へと抱き留めた。
「君の優しさに触れて、日ごとに心が洗われていくようだった。ずっと一緒にいたいと望んでしまうほどに」
苦しい胸の内を絞り出したような声だった。その表情は今にも泣きだしてしまいそうなほど切なくて、セリシアの胸も同じように痛む。
「私も、もっとずっと一緒にいたかったです」
震える手で魔法使いの頬に触れる。すぐに大きくて温かい手が重ねられ、安心感から大きく息を吐いた。
「愛しています、ロシェ。貴方を一人残していくことが、こんなにも心残りだなんて……」
「セリシア……」
魔法使いがセリシアの名を呟くと同時に、どこかからパキン、と薄い氷が砕けるような音がした。
「……!」
疑問に思って魔法使いの表情を窺ってみれば、彼もまた驚きに目を見開いて呆然としている。
「ロシェ……?」
「……呪いが、解けた」
「え?」
「どう、して……?」
言葉の応酬。
初めて見る魔法使いの狼狽えた姿に、想定外の事態が起こっていることを知る。
だが、呪いが解けたという言葉だけを取ってみれば、喜ばしいことだとセリシアは思った。
「どうして今になって呪いが? 今まで、何をやってもだめだったのに……」
「……きっとその人が赦してくれたんですよ。もう、自由になってもいいと。愛されてもいいと……」
「…………」
魔法使いの目から涙が流れ落ちた。
セリシアの手に自身の手を重ねたまま、静かに泣いている。
「よかった。よかったですね、ロシェ。貴方が赦されて、本当によかった」
「……でも、君はもう死んでしまう」
「そうですね」
悲痛な表情をする魔法使いとは対称的に、セリシアは柔らかい笑みを浮かべて頷く。
不可思議な現象で呪いが解けたのだとしたら、それはきっと魔法使いが純粋な愛を与えられたからだ。何の根拠もないし、自分に都合よく解釈して未練を減らしたいだけかもしれないが、セリシアはそう思う。
だから笑みが零れた。自分が魔法使いを愛したことで救われたなら、これほど嬉しいことはないと。
魔法使いから、それ以上の言葉はない。
けれど、自分を抱きしめてくれる腕があまりにも温かくて優しいから、セリシアにはそれだけで充分だった。
花がよそよそと歌い、泉はさらさらと奏で、太陽はきらきらと光を降らせている。それはまるで森が祝福してくれているかのようで、その心地よさにセリシアは瞳を閉じた。
◇ ◇ ◇
「…………」
気づくと、辺りは薄暗くなっていた。
眠ってしまっていたようだ。終焉の刻がすぐそこまで近づいているのか、心なしか息が苦しい気がする。魔法使いと過ごす最後の時間だったのに、なんということをしてしまったのか。そう思ってセリシアが魔法使いを見上げると、彼はセリシアの体を抱き留めたまま、穏やかな表情で見下ろしていた。
「……すみません、眠ってしまって」
「いいんだよ」
謝罪の言葉に、魔法使いはそれだけを返した。
眠っている間に何か気持ちの折り合いをつけたのか、それとも最後くらいは笑って見送ろうと思ってくれているのか。どちらにせよ、彼が笑顔でいてくれることがセリシアは嬉しかった。
「そろそろ……時間だ、セリシア」
「……ええ」
静かに降り注いだ声で、再び目を閉じる。
もう少し一緒にいたいと縋ってしまいそうになる心を封じ込めるように。
「……?」
スッと体を花の中に下され、セリシアは驚きに目を開く。
見ると、魔法使いが自分の傍から離れ、泉の方へと歩いていっていた。
「ロシェ?」
名を呼ぶも、魔法使いはこちらを見ない。返事もない。ただ泉の傍らに膝をつけて、静かに水面を見つめている。
「…………」
しばらくそうした後、魔法使いは両手で泉の水を掬って、それを喉へと流し込んだ。
「あっ、ロシェ!?」
呪いが解けた魔法使いの体ではその水は毒となる。しかもその量は致死量だ。そう思って慌てて声をかけるも、もうすべてが遅い。
「ロシェ、どうして……!」
焦るセリシアに何も応えず、魔法使いは再び両手で水を掬って、それをまた口に入れる。そしてセリシアの方へ戻ってきて、先ほどと同じように彼女の体を抱き上げた。
「ロシェ……んっ」
唇が重ねられ、口の中へと泉の水が流し込まれる。セリシアは戸惑いながらも、息苦しさからそれをごくんと飲み込んだ。
甘美な味が、口の中へと広がる。
「僕を愛してくれてありがとう。僕の名を呼んでくれてありがとう。僕を救ってくれて……ありがとう」
柔らかく澄んだ声が、耳に響く。
「僕も君を愛している。だから一緒にいこう、セリシア」
「ロシェ……」
ああ。綺麗だ。綺麗で愛おしい。
柔らかく笑って自分を見下ろしている彼が。
温かい腕で抱きしめてくれる彼が。
一緒にいこうと言ってくれる彼が。
共にいけることを嬉しく思ってしまう、醜い自分とは違って。
ただただ綺麗で愛おしい。
「ありがとう……」
二人重なり合うように花の中に身を沈めて、そっと目を閉じた。
再び唇が重ねられる。
それは、背徳の味がした。