焔‐ほむら‐2
十八、御火、天を焦がす
商いには正月休みも盆休みもない。とくに源一郎はこの地域に留まることがなく、明日も早朝から挨拶回りのその足で関東方面まで行く予定だった。
無論、佐源次もそれに付いて行く予定で、これまで携わることがなかった武器売買というきな臭い世界にいよいよ足を踏み入れることになってしまう。
武器商としての道に佐源次は全く気乗りしなかった。当然のことだが刀剣も鉄砲も所詮は戦のためでしかなく、人殺しの道具でしかない。
佐源次は母親に似たためか、とにかく争い事をひどく嫌う。
普段はとても穏やかな気性で、父親とちょっとした押し問答になるだけでもそれを避け、可能な限り穏便に事を済まそうとしていた。
山口村庄屋、山口定義宅――
数日後のある晩、庄屋の家に皆が集まった。定義は大きく咳払いをすると一言こういった。
「皆の者、毎日の仕事ご苦労じゃのう。今日来てもらったのは他でもない、七日後の『おんべ(御火)』の支度に係る役決めの話し合いじゃ」
「はあ、もうおんべの時期かい、忘れてた。しっかし早えもんだなあ」
「そうだったねえ、もうそういう時期かい」
皆、口々に言っている。
この年、政宗は伯母に当たる祖父晴宗の長女阿南姫(二階堂盛義の正室、盛義没後は大乗院と称す)が嫁ぐ須賀川の二階堂に降伏を迫った。
これに二階堂氏家臣や領民らが反発して松明を手に取り、城を死守する覚悟を阿南姫に伝えたとする出来事があり、このことが四〇〇年の歴史を誇り晩秋の夜空に高々と燃え上がる「須賀川松明あかし」の起源と云われている。
また、須賀川城落城後はその戦死者の霊を弔う鎮魂のための儀としても執り行われているという。
まず、若衆一同でそのときに使う御神木を伐り出すため山に登る。
婚礼のあった家や四十二の厄日待ちがある家からそれぞれ神木にするための木を寄進してもらい、それを伐って山から引き下ろすのだ。
そのとき一緒に餅やスルメを焼くための芝木を数十本伐ってくる。
家々で使われた正月飾り・注連縄・松飾り・藁二束を各々持参して神木に結わいつける。そして神木の周りを藁で包み、天辺には広げた扇子をつける。
当日の午後に大小二本の神木を立てて、夜「歳の神」が始まる。
最初に「小おんべ」に若衆頭が火を放ち、盛んに燃える頃、大人衆が「大おんべ」に火を点けようとするのだが、子どもや若衆らが枝松などで叩いたり雪玉を投げつけたりして火を消してしまう。
暫くその繰り返しを続けているうちにやがて大おんべに火が点く。燃え始めると、皆一斉に大声を張り上げてこう叫ぶ「大おんべやあ!」その声は極寒の空に響き渡りこだまする。
近隣の村々でも同じように「おんべ」を行うため、同じ頃には各村々のおんべが冬の夜空に勢いよく燃え上がる。
炎が最上部に辿り着くと天辺の扇子が落ちてくる。その扇子を皆で奪い合い、危険な争奪戦となる。
扇子を拾った者には幸運が訪れるとされ、燃え盛る頃に区長・花婿・四十二の厄年の者・若衆頭を次々担いでは胴上げし、おんべの成功を祝うのだ。
終盤、おんべが焼け落ちる頃になると長い芝木にそれぞれ持ち寄った餅やスルメをその火で炙る。
炙ったそれを食べることによって今年一年を無病息災で過ごせるとされ、おんべに参加できなかった人々のためにそれを持ち帰り「御供」として分け与える。
「まず、今年の若衆頭を決めたいと思うんだが。誰かその役を買って出る者はいないかの」
村の若衆は全員で四十人弱いるが、皆誰一人手を挙げる者がいない。見かねた吉次が言った。
「なんだなんだ? 若えもんが威勢ねえなあ、祝い事だぞ、どんどん攻めろ攻めろ!」
それを聞いた誰かがさらに煽る。
「んだよう、若い衆はもっと活気がねえとな!」
暫く沈黙が続いた。若い衆は皆辺りを気にしながらキョロキョロしている。すると一人、ゆっくりと手を挙げる者がいた。
「……じゃ、俺やるよ、俺に任せてくれ」
それは義兵衛だった。
今まで会合に顔こそ出してきたが黙ってばかりであまり協力的ではなかった。そんな義兵衛が手を挙げたとあり、周りはかなり驚いていた。
「おお、やるねえ。アキちゃんいるから頑張らねえとな」
「にしゃ(おまえ)、ほん(ほんと)にやれんのかえ?」
「不動の義兵衛かあ……。こりゃあ、ちっとは御利益あっかもしんねえぞ?」
「なるほど、そりゃそうだ」
「応援してやっからよ!」
三池屋の御息女を娶る日も近いのでは、と噂が立つほどちょっとばかり有名になっていた義兵衛。
厳格な父親の猛反対にも負けず、家出同然で出てきた金持ち娘と貧乏な青年山師との切ない恋物語に、村人達は少なからず叙情的な何かを感じずにはいられなかった。
「よしよし、他に我こそはという者はおらんか、ん? 若しくは、この者ならばという……。おらんようじゃな、では義兵衛にお願いするか。異議のある者はおらんかの? なければ、これで決定するぞ」
一同、義兵衛が若衆頭ならば、と納得しているようだ。
「義兵衛、おんべの成功はにし(おまえ)の肩にかかってるからな、一つよろしく頼むぞ」
「はい、よろしく頼んます」
「よし、それでは、次の議題じゃ――」
その夜、下山口町屋沢、義兵衛宅――
アキに自分が若衆頭になったことを伝えた。
何かと人の上に立つのは難しい――、大変な役柄とは分かっていたが自分のために力を尽くし色々助けてくれた村人への恩返しと思い、自ら「外れ籤」を引いた。
少なくとも、これから先は人の嫌がる事も率先してやっていこうと思っていた。
「え、義兵衛に決まったの? そっか、じゃあ私もできる限り協力するね。応援するから一緒に頑張ろうね」
「ああ、任しとけ。アキと一緒なら何でもできそうな気がする」
それにしてもアキはいつでも明るい。
さすがは気立ての良さで評判なだけはある。このアキの気立ての良さと器量があるからこそ、義兵衛は変わることができるのかも知れない。
「そうだ、明日って義兵衛、朝早いんだよね?」
「ああ、そろそろ寝るか」
数日後――
おんべの当日がきた。
元日からずっと関東に行っていた佐源次がやっと戻ってきた。ちなみに、源一郎は数日前に佐源次を向こうへ残し、一足先に帰ってきていた。
ちょうど佐源次が帰りしなに義兵衛のところに顔を出した。さすがに源一郎の言葉を黙って聞くほどお坊ちゃんではない。
「おーい、いるかあ?」
「あ、お兄ちゃん久しぶりだね。どうしたのその格好?」
アキは佐源次が関東に行っていたことを知らなかった。
「その格好って、今お兄ちゃん帰って来たんだよ」
暫くすると義兵衛が寝惚け面で起きてきた。
「え、どこ行ってたって?」
「おい、お前も知らねえのかよ。いやあ大変だったんだよ――」
「なんかあったの?」
「いや、そうじゃなくてさ、商いのお勉強を兼ねた先方との打ち合わせで。もうくたくただよ。たぶん、そのうち疲れすぎて死ぬぞ、俺」
「はははは!」
「笑い事じゃ済まねえよ。ぷう、疲れたあ。あっ、そうだ忘れてた!」
「え、なーに?」
「お前らにお土産買ってきたぞ、ほら」
肩から提げた袋から徐に小さな紙包みを取り出し、それぞれに手渡した。開けて見ると、アキは縁結び、義兵衛は厄災除けの御守りだった。
「あ、ちなみにさ、義兵衛にはもう一つあるんだ。でも今は渡せないんだよ、へへっ」
「え、なになに?」
「お前には教えない」
「ずるい、私ももう一個欲しい!」
アキは得意の脹れっ面だ。
「土産ありがとな……で、そのもう一個って何なのか教えろよ」
「ま、届いてからのお楽しみさ」
佐源次は義兵衛の肩を叩いた。
「……そっか、じゃあ楽しみに待ってるよ」
「あとさあ、今晩っておんべだろ? 今年の若衆頭って誰に決まった? いや、御神木午後伐り出すだろ? 俺、夕方まで仕事残ってるからさあ。んー、たぶん、夜しか顔出せないと思って。だからみんなに伝えてほしかったんだ」
義兵衛とアキは笑っている。
「ん、何かおかしいか?」
佐源次はまだピンと来ていない様子だ。きょとんとした顔で義兵衛とアキを交互に見ている。
「……今年は俺だよ、俺が若衆頭」
「え、ほんとか?」
「本当だよ。まあ、午後のことは分かった。でも夜は必ず来いよな、俺の胴上げ手伝ってもらうんだから」
「ふはははは、わかったわかった。じゃ、また夜な」
「おう、ほんとありがとな」
「じゃあ、お兄ちゃん夜ね」
中山口「おんべ」開催場所――
夕暮れ時、村人たちがやんややんやと押し寄せてきた。
中には一杯二杯に止まらず、すでに相当量ひっかけてきた者もいる。間違いなく今宵は大騒ぎになる。
一方、義兵衛率いる若衆たちはそれどころではない。
村の者に酒を振舞ったり、神木の傾きを直したり、はたまた酔っ払いに絡まれたり相手をしたり。とにかくおんべが無事に開催され、滞りなく進行することを祈るばかりだった。
若衆たちが何やら話している。
「そう言えばよう、今年、厄って誰だっけ?」
「うーんとなあ……あ、そうそう、吉次さんだろ?」
「吉次さんって、もうそんな歳かい」
「しっかし疲れたなあ。午後からずっとだもんな」
「そうだよなあ、早く落ち着きてえ」
「それより酒飲みてえ! 体温めねえとよ。おんべに火点きゃあ、温いんだがな」
「お、おいおい、義兵衛のご登場だぞ」
いよいよおんべの開始となる。
義兵衛が手に持っている松明でまずは小おんべに点火した。ざわめきと共に村人たちに歓声が沸き起こる。
日中降っていた雪も止み、小雪がわずかにちらつく程度で比較的晴れている。
段々と炎が上に向かっていき、バチバチ音を立てながら徐々に巨大な火柱となった。
(まずは成功だ!)
義兵衛は小おんべがちゃんと燃え続けることを見届けた。
(あれ? そういえば……佐源次のやつ、まだ来てねえな)
夕方、家にちょっと戻ってきた義兵衛を送り出したあと、若衆たちや準備の手伝いをしている者に陣中見舞として握り飯などを差し入れしたアキはそのままずっと義兵衛たちの作業を見ていた。
しかし、夜に来ると言っていた佐源次の姿がどこにも見当たらない。
小おんべの炎が勢いを増す――、いよいよ今夜最大の目玉、大おんべの始まりだ。
大人衆(壮年の男衆)対若衆・子どもたちが繰り広げる攻防戦。これからその熱き戦いが始まる。
大人衆が大おんべに火を点けようとするのだが、若衆や子どもたちが着火点の火消しをしては邪魔をしてくる。
本来であれば、神木の着火場所を攻撃する筈、なのだが……。
「いて、馬鹿、俺に雪玉ぶつけてどうする!」
「いてっ! ちっ、誰じゃ、今やったのは‼」
ドサクサに紛れ、皆で悪戯を仕掛けてくる。
大人が皆酔っ払っているのをいいことに、枝松で叩いたり雪玉を投げつけたりする。こうなると、もう何でもありの大乱闘だ。
「がはははははは!」
大人が痛がる度に面白がってどんどん雪玉を投げつけ、何としても火を点けさすまいと邪魔をし、またそれに負けじと大人衆が何とか火を点けようと悪戦苦闘している。
五郎太が枝松でちょっかいを出すのをやめ、雪玉を作り始めた。
「おい壱次、あれ、あそこにいる親爺。意地悪くて気に入らねえんだ。ちいっとやってみねえか?」
得意の悪巧みが始まった。
敢えて口には出さなかったが、寧ろ性根が悪いのはお前の方じゃないか、と壱次は思っていた。すると、今度は壱次が義兵衛を呼んだ。
「おーい義兵衛、おめえもこっち来い!」
向こうから義兵衛が走ってきた。
「壱兄者、なにや?」
「ん? まあ、五郎太から聞け」
「おお、来たな。あの、向こうにいるあの親爺いるだろ? ひでえ奴でよ、意地は悪いし……。なあ、知ってっか?」
「ああ、知ってるけど……。有名だから。まあ、言いたいことは大体……」
「まあ、今日は無礼講だしな。酒も入ってるし、何でもありだ」
一斉に雪玉を投げつける三人、勿論本気ではない。
こんな調子で暫く攻防が続くのだが、そこはやはりお祭り行事。何だかんだ言ってはいるが最後には「大おんべ」に火が点く、とそこで待ってましたとばかりに、皆一斉にこう叫んだ。
「大おんべやーーーー‼」
冬の夜空に大おんべの火柱が立ち、天をも焦がす勢いで高々と炎が上がる。周囲の温度も一気に上がり始めるのだ。
どこかの子ども連れが話している。
「ほら栄吉、頭良くなるように翳して」
また、こんな夫婦もいる。
「あんた腰悪いんだから、ほら早く火に翳しなさいよ。あっ! この際、顔もやったら?」
「うるせえ、面が悪いのはおめえも一緒だろ! ああ⁉ ま、眉毛燃やしちまったあ!」
義兵衛はアキのところへ行き、アキが持ってきた餅を芝木に刺して焼いていた。
「ねえ、義兵衛、もう焼けたかな? おいしそうだねえ」
餅をじっと見つめるアキ。どうやら相当のお餅好きらしい。
「どうだろ、まだだなあ。今日は一段と冷え込んでるけど、やっぱおんべの火って暖まるな」
「うん、だよね。わたしおんべ好きなんだ。早くお餅食べたい」
そこにやっと佐源次が合流した。店の手伝いが大分遅くまでかかってしまったようだ。
「おう、義兵衛、アキ! 遅くなっちまったよ、ごめん」
「ずいぶんかかったな」
「あ、お兄ちゃん遅い! そんなに仕事忙しいの?」
「バーーカ、お兄ちゃん大変なんだぞ。ところで今日は済まなかったな」
「おお、気にすんな。みんなにも言っといたし。それより、餅焼けたからお前も食えよ」
「お、御供かあ、御利益あるかな。何にも食ってねえからお腹空いてんだよ。じゃ、いただきまーす!」
三人は焼けたばかりの熱々の餅を頬張った。
「きっと御利益あるぞ。あ、あ、あち、あちち――」
義兵衛は極端な猫舌だった。その滑稽な姿を見て二人は笑っている。
「あんまり急いで食べるからだよ、舌、火傷しちゃうよ?」
そこへ弥平と鴫が来た。
「おお、三人揃い踏みか?」
「弥平さん鴫さん、どうもこんばんは」
義兵衛はまだ熱々の餅に苦戦を強いられている。
「義兵衛は確か猫舌じゃったからな、はっはっは!」
実は義兵衛の猫舌は仲間内ではかなり有名で、弥平に挨拶したいのだが上手くものを言えないでいた。
「あふぇあんなひひあんな、ほうもほんはんは」
「ほん(ほんと)にまあ、なに言っとるかさっぱり分からんわい」
「義兵衛っておもしろい。あ、弥平さんこんばんは」
「おう、アキちゃんこんばんは。しかし、相変わらず仲良しじゃな。妬けるのう、妬けるのう。アキちゃんに餅をこう、あーん、してもらいたいのう」
弥平が冷やかすと、ここはすかさず鴫が反応した。
「ふん! 全く、よくもいい歳してそういうこと言えるな」
今度はそこへ吉次も来た。今夜はいつになくかなり酔っている。歩く方向も定まらず、千鳥足で近づきながらしゃっくりばかりしている。
「あ、吉次さんこんばんは」
「吉次さん、どうもお晩です」
「ひっく、お、おう、お晩!」
「吉兄者、お晩でやす!」
「……おっ? おう、義兵衛かあ、お楽しみはこれからだぞ。ひっく! おんべ崩れたら例のあれ(・・)だ。ほら、地べたで燃えてる藁の上、あれの上歩くんだからなあ、ひっく!」
仕事では安全第一の吉次だったが、実はそれは仕事の時だけのようだ。
「吉兄者、だいぶ酔ってるみてえだな」
「うん、たぶんな。意外と……ほんとは酒癖すっげえ悪かったりして」
義兵衛と佐源次が小声で話している。
「おいおい、見ろ、そろそろ一番の見所だぞ」
見ると、大おんべの天辺に結わいつけてある扇子が落ちる寸前だった。
「ひっく、それえ、あれ取るぞぉ! 足挫くなよお‼」
吉次が威勢よく跳び上がった。扇子を取られまいと、老若男女皆一斉に激しい争奪戦を繰り広げる。
伸ばした吉次の手に扇子が当たったが、跳ね返ってまた手から手へと移っていく。
「あ、いってえ!」
気をつけろと言った吉次だったが、どうやら言った本人が足首を捻挫したらしい。そのわずかな隙を突いて義兵衛が跳び上がり、左腕で上手く扇子を手にした。
「やったあ、義兵衛!」
アキが大喜びしている。
「ちっ、義兵衛かよ! やっぱあいつずねえ(でかい)からなあ」
「やるねえ、それ縁起もんだぞ」
「くっそお、悔しすぎるう!」
「吉さん、足大丈夫かい?」
周りが口々に言っている。すると、大おんべが崩れ始めた。
そこに五郎太と壱次も駆け付けた。
「おお、扇子、おめえ取ったのか? あーあ、やられたあ! お、佐源次もいたのか、ずいぶんと遅かったじゃねえか」
吉次は足首を押さえていたが、酔いのせいなのかすぐに痛みが消えてしまった。義兵衛たちもさして気にした風でもない。
「どーも、お晩でーす!」
「でーーす、じゃねえよ! あ、おい義兵衛、いよいよ本日の最高の見せ場到来だな」
「おい、おめえらもやるぞ! 若衆最大の見せ場」
壱次も酔っ払って悪乗りする。
「んじゃ、せっかくだし、いっちょやっか?」
「よーーし、やるか義兵衛」
話は決まった。山師軍団はやる気満々だ。そこでアキが一言言った。
「え、ちょっと、ほんとに義兵衛やるの? 火傷しないでよ、何か心配だよ。お兄ちゃんも気をつけてよ」
「大丈夫。よし、みんな行くぞ!」
義兵衛の掛け声とともに、佐源次・吉次・壱次・五郎太の五人がまだまだ燃え続ける藁の上を渡って行った。
酔っているせいかあまり熱さを感じない。それは威勢のいい若衆たちの勇姿だ。
それに続いて他の若衆たちやら大人衆が火の粉の上を走って行く。中には平然と裸足で歩いていく強者までいる。
若衆の努力の甲斐もあって、無事に「おんべ」は終了した。その翌日、足の裏を火傷した者が大勢いたことは言うまでもないだろう。
十九、佐源次の贈りもの
四日後――
義兵衛の家に佐源次が顔を出した。すると、そこに見慣れない男が馬を連れ一緒に立っている。
よく見ると馬の背に大きな木箱が結わえつけてあった。箱の長さは四尺弱(約一二〇センチ)、巾は二尺五寸(約七五センチ)ぐらいだろうか。
「おう、どうしたんだ?」
佐源次はにやっと笑い、後ろの木箱を指差した。
「ん? だから何だよ」
「ここで、じゃあ降ろして下さい」
義兵衛は首を傾げた。
男が佐源次と二人がかりでその大きな木箱を義兵衛に渡した。とても重そうに見える。
「義兵衛、まあ中見てみろよ」
恐るおそる木箱を開けた。
「え? これは⁉ これって……もしかして?」
「そうだよ、あれだよ。例のあれ」
佐源次が言っていたもう一つの土産のことだ。
「こんな大そうなの貰うわけにいかねえよ、いくらなんでも――」
「まあ、いいからさ。買っちまったんだ、今さら突っ返せないっしょ。お前にやるって」
それは義兵衛の商売道具、斧だった。
今も普通より一回り大きな鬼神斧を使っていたのだが、刃毀れがひどく柄もかなり痛んでいたため、そろそろ新調しなければと思っていたところだった。
佐源次が関東に行っていたとき、知り合いの鍛冶師に出向き義兵衛のために特注の斧を打ってもらっていた。
義兵衛の腕力だと木の柄では中々持ち堪えられない。やはり柄も鉄で出来ているものが望ましかった。
刃の大きさこそそれほど変らないが、今度は全て鉄で出来ている。刃の部分には模様が刻まれ、さらに何かが螺旋状に巻きついている。
その彫刻は『昇り龍』。銀色の光沢を放ち、仕事道具というよりはむしろ芸術品というべき代物である。
見事な刃文が現れるその刃金には義兵衛の顔が映り込み、まるで鏡のように鍛え上げられた鋼の刃をもつその斧は戦斧さながらだ。
また、かなりの重量のため、並の人間では一人で持ち上げることすら不可能だった。しかし、怪力の義兵衛はそれを左腕一本で悠々と持ち上げ、ひょいっと肩に担いた。
「佐源次、ほんっとにありがとな。これからこいつが俺の相棒だ。大事に使わせてもらうよ」
その柄に螺旋状に絡みつく何か――、それは、不動明王の化身『倶利伽羅龍王』だった。
一切の煩悩を打破し、悪行三昧の所業を繰り返す大魔を降伏せしむ剣『降魔の利剣』を、また巻きつく龍は不動明王が左手に持ち、衆生を救済するべく捕縛する縄『羂索』を投影したものだった。
仲間たちはまたもや面白半分にその大斧に渾名をつけ、それを『龍王斧』と呼んだ。
青柳村、河原田侍屋敷――
夜半過ぎ、巳代治は他の足軽番頭数人と話し込んでいた。
「なあ、伊達軍が本格的に動き出したんだ。そうなると俺たちだって……」
「巳代治、それは分かってる。ただなあ……かと言ってだ、せいぜい俺らにできることと言えば……。しかもよ、俺らは軍団を指揮するほどの立場じゃない、だろ?」
「そうだぞ、巳代治。俺たちにはそんな権限はねえんだ。所詮、上が言う事をひたすら下に伝えるだけの立場なんだ。それだけでしかねえんだよ」
「立場、か……確かにそうじゃな。よいか巳代治、己の身分を弁えるんじゃ、気持ちは分かるがな」
番頭の纏め役が眉間に皺を寄せて言った。
「……玄武殿に行ってくる」
巳代治はそう言うと、独り修練道場に向かった。深夜の道場、当然そこには誰もいない筈だった。
(盛次様は何であんなに平然としていられるんだろう……。あ、あれ? 灯り灯ってんな)
「よーーし! これが俺の後輩、巳代治の技だ。しっかとその目に焼きつけろ!」
この夜更けに足軽を集め、重次郎が何やら声を張り上げている。
「おい、重、お前何やってんだ?」
「おお? おう、来たな……傷心の暇隊頭め」
「うるさい! ところでお前、俺の技が何とか……」
眠そうな目を擦りながら、足軽たちは突然の巳代治登場に驚いている様子だ。
「あ、番頭、夜分遅くご苦労様です」
「ああ、みんなお疲れさま。ところで重、お前なあ、無理やりみんな呼び付けたのか?」
「ふん、うつけ。さすがの俺だってそこまでするか。見れば分かるだろ、夜稽古だ!」
「け、稽古?」
巳代治は溜息混じりに頭を抱えた。
「伺い立てたのかよ、上に」
「うん、お前の名でな」
「やっぱり……って、何でだよ!」
「案ずるな、迷惑は掛けん。お主に――」
「はあ、分かった分かった。もういいから」
「して巳代治、お主はなぜここに。あ、あれか? 叶わぬ恋に憂う余り……独り寂しく、木刀で百本素振り!」
「重、もう勘弁してくれ、夜も遅いんだから。これでも俺はなあ――」
「お気持ち、お察しします! 暇隊頭殿!」
「いい、もう帰る‼ みんなもこんな阿呆に構ってることねえからな」
「巳代治、それは違う! 俺が集めたんじゃない」
「じゃあ何だよ」
「お前に習おうってな。見ろ、みんな自主的にやってんだよ。伊達軍が活発に動き出したから、分かるか?」
「だからって……」
「武士、日々是鍛錬。稽古に夜も昼もない! て言うかな、その……お前に引っ張ってって欲しいわけ。ちなみに明日からは、ここに長刀と弓(足軽)も参加する」
「はあ?」
日頃から巳代治に対して数々の無礼を働いてきた重次郎が、ここにきてやけに汐らしく素直に恭順を示してきた。
今年は雪があまり深くなかった。大雪の年なら五月まで残っているが雪はすでに消え、交通の不便もなく比較的暖冬といえた。
今日は山師の仕事が休みだ。古町(伊南地区古町)で市が開かれるため、アキと二人で出かけようとしていた。
「何かいいのあるかな? ここ最近ずっと市なんて行ってなかったし、すごく楽しみ」
「俺、市って子どもの頃しか行ったことないんだ。今ってどんな風なんだろ」
「……そうなんだ。最近はいろいろあるんだって、なんか面白そうじゃない?」
「うん、そうだな。あ、猫たちに餌……」
「大丈夫、ほら」
義兵衛より早く起きたアキは、すでに準備万端にしておいた。
「じゃあ、行くか」
山口村から古町までは距離にすると一里半(六キロ)ほどある。途中、三池屋の前を通ることになるが、アキは全く気にしていない様子だった。
歩いている途中、近所の人が声をかけてくる。
「お、義兵衛、アキちゃん、おはよう。いいねえ若いのは」
「あらあ、アキちゃん久しぶり。これから市にでも行くの?」
「よ、お二方、市かい? 俺もこれから母ちゃんとガキ連れて行くんだ。家族持つと大変だぞ」
そうこうしているうちに古町に着いた。人がごった返していて、この地域にこんなにも人がいたのだろうかと思うほどだ。
今朝採れたばかりの山菜や、去年の秋に収穫し氷室で保存しておいた野菜がずらりと並ぶ。つるし柿(干し柿)・干した舞茸・凍み豆腐、など様々で、他に反物・衣類から農作業用の鍬・鎌などの刃物や簪などの飾りもの、御守りなども売っていた。
「うわあ、市、市! 色んなのいっぱいあるねえ」
アキは目を輝かせている。野菜や山菜を品定めしている姿はさながら新妻のようにも見えた。
「アキ、この簪似合うんじゃねえか?」
「あ、ほんとだ、かわいい」
義兵衛は徐に袖から銭を取り出した。
「それじゃ、これ一つ」
実は義兵衛は少しずつだったが銭を貯めていた。決して高いものは買えないがアキに何かを贈りたかった。
「え、私に?」
「アキに着けて欲しいんだ」
「そんなあ、いいよいいよ」
「だってもう買っちゃたもんな。はっはっは」
「ほんとに? ありがとう、ほんっとに嬉しいよ」
言うまでもなく、アキは高価な飾りものなどを沢山持っていたのだが、たとえ安物でも義兵衛がくれた簪が彼女にとって宝物にしたいほど大切な物だったに違いない。
「おい、泣くなよ。みんな見てるぞ」
「だって、だって……」
市に来ていた村人たちが周りを取り囲み、あっという間に人だかりができてしまった。
そこへ吉次と淑子が来た。
「あらやだ、アキちゃんじゃない? 泣いちゃってえ、どうかしたの?」
「おお、義兵衛じゃねえか? アキちゃん何で泣いてんだ?」
「いや、アキにこれ買ってあげたんです、そしたら……」
「なんだそうだったか。いやあな、てっきり――」
「あらやだ、そうだったの! あたしら勘違いしちゃって、ねえ? 早合点だったわね、ごめんね」
すると今度は鴫夫妻がやってきた。
「何だ、てっきり泣かしたのかと思ったぞ」
「鴫さん、違うよ」
「だよな、こんないい娘泣かしたら俺がくらつけて(なぐって)やろうかと思ったんだ」
鴫と吉次の嫁衆が互いの旦那の顔をよーく見つめながらこう言った。
「でも話し聴いたらさ、泣かせるじゃないか」
「まあ、初々しいわねえ。あたしたちも若い頃はねえ。でも今なんて、なーんにも買ってくれやしないよ」
そう言いながら、鴫と吉次をさらに覗き込む。
「うっ!」
「いや、いやいやいや、そうじゃなくてな」
「釣った魚に餌は何とか……っても言うしねえ」
「そうよねえ」
鴫も吉次も嫁衆の口撃にたじたじになっている。
「私も義兵衛になんか買ってあげたいな」
そう言うと、偶然隣の店で御守りが売られているのに気づいた。
「うーんとね、義兵衛にはこれ。これ、下さいな」
「はーい、まいど」
「え? 俺別にいいのに」
「いいの、はいこれ。山仕事危険がいっぱいなんだから、だから、はい!」
仄々(ぼの)とした空気が周りを包んでいた。しかしその時だった、急に人だかりが割れ、群衆が一気に引いていった。
誰かが真っ直ぐこちらに近づいて来る、それは目黒源一郎だった。鞄持ちで三池屋番頭の岡八が源一郎の脇にくっついている、まるで腰巾着そのものだ。
「おいアキ、お前ここで何してる?」
かなりご立腹の様子だ。
「なにってなに? 見れば分かるでしょ。おかいもの、してるの」
「家に帰ってこい、そんな男もうやめろ! お前にはもっと相応しい相手を俺が見つけてきてやる‼」
「は? 何言ってんの。大体さあ、出ていけって言ったのお父さんの方じゃない」
もうこうなれば周りに人がいようと関係ない、父娘喧嘩の再開だ。しばらく言い争っていた二人だったが、結局その軍配は源一郎にあがった。
「この馬鹿娘が! アキ、これ以上勝手な真似ばかりするなら俺にも考えがある。いいか義兵衛、二度と娘に近づくな。娘と貴様とでは身分が違いすぎるだろう、その程度のことも分からんのか! 高が樵の分際で、分を弁えろ‼ 娘を誑かしおって、おいアキ、来い!」
世間体を気にするはずの源一郎だったが、周囲を気にする素振りも見せず、見境なく乱暴に言い放った。そして、アキの腕を無理やり掴んで連れ帰ろうとした。とうとう、父娘の小競り合いが始まってしまった。
それを近くで聞いていた鴫や吉次が、聞き捨てならぬと源一郎に猛反論した。
「源一郎さん、そりゃあ、ちっとばかし言い過ぎじゃねえかい?」
「鴫さん、もう俺も黙っちゃいられねえ。しかし言ってくれるぜ、言うに事欠いて樵の分際だと? あんた、何様の気してやがんだ!」
普段怒ることなど滅多にない吉次までが腕を捲り上げ声を荒げた。
たまたまその場を通りかかった五郎太もそれを聞いていた。仲間に対する数々の侮蔑の言葉に憤慨極まりない五郎太だったが、かといって相手は源一郎。どうにもこうにも逆らうことができず、もどかしさに苛々していた。
「ちっ! なんだと? そうか、お前ら義兵衛の……。なるほど、例の樵連中か」
すると、義兵衛が源一郎の眼をぎろりと睨みつけ、毅然とした態度でこう言った。
「源一郎さん、これだけは言わせていただきます。俺をどうこう言おうと構わない。でも、俺の仕事や仲間を侮辱するのは許せない。もちろん、アキのこともです。アキの腕を放して下さい」
憤慨極まりない源一郎は義兵衛を指差してこう言った。
「ふん、聞こえんな。行くぞアキ‼ おい、義兵衛、生意気を言ってられるのも今のうちだ!」
「痛い、放してよお! いーたーい‼ やだー、義兵衛、義兵衛えーー!」
強引に腕を引っ張られていくアキ。
「アキーー! アキーーーー‼」
夕日がアキの影をどんどん遠くしていった。
この頃、時期を窺っていた隻眼の黒竜は勢いよく金色の両翼を広げ、その脚に傷を負いながらも力一杯地を蹴りつけ、いよいよ大空へと翔び立っていった――。
四月――
政宗はこの二月前に不意の落馬事故により左足の踝辺りを骨折している。その怪我も完治せぬままに、急ぎ三春城を目指して米沢を出発した。
これは相馬義胤・岩城常隆が再び同盟を組み田村領に侵攻したため、三春城主田村宗顕を掩護する名目での出陣だった。
なお、この月二十日には岩城の軍勢がさらに進軍し、滝根の鹿股城を攻め落としている。
宗顕は先代清顕の甥であり、そしてその養嗣子でもある。また、同時に清顕は政宗の舅でもあり、正室愛姫と宗顕とは従姉弟であるのだ。
政宗の義母於北(田村御前)はよりによって相馬義胤の祖父顕胤の娘であり、この相馬顕胤は政宗の曽祖父稙宗の長女を娶っている。つまり、正室愛姫とははとこにあたる。
秀吉に喧嘩を売り、方々にはったりを利かせつつ、南下政策のためその侵攻を推し進めようとする政宗にとって、この出陣はある種の好機ともいえる。
それは彼の宿敵、相馬を討ち取る肚に他ならない。
但し、宿敵と雖も相馬も政宗にとってはそもそも身内なのであるが――。
その相馬と共に伊達の前に立ちはだかるは、田村を宿敵とする飯野平(大館)城主、岩城常隆である。
常隆の父親隆は政宗の父輝宗の実兄で、これもまた先に同様、政宗と常隆は親戚であり従兄弟同士である。
さらに、常隆の母桂樹院は常陸佐竹義重の妹であることから増々政宗は面白くない。事に義重は『鬼義重』などと渾名され、諸将も怖れるほどの武勇を誇っていた。
最早、北に憂いがない政宗は小田原の北条氏(後北条氏)と誼を通ずることで、自身の侵攻の妨げとなり、また北条の宿敵となる佐竹を南北から挟みつつ牽制したかった。
いや、それどころか喰らいたい、あわよくば呑み込みたい。ところが、その佐竹に叔母宝寿院が嫁いでいるのだ。
西に座する會津蘆名義広の母もまた政宗の叔母であり、義理とて二人は従兄弟である。
複雑な縁戚関係だからこそ、それを逆手に捉えた政宗は一つの結論に至った筈。できることなら、仙道(福島県中通り)中央部の利権を無血で掌握したかったことだろう。
彼の地を押さえれば、その先に見えるは常陸佐竹、西方には會津蘆名という両巨頭の目と鼻の先に立つことになり、奥州から常陸に至る全権を牛耳る日もそう遠くはない。
こうした中で、先の『郡山合戦』では相馬率いる連合軍に対し、得意の情報操作で休戦に持ち込み、その機を窺っていた政宗だったが、当然その先の筋書きもすでに完成していたのだ。
東に望めば大悲山を曜らす九頭の駿馬が駆け廻り、南東には連子に洩れる白水の月明りが揺れ、南の竹林を潜れば浮かぶ満月と大扇を扇ぐ鬼、西を向けば蘆の原に潜龍が息を顰める。
しかし、今の政宗には虞など微塵もない――。
そもそも正月早々兵を進めた岩城常隆を唆したのは他でもない政宗自身であり、巧いこと相馬をその居城から陽動したわけだが、双方を合流させぬため予め街道や迂回路を封じておく必要があった。
そのためには、是が非でも田村から相馬派旧臣を駆逐したい。なぜなら、この機を利用した政宗の謀と勘づかれてはその全てが水泡と帰すからだ。
一度に相馬、岩城の二つを迎え討ち、降伏から帰順へと事を運びたい政宗はここで十分すぎる大義名分を得た。
仕掛けてきたのはあくまで向こう――、まずは越後(會津)街道から磐城街道を北に進軍する岩城軍を封じて三本爪で抑え込み、その後誘き寄せた相馬義胤に肩透かしを食らわせるべく翼を翻して相馬領地へ一気に飛翔し、大口を開けてそれを呑み込もうとした。
一方では信夫郡大森城(福島市大森、城山公園)から片倉小十郎景綱、二本松城からは伊達藤五郎成実を南下させ、仙道から越後街道を西に向かい會津にて咆哮を上げる手筈だった。
ただし、ここで一つ忘れてはいけないことがある。それは仙道を真一文字に突き抜ける越後街道、さらには磐城・三春・新町・都路街道、その他網の目の様に無数に張り巡らされた街道やら迂回路をどう封じるか。
それぞれ東西に抜けるこの道は全て奥州街道を交差、または起点としている。
当然だが、用意周到な政宗は早々に手を打っていた。先の『人取橋の合戦』でも活躍した忍衆『黒脛巾組』がすでに方々へ散っているのだ。
そのため、刻一刻と目まぐるしく変化する情勢に対し、常に先手を打てるよう万全の態勢をとっていた。
二十、両雄、激突
大翼をはためかせ気炎を吐く黒竜。安積野へと降り立ち、遠く猪苗代湖を越え、遥か磐梯山に轟くほどに高々とその鯨波を上げた――。
五月四日――
隻眼の黒竜伊達政宗はその期熟したとばかり、遂に兵を動かした。
伊達成実、片倉景綱を据え、仙道は安積郡郡山を東西に走る越後(會津)街道を西に向け韋駄天の如く駆け抜けていく。
方々の諸将が伊達に次々と帰順し、その兵力は悠に三千を超え、安子島城(郡山市熱海町安子ヶ島)に攻め入った。
安子島城は猪苗代湖の東に位置する蘆名の要衝の一つである。
城主安子島治部大輔祐高は忠義に篤く、伊達を迎え討つ肚を決めた。しかし、寡は衆に敵せず、祐高は已む無く城を捨てざるを得なかったという。
翌五日――
周辺勢力を吸収し、さらに増幅した伊達軍は四千三百を数えるほどになり、石筵母成峠の登り口にある高玉城(郡山市熱海町高玉)を包囲した。
高玉城主畠山太郎左衛門は決死の覚悟で籠城した。だが、形勢不利とみるや妻子を手に掛け、自身は奮戦虚しく討死にする。
ここで政宗は「撫で斬り」を命じ、城兵・家臣・女子ども・領民・牛馬に至るまで先の二本松小手森城と同様、全て殺害したという。
それでも政宗は手を緩めることなく、伊達の猛攻はまだまだ続いていく。
伊達軍はその士気を維持したまま、義胤と義兄弟の重臣亘理重宗率いる五千八百騎が突如相馬領に現れ、宇多郡(相馬郡新地町)北部に攻め入った。
十九日には、駒ヶ(が)峰城を落とし、翌二十日には新地(蓑首)城を含む周囲の拠点を次々と陥落した。
その足で相馬中村城に鉾先を向けた政宗。
そのため相馬の伝令が急ぎ義胤に戻るよう伝えた。三春に向かうその途上で一報を聞いた義胤は最早泡を食って引き返すしか他に手はなかったのだろう。
裏をかかれた義胤はこれが政宗の策略とも知らず、一路、父盛胤が隠居する中村城を目指し手綱を力一杯引いたのだった。
隻眼の黒竜、そして漆黒の精鋭たち。いよいよ、伊達の兵共が押し寄せ、會津全域に戦禍が飛び火することになる――。
まだこの時期にもかかわらず、蝉の声がけたたましく響く。裏に流れる町屋沢の水音を消し去ってしまうほどだ。
義兵衛は仏壇に手を合わせると今日一日の無事を祈った。あの日以来、もうここにアキはいない。
もうあれから二月が過ぎようとしていた。脳裏にはアキの悲痛な表情が今も焼きついている。あの笑顔、あの声、もう見ることも聴くこともできない。
今までの独り暮らしに逆戻りしてしまった義兵衛だったが、ようやく最近になってこの生活にも慣れてきた。
結局、残ったものはアキがくれた御守りだけだった。
この頃から南会津にはある噂が流れ始めていた。それは勿論、伊達政宗のことだった。いよいよ會津に攻め入ってきた政宗、その勢いは烈火の如く。
安積郡(郡山市付近)から忽ち耶麻郡(猪苗代町・磐梯町付近)まで押し寄せた伊達武者たち。このまま一挙に蘆名義広居城の黒川を食らい、もしやこの南会津まで戦の巻き添えになるのでは、と皆気が気ではなかった。
今年の来夏はとても早く、酷く暑い。
高地とはいえ農村地帯のため湿度が高く、それに加えてこの猛暑によって例年よりも余計に湿気を感じる。
それが、いつにも増して蒸し暑かったのだ――、さすがの義兵衛も寝苦しさに耐えられず、いつもよりずいぶんと早く目が覚めてしまった。
汗まみれの義兵衛が忙しくしている。
手早く顔を洗い味噌汁の準備をしている。手馴れた手つきで湯を沸かし、大根を切り、去年近所から分けてもらった打ち豆を入れ、ささっと味噌汁を作る。
具など殆んどない、味噌を湯に溶かしただけのただの汁に見えてしまう。
「よしできた! (でも、こう暑いとやっぱり朝から熱い飲みものはダメだな)ああ、参った……」
何やら独りでぼやいている。ところが、味噌汁好きの義兵衛はつい毎朝作ってしまうのだ。
そこへ半人前の清一郎がやってきた。ドンドンと激しく板戸を叩く。大急ぎで駆けってきたらしく息が上がっていた。
「……はあ、お、おはようございます! 義兵衛さん、開けますよ‼」
(全く、朝から騒々しい)
「朝っぱらから忙しいな。どうした? そんなに息切らして」
「い、いや外……外、見て下さいよ! 大変なことになってるんですよ」
「ああ? 外が――」
義兵衛が清一郎の肩越しに顔を出すと、久川城の足軽たちが槍を携えてぞろぞろと行軍しているではないか。
「なんだ、何かあったのか?」
「いや、義兵衛さん知りません? 伊達政宗の話――」
「ああ、それで?」
「それでって……。い、いや鴫さんから聞いたんすけど、なんでも久川城の兵が動き出したって。で、これから黒川の方に向かうみたいなんすよ」
「ほーう、で? 別に俺ら山師にゃ関係ねえだろ。俺たちの仕事は木の伐採。日々与えられた仕事を全うする、ただそれだけだ」
「いや、だから、こっちもいよいよ危ないんじゃないかって。ま、そういう話で――」
「戦はお武家様に任せておくのが一番。いくら騒いだって、結局俺らはなんにもできねえだろ?」
「それはそうすけど……」
その物々しい光景に村中が動揺を隠せない。人々が沿道に出てきては耳打ちし、ざわざわと話をしている。
「やっぱりあの噂、ほんとだったのよ」
「そうよねえ、何か物騒よねえ。あー、くわばらくわばら」
「まさか、こっちに来ねえだろな?」
「片目の、あれ何だっけ? ほら、なにまさ……」
「まさむね、だろ?」
「おお、それそれ! 何でも黒装束の鎧着た化け物だって?」
「そうそう、黒竜って呼ばれてるとか」
「しかも片方の目には眼帯掛けてよ」
「え? なに、片目なのかい?」
「ほんとかどうか知らねえけどよ、バカでっけえ真っ黒の馬に跨って、村ごと踏み潰したとか何とか……。地面に映るその影を見た者が言うには、なんでも頭に牛みてえな角が生えてた、とかっつってよ」
「魔物っちゅう噂だぜ。戦狂いの化け物だとか、俺は確か聞いたことある」
「あたしゃこんなことも聞いたよ。細面で色白で、それはそれは絶世の美男子なんだってさ」
話題に出ることはひたすら政宗の事ばかりで、村人は口々にこんなことを話していたのだ。まるで、初めから蘆名滅亡を知っていたかのように。
ところで、河原田盛次が自軍の兵を動かしたのにはこのような背景があった――、猪苗代城主、猪苗代盛国が伊達政宗に恭順を示し、主蘆名義広を捨てて寝返ったため猪苗代城を政宗に明け渡してしまった。
いよいよ危機が迫った義広は、まず猪苗代城を奪還するべく磐梯山麓の摺上原に兵を進めた。
これは伊達軍同様、蘆名軍も得意とする野戦であったが、その義広は相馬義胤と岩城常隆を当てにしていたようだ。
例えそれが無理だったとしても、後ろ楯には自らの本家常陸佐竹義重がいる。そう、あの「鬼義重」である。
その鬼の力を借りることが前提だった筈。それ故、万一の事など一切考えていなかった。この算段は後に大誤算となり、最悪の事態を招く引き鉄になってしまう。
結局、相馬・岩城は双方動くに動けなくなり、とてもではないが義広に援軍を送るどころの話ではなくなってしまったのだ。
六月五日――
両者命運を分ける戦いが始まった。ところが勝敗は呆気なく決着する。
夕刻には伊達軍が圧勝し、義広は黒川(会津若松)に戻った。代々の家臣だった平田・松本・佐瀬の三氏からも見放され、白河に落ちたのち常陸の実家に逃げ戻ったのだ。
これにより會津蘆名は事実上滅びたことになる。
黒川城新城主、伊達政宗が誕生した瞬間だった。しかしながら、当然政宗の黒川入りを快く思わない者が多く存在していたことは言うまでもなく、南会津西部及び大沼郡一帯、河沼郡の一部を治めていた二氏もまた然り。伊達の巨大勢力に立ち向かうべく意を一つにしていた。
その二氏とは横田・伊北山内氏と伊南河原田氏である。
「摺上原の合戦」では河原田は北方に位置する檜原口で警固番として出兵していたが、蘆名累代の家臣が伊達方に寝返るのを見て慨嘆に堪えず、一先ず伊南に帰還しようとしていた。
態勢を整えた上で再度蘆名復興を計るべく兵を進めていると、高田村付近(旧会津高田町、合併により会津美里町に改称)にさしかかった折、河原田一族の伊南(佐藤)源助に会い、兵を与えて政宗に一戦を挑むべく黒川に攻め込ませた。
しかし、政宗は相手をせずに源助を帰した。河原田軍は已む無く久川城に戻るしか他に手はなかったが、再度出陣するべく直ちに戦闘準備に取りかかったのだった。
実は、この背景には越後上杉方の入れ知恵や、上杉を通じて豊臣秀吉方との密議があったようだ。
そのため、山内には石田光成から書簡が、河原田には常陸佐竹義宣から同じく書簡が届いていたと云われている。
またこの時代、会津地域も他地域同様、十五世紀から十六世紀にかけて小勢力ながら多数の武士団が入り混じり、数々の戦や反乱が起こっていた( [南郷村史編さん委員会, 南郷村史第一巻通史, 昭和六十二]参照)。
蘆名勢は富田将監隆実を先鋒とし、伊達勢は伊達成実、片倉景綱、猪苗代盛国などを率い奮戦したが、政宗は圧倒的な勢力の差を見せつけた。
先述したとおり、このとき蘆名側の掩護にまわり、檜原口で警固番を頼まれていたのが河原田盛次だったが、盛次軍本隊の後方には源助の部隊が控えていた。
序盤、蘆名軍がやや優勢に見えたが、伊達軍の挟撃に合いその態勢が崩れた。
どちらにしても野戦の雄。しかし、風向きが突然変わり、政宗に追い風となるとあっと言う間に戦の軍配があがった。
こうして蘆名は大敗を喫し、加えて蘆名累代の家臣たちが次々と政宗に降っていった。
夕方頃になると義広は黒川に逃げ引き、そのまま白河から実家のある常陸に落ち延びた。盛次は降っていく蘆名の家臣に憤慨しながらも、仕方なく兵を撤退させるしかなかった。
絶望とともに帰還する途中、源助に遇いこの期を逸してはならないと源助軍にとある命令を下した。
その命令とは、早々と新城主となった政宗に再び戦いを仕掛けるべく、黒川城に向かわせることだった。源助はすぐに馬を走らせたが、政宗は盛次の蘆名に対する深い忠誠心にひどく感服し、驚くことに何もせずにそのまま源助を返したと云う。
結局、河原田勢は敗戦のうちに翌日伊南に帰還した。そしてまた、南会津東部をその勢力下に治めていた南山長沼氏は古くから政宗との親交があり、摺上原の合戦こそ挙兵しなかったものの、政宗の黒川城入城翌日には父子共々訪れ謁見し、その臣従を誓ったという。
こうした背景の中、盛次が長沼を意識しない筈はなかった。こうなると、否応なしに南会津の西部・東部は対立せずにはいられない。
盛次は完敗を帰するもこう思った。
(いずれ伊達の麾下として、長沼はこの地に攻め入ってくるだろう。そのとき他勢力と堅固に結束し、この地を絶対に死守せねば……)
そう思うと、早速次の出陣の支度に取りかかった。
山口村庄屋、山口定義宅――
仕事を終えた山師と百姓がいつものように一杯やっていたのだが、皆一様に陰を落としている。
村人が蘆名の敗北を知ったのは河原田軍が帰還した翌日のことだった。村中に不穏な空気が漂い始める――。
「なあ義兵衛、聞いたか? 負けたってよ、蘆名の殿様」
「情けねえよな……。野郎、尻尾巻いてとんずらこきやがった」
「ま、そりゃ仕方ねえってもんよ。だっていいか、蘆名義広まだ十四、五のガキだぞ」
「ガキってこたあねえだろよ、元服(成人)してんだぞ。れっきとした大人だろうがよ。でもまあ、いよいよ危ねえぞ、ここも。そのうち俺たちも招集じゃねえだろうな」
吉次が言う。
「しっかしよお、あの名家といわれた蘆名があっさり負けるとはなあ」
酔っ払った五郎太も話に混ざってきた。
「ところで、もしよ、もしもだぞ――」
いつになく本気の五郎太に壱次が聞き返した。
「何だよ、早く言え!」
「……おう、で、こっちに攻めてきたらどうするよ、んん?」
「どうせまた、俺が出てって奴らを蹴散らしてやる、とか言うんでしょ?」
佐源次が五郎太をからかう。
「ふん、そ、そうだよ! んなもん、俺が軽く捻ってやらあ!」
酒で調子が出てきたのか、ずいぶんと息巻いている。
「やれやれ……」
「またまた、大きく出るねえ」
「……やってやる」
皆に混ざりながら左手を握り締めた義兵衛がぼそっと独り言を言った。その言葉には誰も気づかなかったようだ。
二十一、涙の伊南川
久川城「本丸御殿」――
盛次はあの戦場で見た政宗のもう一つの顔を忘れられずにいた。
(蘆名勢は奴らの太刀の一振りによって皆首が刎ねられた。村々も次々に焼き討ちにされ、女、子ども構わず一人残らず殺されたと聞いた。子どもは兵たちに散々弄ばれ、女は嬲者にされた挙句殺され、屍として晒されていた。子どもたちの中には、逆さに吊るされては用意された煮え滾る大釜に沈められた者もいたとか。六日間も続いた凄惨な光景。もはや奴らに人の心はないのか。もし、この地に攻め入ってくれば奴らの虐殺を必ずや阻止せねばならん。無論長沼も同様、奴らの息の根を必ず。だが……だがしかし、たとえ武士とはいえど、魔物と称されるだけの猛将。斯様な者と戦うという術が果たしてあるのだろうか――。いや、それが現実にならなければよいのだが……)
河原田盛次という男は領民を愛し、忠義を重んじ、そして慈愛に満ちた人物だった。そのため城兵から領民に至るまでとても慕われていたと云う。
一方、伊達軍は予想を遥かに凌ぐ速さで進軍していた。
七月、政宗は大将を原田佐馬介宗時とし、片倉小十郎景綱と混勢五百余騎、鉄砲四百挺を付け南会津東部を治める鴫山城主、長沼弥七郎盛秀に宛がい伊南河原田討伐を命じた。
しかし、盛秀は伊南には向かわず、一番手薄と見るや伊北郷梁取村(只見町梁取)に攻め込んだ( [著者不明, 泉忠記, 年月日不明]参照)。
『蝉時雨、乱世を憂う伊南郷の、行末案じ、涙(宥)の伊南川』
最早、自分と源一郎との間にできた溝を埋める手立てはない。アキと隔絶され、源一郎との亀裂を哀しむ己の心と乱世の世情を歌に詠んだ義兵衛だった。
幼い頃、山師の家に生まれたことを忌み嫌い、一度学問の道を志した義兵衛を父巌兵衛は酷く詰ったが、息子の将来を親の身勝手で変えることはできないと思い直し、貧しい稼ぎの中で書物やら読み物を買い与えた。
そのため、義兵衛は独学ながらも懸命に勉学に勤しんだ。座敷には今でも当時の書物が積んである。
「字引(辞書)を引け!」分からない事を訊くと、必ず巌兵衛はこう言った。
それは口癖だった。そのため、事あるごとに書物を手にしては何やら調べる癖が今でも抜けなかった。
盆も過ぎた頃――、ちなみにこの時代の盆は七月である。
アキはあの一件で源一郎の逆鱗に触れ、義兵衛と会うことを二度と許されなかった。しかし、アキはもう我慢の限界だった。
義兵衛は山仕事が終わり、夕方家に帰ってきていた。夜、誰かが板戸を叩き、戸の向こう側で囁く声が聞こえた。
義兵衛はじっと耳を澄ました。
「ぎへえ、わたし、アキ」
村中を歩いていても、不思議なほどアキには遇わなかった。
「……アキ、アキか? 今開けるから」
「お兄ちゃんも一緒だけど、いい?」
見れば、後ろに佐源次もいた。
「いいに決まってんだろ」
そのときの義兵衛の顔は佐源次ですら見たことのないような笑顔だった。
「おい義兵衛、鼻の下伸びてるぞ」
「……そんなことねえよ」
「しっかしさあ、お前も変ってるよなあ、こんな女子のどこがいいんだか」
佐源次はしばし呆れ気味だ。
「い、いや、その……」
「はっはっは! そう照れんなって、分かってる分かってる。まあ、そうは言っても俺の自慢の妹だけどな」
「お兄ちゃん、なにが?」
アキがすかさず肘鉄を食らわした。
「ううっ! ま、中々腕力もあるお転婆だが、これでいて結構女らしいとこもあるし、よろしく頼むよ。大変だったんだぞ、今まで……親父宥めて、妹には何とかしてって哀願されて、俺板挟みだったんだからさあ」
「もう、余計なこと言わないで!」
「あ、わりいわりい」
「でも私たち、もし祝言とか挙げたら同い年の幼馴染が急に義弟になっちゃうんだよ。それって、どうなの?」
「うーん、微妙かなあ……。でも、義兵衛は義兵衛だし。まあ、それはそれで楽しいんじゃない?」
「佐源次、俺、親父さんに認めてもらえるように一生懸命頑張るから」
「お、おう」
「あ、そろそろ行かなきゃ。ごめんね、また来る」
「ああ、親父に嘘ついて出てきてんだ、わりい」
「でも心配しないで。またちょくちょく来るから」
「アキ、毎度毎度は俺のこと使えないぞ。ほんと勘弁しろよな」
「あ、いいのかなあ。昔、お父さんが大事にしてた信楽焼の花瓶割ったこと言っちゃおっかなあ」
「くー、性質悪い。お前、そういうとこ親父そっくりだな」
「……え、なんか言った?」
佐源次は下唇を噛んだまま俯いてしまった。
それからはたまにアキが義兵衛の元へ来るようになった。ただ、相変わらず源一郎には出鱈目なことを言っているようだった。
実は彩子はこの事を知っていた。しかし、黙って見守っていたのだ。
まるで若い頃の自分を見るような思いでいた彩子。昔、源一郎との交際も彩子の両親が酷く反対していたからだ。
たとえ母娘といえど女同士、人を好きになった女心。それが彩子に理解できない筈はなかった。
数日後――
朝から何やら騒々しい。
何度言っても聞き分けがなく、板戸を激しく叩く奴。元見習いの清一郎だ。
仕事の日は毎朝迎えに来る。後輩の善吉も休まず出るようになったからか、少しは成長したようで「元」が付く見習いになった。つまり、もう見習いではないが一人前かと言えばそうでもない、という意味だ。
「義兵衛さーん、義兵衛さーーん、仕事っすよお!」
そんなことは百も承知だ。
「……なあ、清ちゃんよう」
「え、なんすかあ?」
「一つ、聞いていいか? あのな、なんでいっつもお前は息切れしてんだ?」
「……ってか、朝っすよ。仕事じゃないっすかあ、やっぱ急ぎません?」
「……だよな」
義兵衛はもうそれしか言えない。
善吉が入ってくるまでは清一郎も突発休(欠勤)を連発していたが、やっとズル休みの癖もなくなり、最近は先輩たちにも「清ちゃん」と渾名されるようになった。
「じゃ、行きますよーーー!」
元気がいいのは結構だが、そんなに怒鳴らなくてもよい。義兵衛の家が屋敷ほど広いわけではないのだから。
今日の仕事は元山からの依頼だ。
水根沢村(南郷地区水根沢)にいる左近とかいう名の庄屋のぼんくら息子が、ついこの間祝言を挙げた。そのために家を普請(建築)したいとの話だった。
左近の持ち山から木を伐り出すため、弥平を初めとした山師の精鋭軍団が水根沢に向かってぞろぞろと歩いている。
上山口に差し掛かると、たまたまアキが外で掃き掃除をしていた。すると、アキが山師軍団に気づき、義兵衛に小さく手を振った。
「うおーーい! 義兵衛、彼女が手振ってるぜえ」
それを見て新入りが冷やかした、といっても最近たまに手伝いを頼まれるようになった五郎太だった。
それにしてもかなり横柄な新入りだ。
無骨でガサツで女好き、挙句の果てには大酒飲み、の山師軍団である。当然、そんな光景を見過ごす筈もないどころか、目敏く見つけるに決まっているのだ。
周りも一斉に五郎太に便乗して、何やかんやと冷やかしている。
「よ、色男!」
「おらげえ(俺の家)の嫁じゃ、到底かなわねえもんなあ」
「いいよなあ、あんな美人と一回でいいから懇ろになりてえなあ。それが駄目なら、一緒に餡蜜でも食いてえよなあ」
それは完全に色爺の感覚なのだが、その上弥平が余計な一言をくっつけた。
「嫁、下っ腹の弾力ありすぎて、どうもなあ……。その点、若い娘っこはなあ、へっへっへ」
「またこの助平爺は……」
酒が入ると舌が滑らかになる鴫も敢えてそれ以上は言わなかった。
「わははは、加えて目方もありすぎだろ!」
そこで壱次が斬り込む。
「いいねえ、男版玉の輿じゃねえか」
「いや、あんまり冷やかさねえで」
「ふははははは!」
「おい、朝っぱらから笑わせんな」
一行はすでに仕事前から笑い疲れしていた。外は戦乱の世なのに、ここだけはそんな空気を微塵も感じさせない。
だが、そんな笑いを尻目にこの月の七日「伊北梁取の合戦」があり、長沼盛秀率いる五百余騎は山内佐馬丞の居城、梁取城を陥落させた――。
どす黒い気を纏った黒竜と漆黒の軍団は只見川(上流にて伊南川と称す)に沿って遡り、大沼郡と河沼郡の一部をその統治下に置く横田山内を攻めようとしていた。
大将二名、原田・七宮と蘆名から降った富田・平田・伊藤が加わり隊を分断し、一隊は柳津(河沼郡柳津町)・檜原(大沼郡三島町)・西方・宮下(同町)と上流へ向かっていった。
隊を翻して美女峠から野尻(大沼郡昭和村北部)、そして川口(大沼郡金山町川口)に出て横田(同町横田)を塞いだ。
もう一隊は高田村(会津美里町高田地区)から博士山を越え、喰丸・野尻(ともに大沼郡昭和村)に出てそこから吉尾峠・只見布沢・松坂峠(南会津郡只見町)を越えて横田に入った。
二隊のこの進軍は七月二十三日のことだった。
また「会津ノ内伊南、伊北、横田、川口、梁取ハ山中故、御手ニ属セスシテ、越後上杉殿ニ服属ス」( [田辺希賢 遊佐木斎, 伊達治家記録, 元禄一五])とある。
これは、伊南河原田氏、横田(伊北)山内氏が越後上杉氏に属していたことを示している。
やはり、盛次の予想は的中した。
このままでは伊達の本隊はいずれ只見川沿いから伊南川まで到達し、伊北郷からこの伊南郷に攻め込んでくることになる。そうなれば、あとは時間の問題だ。
しかも、すでに本隊より一足早く伊達・長沼の混成軍は梁取の城を落としている。梁取村は和泉田村と伊南川を挟み斜向かいに位置する(旧南郷村と只見町の境界辺)ため、伊達の先発隊である長沼勢は和泉田河原崎城と、もう目と鼻の先まで到達していることになるのだ。
久川城「本丸御殿」――
城主盛次はこの情勢に慄くことはなかった。但し、この動きを冷静に見つめていても埒が明かない。
このままではいずれ望まずとも戦になる。それ故、中央の豊臣秀吉に密使を送り、また越後の上杉景勝とは書状の遣り取りをすることで、しっかりと根回しをしておく必要があった。
さらに、石田光成から河原田・山内両勢に書簡が届いたことは先述したとおりだが、その内容は會津侵攻を進める政宗に対し、惣無事令(私戦禁止令)の違反に伴う罰則として、豊臣秀吉の「伊達征伐」を行う旨が記されていたと云う( [横田家文書]参照)。
しかし、敵は一筋縄ではいかない兵。
何せ、相手は魔人とさえ噂される男である。人でないものを相手にする戦は世界史上類を見ない。
盛次は伊達勢進軍の報告を御殿で聞いた。家臣が慌てて入ってくる。
「殿、ご報告がございます!」
「……何だ、騒々しい」
「は、殿の耳に是が非にも、と」
「それで何だ? 早う申せ」
「それが……例の政宗の軍勢がいよいよ動き出し、今頃はちょうど坂下より七折峠(会津柳津)を越えている頃かと。しかも、伊達に加勢する長沼(盛秀)が博士山から一旦布沢に抜け、梁取を落としたとのことで」
「ほう、して?」
落ち着いた表情で盛次が返した。
「……え、と? あ、はい、お、恐らく政宗は横田の山内殿を襲撃する肚かと」
「うむ、であろうな。兵に支度を整えるよう伝えよ」
「はは、それでは仰せの通りに。失礼致します」
報告に来た家臣は盛次が異様なまでに冷静沈着でいるのが不思議でならなかった。しかしながら、盛次はすでに読んでいた。
(柳津辺りからこの地まで、順当に進軍すれば掛かる日数は凡そ十日乃至半月。しかしながら、周辺の砦を悉く攻め落としながらであれば……一月、いや一月半。しかもあの辺りは迂回路に使える峠が無数にある。恐らく政宗は隊を分け、何隊かで以って横田に接近し、(山内)氏勝を一気に包囲するに違いない。さすれば……やはり、(長沼)盛秀にも目を光らせなくてはなるまい。盛秀は長年伊達と親身にしておる。つまり、盛秀は伊達の先鋒として梁取を……。危惧したとおり、この地で伊達本隊と合流するということか。否、この地を踏ませてなるものか)
横田山内氏は盛次と婚戚の関係にあるが、盛次は氏勝に援軍を送ることを敢えてしていない。
この地を守ること、領民を守ること、それが今の彼にとっての役目であり、それが城主の務めだからだ。
全身全霊、この身を賭して戦うには、今はこの兵力を一つとして欠く事が許されなかった。また、越後上杉が已む無く援兵を差し向けざるを得ない状況になることを読んでいたからだった。
無論、盛次自信も上杉方へ援軍を請うことは言うまでもないのだが、それはあくまで氏勝方に向けての応援要請であって、決して自軍に対するものではない。
盛次は氏勝方に派兵しない代替案を形こそとってはいたが、つまり婚戚関係にある山内を捨て駒にしたのだ。
「許せ、氏勝!」盛次は、さぞ断腸の思いだったに違いない。
恐ろしいまでの冷淡さ――、この時初めて、盛次という男の二面性が垣間見られた。庶民派で親しまれ、ときに戦ともなれば勇猛義烈と云われていた筈だったのだが。
程なく、越後上杉景勝に対して援軍を要請し、許可された旨が記された書状が氏勝の許に届いた。その数、騎馬含め総勢五千名の援兵を送るとの内容だった。
伊達の黒い影がじわりじわりとこの地に迫りつつあることを、民衆はこのときもまだ知らずにいる。また山師たちも同様、特に気にする様子もなく日々の仕事に追われていた。
村人たちはただ日々の生活を送ることが精一杯で、ましてや外の情報も中々届かないこの地域では余程の話でもない限り噂話程度が現状だった。
伊達政宗・蘆名義広ほどの知名度にならないと話は出ない。言うまでもなく、それだけ伊達は強大な上に有名だったのだ。
鴫と弥平が話している。
「しかしなあ、噂だけが飛び交う世の中だな」
「ん? うむ、そうじゃのう。じゃがいずれは……」
「左近の家ってどこすか? 遠過ぎっすよ。どんだけ遠いんですかねえ。もう疲れましたよ」
清一郎はやはり阿呆なのか。場の空気を読まないこの男、時としてその発言は仲間の笑いを誘うのだが。
「バカ! 庄屋様だぞ、お前。しかもな、言うなれば取引先ってやつだ。ちっと考えてからもの言え」
吉次は半ば呆れ気味に説教した。
水根沢、左近の屋敷――
四半刻(約三〇分)歩いて今日の仕事場に着いた一行は、早速左近の家に挨拶に向かった。
左近宅の門前まで来ると、弥平を先頭にして敷地へと入っていく。
「何かあれっすね、うちの定義の飯場小屋とはずいぶん違うっすね。ね、義兵衛さん?」
「……ん? ん、まあな」
清一郎の止めの一言、これが効く。義兵衛も返答に困った様子だ。
「あーあ、疲っちゃなあ(れたなあ)……はあ(もう)、やっちゃぐねえ(やりたくない)」
壱次までがやる気なし、の状態になった。これが清一郎の効能なのだ。
「にし(おまえ)もあれか? 清の影響か?」
鴫が思わず厭味を言った。
それにしても大した屋敷だ。門から玄関までかなりある。ようやく玄関前に着いた一行は、汗を拭きながら皆溜息を吐いていた。
「左近さん、おはようでやす! 弥平ですが……」
すると戸が開き、中から奥方らしき中年の女性が出てきた。
「あ、おはようでやす。本日はどうもお世話になります、山師の頭領を務めさせて頂いております弥平と申します」
奥方らしきその女性は怪訝そうな顔つきをしている。
「えーと……奥様、旦那様はご在宅でいらっしゃいますでしょうか?」
そのらしき女性は一瞬、はあ? という顔をした。
「いえ、私は女中でございますので。旦那様は奥におりますのでどうぞお上がり下さい」
早口でやや語尾が上がる言い方。何となくだが感じが悪い。
山師軍団は左近とその息子も交えて暫し打ち合わせをした。
「それでは、これから作業に入りますので。どうか宜しくお願い致します」
普段からはまるで想像もできない弥平の言葉使い。
「まあ、よろしくお願いしますよ、樵の皆さん」
やはり、この返し方も何となくだが鼻につく。
現場は左近の屋敷のすぐ裏手の山だった。少し登った沢の近くでいつもと同様に伐木作業が始まった。
久しぶりに六人が近くで作業している。珍しく三人体制をとり、カコーン、カコーンと軽快な音が山々に響き渡る。ただ、その音に混じって、時折、一際重い音がする。
言わずもがな、義兵衛の『龍王斧』だった。
見た目も然ることながら、その絶大な威力には皆、ただただ圧倒されるばかりだった。
ものの一振りで、大抵の木であれば幹の半分まで伐り込んでしまう。薙ぎ倒されるまでその殆んどが三発なのだ。
そうこうするうち日が天辺になり、休憩に入るとやはり来た。
「……義兵衛」
弁当を持ったアキが斜面を登ってきた。またもや弥平が二人をからかい始めた。
「おお、来たな。しかしいつ見てもアキちゃんは可愛い面しとるのう」
頭領一押し、の娘。するといつものように悪乗りして、仲間たちがまた一斉に冷やかし始めた。
「あ、おじさんたちこの事は内緒ね」
「お、おじさん――」
吉次がガッカリした口調で言った。
「アキちゃん、そりゃそうだよなあ。俺たちゃおじさんだよなあ。おい吉、いつまでも若くねえんだぞ。俺だの弥平なんぞ爺さんて言われる歳なのに、まだおじさんって呼ばれるってんだから。それにしたって、アキちゃんは気が利くなあ、な、弥平」
鴫は酒さえ入らなければいつでも紳士だ。
「うん、そうじゃそうじゃ。やっぱりいい娘っこじゃ」
「わっはははは!」
こんな時代でも、こんな時でも笑っていられる。もう、すぐそこに黒竜の魔の手が忍び寄っているというのに――。
だが、それが人というものなのだろう。危機感を感じている者がいなかったと言えば嘘になるかも知れない。でも、そこはやはり人なのだ。
いくら危険が押し迫っていたとしても、民衆は日々の生活を投げ出すことはできない。
現代に生きる我々とてそれは一緒だ。例え時代がいくら遷り変ろうとも、きっとそれだけは変らない普遍的なもの、それが俗世なのだ。
蝉たちの鳴き声がより一層激しさを増していく。それはまるで、攻めくる伊達軍の勢いを表しているかのようだった。
盛次の予想どおり、漆黒の軍団は三隊に分けて山内居城の横田城に迫っていった。
二十二、狼狽する城将、道正
八月一日、「八朔」という行事がある。
この日はどこの家でも小豆飯を炊いて神々に供えた。
義兵衛は、近所のヤス婆から小豆を貰い受けていた。分家(新宅)で家に年寄りがいなかったため、義兵衛はヤスを祖母のように慕っていた。
ヤスもまた孫がいなかったため、義兵衛を本当の孫のように可愛がっていた。
「義兵衛、これ持ってけ! おめえにくれてやっから(あげるから)」
「いいのか? ヤス婆、自分で食えばいいのに……」
「バカたれ、若えもんが遠慮などせんもんじゃ。いいから持ってけ!」
「……うん、いいのか? なんかいっつも悪いな。んじゃ、貰ってくぞ。ごっつぉ(ごちそうさま)」
ヤスは両親のいない義兵衛を不憫にも思っていた。
早速、義兵衛は小豆飯を炊き始めた。見よう見真似で覚えたが、分からなくなるとよくヤスに訊きにいった。
本当はヤスが炊いた小豆飯を持っていけと言われたのだが、折角炊いたヤスの分を自分が食べてしまうのは心許ない、それでどうしても断ったのだ。
たまに出かけるときはヤスに猫の面倒を頼んだり、またヤスが療養所に行くときは義兵衛が負ぶって行き、まるで本当の祖母と孫のようだった。
ヤスは、孫の代わりの義兵衛が何とも心の優しい青年だと思っていた。そのため、義兵衛が大成院に入院している間はアキと一緒に留守居をしていたこともあった。
同じくその頃、伊北郷山内氏の居城であった横田城は伊達軍に完全に包囲されていた。また、「敵利ヲ失ヒ、城ヲ持チ兼テ悉ク逃ゲ退ク」と記録が残っている( [田辺希賢 遊佐木斎, 伊達治家記録, 元禄一五])。
そして五日には横田城が落ち、城主山内氏勝は只見の水窪城に逃れた。
漆黒の軍団は尚も進軍する――、伊達軍本隊はすでに金山谷(大沼郡金山町)まで到達していることになる。
ちなみに、旧南郷村から一番近いのは隣町の只見町との境界にある和泉田の集落なのだが、この間にも伊達軍は次々と周辺勢力を吸収合併し、布沢山内上野介、小林二瓶駿河守率いる山内の配下や領民らも次々と伊達方に降っていった。
伊北郷和泉田村、河原崎城――
和泉田河原崎城主、五十嵐和泉守道正は気が気ではなかった。
「ううむ……盛次殿から援兵が来るはずだが、未だ来ぬ。盛次殿は全く以ってどうしておられるのか! すでに長沼の軍は勝鬨を上げているというに。ましてや梁取まで来ているとは」
「と、殿、お言葉ですが……盛次殿にも、何かお考えがお有りなのではと」
「そ、そのようなことは某も十分承知しておる。早く、盛次殿の元へ使いの者を!」
「あ、はは、只今」
伊南川から只見川を挟む両岸の各山々には狼煙台や櫓が数多くあったため、伊達軍の進度が手に取るように把握できたのだ。
それから半日が過ぎた――。
「使いの者が只今帰って参りました」
「うむ、して盛次殿は何と?」
伝令が言う。
「えー、それが、その……」
「何じゃ、早う申せ!」
「盛次殿はこの事態に一つも臆することなく……。まあ、しばし待たれよ、と」
「なぬ⁉ 何じゃと! 某にしばし待てじゃと? な、なにを悠長なことを言っておられるか‼」
道正は急に立ち上がって言った。
「もうよい! おい、馬を出せ。このわしが直接行ってくる、護衛の者を!」
「殿、お待ち下さい!」
「ええい、喧しい‼ このわしが行くと言ったら行くのじゃ。早よう準備せい! そうこうしているうちに政宗は進軍して来るのじゃ!」
「は、畏まりました。では直ちに」
「ふん、全く使えん連中じゃ!」
久川城「本丸御殿」――
この状況においても依然盛次は平然としていた。あくまでその姿勢を貫く盛次を、家臣らもいよいよ不審に思い始めていた。
無論、盛次にも考えがあってのことである。
言うまでもなく、こちらには絶対的な地の利がある。しかも、伊達軍がこの地に到達するのは恐らくこのままいけば冬だろうと読んでいたからだ。
(怖れても始まらぬ……その時が来れば耐え凌ぐのみ。雪中の戦に慣れぬ伊達勢だ。一方、こちらは雪が生活の一部。山岳武者の意地もある、なあに深雪の中の戦など屁でもない)
「ご報告致します。河原崎城主、五十嵐和泉守殿が殿にお目通り願いたいとの事で」
「ん? 道正が……。よかろう、通せ」
夕刻、久川城の門がゆっくりと開く。
馬に跨った道正と護衛兵三名が入城してきた。どうにも苛立った様子で、鐙に乗せた足を頻りに揺すっている。
「もうよい、お前らはここで待て」
道正が盛次の家臣に連れられ、大広間に通された。
「これはこれは道正殿、一体どうなされましたかな? 先ほどそちらの使いの者が城を後にしたというに」
「どうもこうもござらん! 盛次殿、あの約束はどうなされましたか?」
「約束……ああ、その事でしたか。ですから、使いの者から――」
「分かっておられるなら、なぜに!」
「まあまあ道正殿、そう気を荒立てずに」
「そのような悠長なことを言っておられる場合ではござりますまい! 少々、お戯れが過ぎますぞ」
「いやいや、某にも色々と思うところがありましてな。まま、落ち着きなされ。おーい――」
「はあ? よいですか、敵はすでに梁取まで来ておるのですぞ!」
「道正殿に、とっておきのあれ(・・)を」
「……は、畏まりました」
「いやいや、実はいい酒が手に入りましてな」
「なにを言っておられる。気でもふれられたか!」
家臣の者が木箱に入っているそれを取り出した。
「まま、どうですかな? ここは一献……」
道正は甚だ呆れ返っている様子だ。
「斯様な事態に酒とは……この道正を小馬鹿にしておられるのか‼ もしや、まさかこの道正を見捨てなさるおつもりか?」
「まあまあ、道正殿。そなたも中々の酒好きと伺っております故。ささ、まずは一杯」
「某は酒を酌み交わしに態々(わざ)ここへ参ったのではござらん!」
どうにもならない盛次に諦めた道正は、唇を噛み締めながらも仕方なく盃を取った。
「どうです? 冷酒も中々のものでございましょう」
「……うむ、ふむ、飲んでみれば。い、いや、これはまた、中々結構な」
結局、呑兵衛は酒に勝てない。
「そう来なくてはな。いや、実はの、道正殿」
「はあ」
「某はこう読んでいる。伊達の輩どもが今、横田からこちらへ進軍しておる。しかし、奴らがこの地に到達するのはまだまだじゃ。早くとも一月、遅くとも二月は下るまい。その間、奴らはこの慣れぬ寒さと兵糧不足によって必ずや疲弊する筈。加えて、この地の冬の到来は他の地域に比べとても早い」
「すると……雪、ですかな」
「左様、雪上の戦においては我々が断然有利であるのじゃ」
「し、しかし、向こうとこちらの兵力の差は歴然としておるのでは? まして、某の城が敵軍に一番近いのですぞ」
「道正殿、案ずるな。某に名案がござる」
「名案、ですかな?」
「単刀直入に申し上げる。申し訳ござらぬが、城はお捨てなされ!」
「なっ⁉ い、今何と?」
「城を捨て、この盛次の元へ参られよ」
道正は盛次の言っている意味が理解できずにいる。それもその筈、仮にも河原崎城を任せられている城主なのだ。ところが、盛次は配下に向かってその城を捨てろと言っている。
「し、城を、領民を捨てろと?」
「いやいや、そうではない。これは被害を最小限に食い止めるため」
「い、いや、それはしかし……」
「地の利はこちらにある。だが、全兵力をもってしても我が軍は奴らの半分にも及ばぬであろうことは火を見るより明らか。ただし、時期は冬、さらに雪、そして地の利、であれば」
「すると……それはつまり、持久戦ですかな? 要は籠城戦に持ち込むおつもりで? 敵を限界まで誘き寄せると、なれば結局のところ総力戦ではござらぬか」
「左様、道正殿は勘が頗るよろしいようだ。ちなみにだが、彼の盛秀は敵にならん、端っから相手になどしておらんのじゃ」
「それは盛次殿のお考えでありましょう。まさか、対岸の火事にて我々を切り捨てるおつもりか!」
「ですから、そうではござらぬ。ただし、道正殿の兵には奮戦してもらう他に手はござらぬ。よいですかな? して、先にも申したがその隙に某の元に参られよ」
「何と⁉ 我が兵には犬死しろと申されるか」
「まあ、一つこれをお読みになられよ」
徐々に興奮し始めた道正に対して、盛次はとある書状を手渡した。怪訝そうな顔つきで渋々読み始める道正。
「……何と⁉ これは……」
その内容は次の通りである――、(山内)氏勝の援軍要請よりも先に、上杉方から氏勝へ援軍を送って欲しいとの盛次の具申を聞き入れた景勝の温情が窺える書状だった。
一瞬、道正の顔色が変わったように見えた。
(し、しかし、幾らこの地を守るとはいえ、まるでこれでは氏勝殿を……)
「さあ道正殿、今、重要である事はただ一つ! 損害を最小限に、この事、くれぐれもお忘れなく。そこでだが、再度軍の備を行うこと。よいですかな、道正殿」
「はあ、しかし……梁取から攻めくる長沼と伊達の混成軍は伊南川を渡る際、必ず手こずる筈ですが、一方我が領地に直に通じる二軒在家(只見町と南会津町南郷地区の境界辺)側から攻め込まれれば後はないのですぞ。はて、どうしたらよいのか……。ところで、本陣はどこに構えるおつもりですかな?」
「うむ、本陣は大新田に置くのが得策」
「お、大新田? 酒井(周防守)殿の大新田ですかな? では大橋城はどうなされる」
「軈ては大橋城も開城し、大塚(織部守)殿もこちらに」
その計画は途方もないというより、むしろ余りに無謀な作戦ではないのか。
雪の深さに頼るのはいいが、一度読み違えれば、自軍が完全に包囲され壊滅状態に陥る可能性も否定できないことは明白である。
籠城戦に持ち込むとはいえ、これでは返って伊達軍を有利にしてしまう。それはある種、背水の陣にて臨むという意味なのだろうか。
「盛次殿、それは余りにも……」
「いやいや道正殿、これはあくまでも我が方に勝機を導くことが前提の話。では、なぜ敢えて斯様な真似をするのかと申せば、それは極限の緊張感をつくり兵を奮起させんがため」
道正はしばらく首を捻っていたが、何か閃いたかのようにポンッと右膝を叩いた。
「お、そうか、なるほど! さすれば兵も皆、命懸けで戦うであろうと」
「……左様」
この時代、主たる兵は農民であり、俄仕込みの雇われ兵が大半を占める有様であったため、安定した兵力や質の高い兵の確保が難しかった。
ときに敵前逃亡あり、また戦況が傾くと直ぐに寝返りを行うなど非常に無責任なものであったという。
盛次は何れ伊達と長沼の両軍が南北から攻め入ってくることを予想していたのだろう。この南会津西部の山間部において、南北から挟撃されれば河原田軍は袋の鼠となる。そうなると兵の逃げ道は封じられ、自ずと戦わざるを得ないのだ。
政宗とはまた違うが、盛次も勝つためには手段を選ばない非情な発想を持っていたようだ。やはり、この盛次も言い換えれば双極的な情と非情とを併せ持った人物といえる。
領地を守りたい思いが余りに深い故に氏勝を、そして道正の城兵を盾にするという答えを導き出した盛次の冷酷さに些か疑問が残るばかりである。
八月七日、早朝――
さすがにこの状況にあっては各郷村にも恐怖と悲壮感が漂い始め、村人たちはただ慌てふためくばかりだった。
ある者は村を逃げ出し、またある者は山中に身を潜めた。
今この時でも、伊達軍は昼夜を問わず村々に火を放ち、次々と襲いかかっては虐殺を繰り返す。
源一郎は重要な家財・物資一式をまとめ、取り敢えず店を閉めて親戚を頼り、伊南よりもさらに西に位置する檜枝岐に逃げようとしていた。
「おい、彩子! 何をしている、早く準備しろ。佐源次はどうした? アキは? 全く、こんなときにあいつら一体何をしてる!」
大八車には荷がぎっしりと積んである。番頭の岡八と数人が荷に縄を掛けていた。
「彩子、佐源次を呼んで来い! まだあと少しばかり荷が残っている。おい彩子! ちっ、岡、お前行ってこい‼」
「……あっ⁉ へ、へい‼」
彩子も必死に探しているのだが、佐源次の姿がどこにも見当たらない。アキの姿はさっき誰かが見たと言っていたが、やはりどこにもいない。
使用人たちもぞろぞろと荷を抱え出てきた。中には早々と実家に戻った者もいたが身寄りがない者もそこには大勢いた。丁稚などは仕方なく主に言われるまま付いて行くしかない。
外はすでに混乱状態になっていた。
親と逸れてしまった幼い子どもが道端で泣いている。しかし、他人を構っていられるような状況ではないのだ。
皆荷物を背負い、着の身着のまま、どうしていいのか分からずにただ右往左往するばかりだった。
伊達軍麾下の長沼軍は、北東から街道沿いをそのまま南下する形で梁取、和泉田へ向かってくる。
必然的に村人たちも南下して伊南、さらにはその南に位置する立岩(舘岩)・檜枝岐方面へ逃げるしかなかったのだ。
和泉田、下山、富山、片貝など伊北郷の村人たちがこちらにどっと押し寄せてきた。
各村の領民たちが色々と立ち話をしている。
「よう、俺見たんだ。梁取襲われたとき夜中でよう、空が真っ赤になったんだ。焼き討ちだよ、間違いねえ、ありゃあ焼き討ちだ!」
「あ、あたいも見たよ。ねえ、怖いよう」
梁取から命からがら逃げてきた者が言う。
「お、俺はあの晩、悲鳴聞いたぞ。それも何人も。慌ててうちの婆さん連れて命からがら逃げ出してきたよ。ああ、厭だ。頭から離れねえんだ、あの叫び声――」
「そう言えば……何か知んねえけんど、奴らの、伊達の連中の歌とか……舞みてえな声も聞こえたな、確か。それも真夜中にだぞ」
「俺なんか震え上がっちまってよ。押入れに嫁とガキ詰め込んでよ、みんなでブルブル震えてたぜ」
「俺の家、下山だから聞こえたんだ、奴らの高々に笑う声が。ひゃっひゃっひゃとか、わっはっはっは、とか……。ああ、思い出したくねえ」
「人殺してんのにかあ? 背筋がゾッとするなあ、そりゃ」
「ああ、そうさ。まるで奴ら、人殺しを楽しんでるみてえだった」
一方、行方不明の佐源次は義兵衛の家に来ていた。
「なあ義兵衛、お前はどうする?」
胡坐をかいて座っている義兵衛に愛猫の空が上がって寝ている。呑と子は擦りついたりくっついたりしていた。
「……ん? 佐源次、俺はアキも、みんなも守りたい。どうせ一度拾った命、それに俺には親もいねえし、かみさんも子どももいねえ」
「姉さんたちいるだろ! まさか、まさかお前正気か⁉ 武家でも何でもねえのにさ、何ができんだよ。たった一人でどうするつもりだよ!」
「ああ、全くその通りだ! でも俺は奴らと戦うって決めたんだ。お前には悪いが……この大斧でな」
「バカ、お前なに言ってんだ‼ 噂、奴らの噂聞いてんだろ? 人間じゃないとか、魔物とか、人殺すの楽しんでるみたいな奴らなんだぞ? 俺は絶対にお前を行かせない!」
「言うと思ったよ。だけど佐源次、勢力の差は歴然としてんだぞ? そんなんじゃ、こっちは皆殺しに遭っちまう。だったらいっそ――」
「逃げた方がいいって! 俺の親戚が立岩(舘岩)と檜枝岐にいるんだ。だから、だからお前も一緒に来いよ、な?」
幼馴染で親友である佐源次の言葉ですら聞く耳を持たず、義兵衛は頑として首を縦に振らない。
「大体お前に人が殺せるか? 戦場ってそういうとこなんだぞ。俺はさあ、ガキの頃から争い事が嫌いだ。親子喧嘩ですら厭だった。戦って殺し合ってさ、一体そこに何が生まれるんだよ。なあ義兵衛、何とか言えよ! 頼むから考え直せって――」
すると、そこへ荷を背負った弥平・鴫、そして他の山師や五郎太がそれぞれ家族を引き連れ顔を出した。どうも弥平は外から二人の話を立ち聞きしていたらしい。
「おお義兵衛、元気じゃったか? いやあ、済まんのう……あんた方ご家族には申し訳ないが、先行っててくれんか。ちょっくらこいつに用があるんでな」
弥平の妻が苛立ち気味に言う。
「なーーに言ってんだい! 爺さんのくせして、若いもんに混ざる気なんかして」
「……いいからお前も先に行け‼」
すると徐に五郎太が言った。
「悪い、話全部聞いちまったぜ。義兵衛、俺は今まで村のみんなに嫌な事ばっかしてきたしよお、悪態ついたりしてよ、それで散々煙たがられてきた。けどよ、なんつーか、その……おめえと揉めたあと謝っただろ。あんとき、俺は……自分が初めて素直になれた気がしたっちゅうか……。こう、すっきりしてよ。んーー、なんか上手く言えねえんだけどよ、あれからはみんな俺にもすげえ善くしてくれてよ。ま、そのなんだ、みんなに恩返ししてえっつうか……。だからよ、義兵衛! もし、もしもだ、おめえが奴らと戦うってんなら、この俺も一緒に行くぜ‼」
だが、そこで佐源次が嚙みついた。
「五郎太さんまでなに言ってんの? だってさ、考えてもみなよ。絶対勝ち目ないって!勝てるわけないって!」
ところが、壱次は意外な言葉を吐いた。
「……いや、俺もいく。役立たずとは言わせねえぞ。なにせ俺はお前らの先輩だ。先輩には先輩の面子ってもんがある。それに、亡くなった喜代三郎だって、きっとそうするに違いねえ!」
「ちょっと壱さんまで! だって、子どもは? 奥さんだっているのに? どうするんだよ……。もう、みんなどうかしてるよ‼」
佐源次は戸惑いを隠せないどころか全く理解できなかった。
本来、勝機が見出せない戦に何も好んで参戦する必要などないのだ。これでは、ただむざむざと殺られにいくようなもの、それを犬死と謂うのだ。
「なあ、義兵衛、みんなを巻き込んでそれでいいのかよ、なあ!」
すると、義兵衛が答えた。
「俺は、愛するものを守りたい。アキを、村のみんなを、この土地を、ただそれだけだ。なにもみんなを巻き込もうとは思ってねえよ。だからみんな、行くのは俺一人でいい!」
それまで黙って話を聞いていた鴫が口を開いた。
「義兵衛、気持ちは分かるがな……武士なんて呼ばれる連中はおめえ、尋常じゃあねえんだぞ。ここは大人しく逃げたほうが利口ってもんだ、な」
しかし、周りが何度説得しても、結局、義兵衛が首を縦に振ることはなかった。
上山口「三池屋」――
番頭の岡八があちこち探し回っている。
「岡、見つけたか?」
「へ、へい、それが……お嬢さんも見つかりませんで」
源一郎が舌打ちをして言う。
「またあの野郎のところか?」
「あなた、あの子たちだって子どもじゃないんだし。私たちの行き先は知ってるんだから、先に行きましょう? ね、あなた、信じてあげましょう――」
「んむう、分かった! おい、岡! お前はそのまま佐源次とアキを探し続けるんだ。見つかるまでだ、いいな‼」
「へ⁉ へ、へい、旦那様」
一方、義兵衛の家では義兵衛と佐源次たちが未だ押し問答を繰り広げていた。そこへ、とうとうアキが来てしまった。
思わず壱次が顔面に手を当てた。
「ちっ、来ちまったかあ!」
周りが気まずそうな顔をしている。アキは義兵衛の家に仲間が押し掛けているのを不審に思った。
「あれ、みんな何してんの? お兄ちゃん何でここにいるの?」
兄の顰めっ面を初めて見たアキ。妹のその問いに佐源次は何の反応も見せないでいる。
「お兄ちゃん、お兄ちゃんってば! ちょっと無視しないでよ」
「……え⁉ あ、アキいたのか、いつから?」
普段落ち着いているあの佐源次が、今日はいつになく動揺しているように見えた。
「いつって、今来たとこだけど。なんかお取り込み中だった、もしかして。なんかお兄ちゃん恐い顔してる」
「いや、なんでもないんだ。アキは気にすんな」
「だって気になるよ、義兵衛も黙ってるし。どう見てもおかしい!」
「そんなことねえよ、な? 義兵衛」
「ああ、別になんでもねえ」
「ほらあ、な? 大体アキ、お前家はどうしたんだよ、親父探してたぞ。先行ってていいから。それにここは早く離れた方がいい」
「そんなの別にいいじゃない!」
段々とアキの顔が強張ってくる。
「お兄ちゃんこそ何してんの? 大体おかしくない? みんなも気まずいって顔してるし、何があったの? わたしに言って、言うまで帰らないから」
こうなったらもう誰も止められない、アキの独壇場だ。兄妹の長い長い睨み合いが続く。だが、結局根負けしたのは佐源次だった。
「……分かったよ。じゃあ話すよ」
「で、なに!」
女は強い、周りも頷くしかなかった。
「いや、義兵衛がさ――」
「佐源次、それは言わねえ約束だぞ」
佐源次は困ってしまった、これでは完全な板挟みだ。
「いやあ、だってさ……。ああ、もう、じゃあさ、この際二人で話し合えよ。その方が絶対いいって!」
今まで相談事や話し合いならお手のものだった佐源次が、とうとう匙を投げてしまった。
皆、佐源次と共に渋々義兵衛の家を出た。五郎太や壱次が板戸に耳を当てて盗み聞きしている。
「ねえ義兵衛、なにがあったの?」
「……」
「なんで私には言えないの? ふーーん、そうなんだ、隠し事するんだ。私ってそんなに信用ないんだね。じゃ、いいよ」
義兵衛は顔を顰めて黙っている。時折、引きつった頬が痙攣していた。
「そうじゃない。違うんだ――」
「じゃ、なにが違うの? 早く言って!」
義兵衛はこのままだんまりを押し通そうと思っていたのだが、アキの剣幕に勝てず正直に言ってしまった。
「俺、戦に出ようと思ってる。このまま奴らに好き勝手させるわけにはいかねえんだ!」
五郎太が舌打ちした。
「ちっ! ああ、言っちまったよ。もうダメだ、こりゃ」
「何言ってんの? ねえ、義兵衛、そんなのお武家様に任せておけばいいじゃない! なんで、なんで義兵衛が出てかなきゃなんないの? 意味がわかんないよ。ね、だってそう思わない、違う?」
「……そうかも知んねえ。だけどなアキ、よく聞いてくれ。俺は、愛するものを守りてえんだよ」
アキが負けじと言い返す。
「だってさあ、なにも戦う必要なんてないんじゃない? おかしくない」
「いやだから、アキ、お前のことを……。それに――」
「だったらもう、もう、泣くのやだ!」
アキは堪えきれず泣き出してしまった。
「ごめんなアキ、俺は仲間もこの村も好きだし、その全てを守りてえんだ。ほんとなら、俺は一度死んだ人間だ。拾った命は大事にしろって言うけど……俺はアキ、お前に拾ってもらったんだよ。だからお前のためにこの命を使いてえんだ。猫の面倒は隣のヤス婆に頼んだ。ただ、ヤス婆心の臓悪いから、アキにも頼もうと思ってたんだよ。ほんと、ごめん……」
アキが泣きながら突然すくっと立ち上がった。
「もういい、義兵衛のバカ!」
そのままアキは義兵衛の家を飛び出していってしまった。慌てて追いかける佐源次。
「アキ、ちょっと待てよ。なあ、アキいーー!」
二十三、紅の三途、伊南川
そして、八月も半ばに入った――。
いよいよ、錚々(そう)たる伊達の駒の揃い踏み。
伊達軍軍大将原田佐馬介宗時、副将片倉小十郎景綱、南山鴫山城城主長沼弥七郎盛秀。
侍大将屋代勘解由兵衛尉景頼、弓大将鮎貝喜兵衛、鉄砲大将梅津藤兵衛、長沼軍湯田采女らを始め、漆黒の軍団五百騎と雑兵三千五百は和泉田村河原崎城に総攻撃を仕掛けた。
なお、このとき用意されたその弓二百張、鉄砲五百挺と云われている( [著者不明, 伊北軍記, 安永二]参照)。
迎え討つは河原崎城城将、五十嵐道正。
富沢藤助、江川兵庫を大将、副将とし、それぞれ大隊四隊に分け、さらに小隊二隊に分けて備えた。
ただ、家臣の中には勝ち目のない戦に反対し、開城降伏の選択肢はないのかと道正に迫った者も大勢いた。
「藤助、兵庫、頼んだぞ。敵の数は四千、総攻撃を仕掛けてくる。総力を挙げ、必ずやこの城を死守せよ!」
「御意!」
「ははあ、仰せの通りに!」
しかし、五十嵐勢の兵力は越後上杉からの援兵と領内の農兵を含め、都合千五百余りしかいなかった。
そして先ず、和泉田が戦場になった――。
「火矢を放てえええ‼」
盛秀の軍は村に火を放ち、所々で村人たちの悲鳴が聞こえてくる。
景綱が兵を指揮し、部下に叫ぶ。
「(ふん、暫し撤退の猶予を与えたものを)よーーし、一人残らず斬り殺せ! よいか、一人残らずだ!」
物言わぬ兵たち、与えられた任務をただひたすら遂行していく。それがまた一層不気味さを増した。
逃げ惑う村人を容赦なく斬っていく――、逃げ遅れて泣きじゃくる赤子を抱きかかえた若い母親が恐怖の余りその場でへたれ込んでしまった。
そこへ三名の伊達兵が近づいてきた。
「きゃーーー!」
その母親は逃げようとしたが腰を抜かして立ち上がることができないでいる。三人の兵が取り囲み、一人が刀を振り翳した。
「ああ、どうかこの子だけは……この子だけはお願いします、お願いしますう……」
母親はただブルブルと震えるばかり。しかし、兵は無表情のまま母親の腕ごと赤子を斬り落とした。
「ぎゃあああああ‼」
その後、二人の兵たちが母親の首を刎ね、刀を胸に突き刺した。すると、今度は伊達兵たちが大釜を積んだ大八車を転がしてきた。
大釜には煮え滾った湯が入っている。
さらには逃げる村人を馬で追いつめ、転倒した者を数頭の馬の足で何度も何度も踏みつけていた。
物陰に隠れている者が小声で独り呟いている。
「やめろ、お願いだからやめてくれえ……。ありゃあ人の成せる業じゃねえ。化けもんだ、化けもんに違いねえ。ああ、南無阿弥陀仏――」
「うわああああ!」
「ひゃあーー、助けてえーーーー!」
其処彼処で聞こえる村人たちの悲鳴。
若い娘たちは兵によって生け捕りにされ、何人もの兵に散々嬲り者にされたあと、槍を突き立てられ殺された。
それは確かに、盛次が見たあの時の光景そのものだった。
逃げる村人の中には、その余りに凄惨な光景を見て嘔吐している者もいる。道端には村人たちの生首がずらりと並べられ、辺り一面血の海になっていた。まさに地獄絵図の様相を呈した和泉田。
夥しい血が流れるそれは、「紅色に染まる三途の川」とでも謂うべきものだった。
伊達軍はその圧倒的兵力で忽ちの内に河原崎城を取り囲んだ。伊達の鉄砲隊が梅津藤兵衛の号令で一斉射撃を開始する。
道正の軍勢に無数の弾丸が撃ち込まれていくその時だった――、伊達軍の後方から漆黒の兵たちを次々薙ぎ倒してくる大柄な男たちの影が見えた。
その影一つ、二つ、いや、三つ――。
青白い顔や土気色の顔をした伊達兵が呻き声や叫び声を上げながら斬り倒されていく。
それは、義兵衛・壱次・五郎太だった。だが一足遅かった、すでに惨劇は始まっていたのだ。
壱次が呟く。
「ちっ! 遅かったか。野郎めらあ(やつらめ)、酷えことしやがる!」
義兵衛はまだ僅かに息のある人々を肩に担ぎ、焼け残った家屋の中に連れていくと着物を破って手当てをしてやった。
黙って手当をしていたが、義兵衛の目には涙が浮かび体はブルブルと震えていた。すると、再び外に出た義兵衛は突如激昂し、伊達兵に向かってこう叫んだ。
「許さねえ、ぜったい許さねえぞーーー! 伊達の畜生共め! この俺が成敗してくれる‼」
壱次が遠くから五郎太を呼んだ。
「おーーい、五郎太! 奴ら、でっけえ大八車引っ張って城に向かったぞーー!」
「ん? こうしちゃあいられねえ。うおりゃあ、おらあ、どけどけどけどけえ! 化け物どもーーーー!」
五郎太の怒号が轟く。
「壱次、今そっちに行くから待ってろよお!」
しかし、すでにこのとき義兵衛は大釜を大八車ごと左手で軽々と持ち上げていた。次の瞬間、それを宗時に向かって思い切りブン! と投げつけた。
宗時の目の前に大釜が地響きを立てて落ち、煮え滾る飛沫が顔に飛んだ。伊達兵たちは熱湯を被り悲鳴を上げながら悶えている。
義兵衛がさらに叫ぶ。
「これが貴様らへの挨拶代わりだーーーー‼」
宗時は狼狽した。
「(何者だ……あやつは⁉ 人間なのか?) くっ、何をしておる! 高々三人ばかり、早う斬り殺せえい‼」
義兵衛は佐源次がくれた『龍王斧』を、五郎太は手斧と鉈を、そして壱次は山刀をそれぞれ手にし、不気味な伊達兵をバッサバッサと斬っていく。
「貴様らの好き勝手にさせるか!」
しかし、伊達軍の圧倒的な数には勝てない。気がつけば周りを取り囲まれてしまった。三人は背中を向け合い三方向に構える。
「おいまずいぞ、どうする?」
「五郎太、心配するな。不動様の力、信じよう!」
壱次も義兵衛に命を預けた。
「頼んだぞ義兵衛! もし、ここでくたばったら……あの世で嫁に何て言われるか分かんねえ。みんなにもまともに拝んですらもらえなくなっちまうからよ」
伊達兵は刀を構え、不気味な笑みを浮かべながらじわりじわりと義兵衛たちににじり寄ってくる。
その頃――
藤助・兵庫らも伊達勢との苦戦を強いられていた。
伊達鉄砲隊の前に為す術はなく、兵が次々と倒れていく。農兵に至っては伊達兵を見るや否や逃げ出す始末だ。
「くそっ! 伊達の輩め……。もう持ち堪えられんぞ」
銃弾をその身にうけた藤助は瀕死の重傷を負っていた。
兵の大半を失い、大隊三隊は壊滅状態に陥っていた。追い詰められた藤助は、もはや覚悟を決めるしかなかった。
そこへ、藤助の部下が慌てて駆け寄ってきた。
「大将殿! 大丈夫ですか? 撃たれたのですか?」
「ん、んむう、案ずるな。大事ない……」
「しかし、血が!」
藤助は必死で痛みを堪えていた。片手で胸を押さえているが、指の間からは血が滲んでくる。
「おーい、大将殿が負傷した! 誰かおらぬかーーー!」
「……よい、大した事はないと言っておろうが‼ 急いで俺の元に来たからには、何かあったのであろう? 早う、早う申せ」
「い、いや、しかし……」
「いいから早う申せ! これは、これは命令であるぞ!」
藤助は声を荒げた。
「……で、では、ご報告申し上げます。見慣れぬ三人の男が伊達兵と交戦しているとのことで」
「なに⁉ それは……それは、盛次様がこちらへ向かわせた援兵ではないのか?」
「い、いえ、それが盛次様の麾下ではないとのことで。恐らく、援兵ではないものと。旗も掲げておりません故、野武士の類ではと。ただ、その中で一際大きな男がおりまして、その者は大釜が載った大八車を片手で持ち上げるような途轍もない怪力を……」
「い、今、何と申した?」
「は、怪力と、とても人間の成せる業とは。そしてその三名、敵軍をあっという間に蹴散らし、たった今、敵軍大将原田の軍と城外で交戦しているとの由」
「……そ、それは……何者だ?」
藤助は徐々に意識が薄れ始め朦朧としてきた。
「素性は全く不明です。ただ――」
「ただ……ううっ! 何だ、早う……申せ……」
息も絶え絶えに聞き返す藤助。
「ただ、その男、巨大な斧を振るう片腕が利かぬ男であると」
「……片腕が、利かぬ? よいか、今の……こと、早急に……殿、と、の、に伝え、よ……」
そう言い残し、藤助は終に力尽きた。
一方、兵庫は城内へ侵入してくる伊達軍と激しい攻防を繰り広げていた。
「副将殿、最早……最早これ以上、敵の侵入を防ぎきれません。どうか、どうか撤退のご指示を!」
「馬鹿者‼ 殿は何としても死守せよとのこと。殿のご命令に背くわけにはいかぬ!」
「し、しかし……」
兵庫は部下の襟首を掴んでこう言った。
「よいか、武士の意地を見せよ!」
だが、いくら斬っても敵は蛆虫のようにどんどん湧いてくる。これでは限がないばかりか、被害が拡大し、兵が疲弊していく一方だ。
藤助・兵庫両軍の中には、もう立つことも儘ならない兵達がそこらじゅうにいた。
和泉田村、河原崎城城門付近――
義兵衛はにじり寄る伊達兵をゆっくりと見回しながら機会を窺がっていた。
「おい義兵衛、どうすんだ? もう限界だぞ、おい、義兵衛!」
一瞬、目を細める義兵衛。
「……よし、今だ!」
そう叫ぶと義兵衛は力強く左足で一歩踏み込み、手に持った『龍王斧』を右肩越しに振り翳すと、掛け声と共に思い切り水平に投げた。
斧は敵兵めがけて回転しながら、旋回飛刀の如く飛んでいく。
刃は真っ赤に焼けていた。暗闇にくっきりと鮮やかな孤線を描き、取り囲む伊達兵の喉元を次々に刎ねていく。
怯む伊達兵を余所に『龍王斧』が義兵衛の左手に還ってきた。
そして、その刃を宗時に向けてこう言い放った。
「貴様の首もこいつらみてえに刎ね飛ばしてやろうか!」
五郎太も壱次も驚いた。物静かだった義兵衛が敵を口汚く罵り、鬼のような形相で敵兵を睨みつけている。ましてや手にした斧が真っ赤に燃えて飛んでいくなど人間業ではない。
「おい、ぎ、義兵衛、そ、その……お、お、斧が……」
それを目の当たりにした宗時もいよいよ畏れ始めた。
「き、貴様あ……ただの人間ではないな。さては物の怪の類か? それとも妖の術か、一体何者だ! 見るに、五十嵐の兵でも河原田の兵でもないようだが。いやもしや、上杉の……」
畏怖のあまり動けない宗時に、義兵衛は『龍王斧』を力いっぱい投げつけた。
その時だった、暗闇の中、刃が再び打ったばかりの鋼のように真っ赤になった。だが、宗時は飛んでくる斧をすんででかわし、馬ごと身を翻したかと思うと手綱を振った。
そして、鐙を蹴って一気に城門めがけ駆け出した。
「はいやっ! 皆の者、わしに続けえ!」
「おい、逃げんのかよ! ちっと待てえ!」
壱次が追いかけようとしたが、なぜか義兵衛は追おうとしない。
「奴ら城内に向かったぞ! おい、義兵衛追わねえのか?」
「……」
走り去る宗時は振り返りながら義兵衛にこう言った。
「ふん、面白い! この勝負、一旦お預けじゃ。いい獲物に久々に出会えたわ。貴様の事は御屋形様に伝えておく‼ いい土産話になったわ、はっはっはっは!」
『龍王斧』が向こう側の杉の木に豪快に突き刺さった。その木は一気に巨大な火柱に包まれたかと思うと、激しく燃え尽き灰になった。
ところが、不思議なことに斧は熔けるどころか熱すら帯びていなかった。義兵衛はすぐさまそれを取りにいくと逃げ遅れた伊達兵に再び斬りかかっていった。
河原崎城城内――
道正の元に藤助の側近が来た。
「伝令! 殿、殿、ご報告がございます!」
「斯様な時に何じゃ、ん? ところで勘輔、お前深傷を負っておるではないか、大丈夫か?」
「は、大した事は」
「……そうか、しかしその体では戦になるまい。おーい、まずこの者の手当てをしてやれ!して、何事じゃ?」
「は、と、藤助殿が……藤助殿が、伊達軍の銃弾を受け、今しがた――」
「なに⁉ と、藤助が、か? それは真か……何という事じゃ……」
「我々がついていながら、誠に申し訳ございませぬ!」
「馬鹿者! 藤助は我が軍の要であるのだぞ! (うむ、いや、しかし……しかしそれが戦というもの、こうなるも已むを得まい)」
「ただ、もう一つございまして。城内に見かけぬ男どもが侵入しており……その者共がたった今、伊達軍と交戦しております」
「なぬ? 何じゃ、その者共とは如何様な輩じゃ?」
「我々にも分かりかねます。ただ、その中の一人は巨大な斧を振るい、片腕の利かぬ男と聞いております」
「それは何者じゃ、(上杉)景勝様の援兵? いや、いやもしや盛次殿の、ではないのか?」
「いえ、それが……それが些か武士の出で立ちをしておりませぬ」
「うむう、一体何奴か。まあよい、今は兵が足りぬ。その者共もこちらの戦力になるのであれば。しかし、 果たしてその輩は敵か味方か……。(まさか、この戦渦に紛れてまた別の……)」
道正は盛次に言われていたとおり、この混乱に乗じて退避する準備に追われていたのだった。さらにその 道正を後押しするかのように戦況が思いの外長引いた。そして、間道から攻められた河原崎城は二十七日終に落城することになる。この落城が切欠となり、越後上杉からの援軍も撤退を余儀なくされた。
河原崎城からは伊達軍の勝鬨と戦勝の舞「さんさしぐれ」が夜通し聞こえていた――。
そのときの伊達軍の殺戮行為が「――城中ノ者共、残リ無ク、撫デ斬リセシムノ由、言上アリ――」(八月二十五日、四保宗義の注進より一部抜粋)と記されている。
皮肉な事に、この義兵衛たちの乱入が道正にとって非常に都合がいい時間稼ぎになってしまった。
その結果、道正は手負いの勘輔と二男掃部助道忠を連れ、籠城する家臣以下その他を置き去りにしたまま山道の抜け道を通り、本城久川城へ向けて馬を走らせたのだった。
またその頃、アキは佐源次と共に源一郎を追って檜枝岐に向かって歩き出していた。そして、このときすでに長沼軍の一派が立岩(舘岩)にぞくぞくと押し寄せていた。
会津若松方面から南会津町田島地区へ向かい国道が走る。南郷地区へ西へと延びるその途中左へ入る枝線があり、宇都宮・日光方面(会津西街道・日光街道)を田島地区荒海へ向かうとさらに道が二手に分かれる。
左は西街道で栃木県、右はそのまま田島地区滝ノ(の)原、中山峠へと続き、南会津町舘岩地区へ入る。
舘岩(立岩)地区、伊南地区、さらに檜枝岐村は隣接している。つまり、長沼軍の一派はその峠を通り舘岩廻りで攻め込み、最終的には長沼盛秀率いる先発隊とで伊南河原田を挟撃しようとしていたのだ。
南山長沼と伊南河原田双方に接している立岩郷(舘岩)。この土地もまた、上・下に分かれている。
当初、万一伊達軍が會津侵攻を始めた場合は河原田へ忠誠を尽くす旨を示していたのだが、その侵攻を知った矢先に立岩郷は上・下で忠義が割れ、上立岩は長沼へ付き、また下立岩は中立の立場をとった。
ところで、舘岩地区に最も接する東端の集落を伊南地区耻風という。
この耻風には当時河原田軍の陣小屋(砦)があり、芳賀内膳亮、森九郎左衛門、以下城兵数十名が警戒の任に当たっていた。
立岩郷は舘岩・伊南両地区の辺境に当たり、伊南地区の中心地古町から国道を東に逸れると多々(だ)石という集落に入る。さらに、そのまま東に続く多々石峠を抜けていくと長沼領地である田島地区に繋がる。
また、当時小立岩(伊南に属す)の砦を任されていたのは長戸織部守という城将だった。
伊南地区小立岩は檜枝岐村に向かう途中に位置し、田島地区と舘岩地区を結ぶ街道が交差する同地区内川を越え大原からさらに西へ進んだ同地区大桃集落の手前であり、伊南河原田の防衛拠点の一つである。
三池屋目黒一家は源一郎の叔父の許に一時身を寄せていた。幸いにも叔父の家は檜枝岐にあるため、伊達軍侵攻の危険性は極めて低かった。
もしこれが立岩、ましてや上立岩などとすれば確実に戦禍に巻き込まれることになっただろう。ただ、下立岩も戦局の行方によってはどう転ぶか分からない。しかし、情勢を知らない伊南の領民たちの多くは、少なくとも現時点での安全地帯として立岩(舘岩)を選択していた。
本来ならばこの選択肢は誰も選ばない筈。選ぶべきは東南に位置する舘岩ではなく、西南に位置する檜枝岐であろう。かなり遠回りになるが、北西へ半円を描くように街道沿いを進んで行けば越後上杉領に逃れることも可能なのだ。
県境には旧銀山湖がある。現在は奥只見湖と名を変えているが、そこからさらに現在の新潟県は南魚沼市に抜けることができるからだ。
ただし、沼田街道と名を持つとおり、当時檜枝岐からは群馬県片品村を通り「真田の里」で有名な上州沼田に抜けることができたと云う。
また、舘岩地区から街道(国道三五二号線)沿いの松戸原集落より丁字路を南に入ると田代山林道(県道三五〇号、栗山・舘岩線)へと続き、湯ノ(の)花温泉郷を通って栃木県日光市の湯西川に抜けることもできる。
今年の残暑は例年に比べて短かったように思われる。こういう年は決まって冬の訪れが早い。