焔龍と黒竜
一、青龍と叢雲
「おい、源助を呼べ」
その夜、城主盛次は久川城本丸御殿で盃を傾けながら家臣に言った。
河原田治部少輔盛次――、陸奥国會津郡伊南郷(南会津西部地域)を統治する勇猛義烈な城主。
臣民から篤く慕われ、自身もその慈愛に満ちた政治により平穏なこの土地を守り続けていた。
南会津西部地域は海抜五〇〇メートルから九〇〇メートルの高地にある渓谷であり、主に急傾斜を伴う谷壁斜面で形成された山岳地帯である。
東北屈指の豪雪地帯において小さな飢饉は多々あったが、しかしながらこれといった一揆や暴動も起こらなかったと云う。
「殿、お呼びでございましょうか」
「うむ。まあいい、盃を取れ」
盛次は源助に酒を注いでやった。
「またお独りで酒を?」
「……まあ、よいではないか。余は酒好き。この土地で仕込まれた『花泉』は、天が授け地が育み、民が余に献じてくれた銘酒。それを飲まずにはおられまい」
ふと遠くを見るような目をする盛次。
「また何か、考え事でもおありなのですか?」
盛次は源助の問いに答えることなく盃を一気に煽る。
「今日はまた一段と冷えるな。ところでだが、この地の平和は果たしてどこまで続くと思う?」
源助は口に手を当てて、暫し考え込んだ。
「分からぬか、まあそうであろうな。外は乱世、しかしこの地は未だ平穏のまま。ただ、この乱世ももうじき終焉を迎える」
「――すると、やはり秀吉様ですか」
「左様、直にこの国も統一されよう」
天正十六(一五八八)年、室町末期とも戦国末期ともいえるこの時代。
ときの関白豊臣秀吉が全国統一を果たす凡そ二年前――。
他方、出羽国米沢に居を構え、時代の梟雄として名を馳せる一人の戦国大名がいた。その男は天下統一を目論み虎視眈々とその座を狙っていた。
伊達家第十七代当主、その名は余りにも有名であり、強大な勢力を誇る伊達武者を束ねる奥州王。
伊達左京大夫政宗――、臥竜鳳雛と謳われ、知略に長けた非凡の大器。
当時、人々を震え上がらせた「撫で斬り」を繰り返し、父輝宗をもその謀略により葬り去った、とまで噂された男。
「殿、ただ一つ……」
「うむ、察しておる。源助、お前が言いたいのは伊達政宗のことであろう」
「いかにも、今や政宗は破竹の勢い。このまま捨て置けば……必ずやこの地の、河原田の脅威となりましょう」
ところが、盛次は空いた徳利片手に家臣に向かってもっと酒を持ってこいと叫んでいる。
「殿、某の話、聞いておられるのですか?」
源助には理解できなかった。
肩透かし――、いくら酒に目がないとはいえ、今まで真剣に聞き入っていた筈の盛次の気持ちはすでに酒にいってしまっている。
「源助、そうかっかするな――」
「ですが殿、伊達が敵となればこれは明らかに我が軍が」
「ふむ、全くお前らしいな。まあよい、飲め」
夜半過ぎ、北の丸の高台にある鶯櫓で見張り番をしていた巳代治は御殿の障子明かりをぼうっと眺めていた。
「ちっ、いいご身分だよな。こっちはよう……」
それもその筈、一月も半ばになるとこの土地は骨身に沁みるほどの痛烈な寒さが襲う。辺りは一面真っ白な銀世界になっている。
幸い今晩は晴れていて、天の川が見えるほど空気が澄んでいた。
「あー、寒い。ちきしょう!」
手の平に息を吹きかけるが、白く曇った息は一瞬のうちに冷風になる。ぶつくさと独り言を言う巳代治の元に丁度交替番が上がってきた。
「おい、そろそろ交替だ」
「よかったあ、助かったわ。もうじき凍え死ぬとこだった」
「この、うつけ! 俺は今からなんだぞ。これからが一番冷え込むってのに」
重次郎は恨めしそうに巳代治を見た。
「だって見てみろよ、あれ」
巳代治は遠くの障子に映る二人の影を顎で指した。
「まあ、確かにな。偉え奴はいいよな?」
「だろ? こっちはくそ寒いってのによ。あれで火鉢がんがん焚いてんだぞ」
「巳代、下っ端ってのはいつでもそうなんだよ。あんまり愚痴溢すな。んじゃあな、お疲れさん」
見張り番からやっと解放された巳代治。
「あ、ところで重よう」
「なんだ?」
「そういやあ、明日の晩って……」
そう、明日は伊南郷山口村で恒例行事となっている「早乙女踊り」だ。この天気だと恐らく明日も晴れるだろう。
「早乙女かあ」
重次郎は夜空を見上げて言った。
「重、実は俺は明日、暇貰ってんだ」
「うつけ! だったらなんだ」
「縁とかねえかなあ」
巳代治はニヤニヤしている。その阿呆面を腕組みしながら呆れ顔で見る重次郎。
「お前に縁なんか絶対にねえ! 俺と暇交替しろ」
「断る! では、御免‼」
梯子を降りる巳代治に向かって重次郎は雪玉を二、三発食らわした。
「冷てぇ!」
「かっかっか、この野へ六め(このバカたれが)」
冬の夜風が松明の炎を揺さぶっていた。
時折、蝋燭の火が激しく揺れ、障子戸もがたがた鳴っている。
「某はそろそろ。殿もこの寒風に当たられるのは……屋敷にお戻りになられては」
「ん? まだよかろう、いま一杯だけ付き合え。俺とお前は同じ血が通っておるというに、しかしこうも違うものか」
城主盛次とその近臣、佐藤源助は同族の出。盛次はこの源助に絶大なる信頼を寄せている。
庶民派で砕けた盛次に対し、源助は実直過ぎるほど真面目な男。そのため、二人の性格はまるきり正反対だった。
「風が出てきたな」
「はい、ですがこの風が、雲を取り払っていくのです。明日も晴天であると」
「なるほど……疾風、叢雲を掻き消す、か。そういえばな、源助、お前こんな言葉を知っているか?」
「はっ? と、申しますと」
「月に叢雲、花に風」
源助は盃を置くと、眉間に皺を寄せ俯きかげんに考え込んでしまった。
「そう悩むものでもないと思うが。分からんか、ならば教えよう。順調に運ぶ物事には何かと障害が付き纏い長くは続かない、という諺の類」
「ははあ……つまり譬えるに、好事魔多し、ですか」
「うむ、ちと違うが……。お前は伊達を破竹の勢いと言った。仮に伊達を月としよう、そしてそれを覆う雲を――」
「すると、(蘆名)義広様……ですか?」
「いいや、それも違う」
會津を統治していた蘆名義広は、名家常陸佐竹から天正十五(一五八七)年に養子として入嗣する。
佐竹は甲斐武田の祖として知られているが、その大軍佐竹を笠に着た義広は弱冠十四歳の少年だった。
その一方、奥州の覇者伊達政宗は天下に名を轟かせるべく、関白秀吉の「惣無事令」を破り、各地を転戦しながら勢力を拡大していく。
怒涛の進軍をみせる隻眼の黒竜は漆黒の戦集団を見事に統率していたのだ。
この年、會津一円を治めていた蘆名と米沢を本拠地とする伊達が安積郡(郡山市及びその周辺地域一帯)で対峙していた。
その最中、大内定綱・親綱(郡山、片平城主)兄弟の伊達内応、帰順などにより情勢が一変しようとしていた。
二、酔蛇たちの宴
「あーあ、暇だな。眠いのにこの寒さが邪魔して眠れん。巳代の野郎……ったく、気楽なもんだ。しっかし、それにしても今夜はいつになく月が綺麗に見えるな」
鶯櫓の重次郎は槍片手に独り言を言い、天に煌く下弦の月を見つめていた。
いくらこの地が平穏だとはいえ、伊達の軍勢はすでに會津蘆名領に侵攻している。そのために築城した要害山城、それが久川城なのだ。
井楼(櫓)は他にも数か所あるが、怠慢するのに一番うってつけの櫓がこの鶯櫓だった。本来であれば警戒を常に厳重にしなければならなかったのだが。
この南会津地域は昭和初期まで東部・西部の二地域に分かれていた。
東部地域は旧田島町(現南会津町(平成十八年町村合併による))及び下郷町。
西部地域は旧舘岩(立岩)村、旧伊南村、旧南郷村(三ヶ村共に旧田島町と合併により、現在南会津町と改称)並びに檜枝岐村、只見町となる。
また、東部地域は大川(阿賀川)沿いに位置し、西部地域は伊南川沿いに位置する。
当時、東部地域を統治していたのは南山(長江庄田嶋郷)長沼氏、また西部地域、大沼郡一帯及び河沼郡の一部を統治していたのが伊南河原田氏と横田山内氏だった。
西部地域はさらに伊南川流域一帯を伊北郷、伊南郷と分け、その境界は旧南郷村界であった。界(境界)という字名もそれが由縁とされている。
伊南郷山口村(南会津町山口)、ここに一人の青年山師(樵)がいた。
名は義兵衛、髪はざんばらで歳は二十八、両親を亡くし生活は酷く貧しいものだったが、親から授かった見事な体躯は身の丈五尺八寸(約一七六センチ)、目方十九貫(約七〇キロ)。
当時としてはかなりの大男で、一般的に使われる斧よりも一回り大きな斧を軽々と振り回した。なお、山口村は上・中・下の三地区に分かれている。
一月半ば――
夕方、この村の庄屋(名主)山口定義の家に皆が集まり酒盛りをしている。
そこには山師たちや百姓を営む者、商人やその者たちの妻もいて老若男女問わず三十数名いた。
「余所さまは今戦乱の真只中。だが、この土地は大きな争いもなく鞏固じゃ」
「そうさなあ、この地は未だ安泰。これもひとえに盛次様のお蔭じゃろうて」
「長、確かに今はそうかも知れん。ただ、ただしかし、このまま戦乱が長引けば……」
「うーむ、もしそうなればこの地もいずれ戦場と化すやも知れんな」
「じゃ、じゃあ、もしそうなったら……」
酔った中年が割り込んでこう言った。
「そうしたら、はあ(もう)一巻の終わり。みーんな御陀仏、チーン! だべな」
「おい、そんな先のこと言ってもな」
そこで一人の若者がこう返した。
「そうだ、その通りだよ。長が安泰って言やあ、安泰なんだよ!」
「そうそう、明日は村挙げての早乙女踊りだぜ」
「そうやそうや、そんなしみったれた話しにきたわけじゃねえだろうに」
「まあまあ、そんなに先のこと考えても仕方ねえしよ、な、楽しくやっぺんねえが?」
村の若者には活気がある。
「よーし、今夜は宴だあ‼」
「バカ、本番は明日だろが!」
しかし、一人浮かない者がいた。
玄関の土間近くで胡坐をかいている青年。
口を尖らせ何やら不貞腐れているようだ。そこへ、かなり泥酔した中年百姓が近づき、こう言った。
「おい、そこの若えの! いっつもおめえはぶすくれた(ふてくされた)面しやがってえ。酒が不味くならあ! 何とか言えよ、ああ? ちっ、ふん、つまんねえ野郎だぜ全くよお!」
そう言うと、手に持っていた汁茶椀の具を箸で摘み、思い切り投げつけた。
「おいおい五郎太、酒はそんくらいにしとくもんだぞ」
「こいつは酔っ払うとすぐ絡む癖あっからなあ」
「まま、気にすんなよ、義兵衛」
すると五郎太がカッとなり言い返した。
「うるせえ、達吉! てめえ、この俺に盾突く気か、ああ? 大体にして俺はなあ、前々からこの野郎には言いてえことあんだ‼」
立ち上がった五郎太を周りが止めに入る。
「だから、よしなって」
「五郎太、酒癖が過ぎるぞ!」
義兵衛が一番信頼している先輩職人、吉次が一喝した。吉次は五郎太の先輩でもある。
「なにも庄屋様の家でクダ巻くことねえだろ!」
吉次の声に周りも便乗する。しかし、五郎太は収まりがつかずそのまま続けた。
「誰の前だろうが家だろうが俺は言う! おい、返事しやがれ、この下っ端野郎が‼」
「相手にすんな、な?」
「……五郎太、おめえその辺にしとけよ」
見かねた吉次は、五郎太を横目で睨みつけて凄みを利かせた。ところが、そんな事を余所に、依然義兵衛は黙ったままだ。
「無視かあ、この野郎! その太々しい態度が気に食わねえんだよ。おめえらも野郎の肩持ちやがって‼」
五郎太の剣幕に皆少々怯んでいる。
「いやあ、そういうつもりじゃ……」
「なにせ、こいつはこの村の山師の中じゃ一番の出世株、将来も有望だ」
「そうさ、何てったってこいつは筋がいい。ただ、ただ、まあ……」
酔った別組の山師が言った。すると、すかさず五郎太が突っ込んだ。
「だろうよ、な? おめえらも分かってんじゃねえか! この野郎には喜怒哀楽っちゅうもんがねえ。人っつうもんはよお、もっとこう愛嬌っちゅうか、その、何だ……」
暫く黙って見ていた定義だったが、とうとう見かねて声を荒げた。
「五郎太! もうその辺にしておきなさい。今晩は前祝なんだぞ。いいか、酒は楽しく飲むものであって、決して諍い事を生む水ではない! それくらい心得ておるだろう」
「ほーれ見ろ、怒られた」
「へっ! 分かりやしたよ。庄屋様には敵わねえからな」
土間に飾られた団子差しのミズノキに刺さっている団子を突きながら、五郎太は渋々言い返し、つんとそっぽを向いてしまった。
「んじゃあ、ま、とりあえず、ぱあっ! とね」
「んだんだ、飲み直しだ」
義兵衛は黙ったまま、のっそりと立ち上がり厠へ行った。
筋肉は隆々とし、少し猫背で肩が張っている。顎が引けて上体がやや前のめりの体型のため、どうしても上目使いになってしまう。
見る人によってはその愛想の悪さも相まって、義兵衛への印象はとても不愉快なものだったようだ。
宴会は夜更けまで続き、その後は大した揉め事もなかった。
伊南郷青柳村(南会津町伊南地区青柳)、久川城――
翌日早朝、鶯櫓では夜警番だった重次郎が槍を持ったまま柱にもたれ眠りこけていた。
「おい、重!」
「……は、はいっ!」
ビクッとした重次郎は槍の柄で頭を打った。
「いてっ、つ、つつ」
「重、お前な……」
「あ、あの、す、すいません!」
重次郎は目を擦ってよく見た。上ってきたのは巳代治だった。
「は? 何だ、お前か」
「何だじゃねえだろ! 凍死するぞ。もし上にでも見つかったら――」
「ああ、ま、そうだわな。まさか寝坊常習のお前に起こされるとは。それにしても、やっぱ非番の日は早起きできるんだなあ」
「ちっ! 厭味かよ。せっかく起こしてやったのに」
「……いや、すまん」
「今日はうつけ! って言わねえのかよ」
「だから、すまんって」
「もうすぐ太鼓鳴るぞ。鳴る前でほんとよかった、仕置房行きだぞお前。まあいいや、じゃあな! 点呼あっから俺戻るわ」
巳代治が去った後、起床を知らせる太鼓が鳴った。その直後、組頭がやって来た。
「重次郎、夜警番ご苦労だったな。どうだ?」
「はい、特に異常はありませんでした」
「そうか、ところで交替番はまだ来ないのか?」
「ええ……まあ、はい」
組頭はやや顔を顰めた。
「……うむ、まあいいだろう。ならば交替が来るまでは頼むぞ」
「はい! 了解しました」
三、呑助と花笠
伊南郷山口村、某所――
「ああ、頭痛え。夕べちっと飲み過ぎちまった」
「ところであの二人、なじょうなった(どうなった)かな?」
「え? ああ、五郎太と義兵衛な」
「五郎太の酒癖の悪さときたら、そりゃあもう、天下一品さ。あいつは一種の酒乱だからな」
「ま、俺に言わせりゃ、野郎はただの阿呆だな。(年)下のやつ苛めて何が楽しいのかさっぱり分からん!」
「つーかよ、酒癖で言やぁ信二、おめえんちの嫁さん凄えらしいじゃねえか?」
「えっ? ま、まあな……いや、夕べ帰ったらさ、俺より飲んでんの。もう、ぐでんぐでんで。うちってほら、俺、三男坊だからさ」
「舅も姑もいねえってんだろ? 知ってるよ、んなことはよ」
「いやあ、それをいいことに、参った。逆に俺が介抱したかんね」
「やれやれ、つーか俺なんかよ、明け方コソーッと帰ったら戸開いててよ、裏の勝手口な。そしたら……」
話に聞き耳を立てていた他の三人が、身を乗り出して声を揃えた。
「そしたら?」
「やっぱ案の定だよ、居やがったんだそこに! うちの嫁突っ立っててよ。しかもな、暗闇に居やがるもんだからこっちがびっくりしてよ。挙句、ちっとちびっちまってよ、ほんと鬼かと思ったぜ、全く」
「そりゃあ、ほんとの鬼だな。だって喜八郎のカミさん、あの体格だもんな。目方なんぼあんだよ」
「いい肉づきしてんもんなあ。下っ腹の辺りなんてなあ、でっぷりと、こう……」
「そう言やあ、祝言(結婚式)のときもみんな言ってたっけ。角隠しの下じゃ、それはそれは隠しきれねえほどの角がすでに生えてるってな!」
「がははははは!」
「わ、笑うな‼」
喜八郎は苦虫を噛み潰したような面をしていた。寄り集まって藁仕事をしながら、それぞれ奥方の悪口合戦の始まりだ。
「いててて、藁ってなんで刺さんのかなあ」
「俺は足の親指と人差し指の股の皮爛れるんだ、これ始めるとさあ」
「うん、分かる分かる。痛えんだよな、それ」
この時期、仕事の合間はやはり内職になってしまう。
藁を縒っては、注連縄・蓑・笠・はけご(腰籠)・篭・足半・かんじき・げんべえ(藁沓)・深沓(藁で編んだ長靴)など、そにかく藁で作れるものは一通り作る。
出来上がったものは生活必需品として重宝するだけでなく、商品として売りに出されるものもあった。
その他に、同じ内職の一つとして冬期間の保存食になる切干大根、乾燥させた大豆を平たく打ち延ばした打ち豆、つるし柿(干し柿)なども作っていた。
男は力仕事、女は家で子守りや炊事洗濯、これが農村地域の一般的な暮らしだ。中には機織をする女性もおり、一年を通じてそれを専業にする者もいた。
旧南郷地区の北東に隣接する大沼郡昭和村では「からむし織」という伝統工芸があり、今でもその後継者が昔ながらの手法により機織を行っている。
この時代の地域産業といえばまず農業が主流だが、林業・酪農・漁撈・養蚕・商業・機織・紡績・木工・酒造・馬産など多岐にわたっていた。
そのため村内には多くの職人も存在した。現在でも僅かではあるがその名残を垣間見ることができる。
夕刻、早乙女踊りが盛大に始まった。
幸い今晩も月夜だ。澄んだ空気が天の川をより美しく、満点の星がより強く輝く。吐く息は白くけむり、提灯の明かりと雪の白さが相まって、一層幻想的な情景を醸した。
ぞろぞろと行列を作り提灯を持った大人が列の前後に付き、何組かに分かれて家々を訪問する。
通常、呑助二名・踊り子四、五名で、その他楽器担当の大人と付添い人が数名いる。太鼓・歌い手・横笛・鉦などで構成され、結構な人数の団体になる。
先に呑助が家に躍り込み、しばらくその家の家族と歓談した頃、いよいよ花笠(踊り子)が入ってくる。
一種のお祭り騒ぎで、各家庭では真冬にもかかわらず玄関を開放し、早乙女踊りの一行やその父兄などに料理、甘酒、日本酒などを振る舞う。
すると酔っ払った村民たちが次々に一行に加わり、最後には数十名の団体に膨れ上がる。
それはそれは賑やかな御一行様なのだ。
一軒目に到着した。
鉦を打ち鳴らしながらガヤガヤと人が近づいてくるのが分かった。歌い手が先に入り、その家の家族と呑助に向かってお囃子を始めた。
「はあー、めでためでたの若松様よー、世も栄えて末ひらくー、明の方から呑助親爺が、お家繁盛と舞い込んだー。あ、それ擂れ、やれ擂れ、旦那の前まで擂り込め擂り込めーーーー!」
その声が合図となり、皆一同に歌い出す。
「あーとーかーら、そーおーとーめー、まーいーこーんだーよー、それっ!」
舞いの括りはこうだ。
「おーいーとーま、もうーさーれ、そーとーめ、たーちー」
すると誰ともなくこう言う。
「あ、めでためでたーーー」
「ありがとうございましたーーー!」
一斉に拍手が起こり幕を閉じ、そして次の家に向かう。全ての家が終わると、全員で民宿などに集まりこれまた盛大な打ち上げが行われる。
普段は無愛想な義兵衛もこのときばかりは皆と語り、笑い、酔っ払い、一緒になって歌を歌ったりもした。
「おう佐源次、お前も来てたか」
「義兵衛、久しぶりだなあ。半年ぶりだよな? 今日の今日、鎌倉から帰って来たんだ。いやあ、日光街道、(會津)西街道、駒止峠越えて……だろ? 疲れるよ。馬引いてさあ、そりゃあ半端ねえ、死ぬよほんと。血豆いくつ潰したことか」
佐源次は義兵衛の幼馴染。良家の出で家業を継いで商人になっている。
「無愛想な義兵衛が今日はご機嫌だな?」
「よせよ、俺だって年に何回かは愛想良くする日もある」
「でも、あれだよな……聞いたんだお袋から、めでたい席にあれなんだけど……。お前、お袋さん、去年突然……」
「ああ、仕方ねえさ、別に気にしてねえって。人はいつか死ぬ、それだけのこと」
「いやあ、あんな元気な人だったのにさ。すごく善くしてもらったし、でも、急にさ……。今度、線香上げに行くから」
「ああ、お袋もきっと喜ぶよ」
二人で話し込んでいると、そこへ五郎太が近づいてきた。
「お、今度は佐源次じゃねえか。おめえ、よく無事に帰って来れたなあ。途中でくたばっちまったんじゃねえかと思ったぜえ。わっはっはっは!」
相変わらず不躾な男だ。脇にいた喜代三郎と壱次がすかさず言う。
「おい五郎太、おめえ義兵衛の前でくたばっただの何だのって言うもんじゃねえぞ!」
だが、義兵衛は無表情でこう言った。
「いや、別にいいよ。喜代兄者も壱兄者も気にしねえで」
しかし、気にした壱次は黙る義兵衛に向かって耳打ちした。
「あとでぎっちり説教しとっから。まあ、今晩は許せ、な」
すると、それを見ていた佐源次が五郎太に向かって厭味を言った。
「あ、どうも! 五郎太さんお久しぶりっす。相変わらずの憎まれ口っすね。だから三十も半ばなのに、未だに独りなんじゃないっすか?」
「な、ちっ、何だと? 佐源次、確かにおめえの親父さんのお蔭で俺は食ってられる。だがな、そりゃおめえの力じゃねえ、源一郎さんの力だ!」
佐源次の父親はこの地域でも豪商で有名ないわゆる名士である。土地も田畑も多数所有して百姓に貸し出し、旅籠も一軒持っていた。
さらには馬もかなり所有していたため、馬借(運輸業)も営んでいた。そのために一方では高利貸なども行い、かなり羽振りが良かった。
五郎太は佐源次にこそ反論できるものの、さすがに田の貸主である源一郎に対しては盾突くことなどできる筈もない。
そこへ、今度は喜代三郎が参戦した。
「五郎太、なんぼなんでもおめえ、その言い種はねえべえ?」
「そうだぞ! 誰のお蔭で食っていられるってんだよ、佐源次に謝れ!」
五郎太はまた不貞腐れていた。口先は尖っていたが渋々と口を開く。
「ああ? お、おう、悪かったな佐源次。お、俺もついカッとなっちまって……。ん、まあ、すまねえ、今はちっとばかし言いすぎた」
「別に気にしないっすよ。だって金持ち喧嘩せずっすもん、へへっ!」
五郎太を嘲笑しながら言う。この佐源次という男、鼻っぱしが強い上に中々口が減らない。
「あ、ただね五郎太さん、俺に謝んなくてもいいっすけど、義兵衛には謝ってよ。俺ら親友だし、ほら、あるっしょ? 数々の失言ってやつ」
「ほら五郎太、どうしたって勝ち目ねえんだから。ここは素直によ、な?」
そっと壱次が諭す。
「あんれえ? 謝んないなら親父に言いつけますよ、いいんすかあ?」
「わ、分かった、分かったよ。謝りゃいいんだろ、謝りゃあ」
先輩方に取り囲まれ、周囲から非難囂々の五郎太はやむなく白旗を振らざるを得なくなった。
五郎太は咳払いを一回したかと思うと、いきなり言った。
「義兵衛……す、すまなかったな。ほんと言うとよ、俺は年下のおめえが羨ましかったんだよ、みんなに頼りにされてよ。仲間からは可愛がられて、腕もいいみてえだしよ。まあ、おめえは山師で俺は百姓だけどよ、なんかこう、上手くいってる奴っつうか何つうか……だから、だからわざと厭味な態度取ったりしてよ……。大人げねえ真似して、ほ、ほんとわりい」
頭を下げる五郎太。
「……いや、もういいよ、五郎兄者」
黙って聞いていた義兵衛だったが、余りに頭を低くする五郎太にお情けをかけたのだった。
「はいはい、そこまで! これで両者互いに恨みっこなし、いいな?」
傍で黙って聞いていた吉次だったがそこで上手く話を括った。
「おや? 吉さん、いつからいたんですかあ?」
びっくりしたように喜代三郎が言った。
「ああ、俺⁉ だって昨日の今日だろう。こりゃ何かしら一悶着あるんじゃねえかってな。でも、まあよかったぜ。殴り合いとか始めんじゃねえかって気になってたんだよ、夕べからな」
「やっぱり吉次さんは優しいっすね。昔っから面倒見いいし……」
佐源次が大先輩の吉次を褒めていた。すると、喜代三郎と壱次が皆に聞こえるような大声でこう伝えた。
「おい、早乙女移動するぞ! せっかくだからほれ、この際お前ら仲良くなれ、な?」
「……ま、これで一件落着だな」
吉次はほっとした様子で義兵衛の肩を叩いた。
五、密かな恋心
久川城下、伊南郷青柳村――
巳代治は一旦実家に戻り、手早く着替えを済ませると山口に向おうとしていた。すでに日はとっぷりと暮れていた。
実家は農家で三男坊の巳代治は、少しでも家計の足しになるようにと河原田の門を叩き兵務を選んだ、いわゆる志願兵だった。
「みい、どこさ行く!」
「あ? いや、山口に。今夜ほら、早乙女だから……」
城からそう遠くないところに実家があったため、事あるごとにちょくちょく帰って来ては家の手伝いをしていた。
ただ、各地から集まった兵の中には当然実家が遠い者も多く、巳代治はまだ幸せな方だった。片や、重次郎は実家が伊北郷布沢村(只見町布沢)だったため、暇を貰ったとしても日帰りで実家に帰ることなどできなかった。
伊南・只見間は距離にして凡そ七里半(約三〇キロ)ほどある。
この時代の一般兵の多くは農民で構成され、普段は農業に従事し、戦が起こると野戦部隊となって参加していた。
ただ、城主盛次は兵農分離を掲げ、二男以降または志願者に対して城兵や専従の足軽などに積極的に起用していたのだ。
勿論、巳代治や重次郎のように専ら兵務に就く者もいたが、本職の兵は全体の割合からすると極めて少ないものだった。
「早乙女? 今晩はどこの村でもやってっぺ。なんで山口さ行かなっきゃなんねえんだ?」
「……いや、ちょっとな」
「それにしたってえ、そっだ(そんな)傾いた(派手な)恰好してかあ、ったく」
「お袋、親父には内緒な」
「誰かいい人でもいんのかあ?」
「ま、まあ、いいから。とにかく行ってきまーーす!」
「あいよ、行ってらっしゃい。気いつけてなあ」
早乙女一行と取り巻きたちは次の家に向かった。
「しっかし、寒いぞなあ」
「天気がいいぶん、空気澄むからな。かえって寒いわけよ」
「うううう、風も寒いわ。まずもって足の指先が痛え」
壱次は凍えそうになっている。
「なあ壱、こりゃ酔いも醒める勢いじゃねえか?」
一行が歩くと雪がざくざくいう、粗目雪だ。
「早く次の家で、酒、酒」
「だよな、やっぱ酒だよなあ、なあ佐源次?」
「全く、喜代さんと壱さんの酒好きには困ったもんだ」
すると吉次がこう言った。
「いいんだよ、今日は無礼講だ。飲むぞ? 義兵衛も五郎太もな」
今年の雪は例年並みの深さである。
皆、深沓を履いているが、思ったほど中に雪が入らない。しばらく歩くとまた家の明かりが見えた。
「はい、着きましたあ!」
「やったあ、酒だ! これでまた温まれるぜ」
家の者が外に出てきて一行を招き入れる。
嫁と姑が手に大きな盆を持って甘酒や日本酒を振舞っている。
「さあさあ、みんな飲んでっておくれ。余したら捨てるだけなんだから」
「みなさん、どうぞ遠慮なく飲んでって下さい」
「はい、みんな飲んで飲んでえ!」
誰かが叫んでいる。
「そうだよう、うちの人が今日のために最高の花泉仕込んだんだからさ。大吟醸だよ!」
伊北郷界には造り酒屋がある。
杜氏は近藤長恵、酒を作らせたらこの老人の右に出るものはいない、と謂わしめるほど天才的且つ芸術的である。
どうやらこの家の主はその者の下で働いているようだ。さすがの佐源次もいてもたってもいられなくなった。
「へえ、大吟醸飲みてえな。なあ、義兵衛」
「おう、いいな。じゃ、一緒に五郎兄者も」
義兵衛はそう言って徳利を突き出した。ずっと黙っていた五郎太だったが、すうっと盃を突き出した。
「わ、わりいな、義兵衛」
そこへ、遅れて巳代治が合流した。
巳代治は佐源次を兄貴として慕っている。歳は十離れていた。
「お前、なに? 今日お務めは?」
「いやあ、その、佐源次さん帰って来たって聞いたし、今日会えるんじゃねえかなって」
「あ、みんな! 俺の弟分でさ、こいつ。巳代治、青柳なんだ。盛次様に仕えてる……」
「いや……ただの足軽です!」
「おお、そうかい。そんじゃあ、謂うところのお武家さんってやつだな?」
手前、吉次が持ち上げる。
「いいのか? 城放っぽり出して、殿様に怒られるぞ」
壱次は寧ろそっちの方が心配らしかった。
「大丈夫っすよ。今日はお暇頂いたんで」
五郎太が新顔に一言言いたがっている。それに気づいた吉次が言った。
「おい五郎太、例によって絡むなよ」
「う、うるせえ」
五郎太の後ろから義兵衛が来た。
「紹介するよ、俺の後輩……」
「あ、どうも初めまして。俺、巳代治って言います」
「こいつな、こう見えて槍の使い手なんだ」
「いや、大した事ないっすけど」
「へえ、じゃあ戦起きたら頼むぞ。みんなを守ってくれよ?」
「はあ、まあ……それにしても義兵衛さん、でかいっすね? 丈、幾らですか?」
「……(五尺)八寸だ」
「は、八寸⁉ うへえ、腕とか胸とかも凄いっすね!」
巳代治は比較的小柄で五尺一寸(約一五五センチ)、佐源次は五尺三寸(約一六一センチ)であった。ちなみに、この時代の成人男性の一般的な身の丈は、五尺二寸(約一五八センチ)である。
「五郎太さん以外はみんな山師だからさ。木、伐り倒して鍛えてんだよ、な?」
「やっぱり皆さん、俺なんかよりいい体してますもんね」
喜代三郎がお得意の茶化しを入れる。
「はっはっは! お武家さんより強そうってか? ちなみにだが、五郎太の腹回りはなあ――」
「あ……ま、まあさ、みんな仲良くしてやってよ」
「ん、そうだな。せっかくだし、まあ、俺ら呑兵衛仲間に一陣の若き薫風吹き込むってのも、いいかもな」
さすがは吉次、上手く纏めた。
その夜も盛大な内に早乙女踊りはお開きとなった。
六、叶わぬ恋を闘争心に
翌日、久川城馬出「足軽長屋」――
「おい、巳代、巳代ってば」
「え?」
「どうだったよ、早乙女。良縁あったか? 夕べ、ずいぶん帰り遅かったし……。かっかっか! 組頭、かなりおかんむりだぞ?」
重次郎は厭味たっぷりな言い方だ。
「もしかして、実はお前も行きたかったとか?」
「ふん、俺は寒空の下で下弦の月をただひたすらに眺めておりました」
「見張れよ、ちゃんと。それが俺たちの役目だろ?」
「この、うつけが! 暇をいいことに夜通し遊び惚ける輩に言われる筋合いなどないわ」
「ああ、そうだ! こうしちゃいられねえ。俺呼ばれてるんだった、朝一番に来いって」
「ほれ見ろ、組頭だろ?」
「違うわ‼」
重次郎は首を傾げた。
「じゃあ誰だよ。まさか……女子?」
「はあ、話してられん。もう行くから」
「おい、巳代……」
巳代治は大急ぎで飛び出していった。
「おいおい、面ぐれえ洗ってから行けよ」
唖然として見つめる重次郎。
二人は同い年ながら重次郎が数か月先輩だった。
志願兵の巳代治とは反対に重次郎は大百姓の出身で、元々の伝手と父親が持つ相当の金子(銭)とを引き換えに息子を河原田軍に入れたという。
当初は親友だった二人。
一見すると仲が良さそうにも見えるのだが、重次郎は巳代治をいつもどことなく見下す節があった。
久川城、修練道場「玄武殿」――
「盛勝、彼の者が来よったぞ」
老臣、馬場安房守平左衛門が盛勝に耳打ちした。
河原田大膳大夫亮盛勝、この河原田軍きっての豪将で知られる薙刀の名手。城主盛次とは源助同様、親戚関係にある。
また、源助が河原田軍本隊を指揮するのに対し、盛勝は遊撃隊を率いる特殊部隊の軍団長である。
その風貌はまるで鐘馗そのものであり、長い髭を蓄え威風堂々という言葉が良く似合う豪傑であった。
「おう、お出でなすったか。噂は聞いておるぞ! 貴様若いのに中々腕が立つらしいな、ん?」
「あ、あのう……軍団長殿、遅れまして申し訳ございません」
「うむ、遅い‼ がはははは! まあよい。して、貴様名は何と申す」
「は、はい! み、巳代治と申します」
迫力ある外見に只々圧倒される巳代治。
「知っておる。がはははははは!」
人をからかっているのだろうか。
その豪快な笑い声と相まってますます不安が募る。すると、いきなり源助が言った。
「巳代治、盛勝殿と一戦交えてみよ」
源助は巳代治に無理やり槍を手渡した。
「は? ええっ⁉」
「何じゃ? わしでは不足と申すか!」
「あ、い、いえ……」
「そうじゃろう、そうじゃろう。ならば、一つお手合わせ願うぞ! わしの首を取る覚悟で来い‼ さあよいか、いざ、相まみえん!」
手に持った大薙刀を構える盛勝、その構えは下段の構えだ。
巳代治の不安は見事に的中してしまった。残念ながら、まだ半ば頭の中は眠っている。
寝腫れた目を擦りながら修練場に来たはいいが、まさか朝っぱらから鐘馗様と戦うことになろうとは。
「巳代治、何をしておる! 早う槍を構えよ。さもなくば、こちらからいくぞ!」
仕方なく渋々と槍を構えた。
徐々に間合いを詰めながら右回りに円を描く二人。
「そおうりゃ‼」
掛け声と共に一歩踏み出した盛勝。
巳代治の足元めがけて大薙刀がその足を掬おうと地を這うようにすうっと迫ってきた。見かけによらず流麗な動きを見せる盛勝。
巳代治はぎりぎりまで踏ん張り盛勝の動きを見切ろうとした。
「もらったあ!」
盛勝が叫んだその瞬間、巳代治は右足を高く上げ刃を避けると、上体を仰け反らせ槍を左肩越しから後ろの床に突き刺した。
そして、撓った槍の反動を用いて後方に宙返りした。
「なにいいい⁉」
驚愕する盛勝と源助。
着地した巳代治は突き刺さった槍をもう一度手に取り上段に構えた。
「がはははは! その身のこなし! そう来なくてはな。ならば、もう一度いくぞ!」
巳代治は小柄な体格に加えてとても身軽だった。幾度となく刃が交わる音がする。
「……はあ、やはり源助の言った通り、その槍使いは天眞正傳香取神道流。巳代治、貴様どこでそれを会得した」
双方息が上がっていた。
一方、本丸御殿では盛次が伊北郷下山村(南会津町南郷地区下山)から馬場福重を、山口村村上(上山口)から目黒源一郎を呼びつけ、何やら話しをしていた。
「……ほう、それで」
「はい、何でも甚八が言うには――」
「なるほど、それならば伊達の鉄砲隊に匹敵するやも。こちらの兵力は余りにも足りませんからな」
ところで、先述したように目黒源一郎は交易商で名を馳せる村の実力者。
所謂豪商の類で義兵衛の幼馴染佐源次の父だが、但しこの男にはもう一つ裏の顔があった。それは無論、公にはしていないのだが実は盛次率いる河原田軍の武器調達を一挙に引受けていた。
源一郎は布包から油紙で幾重にも巻かれたそれを取り出して盛次に見せた。
「ほう、例の新式の短身火縄筒(銃)というのがこれか?」
「はい、左様でございます」
それは従来型の火縄銃を改良した銃身が非常に短い小型の鉄砲であった。しかも、その銃に更なる独自の改造を施していた。
銃身を二連式とし、火挟みも二か所に設けた二連発式の短筒(拳銃)である。その外見は現代で謂うソードオフ(短銃身)の水平二連散弾銃によく似ている。
併せて単発式の短筒も十数挺、盛次へ納めた。
「ほほう、これは」
腕組みした福重が頷きながら、それをまじまじと見つめている。
尚も源一郎は続ける。
「盛次様、恐らくもう直にこの戦乱の世も終焉を迎えましょう」
「太閤様か」
「はい、あのお方が必ずや天下を制するでしょう。そうなれば、もはや無闇やたらと戦などを起こすなど。尤も、すでに惣無事令が――」
「うむ、であろうな……して?」
「ところで、昨今の甲冑の厚みと強度をご存知でいらっしゃるでしょう?」
「福重、お前に分かるか?」
まるで福重を試すかのような盛次。
「ええ、以前とは比べものにならないほど薄く軽くなっております」
「うむ、確かにそうだな。つまりこの筒でも十分に通用すると踏んだわけだ、で?」
「はい、さらにはこの大きさならば戦場に運び込むも容易なだけではなく懐に忍ばせて常備できまする故」
「なるほどな、実に賢明だ。しかし、ただ一つ――」
「何でございましょう?」
「飛び道具にしては、些か……。これでは従来のものより弾は飛ばんのじゃないか?」
「いえいえ、この火縄筒の持つ最大の強みは――」
源一郎が得意満面に説明を始めようとすると、そこに福重が割って入った。
「いや、ちょっとお待ち下さい。想定するに、それは馬上での接近戦。戦法としては従来式の火縄筒で後方から掩護、そして近接戦闘でこれを使う、ということでありましょう。なるほど、確かにそれならば騎馬の機動力も存分に生かせまするな」
「その通りだ、福重」
源一郎は福重が付け加えたその話に大きく頷いて言った。
「殿、それにしても、あれですな。何やら外が騒がしいですが」
実は、福重は話している間も外から聞こえる大声が気になっていた。確かに、先ほどから掛け声やら気勢を張る声が聞こえる。それは北の丸の方からだった。
「ん? ああ、稽古でもしておるんだろう」
福重は尚も盛次に訊いた。
「この寒空に、ですか。それにしてもやたらと……」
「寒稽古……いや、というよりは、実はある男の実力を試しておる。兵の中に少しばかり気になる者がおってな。今、平左衛門・源助・盛勝の三名がその者の相手をしておるのだ」
久川城、修練道場「玄武殿」――
「うむ、噂どおり中々の腕! 参った‼」
盛勝の喉元には穂先が突きつけられている。
「その身のこなし、素早さ、技の切れ、申し分ない‼」
「あ、ありがとうございます!」
さらに源助が巳代治に言う。
「見事だ巳代治、お前を一足軽にしておくのは勿体無い。なあ盛勝殿、お主もそう思うだろう」
「ううむ、そうじゃな。さらに特筆すべきは、貴様は己が持つ槍術に自らの体術を組み入れておるところ。しかし……この、わしに降参させた男が過去におったかのう。実、天晴れじゃ‼ がっはっはっはっは! よーし、今日の事は御館様にも伝えておく!」
この年の二月二日、伊達政宗は秀吉の惣無事令を無視し、予てから内紛状態にあった大崎氏に対し、浜田景隆を陣代に据え中新田城(宮城県加美町)に攻め入っている。
大崎義隆、最上義光率いる連合軍と伊達軍との攻防は凡そ三月ほどで、その間、籠城戦や証人(人質)などの交渉を経て七月には和睦が成立した。
この和平交渉には五月に政宗の母義姫(最上義光の妹)が仲介に入っている。
当時、政宗は浜田景隆の他、留守政景、泉田重光らを派兵している。
所謂「大崎合戦」だが、事の起こりは大崎義隆の寵童同士の争いから発展したお家騒動と云われている。
諸説あるが、大崎氏重臣であった氏家吉継を政宗が煽動し、その騒動鎮圧を名目にした伊達氏の介入とみられている。
この和平交渉において、政宗の母義姫が和睦の交渉をしただけでなく、同時に義姫の実兄である最上義光も妹義姫に和解の提案をしていたようである。
恐らく、書状を持った家臣らが頻繁に往来していただろうことは想像に難くない。また氏家吉継、黒川晴氏の赦免についても義姫は一役買っていたようだ。
七、山師たち
四月――
ここ南会津に遅ればせながら春が訪れた。
大分雪は残っているが、それでも雪虫が軒先に溜まった硬雪の上を這っては一軒一軒春を知らせて飛んでいく。
ようやく雪も融け、その雪融け水で水かさが増した伊南川が怒濤の流れを生む。しかし、その水面は眩しいほどに光を反射していてきらきらと美しい。
まだ山々には茶色い枯れ木がちらほら見えたが、時折郭公の鳴き声が遠山にこだまする。その山々から聞こえるカコーン、カコーン! という軽快な音。
山師たちは必死で作業に打ち込んでいた。
「おい義兵衛、そこ、その枝、それちっと掃ってくれ。あと、その蔦も伐ってくれ」
二人一組で行う伐木作業。
義兵衛と組んでいるのは吉次だ。中堅格では仕事に定評のある吉次、義兵衛より九つ年上である。
仕事に関しては特に慎重で、徹底して安全第一を期す危険回避主義である。
通常、組が入れ替わることはないため、一度組が固定されればそうそう変ることはない。近くではもう何組かの山師たちがそれぞれ作業していた。
「んじゃ、それ玉切りしてくれっか。蔦漆に気をつけろよ、負けたらひでえぞ」
「大丈夫です。漆には慣れてますから」
吉次は的確に指示を与えていく。
まだまだ斜面には雪が多く足場が悪いが、予めつけておいた道形(轍)をソリで滑り落とすにはかえって都合がいい。
「じゃあ、縄掛けるぞ! 解けねえようにしっかりと結わえろよ!」
「吉兄者、積んでいいかよ?」
「おおいいぞ、やれえ!」
義兵衛は玉切りされた木を手際よくソリに積んでいく。そして、ソリの舵に使う適当な太さの湾曲した丸太を最後にきつく結びつけて完成した。
そのソリの板の先端に立ったまま跨り、舵を掴むと一気に雪上を滑り下りて行った。
このようにして次々と麓に落としていき、最終的には伊南川まで運ぶ。
そして、さらに筏師が筏に組んで新潟県まで流し送った。もしくは、元山(建築士)からの注文で地元の建築資材に使われるのだ。
伊南川は南北に長い南会津町南郷地区のほぼ中央を流れる阿賀野川水系の河川で、その源流は栃木県・群馬県との県境にかかる帝釈山系の連山である。
さらに伊南川は只見川となり、新潟県で阿賀野川と名を変える。そして終には、日本海へと注ぐことになる。
「義兵衛、そろそろ昼だべ。はあ(もう)、あれだ……昼飯にでもするべえ?」
なるべく平らな場所を探してそこに茣蓙を敷く。
吉次はさっそく愛妻弁当を広げた。一方、義兵衛はというと、自分で握った無骨な握り飯一つとそこにたくあんが三切れついているだけだった。
笹の葉に包んだその握り飯を思いっきり頬張り、水筒の水で無理やり流し込む義兵衛。
吉次の弁当には岩魚の燻製やら山菜やら茸やらがふんだんに使われている。余りに貧疎な昼飯を食う義兵衛に吉次は見ていられなくなった。
「おい、義兵衛」
「あ、何や?」
「にっしゃ(おまえ)、そんなずねえ(大きい)図体して、そんじぇ(それで)は足りめえ。これ、くれっから(あげるから)」
吉次は岩魚の燻製を箸で摘まむと無造作に笹っ葉の上に放った。
「いや、いんねえよ……。悪いから、しねえでけやれ(しないでください)」
「ん? いいから食え。にっしゃ(おまえ)、毎日頑張ってんだから。午後もたんまり仕事あんぞ!」
「でも……」
「気にすっことねえから、早く食え」
「……ごっつぉでやす(ごちそうさまです)」
「礼なんかいんねえ。だったら初めっから遠慮すんじゃねえ!」
その頃、別の一組は峪を越えた沢伝いにいた。斜面に鴫と喜代三郎がいる。
「おーい喜代、こっち押さえててくんねか?」
「あいよ、鴫さん。やっちゃっていいぞ!」
斧を振るう者、補助する者が各々協力し合い手際よく次々と伐採していく。互いの呼吸が合っていなければ命に係わる危険な仕事だ。
基本的には老練と新入り、中堅と若手など作業効率や技能の均衡を考えた組になっている。ただ、たまに仲間の突然の都合によって、組み合わせが上手くいかないこともあった。
「おい、喜代。今日あれだろ? 弥平んとこ」
「ああ、分かってるよ。新入り調子悪くて寝込んでんだよねえ、確か。相方が清一郎じゃなあ……」
「ん、こっちは粗方ケリついたしな。俺はあと独りでも大丈夫だ」
「ああ、じゃ俺行ってくっから。でも鴫さん腰悪いんだから無理すんなよ」
「ばっかやろう、何十年この仕事やってると思ってんだ!」
「そりゃすんません、師匠。おお⁉ おっとっと、この辺り蕗の(の)薹生えてますよ! 踏んづけそうになったよ、あぶねえあぶねえ」
鴫が近づいてきた。
「お、蕗味噌にして……こりゃあ、今晩一杯飲めるな。ふむ、ところでしかし、そういう時にばっかりだな、師匠呼ばわりされるのは」
「え? あ、そんじゃ早めに仕上げてと……。蕗の薹採っといてくださいね。じゃ、たのんまーす(頼みます)!」
確かに、鴫は喜代三郎の師匠である。
ちなみに、この山師たちの頭領でこの道四十年の老練者がいる。名は弥平といい、鴫は謂わば副頭領である。
弥平の方が若干年上だが、鴫もまたこの道三十数年になる古参で二人とも腕は一流だった。一番の山師と謳われているのはやはり弥平なのだが、この鴫も負けず劣らず技術は確かである。
元山から頼まれる仕事もしばしばあったが主に越後方面へ売るための仕事が多かった。ところで、鴫は伐倒の技術こそ弥平に及ばないものの、後継者の指導育成や仕事の段取りにおいては定評があり、弥平のそれを上回っていた。
また人情味もあり、後輩への気配りも怠らなかったため、仲間内にとても信頼されていた。
「んじゃ、ちと出張ってきます」
喜代三郎は林の奥に消えていった。
午後の伐り出しもひと通り終わり、夕刻、吉次と義兵衛の二人は仲間たちより一足早く休憩していた。
遠くから二人を呼ぶ声がする。
「おーい、吉、義兵衛、終わったかあ?」
「お、鴫さん呼んでるな。あーい、なじょうかしゃったかや(どうかしましたか)?」
「あっち、行ってみっかや?」
「んだな、直そこだし行ってみっぺえ」
山師は二人一組で行動することが多いため滅多に離れることはない。
「鴫さん何や、何かあったかや?」
吉次が聞いた。
「別になじょうもしてねえ(どうもしてない)。見れば分かるべえ」
ぶっきら棒に答える鴫の声は辛そうだった。弥平と一緒にソリに材木を括り、必死に斜面を引き摺り下ろそうとしている。
「あのう、俺、何か手伝うことありますか?」
惚けたことを言っているのは一年坊の清一郎。
弥平と組んでいろいろと勉強中の見習い山師一号。晴れて先輩に格上げになった清一郎だったが、新入りがずる休みばかりで一向に先輩風が吹かせないでいた。
見るに見かねた義兵衛が言った。
「じゃあ、俺引きますから」
どうやら勾配が緩すぎて、その上膝までの雪が邪魔して思うようにソリが引けないらしい。
「……だよな、やっぱ怪力といやあ、にし(おまえ)しかいめえ(しかいないだろ)」
義兵衛はソリの脇に立ち、材木に勢いよく鳶口を刺すと力いっぱいに引いた。山ほど積んだソリだったが、義兵衛一人の力でずるずると動き出した。
「義兵衛さんやっぱ馬鹿力っすねえ」
清一郎はまるきり空気が読めないようだ。そんな清一郎を鴫がどやす。
「ばーか‼ ただ突っ立ってねえで、にし(おまえ)も押すなり何なりしてちっとは手え貸せ!」
「……あ、はい!」
結局、清一郎が手を貸す間もなく義兵衛が急な場所まで引いていった。ソリに乗ると斜面を一気に滑り降りて行った。
「おお、さっすが義兵衛!」
そう言って近づいてきたのは喜代三郎と壱次だ。吉次が喜代三郎を突っつく。
「喜代、今日はずいぶんかかったじゃねえか」
「いやあ、ちっと手こずっちまったわ」
弥平がのっそりと言う。
「おお喜代、壱、もう片付いたぞお」
「この爺さん何言ってるか。義兵衛が引っ張ってったんだろうが!」
まるで自分の手柄のように言う弥平に対して鴫は半ば呆れ顔だ。
「ん? ま、そうだがや」
そこへ、ひと仕事終えた義兵衛が戻ってきた。
「あい、ありがとよ」
すると、鴫が思い出したように手を打って言った。
「そうだ! 今晩は恒例のあれだな。庄屋様んとこで、な? 弥平」
「ん? おお、そうだったそうだった。みんな出れるな?」
そこで待ってましたと言わんばかり、威勢のいい喜代三郎の第一声。
「うおーい! 飲み方とくりゃあ、これはやっぱ出るしかねえべ、な?」
壱次が調子よくそれに便乗する。
「んだな、仕事のあとの一杯。これが堪んねえんだよなあ」
「あ、俺は……ちょっと」
「何だ義兵衛、にし(おまえ)も出ろや。まさか、今さら俺酒飲めません、なーんて言わねえよな?」
喜代三郎はからかっていたが、吉次は心配している様子だ。
「何かあんのか?」
「いや――」
壱次が割って入った。
「仕事熱心もいいけどよ。おめえ、人付き合いも大事なんだぞ」
確かに、壱次が言う事にも一理ある。
義兵衛は黙々と仕事をこなし、その寡黙さと伐倒の勘、それに加えた腕力で仲間からは絶大な信頼を得ていた。
だが、その一方で風体や愛想の悪さから他人によく思われず、しかもどこか翳がある暗い印象を受けた。
その夜、中山口庄屋、山口定義宅――
「おお、きゃったきゃった(きたきた)」
「きゃったなあ、三池屋の御曹司めが」
颯爽と現れたのは佐源次だ。
「今日はあれか? あの別嬪アキちゃんは来ねえのかい?」
酔っ払いの誰かが言う。
アキとは佐源次の妹のことだ。若くて美人で豪商の次女とくれば、独身でなくとも男性陣は皆食いつく。
「え? 来ねえよ。こんなおやじ連中ばっかのとこ」
「お、おやじだとお?」
「あ、そうだ! 義兵衛は?」
「ぎへえ?」
「おお、義兵衛ならそっちにいるぞ」
佐源次に気づいた吉次が言った。
「吉さん今晩は」
「おう源、先にやってたぞ」
義兵衛は大広間の隅っこで独り酒を飲んでいた。
「おーい義兵衛、源来たぞ!」
「義兵衛、久しぶり」
「……ああ」
「ぼーっとしやがって、全くよお! しっかしまあ、にっしゃ(おまえ)、相変わらずパッとしねえ男だな、おい」
酔っ払いの誰かが放った一言。酒が回り、いつもの如く皆言いたい放題である。
先輩職人として吉次はよく義兵衛の面倒をみていた。
義兵衛は拾った猫三匹と暮らしている。姉が二人いるが、長女のトミは荒島村(南会津郡只見町)の大農家に、次女のフミは安達太良山麓の安達郡岳下村(二本松市)の大工方にそれぞれ嫁いでいた。
そのためトミはよく義兵衛にこっそりと米を分けていた。義兵衛にとって、トミから貰い受ける米は姉の優しさそのものだった。
ところで、父親は十年前に他界している。それは天正六(一五七八)年の出来事だった――。
會津蘆名第一六代当主、盛氏は戦を非常に好んだと云う。
特に仙道(中通り)方面へ出征し、伊達氏・田村氏・二階堂氏・結城氏や継嗣問題の発端となった佐竹氏などと度々衝突していた。
そのため、領民は年貢の取り立てと出兵に苦しみ続け、領内では不満の声に喘ぐ者が大勢いた。
耶麻郡野沢村(耶麻郡西会津町)大槻城城主、大槻太郎左衛門政通が当主盛氏から「不風俗」のため蟄居の沙汰を受けた。
それを不服とした政通は娘婿の西方(大沼郡三島町)鴫ヶ城城主、山内右近重勝らと共に謀反を企て反乱を起こした。
当時、只見川沿いの一帯を治めていた横田山内一族(山内七騎党)と婚姻関係にある伊南河原田が政通に加勢した。
しかし、奮戦虚しく敗戦し、同年二月十五日に山内重勝は自害。反乱の長であった大槻政通は十七日に討たれ、只見川上流に構えた山内一族は戦況不利とみて戦うことなく乱の鎮定をみた( [南郷村史編さん委員会, 南郷村史第一巻通史, 昭和六十二]参照)。
そんな折、父巌兵衛が生活のため出稼ぎを余儀なくされた。
その当時、山仕事の人手不足に悩んでいた野尻村(大沼郡昭和村)に知人の伝手で出向くことになったのだが「政通の反乱」の巻き添えに遭い、農兵として無理やり出兵することになってしまった。
戦死の知らせが届いたのは乱の鎮定後、一月も経ってのことだった。
その二月前に義兵衛は成人を向かえ、成人の儀「褌祝」が執り行なわれたその日には巌兵衛が晴れ姿を一目見ようと帰ってきた。
義兵衛には屈強な父が少し痩せたようにも見えたが、威勢のいい父はとても元気そうで、何より息子の晴れ姿を喜んだ。
義兵衛はあの厳格で笑顔さえ見せなかった父の初めての笑顔を今でも忘れることができないでいた。
――ふと、そんな事を思い出していたのだ。
「おい、義兵衛、おい!」
「あ? おお、佐源次。久しぶりだな」
「お前、なにぼーっとしてんだよ。飲んでるか?」
「……ああ。帰ってきてたんだな、いつだ?」
「今日、今さっき。いやあ、さすがに疲れたわ」
佐源次は今日関東から帰って来たばかりだ。「三池屋」は有名な商家、この地方ならずとも名が通っている。
主は父目黒源一郎、佐源次で四代目になる。
初代源太郎から反物の行商で始まった三池屋は二代目源右衛門で交易などにも手を広げ、現在の三代目源一郎はさらにその類稀な商才で貿易仲介・旅館業・貸金業、また馬借等も行い次々に事業を拡大させた。
遂には、裏で武器商人としての顔も持つようになり、商人頭として「座」を我がものにするほどの貪欲な実業家になっていった。
その主な顧客となったのは伊南河原田とその配下、伊北郷和泉田村河原崎城城将、五十嵐和泉守道正である。
そうなれば当然、何かと後ろ盾を得ていただろう。
幅広く事業を展開していた源一郎は、佐源次と共にしょっちゅう関東方面に馬を引いて出かけていた。
また、その商圏は関東だけに留まらず、近畿地方やはたまた遠く九州は長崎に及ぶまで足を延ばすこともしばしばあり、その精力的な営業活動には目を見張るものがあった。
さらには大阪や長崎の商人とも通じ、南蛮舶来品などを買い集め、財力・権力共に持ち合わせ栄華を極める伊南伊北郷の実力者に上り詰めた。
こうして、いつしか各地の貿易商の中でも一目置かれる存在となった。
事実、当時南会津地域には各地から交易商や行商が出入りし、この地に住み着いては馬産や織物などの仲介をする商人が数多く存在していた。
先見があった源一郎は、常に商材を探し回り、出かけた先では片手間に各武将の勢力や動向も探りつつ各地の情勢を網羅していった。
そのためか早々と伊達氏の會津侵攻を察知していたようだ。
何せ金になると見るや何でも構わず手を出し、新手の手法で三池屋の名を世の武将たちに一気に知らしめた。
幼少期から初代源太郎によって商いの秘訣や要領を徹底的に叩き込まれた源一郎。
そんな父を、息子の佐源次はあまり善く思っていなかった。
「毎回だよ。日光街道から(会津)西街道、駒止峠、もうそこしかねえのかって言いたい。正直言って、もううんざりなんだよ」
「今度は一月ぐらいだったか?」
「うん? まあな、短期って言えば短期だったけど、血豆も慣れると……。まあ、お蔭でさ、ほら見てみろよこの足。ほんといい迷惑だよ」
佐源次の足の裏は、あまりに多くの血豆が潰れすぎたため皮膚が硬化してしまい胼胝になっていた。
「うわ、そりゃひでえな!」
周りは何やかんやと騒々しい。酔っ払いが大声で歌い踊り、仕舞いには喧嘩を始める者もいる始末。
「おお、にっしゃらあ(おまえたち)、なに湿気た面して飲んどる」
二人に声を掛けてきたのは定義だった。
「こんばんは、いつもお世話になってます」
「庄屋様、今夜もお呼ばれして(さそわれて)来ました」
畏まった二人に定義は言った。
「まあまあ、今晩は無礼講」
「いやあ、そういうわけには」
「義兵衛、せっかく庄屋様が無礼講って言うんだからさ」
「そうや(そのとおり)、佐源次。ところで、源一郎さんには逆にこっちがいつもお世話になっとるからな」
「いやあ、やめて下さいよ」
「それに巌兵衛とは幼馴染だったしな。なあ、義兵衛」
「そうですね」
「まあ、にっしゃら(おまえたち)は二人とも俺にとっちゃ甥っ子みたいなもんだ。今夜は、うん(・・)と飲めよ」
「ありがとうございます。ごっつぉ(ごちそう)になります」
こうしてたまに定義は村人を呼んでは酒を飲んで親睦を深め、人付き合いを大事にしていた。とくに義兵衛と佐源次とは、その父親との深い繋がりがあったため二人にとても善くしていた。
八、出世株
五月上旬、久川城「本丸御殿」――
「いいか巳代治、貴様には足軽隊の一つを預けることにした!」
盛勝が乱暴な口調で伝えた。巳代治の目の前には城主盛次が座っている。
「はっ⁉ お、俺に?」
「いきなりのことでさぞ驚いただろう。お前を呼びつけたのは他でもない」
盛次は胡坐をかき脇息にもたれ、ゆっくりとした口調で言った。
「あ、はい、ですが……と、殿」
「何だ、申してみよ」
「い、いえ、その……」
「何じゃ、殿に異見か。ふむ、お前中々見所のあるやつ。此度は貴様の舌先のお手並み拝見というところだ」
源助が薄ら笑いを浮かべて言った後に続き、盛次が巳代治にこう訊いた。
「ところで巳代治とやら、お前一風変わった槍術を身につけているというが……」
「あ、はあ……」
「確か、香取神道流……だったな、なるほど。それだけの槍の名手とあらば我が軍には欠かせぬ戦力となろう」
そこでまた源助が言った。
「巳代治、殿もお前の若い力に期待している。では、頼むぞ」
「貴様、その歳で番頭に大抜擢じゃ‼ 馬術もわしが教えてやろう。がっはっはっはっは! もっとも欲を言えばのう、わしの軍団に入れたいところじゃったが、まあ仕方あるまい。頼んだぞ、若造!」
巳代治は傲慢な盛勝に只々狼狽えている。
「足軽一番隊、これがお前が仕切る軍団だ。少しばかり変わり者もいるが、上手く統率してみよ――」
「は、はい、この巳代治、大変光栄にございます(引き受けたはいいがどうしようか……。ほんとに俺にできるのか)」
源助と盛勝の半ば強引な推薦によって、一足軽から組頭を飛び越えて番頭へ昇進となった巳代治。
これからは馬に跨り配下の足軽たちを率いねばならない。
河原田の軍編制(備)は、城主盛次の直属で馬廻衆を兼務する近臣佐藤源助率いる広目天本軍(河原田本隊)、大膳亮盛勝率いる別動隊持国天軍の二大隊を柱としている。
巳代治が番頭を務める足軽軍団一番隊は本隊に属していた。
河原田麾下として一番大きな支城を任されていたのが伊北郷和泉田村(旧南郷地区和泉田)河原崎城の城将、五十嵐和泉守道正である。
久川本城の支城・枝城として小沼・濱野・小塩・青柳館、木伏城・伊南郷大橋村(同大橋)の大橋城(城将、大塚織部正)・大新田城(同大新田、城将、酒井周防守)があり、さらに山口館(領主、山口右京大夫・同左馬介)・鴇ノ(の)巣城・宮床館・伊北郷下山城(城将、目黒河内介小三郎重国)・駒止砦・狼煙台など無数に存在していた。
そして、五十嵐道正の側近二名、富沢藤助と江川兵庫率いる軍団をそれぞれ多聞天(毘沙門天)軍・増長天軍と称した。
仏教を守護する四天王を各軍団にあしらい、領地の四方全てを守護するという意味合いを持たせた。さらに、幟旗には各四天王が描かれ、四天王を統括する軍大将に河原田譜代の宿老、馬場安房守平左衛門を据え、その旗には帝釈天が描かれていた。
また、久川城本城が伊南郷を、その支城河原崎城が伊北郷を守る体制をとっていた。なお、河原崎城は久川城から北上すること凡そ四里(約一六キロ)離れており、北東端から南西端の位置に配されている。
黒川城(會津若松城)――
第十八代当主、蘆名盛隆の子亀若丸(亀王丸)が十九代当主に就くも、天正十三(一五八五)年に疱瘡にかかり僅か三歳で夭逝する。
そのため天正十五(一五八七)年、佐竹義重の次男義広が養子となり、蘆名家第二十代当主となった( [南郷村史編さん委員会, 南郷村史第一巻通史, 昭和六十二]参照)。
「殿、義重様より――」
義広が本丸の茶室麟閣で茶の湯の手ほどきを受けているとき家臣が入ってきた。
「待て! 殿は今――」
側用人が家臣を止めたが義広はその者を通すように言った。
「何じゃ、騒々しいのう」
家臣が答える。
「は、申し訳ございませぬ。たった今、義重様からの伝令が」
義広は護衛を連れ、家臣とともに城内に戻った。そこには書状を携えた伝令がいた。
「急用なれば早う申せ! 見て分からぬのか、余は茶の湯に興じておるのじゃ」
「はは、申し上げます。御父上様から、これを殿にと」
伝令の男は書状を手渡した。そこには伊達が目論む會津侵攻が目前に迫っていると記されていた。
この難局を脱するには佐竹・二階堂・蘆名連合軍を結成し、何としても伊達を追い払う必要がある、との内容だった。
「なるほど、そういうわけですか」
護衛が間に入り伝令と何やら話をしている。
「殿、いかがなさいましょう?」
「……ん、なれば仕方あるまい。その通りにしようではないか。父上に余は承知したと伝えよ」
「はは、畏まりました」
超巨大勢力になりつつある伊達。その勢力に打ち勝つには佐竹の応援が必要不可欠の絶対条件だった。
当時、蘆名氏一門・宿老・旧臣・伊達氏の一派・長沼・山内・河原田など客分らも二派に分かれ、蘆名の養子候補について口を挟んでいる。
政宗の弟、小次郎(幼名、竺丸)を推したのは猪苗代弾正盛国、富田右近将監隆実ら富田一族と平田一族、そして南会津東部(南会津町田島地区及び下郷町)を統治していた南山長沼弥七郎盛秀。
また、佐竹義広を推したのが「蘆名の執権」といわれた同族、越後津川城主金上遠江守盛備らとその一族と云われる( [南郷村史編さん委員会, 南郷村史第一巻通史, 昭和六十二]参照)。
九、猛将の画策
六月――
政宗は仙道安積郡において佐竹・蘆名の連合軍との戦「郡山合戦」を得意の裏工作で見事に膠着させ、取り敢えず方々の動きをその左目で窺おうとした。
十八歳で当主となった藤次郎政宗。幼名は梵天丸、五歳の頃天然痘(疱瘡)を患い、右目を失明したのは有名な話である。
一説には、母君である義姫(最上御前)には相当疎まれ、その義姫は次男の小次郎政道(竺丸)を溺愛していたと云われている。
しかし、その政宗は生涯母を慕っていたように思える。そして、母義姫もまた息子政宗を愛していたように思えてならない。
親子愛の灯は決して消えてはいなかったと信じたい。
なぜなら、「大崎合戦」では母義姫が和睦の仲介を率先して行い、五年後の文禄二(一五九三)年、秀吉の「朝鮮出兵」では従軍していた政宗に手紙を送り、それに感激した政宗は義姫に土産を持ち帰ろうと朝鮮木綿を探し、手紙を返したと云われている。
愛情の欠落から、子が親へ「本当は愛されたい」と願う気持ち。
生まれつき肌も色白で虚弱に見え、その上右目も失い、自らの容姿に劣等感を抱いていた幼少の梵天丸は 人目を憚るようになり、次第に内向的になっていく。
幼い政宗の心は酷く傷ついていたに違いない。その経験があったからこそ、より感受性が強く、繊細になった筈である。
幼少期に培われたそれと、乳母片倉喜多と岩城の儒学者相田康安、いずれ宛がわれる資福寺住職虎哉宗乙と傅役片倉小十郎景綱という四人が、智に秀でた政宗を創り出したと言っても過言ではあるまい。
五歳の頃の有名な逸話として、置賜郡長井庄(山形県高畠町)にあった慈雲山資福寺の不動明王を拝観した梵天丸は「不動明王は仏でありながら、なぜこのような忿怒の相をしているのか」と問うた。
そこで虎哉宗乙は「世間には善も悪もおります。悪を調伏するため、このようなお顔をしておられるのです。しかしながら、不動明王は外は剛でありますが、内に慈悲の心を秘めた仏なのであります」と返答した。
すると「人の上に立つ者は斯くあるべき。梵天丸も、斯くありたい(そうありたい)」と答えた、と云う遣り取りの一部始終である。
ときに慈悲の心が深ければ深いほど、その振り幅も大きく同時に無慈悲の心も宿る。
愛情の裏返しだったのか、異常なまでの反骨精神が宿った政宗の心。いつか見返してやる、納得させてやる、という意気込みからか多少の焦りはあっただろう。
当時、すでに九州征伐を終えた豊臣秀吉。
大阪城を築き関白の地位を授かり、さらに様々な策を巡らせて全国統一を図ろうとするその途上だった。
それは政宗にとって脅威でしかない。
秀吉を出し抜くには仙道安積郡山を押さえ、須賀川二階堂、そして白河結城を越え、遠く常陸に座する名家佐竹を潰さねばならない。
その佐竹から出た「會津を治める蘆名」も奥州大名の一人。
それら諸将を平らげ何としても勢力を広げねば、いずれ秀吉を駆逐し自らが天下を統一することなど夢物語に終わってしまうのだ。
伊南郷山口村――
山々は新緑が映え、小川のせせらぎも軽快で空気も清々しい。
梅雨時期だがたまに晴れ間が見えると仕事も捗った。ただ、いつ雨が降ってもいいように笠と蓑は必需品となる。
とくに百姓は五月、六月と農繁期になる。田畑を耕作し水を通して田植えの事前準備に取りかからなければならない。
五郎太とその一家は田植えの準備で忙しかった。親戚や隣組の八治郎らと一緒にせっせと田を耕していた。
「おーい、五郎太。そろそろ飯にでもすっぺや!」
源一郎から借りている水田は然程広くはなく三反ほどだったが、親子三人が食っていくのには十分な量で無論余った分は親戚や隣近所に配っていた。
あの日以来、義兵衛との揉め事は一切なくなり、改心したように仕事にも精を出した。村の仲間たちからもしょっちゅう酒の誘いがあり、皆とても仲良くしてくれていた。
すると、遠くの畦道から喜代三郎と壱次が声をかけてきた。
「お、五郎太やってんな?」
「そんなに張り切んなよ。仕事もいいけどよお、早く嫁探しでもしろーー!」
「うるせえ‼ 大体おめえら山はどうしたんだよ! それに今それどころじゃ――」
「おい、足元気つけろよ!」
田から畦道に上がろうとした五郎太は敷いてある道板で滑って豪快に転び、全身泥だらけになった。
「ひゃっはっはっは! 予想通りの展開だ」
周りが一斉に大爆笑し、誰もそれを助けない。
「だから見ろ! 今、それどころじゃねえって言っただろうが‼」
泥と戯れながら、精一杯の負け惜しみを言う五郎太。
「誰も助けに来やしねえ。にっしゃらあ(おまえら)は薄情者か!」
「いつまでもそこで怒鳴ってろ、阿呆! 俺たちゃ今日は半日で片付けたんだよ、ここだここ!」
喜代三郎は自慢げに自分の腕を叩いた。すると、壱次が思い出したように言った。
「あ! そうだ、今夜」
「おーい、聞こえてるかあ?」
五郎太はますますもがいている。
「よく聞こえねえ!」
「今夜なあ、義兵衛の家で一杯やるんだ。だからおめえも絶対来いよーー!」
「んじゃあな!」
二人は去っていった。ようやく八治郎が起こしに来た。
「……ったく、遅えんだよ! 散々だったぜ、全くよお‼」
泥だらけの顔を見た一同がまた大笑いした。
「ちっ! ちきしょう、笑うな‼」
山口村下山口町屋沢、義兵衛宅――
その夜、村の若衆たちが集まった。
十五、六人ほどで、仏壇に線香を上げたり手を合わせたりしていた。その人数では若干狭かったが、辛うじて座ることはできた。
義兵衛の飼い猫三匹がびっくりして隠れている。
仲間たちは皆食べ物を持ち寄って肴にしていた。ガヤガヤと騒々しい。
民謡を歌っている者、泥鰌掬いをやっている者、土間で裸踊りをしている者までいる有様で、毎度のことだがすでに手が付けられない状態だった。
誰かが酔った勢いで義兵衛をからかった。
「義兵衛、おめえ猫飼って喜んでる歳でもあるめえ」
「早く嫁探しでもしろ」
口々に勝手なことを言う。すると佐源次が遅れて来た。
「遅えぞ、この、四代目!」
「よ、御出なすった、天下の豪商は三池屋の御曹司!」
よくそう呼ばれていた。
佐源次はあまりその呼び名を好まなかったが、いつもそれを聞き流していた。すでに周りは大分出来上がっている。
酔っ払いをまともに相手にしてはいけない。すると、若衆頭の吉次が一度咳払いして言った。
「ええと、ほら、みんなよく聞け。おい、そこで汚えもん出してる奴、とっととしまえ。ところでな、今日集まってもらったのは他でもない、今度各村合同で豊穣祈願祭をすることになった。庄屋様からとっくに話はいってると思うが、木伏村(南会津町木伏)の法印様(山伏)呼んで護摩炊きすっから。そんとき修験者も来られて、かなり大掛かりな祈願祭になっからな」
通常、護摩祈祷は旧四月七日から翌日にかけて行われる。霊場唐倉山の山岳信仰と深く結びついた行事だ。
旧四月七日は宵祭りで、薬師堂で法印により燈明が灯され祭文を上げる。しかし、乱世への不安からなのか、各庄屋たちの懸命な説得によりこの時期異例の運びとなった。
さらに喜代三郎が付け加える。
「つまり、俺ら若衆はそのお手伝いってわけよ」
「えー、手伝いかよ」
「それ、ほんとかい? 俺は、えーと……その日ちょっと用事が……」
皆、口々に不満を言う。それを遮るように吉次が少しばかり強い口調でこう言った。
「まあまあ、みんなよく聞け。この時期忙しいのは皆一緒さ。せっかく祈願祭するんだから、みんなやろう、やるしかないんだから、な?」
途端に一同黙り、んっと頷いた。義兵衛、佐源次、そして五郎太も声を揃える。
「やろうや、これは縁起もんだしな。いいじゃねえか、なあ?」
その一声に誰かが同調した。
「うん、まあ、そうだな。よっしゃ、いっちょ頑張って祈願祭成功させっか、な?」
「しゃあねえ、しゃあねえ」
一番周りが驚かされたのは五郎太の変わり様だ。協調性がない上、人の言うことに全く耳を貸さなかったあの五郎太がこれまでとは明らかに違った。
十、法印の真言
祈願祭、当日――
伊南川沿いの各村々の若衆、庄屋、近在の村人たちが一挙に山口村に集結した。大太鼓、小太鼓、横笛や鉦など荘厳な音色に乗せて法印が現れた。
名は内藤大学――、木伏村にある蓮華院第五世法印、その護摩祈祷には多大なる御利益があると噂される。
法衣を纏い長く白い顎鬚を蓄え、肩から橙色の袈裟を掛けているその老人。
首には大きな数珠を提げ、右手には三鈷鈴、左手には三鈷杵を持ち、いかにも山伏といった出で立ちである。
法印の後ろをその弟子とみられる修験者が数名歩いている。静かに結界の中に入ると、その中央に設けられた護摩壇前の台座に鎮座した。
この護摩壇は屋外に設置する大壇と呼ばれるもので、地面を掘り牛糞を塗って造られており、その中央には不動尊が祀ってあった。
音色がピタリと止み、法印が両袖をバサバサッと翻すと焚いてある炎が一段と燃え盛り、まるで火災旋風のようになった。
突然の出来事に驚いた村人たちは口々に大きな声を上げた。
「うおお、こ、こりゃすげえぞ!」
「祈祷っていうよりか、ありゃあまるで呪術だな」
中には気味が悪いと恐れ慄く者もいた。また、生まれて初めて見る者もいる。その光景に止まぬどよめきの中、誰かが言った。
「しーー、静かにしろ!」
すると法印は何やら経文を唱え始めた。
「ナウマク、サラバタタギャテイビャク、サラバボッケイビャク、サラバタタラタ、センダマハロシャナ、ケンギャキギャキ、サラバビギナン、ウンタラタ、カンマーン……」
不動明王火界咒、真言の一つに大咒というものがある。その詞はサンスクリット(梵語)で構成されている。
そのため村人たちには全く意味不明だった。しかし、その重厚な経文と荘厳な光景に一同は圧倒されていた。
凡そ半刻(一時間)であろうか、護摩焚きが終わり最後に法印からありがたい御言葉を頂いて無事儀式は終了した。
立ち去ろうとする大学に義兵衛が声をかけた。
「法印様!」
「ん? おお、義兵衛ではないか。久しぶりじゃのう、元気そうで何よりじゃ」
義兵衛の家は不動信仰をしていたため、幼い頃から大学法印とは近しくしていた。年始や法要には必ず義兵衛の家に来ては経文を上げた。また、母きよの四十九日にも大学が来た。
「猫も元気か?」
「はい」
「おう、それと、一つ……利き腕を大事にするんじゃぞ」
「……利き腕?」
「うむ、利き腕じゃ。それでは、わしはお暇するかのう」
腑に落ちない義兵衛を余所に意味深な言葉を残して静かに去っていった。もしや、法印は燃え盛る炎の中に何かを見たのだろうか。
山口村中山口、山口定義宅――
その夜、庄屋の家に領民が集まり慰労会をした。
「義兵衛、もっと飲んでよ」
徳利片手に酌をしにきたのは佐源次の妹アキだった。どうもアキは義兵衛を気に入っているらしい。
少しばかりお転婆だが、その育ちの良さと気立ての良さ、加えて母親譲りの美貌と肢体。これはまさに非の打ち所のない美人で、しかも中々情熱的な娘だった。
ただ、あまりの美人さ故に逆に男が敬遠してしまう。そのため二十一の今でも嫁にいけずにいた。
すかさずどこぞの酔っぱらいが絡んできた。
「おやおや? 天下の三池屋の御息女様は義兵衛にほの字ですかな?」
「へえ、アキちゃーん、そうだったの? 仲取り持ってあげようか?」
喜代三郎の嫁小夜が首を突っ込んできた。お節介で世話焼き、併せて色恋沙汰が好き、で有名な小夜。
「ええ、そんな、いいですよ」
いよいよ取り巻きも調子づき、それぞれに勝手なことを言ってはアキを冷やかし始めた。
「その熱い胸の内を、是非、今ここで!」
「義兵衛に打ち明けちまえよ」
「ええのう、若いもんは」
それを近くで聞いていた壱次が言った。
「アキちゃん酔っ払ったな? うーん、ここはどうせなら酔った勢いで、こうガバッと――」
「ちょっとあんた、三池屋さんとこのお嬢さんに何てこと言ってんの‼ 馬鹿だねえ、全く! これだから男ってのはさあ……」
義兵衛は耳が真っ赤になっていた。酔ったのか照れているのか、どちらかは分からない。そこへ鴫が割り込んできた。
「なんだあ義兵衛。にっしゃ(おまえ)色男だなあ。羨ましいなあ、おい! 耳、真っ赤だぞお」
「でもやっぱりいいわよねえ、鍛えた男のからだ。うちのなんてさ、ガリッガリの痩せギッツ」
喜八郎の嫁が旦那をこき下ろすと、間髪入れず喜八郎が反撃する。
「おめえもよく言えるな、そんな体格してからに。しかも年増の人妻が何を抜かすか!」
「何よ、このろくでなしの甲斐性なし! あんた、今はねえ、女が男を選ぶ時代なのよ! 悔しかったら女が惚れ込むぐらいのいい男になってみな‼」
それを見ていた吉次が小声で言う。
「ほらほろ見てみろ! 出たぞ出たぞ、凄え角が」
「き、吉次さん、助け舟!」
「知るか! その前に舟賃よこせ」
爆笑の渦、これは酒の肴になる。だが、佐源次がどうにも浮かない顔をしている。そこに弥平が声を掛けた。
「おーい佐源次、どうしたあ? 具合でも悪いのかあ?」
普段は独立独歩で後輩の面倒などみない弥平だったが、酒が入っているせいか佐源次を気にかけている様子だ。
小夜が脇から割り込んできた。
「源ちゃん、まさか義兵衛に妹盗られんじゃないか、なーんて思ってんじゃないでしょうねえ?」
「阿呆、余計なこと言うんじゃねえ!」
喜代三郎が小夜を叱っている。すると、佐源次が突然立ち上がり義兵衛に言った。
「義兵衛、話があるんだ。ちょっと表出てくんねえかな、頼む」
一瞬周りは焦り、凍りついてしまった。少しからかい過ぎだったと反省している。
喜代三郎夫婦や他の夫婦は互いに責任の擦りつけを始めた。それを尻目にアキは佐源次を呼び止めようとした。
「ちょっと、ちょっとお兄ちゃん待って!」
義兵衛と佐源次は外に出てきた。今夜は星空がとても綺麗だ。余所で戦が行われているとは思えないほどの静けさだった。
この南会津では「天の川」を年中見ることができる。
高原で空気がとても澄んでいるため、紺碧の夜空に銀河がはっきりと浮かび上がり、まるで宝石箱をひっくり返したようだ。
「お前さ、正直に言ってくれよ。アキ、どう思う?」
義兵衛は立ち止まった。そして、ゴクッと唾を飲んだ。二人はその場で地べたに座り星空を眺めながら話した。
「……俺は、そんな」
「そっか? 俺ら、もういい歳だしさ」
「大体、つり合わねえだろ。第一、そういうお前だって……」
「アキは本気みてえだぞ。ま、もしお前がさ、弟になってもいいって言うんなら、俺は全然異論はないけどね」
十一、うつけの悲哀
久川城、城内――
巳代治が足軽軍団の番頭に就き、もうすぐ二ヶ月になろうとしていた。
相変わらず一兵卒だった重次郎は数か月後輩の巳代治が自分より先に、ましてや番頭に抜擢されたことを初めは善く思っていなかった。
だが、半ば重次郎の諦めもあり、二人の間に入った小さな亀裂は時間とともに塞がりつつあるようにみえた。
いつものように重次郎が夜警番をしている。今夜は櫓からの監視ではなく、三の丸の巡回警備だった。
「あーあ、暇な櫓よりよっぽどまし(・・)だな。こっちの方が眠くならんで済む」
久川城は台地状の小山に建つ山城である。北の青柳七曲登城坂と南の小塩七曲登城坂が登り口になっており、伊南川沿い西方に位置した。
旧伊南村青柳字小丈山から小塩字丸山、同字堂平地内に広がるこの時代の城郭構造として歴史的に重要な史跡となっている。
現在、城そのものを見ることはできないが、曲輪、空堀、土塁、郭跡、また虎口、馬出などの面影が残る。
当時、関西で主流だった枡形虎口を城の南北に備え、城郭背部(西側)は絶壁の下に滝倉沢の渓流、北側にはこの渓流と合流する形で久川が流れ、丘陵地に建てられた天然の要害であった。
そして、城郭北に本丸、南に大手口、本丸の南西に天守櫓があり、その他北東・南東にも櫓があった。また、城東の麓には武家屋敷があったと云われている。
史実では天正一七(一五八九)年に盛次が久川城を築城したことになっており、それ以前は久川城から伊南川を挟み南東の位置に西館・東館があり、さらにその延長線沿いの山頂に本来の居城、駒寄城があった。
しかし、各地を転戦しながら突き進む伊達軍の動きを上杉・蘆名の麾下にあった盛次が把握していないということは到底考えにくい。
一説には急場をしのぐ簡易な館で、蒲生氏郷の時代になり若松城の支城として改築したとのことだが、久川城築城は史実より以前であると思いたい。
すでに盛次は合戦の時期を予測し、仮に読みが正しければ、久川城は端から囮として使う手筈だったと考えられるからだ。
「……おい、おいって」
背後から小声で呼ぶ声がする。
「んん? あっ⁉」
驚いて振り返ると、そこに巳代治が立っていた。慌てて提灯を落としそうになる重次郎。
「へへ、驚いたか?」
「この、焦るだろ‼」
「しぃーー! 警固番がいちいち驚いてたらどうするんだ、うつけが」
「うつけ? それはこっちの言い分だ。大体お前、何でここにいる」
「ちょっくら野暮用で……って嘘だよ、屋敷抜け出してきた。容易に進入できるんじゃあ夜警の意味ねえな」
「うるせ、この暇隊頭が。で、何だよ」
「ちがーーう‼ それを言うなら番頭だ。あ、そうそう、なあ重、明日ってお互いに暇もらってさ」
「……ああ、それがどうした?」
重次郎は巳代治を横目で見ている。
「久々、街出てみねえか?」
「そんなこと言いに態々(わざ)抜け出して来たのかよ。それに祈願祭は今日終わっちまったし……」
重次郎の足軽長屋は馬出にある。
有事の際はすぐに招集され出陣しなければならないからだ。当然のことながら、足軽たちは日々上に監視され、あまり自由が利かなかった。
一方、役付きなど上級武士たちは三の丸にある武家屋敷、もしくは城下にある青柳の武家屋敷に住んでいた。
「別にいいじゃねえか。なあ、街行こうよ、まち。街行きてえなあ……」
「うるせえな、お前はいいだろうけど」
「分かってる、分かってるって。だから平左衛門の親仁に頼んである」
「……へいざえもん?」
「あの帝さん、馬場平左衛門の事だよ」
「みかど? ああ、え? あの人?」
「それを言うなら、あのお方だろ?」
馬場安房守平左衛門――、そう、河原田宿老。家臣らには安房様と呼ばれているが、巳代治は勝手に『帝』と渾名を付けていた。
また、この老臣がとても親しみやすい性格だったため、何か頼み事をするときには決まってこの平左衛門を通していた。
巳代治にとって何かと話を融通してくれる都合のいい親仁だったのだ。
「大丈夫だって、な?」
「巳代、あとできつい仕置とかなしだぞ」
「そうこなくっちゃな。よし、んじゃ、俺帰るわ」
「ちなみにだけどよ……もし今、『曲者!』って叫んだら、お前一巻の終わりだよな?」
「……いちいち嫌な奴」
「かっかっか! ところで一つ質問がある。最近やたらと山口に行きたがるが、一体そこに何がある? もしや、これか?」
重次郎はニヤニヤしながら小指を立てた。巳代治の顔が一瞬引きつる。
「ふん、冗談だ、うつけ」
「くそっ……では、明朝にまた会おう!」
巳代治と重次郎は上下関係があべこべだ。職務上は後輩の巳代治が上、しかし職務外では先輩ながら格下の重次郎が上だった。
翌日早朝、久川城内某所――
盛次、平左衛門、源助、そして盛勝の四人が狭い板張りの部屋で話をしていた。
本丸と二の丸の間に築かれる南東の土塁脇には、盛次以下重臣のみが密議を執り行う櫓台に似せた二階建ての御堂のような建物があった。
「殿、先般の伊達の動き――」
源助は目を細めながら盛次に言った。
「うむ、義広様の側近から事前に届いた書状にもな」
「ん、しかし、政宗のやつ上手くやったものですな。蘆名・佐竹の連合軍と互角に渡り合い、尚且つ休戦に持ち込むとは」
盛勝は腕組みをして言った。さらに源助は盛次に訊いた。
「これをどうとられますか?」
「伊達か……。何れ安達、安積を平らげ、どちらに進路をとるか。西の蘆名(会津若松)を狙うのか、はたまたそのまま南下して、二階堂(須賀川)を討つか」
「某もそのように。仮に西に進路をとれば、安子島・高玉(磐梯熱海)、猪苗代と。特に猪苗代は蘆名の要衝です」
今度は平左衛門が口を開いた。
「(猪苗代)盛国殿は、果たしてどうお考えなのか。何れ、猪苗代の動き如何で……」
「わしも同感ですが。御館様、もし万が一この地まで戦禍が飛び火すれば。いや、攻め来れば――」
源助がその話を止めた。
「盛勝殿、くれぐれも言っておくが、この話は蘆名が敗北することが前提ではないぞ」
「そのようなことは分かっておる。ただ、公は軍を率いるにはまだ子ども過ぎる」
すると盛次が言った。
「いずれ戦は免れまい。斯くなる上は何としても、伊達を黒川に入れるわけにはいかん。何とかその前に――」
「では、殿は合戦の地は黒川より北、いや東であると踏んでおられるので?」
「いかにも」
「御館様、わしが思うに、やはり平左衛門殿と同じく、猪苗代盛国が危ういと。政宗は何といっても裏工作に長けておるようですからの」
「奇策か? 存じておるぞ。彼の男は中々面白い思考をしておるようだからな。だが、盛国は信用に値する男ではない。皆も知っておるだろう、あの猪苗代一族は代々主君蘆名に対し……まあ何れにせよ、しばし待て。まだ事を急ぐ必要もあるまい。援軍要請に応えるべく、兵たちには日々の鍛錬を怠るな、とそれだけ伝えておけ」
「はは、承知致しました」
「御意!」
一方、麓の侍屋敷からは巳代治が勢いよく飛び出てきた。出世の甲斐もあり、もはやあの息苦しい足軽長屋で目覚める必要がなくなった。
「おーっと! 寝坊しちまった」
城に続く峠道のような坂を急いで駆け上がっていく。
「はあ、はあ……きっついなあ」
息も途切れ途切れになっていた。朝靄で先がよく見えない。坂の中腹までさしかかったとき、目の前に人影があった。
「ん?」
「遅い! この寝坊助うつけが」
手を挙げて挨拶してきたのは重次郎だった。
「重、すまん! 許せ」
「許されざる行い。よって巳代治、お主に切腹を申しつける! 案ずるな、このわしが介錯をしてしんぜよう……」
「ばーか! 朝っぱらからふざけるな」
「かっかっか! んで? こんな朝早くから山口行ってどうする。一里(約四キロ)走るか、え?」
「だから、すまんって」
「じゃあ一つ、いや二つ教えろ。まず目的は何だ? そして上・中・下、どの山口だ?」
重次郎は遅刻した巳代治のせいでかなり不機嫌だ。
「ちょっと待った! その前に、ほっ被りしねえか?」
「……ん、なぜに?」
「まあ、何となく。いいから、ほれ!」
巳代治は腰にぶら提げていた手拭いを重次郎に放った。仕方なくほっ被りする。
「この手拭い、ちと臭うが……まあいい。巳代、俺の問いに答えろ」
巳代治は頭を掻き毟りながら答えた。
「ちっ、分かったよ。巡検だ、巡検。行き先は上山口」
「ほおれみろ、やっぱ女だろ! 大体にして何の巡検だ、意味が分からん」
「……」
黙る巳代治。
「だから行くんだろ? 付き合ってやるよ」
「ほ、ほんとか? ありがてえ!」
巳代治は最近アキが気になる。ただし、それは佐源次の妹、つまり先輩の妹ということになる。さらに相手は巳代治の三つ年上だ。中々一人で斬り込んでいけるほどの勇気はない。
なぜならば至極当然、それは玉砕覚悟になるからだ。しかも、どうやらアキには意中の人がいるらしい。
何となくだが、それが誰だか分かる気がする。
「なあ巳代、それって誰だ?」
完全にだんまりを決め込んだ巳代治。
「左様か……仕方ない。ならば帰る、ご免!」
重次郎はくるっと反転し、来た道を折り返そうとした。
「ちょ、ちょ、ちょっと待て! 言うよ、言えばいいんだろ」
「武士に二言はないな? ならば答えよ」
「重、一言いいか? なあ、お前って真面目なのかふざけてるのか分かんねえんだよ」
「ふざけてない、だから早う!」
巳代治は咳払いをしたあと、ふうっと溜息を吐いた。
「……ア、アキちゃん」
「ええ、何だって?」
「アキちゃん! 三池屋さんとこの。お前も知ってるだろ! あの有名な……」
「かっかっか! とうとう白状しおったか。しかもお前の先輩の妹君だろ、うつけ。無理だ、無理! 相手はお前、天下の豪商三池屋だぞ。加えて親父さんは強烈な頑固親父で有名。それに――」
「もういい! 分かってらぁ‼ んなことは」
頭ごなしに否定する重次郎に巳代治は怒りを抑えられないでいる。
「巳代、もうすぐ三池屋に着くぞ。カッカしてアキちゃんに嫌われても俺は知らん。あたし、短気な人キライ! なーんてな」
「し、重、斬るぞ! 怨んでくれるな」
「うつけ、うつけうつけ!」
アキは毎朝店の前を掃除している。箒片手に手際よく掃き掃除する姿がまた堪らなく可愛いと評判だった。
目黒アキ、源一郎の次女でその美しさは譬えようがない。
その美貌と色気で男共を魅了し、彼女を見た男は必ずといっていいほど一度は心を奪われてしまう。
母彩子に似たのか目鼻立ちもはっきりしている。強いて言えばアキの髪色とその身形が気になるところだ。
赤茶けたその髪を後ろで無造作に束ね、散髪したときの自分の髪と馬の毛を加工して付け毛にし、さらに増やした髪を頭上で盛り上がらせていた。
化粧も中々派手で、目の縁を薄っすらだが歌舞伎役者の隈取のように黒く塗っている。また、生まれつき瞳が薄い茶色のため、知らない人が見ると異国の人に見えてしまう。
背は彩子に似なかったのかあまり高くはないが、すらりと細身である。本当は何もそこまで濃い化粧をしなくても、素のままで十分非の打ち所がない。
その性格だが、外見同様に中々奔放で気が強い。
源一郎が仕入れてきた舶来の炭酸水などを使って髪を脱色してみたり、化粧道具なども海外のものを使ってみたりして、当時としてはかなり斬新な上、突飛で奇抜な娘だった。
「あ、アキちゃんだ!」
巳代治は不意打ちにうろたえている。
ところが、アキはそれにまるで気づかずにせっせと掃除している。近ず離れず、二人は民家の陰に隠れながらアキを見ていた。
すると、店の奥からアキを呼ぶ声がした。
「アキちゃーん、ちょっと来て」
その声は彩子だった。
「今行くから待ってえ」
アキは店の中に入っていってしまった。
「巳代、残念だったな」
「あーあ、アキちゃーん」
「お前完全にやられてるな、骨抜きうつけが」
重次郎は呆れ顔だ。
「うるせえ……一目見れただけでもいい!」
「ここで一句いいかな。ああ儚き、巳代治の切ない恋心、朝靄とともに消え去りぬ、か」
「お主のそれは一句ではない。一苦じゃあ!」
しばらくすると、店からアキと彩子が出てきた。
「それじゃアキちゃん、先行ってて。お母さんあとで行くから」
「うん、分かった。じゃ行ってくるね」
「行ってらっしゃい、気をつけて」
アキは鮮やかな振袖を着て出ていった。
「おい、アキちゃんどっか行くぞ。ずいぶんと派手な着物だな」
「どこ行くんだ? あ、分かった! 南源屋かあ。アキちゃん頑張ってるな」
旅籠南源屋、源一郎が経営する例の旅籠。
アキは二足の草鞋を履く。日中、とくに何もなければ三池屋の手伝いをして、夕方頃になると南源屋の手伝いをしに中山口に行くのだ。
三池屋では若干地味な着物を着て店に立ち、南源屋では派手な色使いの着物を着て若女将として働いていた。母彩子もまた女将として南源屋にいた。
「お前とは全く正反対だな」
重次郎がまたいつもの厭味を言う。
「ちっ、いちいちうるせえな」
「どうすんだ? 行っちまったぞ、ええ? 今日の巡検は仕舞いにされますか? 巡検視殿」
「……また馬鹿にしやがって」
「ならばこれはどうだ? 暇隊頭殿、巡察終了でございます。かっかっかっかっか!」
「くうーー、もしお前がただの領民なら、斬り捨てご免だ!」
巳代治は歯を食いしばって必死に怒りを堪えていた。
結局この日、巳代治は何もできずにただ街をぶらぶらし、せっかくの暇も水の泡になってしまった。
十二、悪夢、義兵衛
七月――
折しもこの頃、歴史的に重要な出来事が起こる。豊臣秀吉の「刀狩り令」である。話を元に戻す。盆の行事の中に「高燈籠立て」というものがある。
一日、人が亡くなって新盆から三年間は高燈籠を立てて霊を迎える。二間(約三・六メートル)ほどの杉を用い、梢の葉を残して枝を払う。
そして、中段より上の部分に横棒を張り、ススキを結わいつけて縄で吊るし、ちょうど相合傘の様な形にする。そこに高燈籠を上げて家の前に立てるのだ。
いつものように義兵衛が身支度を整えて山に入る準備をしていた。長かった梅雨が明け、抜けるような青空が広がる。しかしながら、今日はかなり蒸し暑い。
毎朝、出掛ける前には必ず仏壇に線香を上げ、手を合わせる。
普段は滅多にないのだが、半日だけ壱次と一緒に仕事をする日だった。いつも喜代三郎と仕事をしていた善吉が急遽体の不調を訴え早退し、その穴埋めをしなければならなかったからだ。
午後になり、蒸し暑さも収まりつつあった頃――。
「義兵衛、もうこっちはいい塩梅なんじゃねえか?」
「分かったよ、そろそろ喜代兄者のとこ行ってみる」
そう言うと義兵衛は木挽鋸(大鋸)を持ち、大斧を肩に担ぐと鬱蒼と茂る藪の中に消えていった。
泣きの喜代三郎が待ってましたとばかりに義兵衛を歓迎する。
「来たなあ、色男」
「ん、喜代兄者何や? しなたぁ(あなた)、全く他人の事からかってばっかだな、ほんに(ほんとに)」
見るに喜代三郎は一際大きな巨木を倒そうと四苦八苦していた。
「俺の力じゃ無理みてえだ。受け(口)も伐れねえ……。どうにもこうにもうまく入っていかねえんだよ。しかもだ、斜面に対して角度が難しくてよお。やっぱ、これはおめえさんの出番だ。なあ、ちょっくら頼むぜ」
喜代三郎はあっさり断念した。
(蔓は……伐ってあるな)
「大丈夫だ、かかり木にはならねえ。いいか、その代り、跳ねっ返りに気をつけろ!」
義兵衛はその木を倒す方向、傾き、風向き、周りの木々の枝、落下物の有無、足場の確保、足元と退避場所の確認、阻害する立木、かかり木の危険性など起こり得る全ての可能性と周囲の安全に配慮して、いざ大斧を振り翳した。
ところが、今まさに一刀を入れんばかりの義兵衛に向かっていきなりこう言った。
「ち、ちょっと待ったあ‼ なあ、その方向だとよ、なんか危なくねえか? あのひん曲がってる木見てみろよ」
「……んじゃ、どうするや?」
実は義兵衛はそのことも計算に入れてあったのだが、先輩の言葉に逆らえず指示されたまま伐倒方向や受け口と追い口の位置を変えた。
「おう、それでいい」
「じゃ、もう一回やるよ」
「おい、くれぐれも勢い余って弦まで伐るなよ、絶対にな」
「ええ、喜代兄者も早く退避して」
一心不乱に斧を打ちつけた。
大抵の山師なら途中でへたってしまうほど太い幹。しかし、義兵衛はそれをものともせず受け口を伐り、さらに追い口を伐り直していく。
上手く弦を残し、再度伐倒方向を確認したあと、もう一度上を眺めて重心のわずかな傾きと風向きを確認した。
「伐るぞーー!」
「ほおう! ほおーー!」
喜代三郎も周りで作業している仲間たちに大声で叫び伐倒の合図をした。ちなみに、大径木の伐木作業にはもう一つ手間のかかる「矢打ち」という工程がある。
水平に追い口を入れたあと、通称「矢」と呼ばれる車輪止めのような形状の楔を追い口の隙間に二個ほど刺し、それを鎚で叩くことによって木が徐々に傾いていくのだ。
義兵衛はひと言「よし!」と呟くと、満身の力を込めて矢を叩いた。矢が巨木の幹に一気にめり込んでいく。
一瞬、緊張が走る。すると巨木は軋み声を上げ、音を立ててゆっくりと傾き始めた。
――だが、その時だった。
巨木は思わぬ方向に傾き、速度を増しながら周囲の木々を巻き込んで倒れ始めたのだ。それは、よりによって喜代三郎めがけて。
「う、うああああ!」
「喜代兄者、危ねええええ‼」
義兵衛は叫びながら、咄嗟に大斧をぶん投げて喜代三郎に跳びかかった。
物凄い地響きと共にその巨木は周囲の木々まで薙ぎ倒した。
どれほどの刻が過ぎただろうか。二人とも気絶していた。
喜代三郎が先に目覚めると、義兵衛が上に覆い被さっていることに気づいた。
その巨木は辛うじて喜代三郎の身体を避けていた。が、しかし、義兵衛の上に倒れた巨木と木々は鋭利な枝やささくれを持ち、それが体に無数に突き刺さっている。
その上、右腕は完全に巨木の下敷きになり、肘が逆に折れ曲がっていた。
喜代三郎の着物には義兵衛の血が飛び散っている。
「お、おい義兵衛! しっかりしろーー、義兵衛えぇぇぇぇーーーーーー‼」
それはとても酷い有様だった。
悲鳴と地響きを聞きつけ、これは何かあったとばかりに付近で作業をしていた山師たちが大急ぎで集まってきた。
初めは巨木が二人を押し潰しているように見えた。村人を呼び合い、すぐさま二人の救助活動を開始した。
村の男衆十数人がかりで作業をするも、山の急斜面に加えて昨晩降った雨のせいで足場も悪く作業は難航を極めた。
漸く木を退けると、義兵衛が喜代三郎を庇うように倒れていた。
やはり喜代三郎を守ろうと自らを盾にしたようだ。その着物はボロボロに破け、枝が突き刺さり無数の切り傷と刺し傷が痛々しい。
一番酷かったのは義兵衛の右腕だった。醜く折れ曲がり、肘から先はもはや完全に押し潰されていた。
衝撃が相当激しかったのだろう、周りに生えている笹の葉に夥しい血が飛び散っていた。流れ出た血は喜代三郎の着物にもじっとりと滲み、惨劇の様相を呈した。
数週間後、奇跡的に一命を取り留め、伊北郷片貝村にいる村医者渡部成賢の療養所「大成院」で目覚めた義兵衛。
包帯で体中ぐるぐる巻きになり布団に横たわっている。僅かに両目の部分が切り開かれた顔は目出し帽を被ったようになっていた。
「……ここ、どこだ?」
「おお、気がついたか? いやあ、良かったのう」
成賢は驚きを隠せなかった。
あれだけの大事故に遭いながらも息を吹き返したこの青年が不思議でならない。たとえ目覚めたとしても、恐らくは植物状態になるだろうと思っていたからだ。
「いてえ、いててて」
「気持ちは分かるが、まだ動けんぞ」
義兵衛が病床に伏せていた数週間、片時も休むことなく見舞いの者が訪れていた。
その日の夕方――
「はて、もうそろそろ来る頃じゃのう」
成賢がそう言うと、程なく玄関の戸を叩く音が聞こえた。
病室に入ってきたのはアキだった。あの日以来、毎日見舞いに来ていたのだ。そして、ピクリとも動かない義兵衛に向かい、いつも何か言葉をかけていた。
アキは義兵衛の姿を見るや否や大粒の涙を流して喜んだ。しかし、義兵衛は無言だった。すると、成賢がアキを呼び出した。
「義兵衛、目を覚ましたんですね?」
「うむ、全く驚かされた。あやつの生命力は並大抵のもんではないわい。異様なほど強靭な奴じゃよ。アキちゃん、それにしてもよかったのう。本人はまだかなり衰弱しておるから、少しだけなら構わんが、あまり長居はせんで下さいの。まあ、これは医者の立場としての言葉じゃが」
「はい、成賢先生、本当にありがとう」
「いやいや礼には及ばんよ。三池屋さんにはいつもお世話になっとりますからの」
目黒源一郎と渡部成賢は旧知の仲で、商人と医者という立場の違いこそあったものの、お互い持ちつ持たれつの関係だった。
そのため、アキもまた幼少の頃から成賢には世話になり、とても善くしてもらっていた。
病室に再び戻ったアキ。
「義兵衛、よかった。ほんとによかった」
「……」
アキの顔をじっと見ている義兵衛。
「義兵衛、どうしたの? もしかして私のこと分からない?」
「何となく、でも……よく思い出せない。ただ……い、いてて」
「……ごめん」
義兵衛は黙って首を横に振った。まだ片言しか喋ることができない義兵衛。
アキは辛かった、長く生死の狭間を彷徨っていた義兵衛のことが毎日毎日心配でならなかったのだ。
ときには一日中、義兵衛の傍に付いていたこともあった。
持ってきた果物を枕元にそっと置き、病室から出てきたアキ。医務室に向かい、義兵衛の様子を話すと成賢は大きく息を吸いながらこう言った。
「うむ、あれだけの大事故であるし、まず彼は相当に強い衝撃で頭と身体を打っておる。しかも、長い間昏睡状態じゃったからのう。目覚めたこと自体、奇跡的と言えるかも知れん。大抵の人間であれば間違いなく死んでおる。あの状況からして即死じゃろう。たとえ息をしていたとしても寝たきりの状態は免れんよ。それがああして目を覚ました。アキちゃん、それだけでも良しとせねばいかんよ。ま、今後の回復次第じゃがのう」
「いつまで記憶を失ったままなの? いつまで? ねえ、成賢先生答えて!」
アキは語気を強めた。その目は腫れ上がり真っ赤になっていた。
「……ん、それは医者のわしでも何とも答えにくい質問じゃの。完全に記憶が戻るのは、明日か半年後か、はたまた何年後か、それはわしでも分からんのじゃよ」
「そんな……そんなことって」
アキは両手で顔を覆いながら外へ飛び出していった。涙が枯れるほど泣き続け、崩れ落ちるように道端に倒れこんだ。
そこへ佐源次が通りかかった。
「アキ、おいどうした? 何があったんだ?」
佐源次は手に持っていた提灯を放り投げ、泣き崩れるアキの元に駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん、私、私もう――」
「どうした? お兄ちゃんに言ってみろ。お前、義兵衛んとこ見舞いに行ってたんだろ?一体どうしたんだよ、泣いてばっかじゃわかんねえだろ」
「だって、だって――」
「アキ、懸命に看病すればきっとその心は義兵衛に届くさ。大丈夫だあいつなら、な?」
「……う、うん」
しかし、佐源次はまだアキに伝えていないことがあった。それは、義兵衛の右腕がもう使い物にならなくなってしまったことだった。
この期に及んで、絶望感に浸るアキにとてもそんなことは言えない。兄が妹に伝えるには余りにも酷すぎる。当然、義兵衛にもその事を伝える気にはなれなかった。
その日を境にアキが大成院に顔を出すことはなくなった。佐源次はそんなアキに何も言えないでいた。
あの奔放で明るかったアキが最近はずっと暗い表情を浮かべ家の仕事もあまり手につかない様子だ。
家族も何かあったのでは、と心配していたが佐源次はその原因が義兵衛であることを両親に言えないでいた。
なぜなら、源一郎はアキが義兵衛に気があることは知っていたものの、かなり見識が高かった上に交友関係も幅広く、また家柄や格式を重んじ、ましてやことさら世間体を気にする性格だったため、絶対にそれを認めようとしなかったからだ。
実は、義兵衛が「大成院」に入院できたのもアキがこっそり治療代と入院費を肩代わりしていたからだった。
成賢といえばこの地域ならずとも高名な医者であり、とても一庶民が入院などできる療養所ではなかった。
本来であれば貧しい義兵衛が成賢の医術を施されることなど到底考えられない話だったのだ。
ところで、三池屋では夕飯時になると源一郎とアキが度々口論となり、佐源次と母親がその仲裁に入ることがしょっちゅうだった。
「アキ、いいかよく聞け! 義兵衛は絶対に駄目だ、あの男では釣り合わん!」
「なんで? なんでお父さんにそんなこと言われなきゃなんないの? おかしいよ、そんなの」
「親に向かってその口の利きようは何だ。誰に育ててもらったと思ってる、ん? 小娘が生意気な口を叩きよって‼」
「悪い? だって私もう大人だし。それに何かっていうと親に向かってとか何とか、もう聞き飽きたんだ」
「なにい! アキ、もう一遍言ってみろ!」
源一郎の右手が硬く握られた。
「ほら、すぐ暴力じゃない。殴りたかったら殴れば!」
堪らず佐源次と母親が割って入る。
「アキ、もうその辺にするんだ。親父もさあ、そうカッカすんなよ」
「そうよ、アキちゃん、お父さんに謝りなさい。あなたもそこまで言わなくたって」
「彩子、お前があんまり甘やかすからだ。だからアキがあんな風になったんだぞ、分かってるのか!」
「親父もひでえよなあ、何かっつうとお袋のせいだもんな。お袋、親父あんなこと言ってるけど気にすんなよな」
「いいのよ、お父さんが言ってることも……分からなくないから」
特に仕事が上手くいかなかったときは源一郎の機嫌が頗る悪く、事あるごとに家族に八つ当たりしていた。
自分の居室に戻った佐源次だったが、どうもアキのことが気になり居室を出た。
「アキ、入るぞ」
アキは泣いている。
「入って来ないで、誰も入って来ないで!」
「じゃ、ここで話すよ――」
しばらく返事がなかったが、ようやく部屋の戸が少し開いた。
「入っていいか?」
アキが頷く。
「なあアキ、最近お前さあ、義兵衛のとこ行ってねえんだろ?」
「う、うん」
「やっぱあれか? 会うと辛いから」
「……」
「お兄ちゃんな、こないだ行ってきたぞ。信じてあげるって大事なんだよ。それに、お前が顔を見せるってことに意味があると思うんだ。成賢先生も言ってたぞ、おまえ、義兵衛のこと好きなんだろ? 見てれば分かるさ、でも好きなら好きでさ、何があってもどんな事が起こっても諦めるとか絶対するな。お兄ちゃんはな、相手が義兵衛なら文句ないから。やっぱり幼馴染だし、そこは信頼も置ける。それに何てったって、あいつ根はすっごくいい奴だからさ」
「……お兄ちゃん」
「な、だから親父が何と言おうと絶対負けんな、応援してやるから。泣いてばっかいねえで家の仕事もちゃんとやって、毎日明るくて元気な自慢の妹でいてくれよ、な? 義兵衛を信じて待ってあげよう。あいつなら絶対回復する、必ずな。じゃあ、おやすみ」
アキはさぞかし嬉しかったに違いない。
兄の励ましによって、どんなことがあっても弱気になどなるものかと思い、それからは徐々に元の明るくて気立てのいいアキに戻っていった。
そして、家の仕事もきちんとこなし、毎日「大成院」にも足を運ぶようになった。
数日後、片貝村「大成院療養所」――
今日は朝から義兵衛の病室を訪れ花を飾った。殺風景な病室を少しでも明るくしたかったのだ。
「おはよう、義兵衛。紫陽花好きだったよね?」
「……あ、ありがとう……紫陽花って、やっぱり綺麗だよな」
身体中を覆っていた包帯もやっと取り払われて義兵衛の顔も窺える。
夏の暑さで汗ばむ義兵衛の身体を濡らした布で拭いている。
ただ、義兵衛は依然として体を起こすことができず、横にもできないため身体の表側だけを拭くしかなかった。だが、右腕だけはまだ包帯が巻かれていたままだった。
「悪いな、アキちゃん」
「いいんだよ、気にしないで」
すると義兵衛の長姉トミが訪ねてきた。
「あ、どうもこんにちは」
「あら、アキちゃん来てたのかい。いっつもごめんねえ、義兵衛の世話大変でしょ。いいのよ、おうちの仕事もあるんでしょ?」
「いいんです、私好きでやってるんですから。義兵衛に早く元気になってほしいし」
「なんか申しわけないわねえ、今度何かお礼しなきゃ。治療代とか入院代も返さないとね。あ、そういえば弟、猫飼ってるけど、さっき家に行ったらちゃんと餌あげてあって。あれってまさか?」
「はい、私も猫大好きなんです。三匹とも可愛いんですよねえ」
「何から何までほんとごめんねえ、これじゃ頭いくら下げても足りないわね」
トミはアキが毎日義兵衛の看病をしていることを人伝に聞いていた。
「ほら義兵衛、せっかくアキちゃん世話してくれてんだから、感謝しなさいよ。大したもんよ、ほんと」
「……ああ」
「もう、そんな、いいんですってば」
十三、蠢く、黒い影
久川城内、修練道場「玄武殿」――
「ええい! やあっ!」
「暇隊頭殿、本気でいくがよろしいか!」
「まあ、別にいいけど……。ところで、お前の本気ってなんだよ、これで三度目だぞ」
巳代治と重次郎が夕方近くに稽古していた。
「ぬうう、これが真剣ならば……貴様なんぞ、こうギッタギッタに――」
「あのなあ、重、俺のがもし本物の槍だったら、お前の方が……」
「小賢しい! この俺様の剣術、とくと見よ!」
「……はあ」
「しかもだ、この俺には……巳代、貴様を倒す必殺の秘奥義がある」
「なんじゃそりゃ?」
重次郎は木刀を中段に構え、巳代治をじっと見つめてこう言った。
「巳代、貴様の弱点はすでに見抜いておる。アキちゃん、片貝の大成院にちょくちょく行ってるらしいぞ」
「うっ!」
「かっかっか! まず一撃。さらに、それはある男の看病だ」
「ううっ!」
「二撃! そして止めは……なんと、その相手が――」
「ま、待て。重、待って。もういい、参った、参った降参!」
「暇隊頭殿、勝負あったな。かっかっか、やったあ! 足軽番頭に勝ったぞーーい!」
「くー、重、卑怯だぞ!」
「精神戦も兵法の内。巳代、このくらいでやられてるようじゃ、戦場では通用せん。精神鍛錬が足りんな、いっそ唐倉山にでも登ってこい!」
「重法印……うううっ! 晩夏の夕日が目に沁みる」
一方この頃、天を俄に沸き立つ雲の切れ間から一匹の臥竜が静かにうねり、その片目で辺りを密かに睨みつけ、この會津の地を喰らおうとしていた。
のちに独眼竜と畏れられ、「天下の副将軍」とまで称された武将。この時、政宗は二十二歳だった。
片目であることを秀吉や家康から問われた折、「少年時代に木登りをしていて木から転落し、そのせいで右目が飛び出てしまった。そして、それを食らったがために片目になった」こう答えたという逸話は余りに有名だ。
三国志、魏の総大将曹操の従兄弟でその露払いを務めた彼の猛将、夏候惇の失明の逸話を引用し、自らの飛び出た目玉を食らった、と話していたという政宗。
九月――
義兵衛が入院して早二か月になろうとしていた。
相変わらずアキは毎日欠かさず見舞いに来ている。その献身的な姿を村人たちはそっと見守っていた。
ただ、そんな中でもときには冷やかす者、またときには哀れむ者など様々だった。
「あーあ、毎日毎日大変だ、こりゃあ」
「あ、あれよあれ、三池屋さんとこのアキちゃん」
「ヒサ姐、それのあれって誰だっけか?」
「あれはあれだべ、町屋沢の義兵衛だべや」
「んだ、義兵衛だ。ほんと大変だわな。巌兵衛さんとこの倅だべ?」
「巌兵衛さんってあんた、もうとっくに亡くなってんじゃないの!」
「……ぎへえ? あれ? 長男坊そんな名前だったっけ? でも、可哀想にねえ。何でもうちの人が言ってたんだけど、右腕潰れちゃったらしいわよ」
「あらやだ、ほんと?」
「態々(わざ)片貝(村)まで、ほんっとご苦労なこったねえ」
「それにしてもさ、アキちゃんも不憫よねえ」
アキの健気な姿を見るたび口々に人は言う。また、遠くから覗き見てはヒソヒソ話をしていたのだった。
だが、アキはそんなことを一向に気にする素振りは見せなかった。いや、本当は気にしていたのかも知れないが決して面に出さないでいた。
源一郎にも相変わらず反対され続けていたが、アキは佐源次や仲間たちに励まされどうにか今日までやってきている。
しかし、源一郎は気が気ではない。何せ人一倍世間体を気にする源一郎のことだ。娘の噂が村中どころか領内にも飛び交っていることがどうしても不愉快で堪らなかった。
その夜、上山口「三池屋」――
「おい、アキ!」
「あなたもうやめましょう、その話――」
「彩子、お前は黙っていろ!」
「なに? お父さん」
今日は佐源次の帰りが遅いため家族三人での夕飯となった。
佐源次がいないことをいいことに、どうやら源一郎は事の真相を追究しようという肚なのだろう。
当然ながら、それにアキも勘づいた。
(今日はお兄ちゃんがいない。絶対に何かしら言われる……)
「お前、毎日夕方どこに行ってる、ん? アキ、聞いているのか?」
「……」
あの大喧嘩のあと、アキは源一郎とろくに言葉を交わしていない。
「おい、聞いているのか、アキ! 家の仕事はちゃんとやってるようだが、決まって夕方になるとどこかへ出かけるだろう。一体どこに行ってるんだ、ん?」
どうも回りくどい言い方をする。しばらく親子の会話がなかったせいもあるが、ましてや父と娘。
これではどうにも折り合いがつかない。
「あなた、もう――」
「彩子、もしかしてお前何か知ってるのか?」
「……いえ、あたしは何も」
するとアキが言い返した。
「はっきり言ってよ!」
「アキ、俺はなあ、この土地でも有名な名士で通ってる。余り親の面に泥を塗るような真似はしないでほしいもんだな。まさか、その辺は分かってるんだろうがな?」
「だから何よ!」
「惚けるな‼ もうそこらじゅうの噂だ。彩子はどう思っているか知らないが、俺は断固として許さん!」
「そんなにいけないこと? 人が誰を好きになろうと勝手じゃない!」
「いいかアキ、よく聞け。仮にもお前はこの三池屋の娘だ。姉さんは那須の名家に嫁ぎ、今、何不自由なく暮らしている」
「そんなの知ってるよ。で、なに?」
「そのお蔭もあってこの三池屋も何かと助かっている。しかし、お前は何だ! どこの馬の骨かも分からんそんな樵風情と。もっと分相応を考えろ、あんな者何の役にも立たんではないか!」
「そんな言い方ないよ。つまり、金にならない奴って言いたいわけでしょ?」
「なにい? そんな事を言ってるわけじゃない!」
「だってそうじゃない。義兵衛のことなんにも知らないくせに! もういいわよ、わたしここ出てく!」
「ああ好きにしろ! その代わり勘当だ。金輪際この三池屋の敷居を跨ぐな、分かったな‼」
「分かったわよ! 二度と来ないわよこんな家」
「ちなみに言っておくがな、あの男、もはや樵には戻れんぞ!」
「ふーん、あっそう!」
そう言い残し、アキは乱暴に玄関を開けようとした。すると、ちょうど佐源次が帰ってきてアキとぶつかりそうになった。
「おい、アキ! どうした? どこ行くんだ?」
「放っておけ! あんな馬鹿娘、もう勘当だ」
「またやったのかよ……。俺がいないのをいいことに」
むき(・・)になって出ていくアキを佐源次は追った。
外はもう真っ暗だった。提灯も持たずに出て行ったアキは、走り続けるうちに段々と心細くなっていった。
「アキ、そんなに早く走るなよ。お兄ちゃん今日くたくたに疲れてんだからさあ、おい待てって!」
かなり走ったようだ。佐源次は完全に息が上がっている。
「やっぱアキは若えよなあ、お兄ちゃんハアハア言ってるよ。ああ、息苦しい」
それを見たアキは目に涙を浮かべながらも少し笑った。
「おい、泣くか笑うかどっちかにしろよ」
「……だって」
「何があったかなんて聞かねえよ、どうせまた親父と喧嘩したんだろ? 親父もすぐカッとなるからさ。どうしようもねえよ、あの性分は」
「勘当だってさ。別にわたし、それでもいいけど」
「まあ、とりあえず今日はお互い興奮状態だし。あ、そうだ、ちょうどいいや。今日あれだあれ、お兄ちゃんお呼ばれしてんだよ、喜代さんのとこ。お前も来るか? みんな集まってんだ。俺も誘われてたんだっけ、てっきり忘れてたあ」
あのとき事故に巻き込まれた喜代三郎は、打ち身と捻挫はしたものの軽い怪我で済んでいた。
巨木が倒れた瞬間、義兵衛は喜代三郎に少しでも衝撃が加わらないようにと両腕を突っ張り、なるべく自分にだけ当たるようにしたのだろう。斜面には義兵衛の大きな手形と膝の跡が残っていて土がかなりめり込んでいた。
途轍もない重さと衝撃が加わった証拠である。
喜代三郎はあのとき自分が余計な指示を出したことをずっと悔やんでいた。
後悔しても今さら始まらないが、先輩職人として決してあるまじき間違いだった、と言い張って聞かなかった。
その喜代三郎も十日ほど自宅で療養すると山に復帰していた。
作業中も休憩に入ると、度々義兵衛のことを口にし、ああなったのは自分のせいだと頻りに周りに話し、過剰ともいえるほどに自分を責め続けていた。
しかし、誰も喜代三郎を責める者はいなかった。
あれは明らかに事故なのだ。巨木が思わぬ方向に倒れたのも、そして、義兵衛があのような目に遭ったのも。
ところで、喜代三郎は療養中のある晩に奇妙な『夢』を見ていた。
それはあの事故の夢だった――、巨木を退かしたとき義兵衛の着物はズタズタに破けていた。
その背中を見ると血だらけで、無数の切り傷がついている。その切り傷には赤黒い血が滲んでいるのだが、よく見ると不動尊のような姿に見えるのだ。
一見、義兵衛の背中に赤黒い不動明王の刺青があるように見えたが、次の瞬間その傷はすうっと消えていった。
十四、秘めたる不動、未だ眠る
喜代三郎宅――
佐源次とアキは喜代三郎の家に着いた。外からでもかなり賑やかにしている声が聞こえる。
二人はおそるおそる玄関の板戸を叩き、ゆっくりと開けてみた。
「お、きゃったか(きたか)。遅えぞ、四代目!」
「……またその呼び名」
「ありゃ? 後ろにいるのは」
小夜は佐源次の後ろに立っていたアキに気づいた。
「あらあ、アキちゃんいらっしゃい。酔っ払い親爺ばっかりだけど、さあさあ上がって上がって」
「何だあ? 三池屋さんのご息女様もお出でなすったのか?」
「こら、弥平! お主、口を慎みたまえよ」
「バーカ、おめえだよ。弥平兄者って言え、大先輩だぞ!」
「がっはははは!」
「お、おう。佐源次、アキちゃん、こんばんは」
「こんばんは、喜代三郎さん」
喜代三郎は少し気まずい様子だ。
佐源次は辺りを見回した。そこには、弥平・鴫・吉次・壱次・五郎太・八治郎・惣一・又四郎・喜八郎とその取り巻きたちがいた。
五郎太以外それぞれ嫁もくっついている。いつもの面々が勢揃いしていた。
「ようこそアキちゃん。さあ、上がって」
「佐源次、さあさあ駆けつけ一杯だ、飲め!」
「アキちゃん、毎日看病ご苦労さま」
皆、二人を歓迎していた。すると吉次がこう言った。
「何があったかは大体想像できる。でも、心配すんな。おめえたちにも義兵衛にも俺たちがついてる」
吉次はどうやらアキの腫れた目に気づいたらしかった。
「そうさ、義兵衛は必ず元気になる」
「……というわけで、今日はアキちゃんの激励会だ。実は俺たちも今日義兵衛のところに行ってきた」
重い空気を鴫が取り払おうとして言った。
「そうやそうや、まあ楽しく飲もうや」
皆、しばらく楽しく飲んだり話したりしていたのだが、その和やかな雰囲気を喜代三郎が突如一変させてしまう。
「ア、アキちゃん! 申しわけねえ、ほん(ほんと)に申しわけねえ!」
そう言って涙を流しながら、何度も何度も土下座し始めた。アキはいきなりの喜代三郎の行動に戸惑いを隠せないでいる。
そこへ佐源次が割って入った。
「え、き、喜代さんそんな、何やってんだよ。土下座なんかしないでよ」
「い、いや俺のせいだ、俺のせいなんだ! ううっ、ちきしょう‼ まさか、まさかあんなことになるなんて……」
喜代三郎は唇を噛み締めながら畳を何度も何度も叩き、あのときの自分を後悔していた。
「喜代三郎さんのせいじゃないよ。自分のこと責めちゃだめだよ」
「だって、だってよお、義兵衛は、義兵衛はもう……」
すると、咄嗟に壱次が声を張り上げた。
「ばか、それ言っちゃダメだ!」
壱次の言葉も聞かずにそのまま続ける喜代三郎。
「ア、アキちゃん、実は義兵衛はな、き、利き腕潰れちまってよ。もう仕事には戻れねえかもしんねえんだよ! ううっ、だから、だから――」
「あんた! アキちゃんの前でなに言ってんだい!」
「喜代! てめえ、この野郎、なに言ってやんでえ! そいつは絶対に言わねえ約束だったじゃねえか‼」
五郎太が割れんばかりの大声で怒鳴り、喜代三郎に掴みかかったところで周囲が慌てて止めに入った。
「え? まさか、お兄ちゃんも知ってたの?」
「……?」
まさかのアキの言葉に一同驚いてしまい、皆拍子抜けしてしまった。さらに、なぜだかアキは笑みを浮かべながらこう言った。
「私、知ってたよ。だって義兵衛の包帯取れたあと、右腕だけぐるぐる巻きになってたもの。ふつう全部とれるよね? それぐらいわかるよ。でもね、そんなこと全然気にしてない」
にっこりしながらも、目には薄っすら涙が浮んでいた。
『伊南川の 風に揺すられ 葦の穂に 蜻蛉一匹 翅休め』
それから数日後――
伊南川の河原で柳の木に首を吊っている喜代三郎の遺体が発見された。
それは九月も終わりに近づき、朝晩の冷え込みも一層増してきたある日のことだった。
その日、明け方に犬を連れて散歩していた五郎太が伊南郷宮床村(伊南川東岸)の伊南川土手にさしかかったとき、朝霧の中に人影らしきものが見えた。
近づくとそれは木にぶら下がっていた喜代三郎だったのだ。
それを見た五郎太は顔面蒼白になった。一瞬息を呑んだかと思うと慌てふためき、すぐさま家に戻ってきた。
喜代三郎宅――
その晩、喜代三郎の通夜が行われた。
小夜のすすり泣く声が聞こえる。庄屋を初めとし、組内、隣組や近隣に住む者、親戚縁者などが手伝いをしている。
世話焼きで口数が多く、よく旦那を叱っていた小夜が今は絶望のままに項垂れ、終始泣き続けている。
何も知らない喜代三郎の子どもたちが鬼ごっこをして駆けずり回っている姿が仲間たちの涙を誘った。
その中に佐源次とアキの姿もあった。ひたすら泣き続ける小夜の肩をアキがそっと抱き寄せている。
「アキちゃん、ありがとうね。大丈夫だから、ほんとに大丈夫だから……」
壱次もその妻もそんな二人に何も言えず、ただ見つめることしかできないでいた。
翌日、喜代三郎の葬儀が執り行なわれた。
小夜が喪主となり、午後、伊北郷下山村の南照山観音寺から第十一世住職果永法印が来て枕経をあげた。
喜代三郎の家もまた義兵衛の家同様に不動信仰をしており、片貝村不動寺の檀家だった。
また、不動寺は南照山観音寺の末寺になっている。その住職を兼務していた果永法印が経をあげに来たのだ。
その頃、大成院療養所では義兵衛の身に異変が起ころうとしていた。
病室で呻き声を上げながら七転八倒する義兵衛。その声を聞きつけ、驚いた成賢が大急ぎで駆けてきた。
「うう、ううあ、うおあーーーー‼」
「義兵衛、おいどうした! ん? わしの声が聞こえぬか、義兵衛!」
その声は段々強くなり、終に叫びへと変わった。
「ううあ、ああ、あ、あぁぎゃあーーーー‼」
まるで断末魔の叫びであるかのようだ。血相を変えて起きてきた成賢の妻ヨシが慌てふためいている。
「あ、あなた! 一体どうしたの?」
「ヨシ、頼む! 義兵衛を押さえたい。手伝ってくれんか」
二人は未だのた打ち回る義兵衛を必死で押さえにかかるが、なにせこの体格の青年を押さえつけるには相当な体力と腕力が必要だった。
「力が凄い、こりゃだめだ! ヨシ、みんなを呼んでくれ、早く!」
ヨシはそのまま外に出ていき、近隣の家々に向って大声で叫んだ。
「誰かあ! 起きてる方いらっしゃらない! 誰か来てえーーーー‼」
その声を聞きつけた村人たちが跳び起き、次々と表に出てきた。
「なんだなんだ?」
「お、ヨシさん! なじょしゃったや(なにかあったんですか)?」
「義兵衛が、義兵衛が!」
ヨシは興奮していてそれ以上言葉が出ない。
「義兵衛が、どうしたって?」
「おう、みんな、とにかく行ってみるべ」
数人の男たちが大成院に駆け込んでいった。その中の一人が気づいたように言った。
「おい、叫び声聞こえるぞ。義兵衛の声じゃねえか?」
「あ? おう、そうだな。ヨシさん、一体何があった?」
「まま、落ち着っきゃれや(おちついて)」
ようやく落ち着きを取り戻したヨシが事情を説明する。
「そんではなあ……俺らぐらいじゃだめだべ。もっと力ある奴連れて来ねっか、なあ?」
「んじゃ、あれだ。あのう――」
「うん、あれな、欣作んとこの」
片貝村の男衆の中で一番体格がよく、力自慢の仁作を呼ぶことにした。
「起きてっかなあ……」
「急用だぞ! んなもん無理矢理起こしちまえ!」
程なく仁作が連れられた。まだ眠そうに目を擦っている。
「……ああ、眠い。しなったち(あんたら)、なにや? 何っかあったかや? んん……義兵衛? ああ、義兵衛なあ。んじゃ分かった、いっちょやってみっかあ」
義兵衛は右腕を押さえながら未だのた打ち回っている。大人数人がかりでさえ押さえることができずにいた。
「おう仁作、頼む!」
仁作が加わり、義兵衛の体は何とか押さえることができた。
「い、いてえ! いてえ、あ、あああ……」
ひたすら悶え続ける義兵衛。痛みを堪えるあまり、力が入りすぎて体全体から大量の汗が噴き出している。
そんな状況の中、やむなく成賢が声をかけた。
「義兵衛! 聞こえるか? わしじゃ、成賢じゃ!」
「き、聞こえる、大丈夫……」
「どこが痛む? 右腕のどこじゃ! ここか? これか?」
苦悶の表情で首を縦に振っている。
「どれ、ちょっと腕を診るぞ」
成賢が包帯を取ると、周りがその痛々しい義兵衛の腕を見て目を背けた。
骨折も相当酷く、また縫合した傷が開いてしまい大分膿んでいた。夏場だけに、いくら消毒しようにも追いつかなかったようだ。
「ヨシ、化膿止めと油紙、それと包帯を持ってこい!」
(うむ、これではもはや、切断も已むを得んか……)
さすがの成賢にも切断という選択が過る。しかし、たとえ使えなくなろうと義兵衛を思えばやはり切断だけは免れたい。
(何とかせねばならん。他に何か方法は、最善の選択は……)
それから暫しの時間があった。
何とか義兵衛も落ち着きを取り戻し、成賢の賢明な判断と処置により、何とか切断は避けることができた。
危なかった、もう幾日か遅ければ確実に義兵衛の右腕は腐り落ちていただろう。
そんなことが起こっていたとは露とも知らず、佐源次はさらさらと秋雨が降り続ける夜空を見上げながら呟いていた。
「……義兵衛、早く元気になってくれよ。戻ってきてくれ、早く」
佐源次たちの祈りは果たして義兵衛に届くのだろうか。
少なくとも、この時点で成賢始め、片貝の村人は皆一様に義兵衛の怪我が痛みの原因だと思っていたのだが、義兵衛がもがき苦しんだ本当の理由は他にあった。
十五、混沌の闇
どんよりと厚く圧しかかった暗い雲。
十一月、この時期になると南会津では初雪もみられ、風も一段と強くなってくる。すすきも枯れ始め、山々の紅葉も散り去り、冬の足音が聞こえてくる。
あれからもう一月以上が過ぎた。何も出来ないまま、ただ闇雲に過ぎていく時間。
義兵衛の姉も親戚も、そして仲間たちも、皆、徐々に疲労の色が隠せなくなっていた。
義兵衛の事故、亡くなった喜代三郎、その喜代三郎が見たという夢の話、いずれ不可解な話ばかりだった。
山師たちや村の仲間もいよいよ気味悪がり色々と噂を立て始める。
ある者は不動様の怒りに触れた、またある者は山の神の祟りだ、やれ物の怪の仕業だと言う者まで現れ、仕舞いにはその迷信を信じ、禍を怖れた村人たちが無闇やたらと神仏や地域信仰に没頭していった。
混迷の世も終焉を迎えようとしていたこの時代に、人々は皆迷い、惑い、そして憂い、何かに縋りつかなければ生きていけなかったのだろう。
久川城本丸「無頼殿」――
通称そう呼ばれている四役が集う場所、正式には「朱雀殿」と言う。朱雀の名のとおり、中の壁などが朱塗りになっていた。
「源助、巳代治はどうだ?」
「は、よく兵を率い、纏め上げております」
「……そうか」
「重次郎もよく付き従い――」
「うむ」
「たまに修練場にて二人を見かけます。どうやら巳代治が槍術指南を。先ほども、足軽を含め、ざっと二百名近くが熱心に稽古をしている姿を見ましたが……これが、中々の大所帯です」
腕組みをしたまま盛次は頷いている。そこへ、満足げな表情を浮かべた盛勝が現れた。
「おう、巳代治の足軽隊と他の者たちは熱心に稽古しておる。がっはっはっは‼ 感心、感心!」
「ところで殿、政宗の動きが――」
「分かっておる」
「そういえばな……つい先日、巳代治がわしにこう問うてきた」
「何をだ?」
源助は巳代治が盛勝に訊いたその問いが気になった。
「いやあ、伊達の動きをだ。あの若さでのう、我々を気遣う仕草も見せる」
「……この河原田を思ってのこと、か。しかし、さほど驚くことでもあるまい」
「それはそうかも知れんが……まあ、わしの考えだが、あやつは番頭あたりでは勿体無い。見込みがある若造だ!」
盛勝はあの一件以来、巳代治をかなり買っているようだ。
「御館様、わしはあやつを推薦したい」
「……一軍団任せる、ということか?」
「そうじゃ!」
そこで源助が口を挟んだ。
「しかし盛勝、幾らなんでもそれはまだ……巳代治は若すぎる」
「ちっ、お主は相変わらず頭が固いのう」
苛立つ盛勝と冷静な源助。
盛次と平左衛門は黙って二人の遣り取りを聞いていた。
十一月も半ばにさしかかり、毎朝地面に霜柱ができるようになった。雪もたまにちらつき、いよいよ冬将軍の到来だ。
皆、義兵衛のことを忘れかけていたある日、いつものように山に入り伐採作業をしていた弥平と吉次は、一段落したため一服しながら暖をとっていた。
その場所は椿山の山中だった。
沼田街道沿いの伊南郷中小屋村(南郷地区山口字六十苅)とその東に位置する入小屋村(同地区東)を流れている小屋川を挟んだ南東側にある。急斜面ばかりが目立ち、山仕事には不向きな危険地帯だ。
たまたま運悪くその現場に当たった二人は、自分たちの引きの悪さを痛感していた。
「しっかしなあ、弥平さんと組むといっつも厭な仕事ばっかだな」
「んん? 吉、まあそう言うなや」
「最近ちょくちょく弥平さんと組むのが多くなったが、これは何でかと言えば……あ、そうだった、義兵衛がいた頃はあんまりこういう組合せ、なかったもんな」
吉次が愚痴を溢すのは稀なことだ。しかし、弥平は相変わらずのんびり口調でそれを受け流している。
「それにしても、義兵衛は戻ってくるんじゃろうかのう」
するとその時だった。
いつも山に入るときに連れてくる吉次の愛犬が遠くで頻りに吠えている。蝦夷地原産のアイヌ犬で知人から譲り受けた。粗食に耐え、中・大型で寒冷地に強く勇敢であり、主に狩猟犬としての特色が強い。
家では猫を飼っている義兵衛だったが犬も好きだったためにえらく可愛がっていた。
名をリュウというその犬もまた、義兵衛にひどく懐いていた。全身真っ白で大柄なリュウは熊避けにも役立ち、山仕事には欠かせない山師たちの心強い用心棒だった。
「リュウ、どうした? リュウ!」
吉次が呼んでいる。しかし、リュウは一向に戻る気配がないばかりか尚更大きく吠えている。
狩猟犬は獲物や興味を引く何かを見つけたときにはその場を離れようとしない。
そのため仕方なく吉次は休憩を取り止め、取り敢えずリュウが吠えている場所へ向かうことにした。
「何だろうな、いやにリュウが吠えるなあ。何かあったと思う。弥平さん、俺ちょっくら行ってみますよ」
「あいよお、気つけてな」
すると、暫くして吉次が弥平を呼んだ。
「弥平さーん、ほおぉーー‼ 弥平さーん、ちっとこっち来てえーー‼」
「ん? なんだあ、なじょうかしたかあ(なにかあったのか)?」
弥平はゆっくり立ち上がると、のそらのそら藪を掻き分けて茂みの奥へと入っていった。
「……誰じゃや?」
「おい、しっかりしろ! 大事ないか?」
そこには一人の山伏らしき姿をした中年男が横たわっていた。
木伏村に聳える霊場、唐倉山との境に位置するこの峡谷。余りに急な斜面で岩場が多いこの場所は、普段から人もろくに足を踏み入れない。
「死んでるのか?」
「……分からんのう」
「あれ? 弥平さん、こんなとこに祠あったなんて知ってたかい?」
「うん? いいや、ここは普段誰も足を踏み入れんじゃろう。はてな……昔、ここに山の神か何かあったかのう」
男は古ぼけた小さな祠の前でうつ伏せに倒れていた。よく見ると、左手に何かを強く握り締めているように見える。
その石祠は注連縄も紙垂もなく、とても手入れされているようには見えず、おそらく長年放置されたまま雨風に晒されたため、その浸食によってかなり朽ちていた。
祭神か仏像か、厨子に何かが安置されていたのだろう。
空洞があり中は空っぽで、裏を見ると何やら文字らしきものが刻んである。だが、風化が余りに甚だしく解読不能だった。
リュウが弱々しく鳴きながら、男の首筋の匂いを頻りに嗅いでいる。
「うむ、とにかくみんなを呼ぶしかあるめえ」
その男の鼻に手を翳すと僅かに息があった。どうやら死んではいないようだ。
二人はすぐに仲間を呼び集め、五郎太が男を背負い下山した。そして、そのまま男を大成院に運び込んだ。
その晩、山伏風の見知らぬ男が発見されたという知らせが入り、吉次の家に村人たちが集まった。
「どっから来たんだべな?」
「木伏の法印様んとこの、ほれ、弟子っちゅうかその、なんだ」
「いわゆる、その……修行僧、それとも修験者ってやつか?」
「おお、それだそれ」
「……にしても、ここらじゃ、とんと見かけねえ面だぞ」
片貝村「大成院療養所」――
男がようやく目を覚ました。意識ははっきりしているように見える。
「……ここは?」
「目が覚めたようじゃな。お主、この辺りでは、ちと見かけぬ顔じゃが」
義兵衛が眠っているその脇に男が横たわっていた。
「もしや……あなた様が、この私を?」
「いや、違う。わしは蓮華院という寺の法印。名は大学と申す」
後ろには成賢がいた。
「具合はどうですかな? どこか痛みなどは?」
「……いいえ、とくには」
「そうですか、ならばよかったですな。私はこの村で医者をしております、渡部成賢と申す者ですが」
「……して、お主、名は何と申す」
大学が男に訊いた。
「は、申し遅れました。私、道戒と申します旅の聖にてございます。修行で全国を行脚しておりましたが、ふとした切欠でこの地に。ところで……先ほど、名を大学と?」
「いかにも、わしは大学じゃが」
「そうですか! いや、私はあなた様に会うためにこの地に参ったのでございます」
「このわしに?」
「はい、実は陸奥国會津郡は伊南郷という地に高名な修験者がいるとの噂を耳に致しまして、是非ともお会いしたく。よしんば、大学殿の下で修行を致したく思い……」
大学は暫く考え込んでいた。
「……ううむ、そうか。なれば、明朝寅の刻(午前四時頃)、唐倉山の山道入り口まで来るがよい。ところで道戒とやら、お主、国はどこじゃ?」
「相模にございます」
「相模ですか、また遠路遥々(ばる)」
じっと二人の会話を聞いていた成賢が驚いたように言った。
大学は尚も道戒に訊く。
「では、なぜにあの場所にいた」
「……はい」
道戒はその経緯を話し始めた。
「駒止山を下り、街道沿いから唐倉という山に登る途上、苔生した小さな祠に躓きまして。その祠に祀ってあったこれまた小さな不動尊像が目に留まり、つい手に取ってしまったのです。すると、その像が私に何かを語りかけてくるような気が致しまして。どうもそのとき気を失ったようで。そして、これがその――」
道戒は左手に握り締めていた小さな石不動を見せた。
「ほほう」
成賢は顔を近づけてまじまじと見ている。
「手に取ってもよいか?」
大学は石不動を手に取り、しばらく眺めていた。
「うむ、この不動尊立像、風化のせいなのか元々なのか――」
「大学殿、何かお解かりなのですか?」
「ん? いや、小さい上に風化もしておるからの。どうにも判別しにくいんじゃが……どうも、見るにこれは右腕がないようじゃ」
「右腕が、ない?」
「そうじゃ、利剣を持つ右手がないのじゃ。ううむ、見ようによっては何か意図をもって削ぎ落としたようにも見受けられるが」
大学がふと義兵衛を見た。すると、ちょうど義兵衛が目を覚ました。
「……ほ、法印様」
「おお、義兵衛よ、起こしてしまったようじゃな」
「声が大きかったようじゃの。いやいや、済まん済まん」
成賢がそう言ったとき、義兵衛は隣で横になっている道戒に気づいた。
「隣の方は?」
「……初めまして。私、道戒と申します。このような寝姿で面目ない」
「椿山と唐倉山の間で倒れておったんじゃよ。五郎太がここまで負ぶってきたんじゃ」
「さあ、夜も更けた。わしはそろそろ寺に戻ろうかの」
「法印様、態々(わざ)ありがとうございました」
成賢は大学に深々とお辞儀をした。さらに義兵衛に向かってこう言った。
「義兵衛、お前の腕の傷もそろそろ治る頃。わしにできることは終わった。あとは法印様がお前を守ってくれるじゃろうて」
翌朝、寅の刻――
大学との約束どおり、道戒は唐倉山の登り口に来た。体はもう大丈夫のようだ。すると、後ろから軽快な錫杖の音が聞こえてきた。
「大学殿!」
「うむ、来たか。体は大丈夫そうじゃな、では行くぞ!」
大学は薄橙の法衣を纏い、額に頭巾、首に鈴掛けをし、袈裟に輪宝、右手に法螺貝、背には笈を背負い、そして左手に錫杖と金剛杖を持っている。
大学は道戒に錫杖を手渡すと、合図と共に山頂を目指して一気に駆け登っていった。
明け六つ(午前六時頃)、山頂の突き出た岩に立った大学は法螺貝を吹いた。
「道戒、実はここに来た目的がもう一つある。すでに気づいておると思うが、まあついて来い」
そう言うと、大学は北側の急斜面に向った。
岩の断崖で足元も覚束無い危険な斜面。しかし、大学はそれをものともせずに岩から岩へ跳び移りながら駆け足で下りていく。
道戒も負けてはいない。慣れぬ岩山を大学に続いていった。着いた先は道戒が倒れていた場所だった。
「ここじゃ、これを調べにきたのじゃ」
「やはりそうでしたか、私も承知しておりました。大学殿が必ずこの場へ来るであろうと」
祠の裏に刻まれた文字はやはり解読できない。それどころか、祠も不動尊像もいつ誰が造ったものなのか全く分からなかった。ただ、唐倉山には平安時代からとある言い伝えがあった。
その伝説とは――、平安中期、源八幡太郎義家が安倍貞任を討伐する際、この南会津の地を踏んだとされ、また平安後期に源頼政と謀り、諸国の源氏を誘って平家討伐を企てて失敗した高倉宮以仁王が越後に敗走する際にもこの地を通ったという。
その二日後、成賢の言ったとおり義兵衛は大成院を無事退院することができた。大成院の前では近所の村人たちが集まり、皆揃って退院を祝っていた。
そこには吉次の妻淑子もいた。
「義兵衛、治ったんだね? よかったよう、あんたみんなに心配かけてえ。よかったよ、ほんとに……」
「みんなに迷惑かけちまったな」
そこに、義兵衛を心配するあまり仕事を半日で終えた吉次がやってきた。
「おお、おお‼ 義兵衛、元気になったか、ええ? よかったなあ、ほんとによかったあ。ああ、よかった……。お、おう、それはそうと義兵衛すまねえ、他の奴らどうしても休めなくてよ」
「いいっすよ、吉兄者来てくれただけでも嬉しいから」
吉次も淑子も堪えきれずに涙を流した。
「よーし淑子、今夜は大宴会だ! 義兵衛の快気祝いやるぞ!」
十六、一臂の樵
十二月――
會津に本格的な冬が到来した。
見渡す限り一面の銀世界。とくに南会津地方は雪深く、合掌造りの曲り家の一階部分はみな埋もれてしまうほどである。
山の木々は枯れ果て、伊南川の水面には氷が張っている。
野うさぎが田畑に点々と足跡を残し、早朝はきらきらと舞う氷の粒が希望の光となる。そして、夜は地吹雪が吹き荒れ、全てが閉ざされた暗黒の世界となる。
今までの借りを返すように義兵衛は以前にも増して精力的に働いていた。
吹雪にもかかわらずその鍛え上げられた肉体を晒し、新たな門出にと佐源次が用立ててくれた今までよりもさらに一回り大きな斧を振るっている。
まるで豪雪も融かしていきそうな勢いだ。
二度と動くことがない右腕を身体に縛りつけ、片腕一本で巨大斧を振り下ろす。
ただ一つ、あの瀕死の事故以来、義兵衛の身体に一つ奇妙な痕が残っていた。
それは、右腕と背中で巨木を受けた傷に他ならないが、背中にまるで不動明王の刺青を入れたような赤黒い痣と傷跡が現れたことだった。
少なくとも、療養所の時点では誰もそれを確認してはいない。伐木作業に復帰してから、あるとき義兵衛が暑くなり、真冬にもかかわらず着物を肌蹴て左肩を露わにしたとき分かったのだ。
始めは周囲も相当驚いていたのだが、そんな義兵衛の姿を見て、人は『不動の義兵衛』と渾名した。そして、仲間たちはその巨大斧を『鬼神斧』と呼んだ。
ただ、その「不動」とは、動かぬ右腕を揶揄して言った者も少なくなかった。ところで、亡くなった喜代三郎は生前、あの晩見た「奇妙な夢」を小夜に頻りに話していたという。
義兵衛が復帰したことで弥平と鴫を頭として組の新編制が組まれた。
弥平と未だ新米の善吉、鴫と相棒喜代三郎を喪った壱次、そして吉次と義兵衛の組はそのままに、そこへまだまだ未熟な清一郎が加わった。
吉次の組を三人編制にした狙いは、清一郎に義兵衛の仕事ぶりを見せることで早く一人前になってほしいという皆の願いからだ。
ちなみに善吉が急に体調を崩すことが多かったため、そのときは弥平の梃子として主に清一郎が入るようになっていた。
今日もまた雪山に出かけ、鬼神斧をまるで棒っ切れのように軽々と振るっている。
吉次はリュウに周囲の見張りをさせていた。
最早、義兵衛には憂いも迷いもないようだ。喜代三郎の死、親友や仲間たちの励まし、村人の惜しみない協力、そしてアキの自分への深い愛情。
たとえ利き腕が使い物にならなくても、全てを背負い受け入れた姿がそこにはあった。
満身の力を込め、一心不乱に巨木を薙ぎ倒している。
「おう義兵衛! 今日もいい地響きがするな。つくづく思うけどよ、しかしその斧の威力は凄まじいもんがあるよなあ」
「佐源次が快気祝いにくれたんです。切れ味も抜群だし、斧自体の重さで大木もものともしないですよ。吉さん、使ってみますか?」
「阿呆、そんなバカでかい斧使えるか!」
「はは、まあ……」
「それはなあ、不動の義兵衛しか扱えねえ代物なんだよ。そうだ、清! 義兵衛のをよーく見とけよ!」
あからさまな生返事をする清一郎に果たしてやる気などあるのだろうか。昼近くなった頃、遠くから義兵衛を呼ぶ声が聞こえた。
「お、来たぞ。三池屋のお嬢さんのお出ましだ。さてと、お邪魔虫は消えるかな」
「ぎへえ!」
アキは最近毎日義兵衛に手作り弁当を持ってくる。さすがは旅籠を持っているだけのことはある。弁当の中身は豪華絢爛、贅沢三昧だ。
アキが息を切らして山道を登って来た。
「義兵衛、今日はいつもよりもっと頑張って作ったんだよ。ほらあ、すごいでしょ?」
「おお、こりゃ凄えなあ! アキちゃん、毎日ありがとなし!」
どさくさに紛れ、吉次が礼を言いながら手を出す。その手はアキにパシッと弾かれた。
恒例となった「通い妻アキ」に、昼飯に集まってくる他の山師たちも羨ましがり、皆皮肉ったりからかったりして遊んでいた。
さらに輪をかけて壱次がアキをからかう。
「おいアキちゃん、あんまり見せつけんなよ」
すると、弥平が恨めしそうにこう言った。
「壱、おめえさん、弁当の中身か二人の熱々ぶりか、どっちを妬いてんだ? あーあ、俺も女房のじゃなくて、アキちゃんの愛情たっぷり弁当がええのう」
「弥平の阿呆んだら、爺のくせしてなに抜かす!」
気真面目な鴫は本気で怒っている。それを見て吉次はひたすら笑い転げていた。そこへ清一郎が間髪入れず付け加えた。
「へえ、弥平さんて色ジジイなんすねえ?」
「……はは」
さすがに今度は失笑だった。
清一郎もやや気まずい雰囲気を察したようだ。本来であれば弥平の顔を立てなければならないのだが。
アキは義兵衛の右腕が二度と使えないことなど気にしていなかった。
初めそれを知ったときはひどく衝撃を受け動揺したが、義兵衛が生きていた、元気になった、というただそれだけで幸せだった。
十二月もいよいよ押し迫り新年が近づいていたこの頃、また以前のように山師たちにも活気が見え始めた。
迷信や噂が飛び交っていたことが嘘のように村の仲間たちにも安堵と笑いが少しずつ戻ってきていた。
そうして数日が過ぎた――。
師走はどこもかしこも慌ただしい。皆、新年を迎える準備に追われて忙しそうだ。夜は注連縄作りをする家が多く、また、日中は家中で大掃除をし始める。
義兵衛は二月もほったらかしで淋しい思いをさせてきた三匹の愛猫に謝った。
家を空けていたその間もじっと飼い主を待ち続け、家を守っていてくれたことに感謝していた。
もちろん猫たちの世話と自分の看病をしてくれたアキには感謝してもしきれない思いがあったため、どうにもこうにも頭が上がらないでいた。
正月の準備のため義兵衛も注連縄作りに余念がない。その傍らには猫をかまっているアキの姿があった。
「ねぇ、義兵衛そろそろ一休みしたら? こら、くう痛いよ。そんなに強く咬まないで、今ご飯あげるからね」
「そうだな。じゃあ折角だし、あれ飲むかい?」
「うん、飲む飲む。今持ってくるね」
三匹の猫の名前は、空・呑・子という。
三つの名前を繋げて『空呑子』と読む。これは義兵衛の造語で「大空を呑み込むほどの力を持ち得ていながら、敢えてまだその力を発揮せず、その時を待つ龍の子」という意味が込められていた。
「くうの咬み癖直んないな、やっぱ野良の意地か」
義兵衛がボソッと言った。
「違うよ義兵衛。遊んで欲しいんだよねぇ?」
空はしきりにアキの手を甘咬みしている。他の二匹はというと、囲炉裏の前で鼾をかいて寝ていた。
炭から柔らかな炎が揺らめいて家の中をじんわりと暖める。
火棚から吊るされた鉤の鼻にはまだ年越し蕎麦の鍋が掛かっていて仄かに温かい。
香ばしい匂いがする。
久しぶりに飲む花泉はまた格別だった。いつか飲もうと一本だけ酒瓶にとっておいたものを今夜は二人で楽しんでいる。
酒に弱いアキはほんのり酔っているらしい。
(……俺は今幸せか? そうだ、今、俺はやっと幸せに辿り着いた)
義兵衛は、小さな、とても小さな幸せをしみじみと感じていた。
ただ、この平穏な日々もそう長くは続かないということを、このときはまだ誰一人知る由もなかった。
いよいよ隻眼の黒竜が密かな企みを中に孕み、今まさに大空へ翔び立とうとしていた。
十七、臥竜、飛翔のとき
天正十七(一五八九)年――
この年、より積極策に躍り出る政宗は機熟したとばかり、まずは安積郡郡山とその周辺一帯を併呑した。
裏工作に長ける上、奇を衒い、一見狡猾な政宗だったが、その思考回路は緻密にして大胆というべき智謀の策士である。
前年から後妻の讒言に踊らされ続けた挙句実子を裏切り、また主君蘆名に対しては代々不義理を繰り返し、その上伊達に気脈を通じて臣従の誓いを立てる猪苗代盛国。
その盛国を巧みに操り急先鋒とし、政宗は終にその兵二万三千を磐梯山麓摺上原に向けて進軍させ、またこれを迎え討つべく蘆名義広は伊達軍にその数到底及ばずも一万六千の兵を率いて、同じく摺上原に軍を進めることになる。
ただでさえ後継者問題に端を発する家臣分裂状態を招いていた蘆名にとって、盛国が伊達に恭順を示したことは、その衰退をより一層加速させる要因となった。
話しは変わるが、東部・西部に分けられるこの南会津地域は駒止峠を境にしている。
この駒止峠の名前の由来であるが、先に述べた唐倉山の件にも登場した武将、奥州討伐によりこの地に攻め込んできた源義家の軍がこの峠にさしかかったとき、余りに急な岩山のため馬が脚を止めた、という言い伝えからきている。
武勇人として名高い、義家率いる勇壮な騎馬武者たちでさえ怯むほどの山だった。
ちなみに駒止峠と唐倉山は連山であり、また南会津西部地域は標高が高く高原地帯で、福島県随一の豪雪地帯でもある。
さらに越後山系に属する急峻な岩山に両端を隔て、中央に伊南川(下流にて只見川となる)が流れるため、まさに天然の要塞といえた。
元日子の刻、元朝詣り――
まだ夜も明けぬ真っ暗な雪道を義兵衛とアキは初詣に出かけた。
深々(しん)と降る雪の中、初詣の一番乗りを目指し、ザクザク音を立てて早歩きしている。
「すごい寒いよう。義兵衛早い! ちょっと待ってよ」
義兵衛の顔を覗き込み、アキが突然大笑いした。義兵衛には何がおかしいのかさっぱり分からない様子だ。
「義兵衛って、何するのもまじめな顔じゃない?」
「……そうかなあ?」
顔を見合わせて笑う二人。
その一方で、隻眼の黒竜はさらに大きくうねり、その鋭利な爪で大地をしっかりと掴み、大きく息を吸い込み始めた――。
このとき、政宗は秀吉の心胆を寒からしむること一心に思い続けながら、安達郡は小浜城(二本松市)にいた。
方々に根回しも抜かりなく、そのあとは時満ちるを待つのみと意気込んで一気に會津の勇、蘆名に攻勢を仕掛ける肚でいたのだった。
同じくその頃、二日には海道岩城一帯を治める飯野平(大館山)城主、岩城常隆が田村宗顕の領地小野郷に侵攻した。
さらに、五日には相馬派の田村重臣、田村梅雪斎(顕基)の居城小野城を陥落せしめた。
義兵衛とアキは二荒山(熊野)神社に参詣した。それは当時、義兵衛が住む下山口にあった。
鳥居には太い注連縄、燈籠や境内には灯りが灯されている。真っ白な雪を煌々と照らし、降り積もる雪が辺りの静けさをより一層深くした。
アキが両手を擦りながらその手に息を吹きかけた。
「見て、息白いね。でも足全然冷たくない」
実は毎晩藁仕事をする傍ら、アキの足に合わせたげんべえ(藁沓)を作っていた。
「そっか、でも本当の寒さはこれからだな」
足跡がないところを見ると、どうやら二人が一番乗りらしい。
小声でアキが言う。
「やった、一番乗り。ねえ、義兵衛は? なにお願いごとするの?」
「それ言ったら叶わなくなっちまう」
「ふーん、そっか。私はね、村の平和とみんなの幸せと、あとは内緒」
「そんなにいっぱいだと神様困るんじゃねえの?」
「いいの!」
アキが脹れてしまった。義兵衛は何とかアキの機嫌を取りながら初詣を終えて家に帰った。
さすがに三が日は山師も仕事が休みだった。大きな欠伸をする義兵衛。
「じゃあ、もう寝よう? ねえねえ、ところで初夢って今日?」
「うん、初夢? 今寝るともう元日になってるから、今夜見る夢じゃねえかな?」
「そっかあ、どっちだろうね?」
アキが聞き返した次の瞬間には義兵衛はもう鼾をかいていた。
上山口「三池屋」――
源一郎は娘の恥曝しに気が気ではなかった。あの日以来、アキが帰って来ない上に義兵衛の家に住みつき同棲している。
頻りに夫を宥める彩子や、父の暴走を止めようと必死になる佐源次だった。
酒が回った源一郎はいつものように舌打ちし、苛立ちながら余目事を言い始める。
「全く、あの馬鹿娘! ちっ、何なんだあの男は」
それは一種の嫉妬だろうか。娘に対する男親の嫉妬ほど見苦しいものはない。
せっかく買いつけた舶来物のビードログラスを床に叩きつけ、それは無残にも粉々に砕け散った。
「暮れにも帰って来ない、年越しの晩も正月も。一体あいつは何を考えている。あんな男の、義兵衛のどこがいいのか知らんが……。銭も持っていない、財産もない、地位もない、あの不幸を絵に描いたような男を……。しかもただの樵だ、何の価値もない!」
「なあ、親父さあ……もういい加減にしといた方がいいと思うよ」
「そうよあなた、佐源次の言うとおり。あまり飲みすぎると体に響くわよ」
「喧しい‼」
源一郎の怒りが最高潮に達する。手元にあった鉄製の火箸を手に持つと大きく振り上げた。
「大体なあ、佐源次、お前もあんな者と近しくしても何の意味もないだろう。挙句身の回りに気味の悪い事ばかり起きる不吉な男よ。いいか、仮にもお前はこの三池屋の四代目。いずれお前が継ぐことになろうこの三池屋は先代から苦労に苦労を重ね土台を築き、俺が我が身の血を流し肉を削りながらここまでになったんだ! それが何だ? 息子は貧乏人と付き合い、娘はその貧乏人の世話焼きの真似事などして。お前ら兄妹は何を考えてる? あれほど三池屋の看板に傷を付けるな、俺の面に泥を塗るような真似はするなと言っていただろう! 仕舞いには村の者たちも色々と噂を立てては陰で笑っている始末だ。この三池屋を潰すつもりか‼ 全く、お前らというのは……。いいか佐源次、お前らは三池屋の看板を背負ってるんだ。あとな、今後一切俺に口答えするな! そして絶対アキを連れ戻してこい! それと、あの男との付き合いは金輪際するな、今俺が言ったことをしっかりと頭に叩き込んでおけ、分かったな‼」
戸を思い切り強く閉め、源一郎は居間から出ていった。
佐源次は深く溜息を吐いたあとこう言った。
「なあ、お袋、親父の酒癖とあのくそっ短気どうにかなんないかなあ……」
彩子は何も言えずに、ただ黙るしかなかった。
母彩子は元々陸奥(東北地方)の人間ではない。源一郎が若い頃、その父源右衛門から商売のいろはを学ぶために外に出されていた時に知り合い、その縁で結婚した。
源右衛門は源一郎を決して甘やかしたりはしなかった。商人として一から学ばせようとし、他人の飯を食わせ目一杯苦労させることでこの三池屋の三代目に就かせようと思っていたからだ。
その源右衛門の伝手で畿内の貿易商の下に学んだ源一郎はいわゆる丁稚奉公だった。
一方、彩子は和泉国信太村(大阪府和泉市)で実家が営む白木綿の紡績業を手伝っていた。
その祖は元々摂津の武家の出ということもあり、源一郎も刀剣や鉄砲などの知識を自然と身に付けることができた。
西国からそれはそれは別嬪な嫁を連れてくるという話が駆け巡り、当時領内外の村々までも源一郎の噂話で持ち切りになるほど話題をさらったという。