【義教のあと】
一四四一年六月二十六日、管領細川持之の鎌倉宛書状より。
『上様の御事、去る廿四日、赤松宿所に於て、不慮の子細』(足利将軍家御内書並奉書留)
“上様(足利義教様)は、去る六月二十四日、赤松の宿所で不慮のこととなった”
『是非無く候』
“是非もない”
『京都の事、毎事無為無事に候。御心安かるべく候』
“(だが、)京は、無為無事である。安心されよ”
将軍義教の横死から、わずか二日。管領は、やけに落ち着き、手回しが良かった。
『佐竹の事、相替らず忠節を致され候はば、目出候由、面々一同御申し候』
“(結城合戦残党である)佐竹義憲討伐の事、変わらぬ忠節をたのむと、面々申しておる”
天下を一手に握ろうとした将軍義教が一日にして消えた。書状を受け取った、上杉憲実・千葉胤直・小山持政・小笠原政康・武田信重ら関東諸将は、事態に困惑する他なかった。
上様に何が起きた。義教の支援で二十一年の亡命を終え、ようやく甲斐へ帰国した甲斐守護・武田信重は、事態を愁えた。秋、信重は上洛し、九月三日、高野山に向かった。
『甲州武田刑部太輔信重殿御登山之砌御法躰供奉大井殿栗原殿両人也』
(高野山成慶院所蔵・『武田家過去長』)
“甲斐の武田信重殿が高野山を登った折、僧侶姿で大井殿・栗原殿を連れておられた”
『普光院御所御塔婆一基 右同武田刑部太輔信重殿』
“武田信重殿は、上様のために塔婆を一基建立された”
十日、山名持豊(のちの宗全)を搦手大将とする、伊予の河野・安芸の武田・小早川・吉川、石見の益田らの総攻撃を受け、赤松満祐の籠る播磨・城山城は陥落した。京を進発する前の七月、山名は赤松攻めの軍費と称して京中の土蔵(金融機関)を略奪して回り、激怒した管領に侍所頭人を解任されている。だが、勝てば官軍だった。山名は、播磨・備前・美作の守護職を得た。
暴れる山名に。将軍の死より、土蔵の危機に怒る管領。天下は乱れる。一四四二年八月、甲斐に帰国して大井・逸見を警戒する信重に、更なる悲報が届いた。九日、信濃守護・小笠原政康(従兄弟)が亡くなったのである。六十七歳。信濃では小笠原宗康(政康の子)と持長(従兄)が争い始めた。最早、信濃守護代大井持光の監視どころではない。持光め、千寿王丸のしぶとさよ。一四四六年三月、水内郡漆田原の戦いで宗康が討たれた。
『殊に力を落され候御心中察し存じ候』(小笠原文書・細川持賢の書状)
“(武田殿が)力を落される心中は、お察し致す”
『遺跡幷に守護職等の事、六郎方に仰せ付けられ候』
“小笠原の家督と信濃守護職は、光康(宗康弟・政康のもう一人の子)にするから”
信重は、その後も跡部らと甲信安定に意を注ぎ、一四五一年亡くなった(六十歳以上)。
思えば、この時に武田信虎・武田信玄・武田勝頼三代の苛酷な運命は決定付けられた訳です。
武田家と大井家・万寿王丸一族の因縁は、
この時から始まりました。
武田信重は、京で万寿王丸の今後を協議するため、上洛したのでしょう。信重は、“この時”間接的にではありますが、
「万寿王丸の将来の復権」を認め、「大井一族は、取り敢えず監視するだけで、討伐しない」ことを約束したようです。
だから、武田は”みんなから感謝された”のですね。
『甲陽軍鑑』に記録が残る「地政学に明るい武田信玄」が、川中島周辺に十年も掛けた意味も、この段が、大伏線となります。ある意味、第一章で最重要の段です。