【万寿王丸】
『いにしへの尊氏はたとへ普代一門といふとも。人の善惡不忠をえらび給』(結城戦場物語)
“昔の足利尊氏であれば、関東の譜代一門も、それぞれの善悪不忠をみて差配した”
『持氏はさはなくて。普代とさへ申なば。善惡をえらばず』
“だが、足利持氏は、譜代と聞けば、善悪を選ばなかった”
関東諸将は持氏の死を傍観し、無主となった関東は、上杉憲実が治めることとなった。
持氏遺児のうち、次男安王丸・三男春王丸は一四四一年四月十六日、結城合戦(結城氏朝・小山大膳大夫と結城城で蜂起)にしくじり、美濃国垂井金輪寺で斬られた。京勢・上杉清方(憲実弟)・小田・千葉・武蔵一揆。甲斐武田信重、信濃小笠原政康・村上頼清・真田源太らの大軍に敗れたのである。だが、同じく垂井に連れられた四男がいた。万寿王丸。
『信濃へ落行。大井越前守持光を頼居給ひし』
“(鎌倉陥落時、常陸の筑波別当大夫らに連れられて)信濃へ落ち。大井持光を頼っていた”
信濃佐久郡に潜んだが、結城合戦の際、大井家臣の蘆田・清野と共に結城城に入った。
『六歳にていまだ東西不覺の躰なれば一命を助』
“六歳で。いまだ世の中がわかる状態でもなかったので、一命を助けられた”
万寿王丸は幸運だった。この四月八日頃、義教の弟義昭は、九州で島津に誅殺されている。
そも、持氏が義教を敵視し始めたのは、一四三四年。義教は、前年十二月当主が急死した斯波家の家督に介入。斯波持有を退け、義郷(長く僧籍で政治と無縁)を越前・尾張・遠江守護に。しかも、義郷は二年後落馬で頭を強打し急死。更に、世阿弥を配流(楠木縁者)。二月中山定親が義教専横の処分者を列挙「公卿五十九名・僧侶神官十四名・女房七名」(薩戒記)。六月裏松義資(妹は義教室日野重子、義勝・義政の母)が盗人により『希代の横死』(満済准后日記)、また唐船奉行を設置。そこから義教は止まらなかった。大和越智を討伐。更に一四四〇年五月、その陣で功労者伊勢守護・土岐持頼を自害させ一色教親を守護に。更に、同陣で武田信栄に命じて一色義範を暗殺。一色領国の丹後・若狭・三河を、一色教親・武田信栄・細川持常に分割。一四四一年一月二十九日、長年義教を支えた畠山持国も、遊佐・斎藤と結託して河内に追放。残すは細川・山名、そして赤松であった。
六月二十四日、義教の最期。播磨守護赤松教豊邸。諸敵平定の賀宴。晩酌五献、猿楽三番。突如、厩から轟く音が響いた。何事だ。雷でしょうか。瞬間、背後の障子が開いた。
『管領・細川讃州・一色五郎・赤松伊豆等ハ逃走』(看聞日記)
鎧武者数十人。義教が斬られ、傍らの三条実雅も眼前の引出物の太刀を抜くが、斬り伏せられる。管領細川持之・細川持常・一色五郎・赤松貞村・山名持豊らが、即座に席を立つ。抜刀した大名は大内持世と京極高数のみ。夜、管領が内裏に若君擁立を奏聞した。管領も九州の菊池討伐を突き付けられた身であった。七月、万寿王丸は諸家の好意で上京、土岐持益邸に預けられた。上杉憲実は子息多数を僧籍に入れ、弟清方は越後越中境で謎死した。
補足①:管領細川持之は義教より若年。山名持豊は、家督継承時、義教に助けられていた。義教にとって細川・山名は安全牌だった。
問題は、赤松満祐である。
元来、義教は将軍就任時に、「赤松はやし(播磨の田舎踊り、二代将軍足利義詮の時代、細川清氏・南朝に京を奪われた際、幼年期の父義満は播磨の赤松家のもとに避難した。その際、赤松は田舎踊りを見せて、幼年の義満を慰めた)」を見たいと満祐に頼み、赤松邸で歓待を受けたのを皮切りに、毎年赤松邸で「赤松はやし」を見物していた。
つまり、義教と満祐は、仲が良かったのである。だが、山名持豊が山名家当主となるに及んで、山陰の山名は、赤松の播磨美作に野心を持つようになった。狙いは瀬戸内である。
逸話集『老人雑話』によると、ある日、山名持豊と赤松満祐が義教に出仕した時。持豊は庭の枯木を見て、「あの赤松を斬て捨て申そう」と満祐の目の前で言った。
満祐は、口が達者だったので、「山なをか(庭にある山をか)」と切り返し、ことをおさめた。一四三七年十二月、山名と赤松が対立し、非常に珍しいことに、義教は両者を宥めて和解させた。
だが、義教期最晩年、満祐は義教から(赤松と縁の深かった)荘園の分配で冷遇を受け。ついには、赤松家臣達は「満祐は精神に変調をきたした(ので、外に出れない)」と周囲に触れて回る状態になっていた。義教・山名によって、老齢の満祐を除き、西側の要所・播磨を狙う動きが起きた。満祐は四代将軍義持とも対立した前歴を持つ人物であり、座して死を待つ人物ではなかった。
補足②:
義教暗殺時、抜刀して応戦した大内・京極は家督継承時、義教の恩を受けていた。なお、近習の山名熙貴・細川持春、走衆の遠山某も抜刀したが、斬られた。いずれにしろ、将軍の最期に刀を抜いてくれたのは、たったの六名だった。山名はその場で斬り死、細川は両腕を切り落とされ、遠山と京極は邸に戻った後、死去。大内持世は重症を負い、一ヶ月後に亡くなった。ある意味もっとも不運だったのが持世で、安芸の所領に圧迫を掛けてきた義教の機嫌を取るため、熟考のうえ、ようやく上洛したところ、嘉吉の変に巻き込まれてしまった。
補足③:
万寿丸は六歳なので助命されたのであるが、
かの藤原不比等らが定めた養老律令に「七歳以下の子供は死罪としない」という規定がある(江戸時代、大塩平八郎の乱で、大塩の次男が、これによって助命されて島流しとなっている)。したがって、どこかから助命嘆願があったのではないか?と思われる。というより、穏便な決定であった。
また、『鎌倉大草紙』によると、持氏は生前に嫡男の烏帽子親を探す時、鎌倉府の家臣に「誰を烏帽子親にするべきか?」と聞いた。持氏は「義教がいるからな(邪魔するからな)」と笑っていたという。結局、件の嫡男は八幡宮で元服することとなり。これに関東管領上杉が、何故将軍を烏帽子親となさらないのですか、となり。鎌倉公方と関東管領は衝突。義教による鎌倉公方討伐となった。
補足④:
斯波家からは、幼少の当主千代徳丸に代わって、一四四〇年四月十日、斯波持種が関東に出陣した。その際、有力家臣の朝倉頼景(当主教景の弟、教景はかの朝倉孝景の父である)が二百騎で鎌倉に入った。結城城陥落までに、美濃と越前勢(甲斐・朝倉勢)は八百余騎が討たれた(結城戦城物語)。
義教は、朝倉頼景の武勇を褒め、越前和田庄を与え、雷光の剣を下賜した。斯波家の有力臣朝倉家は義教に認められ、懐柔された形となる。
一四四一年、義教暗殺時、侍所所司・山名持豊は、「赤松家・家臣の縁者」であることを理由に、朝倉家の当主教景を罰そうとした。
だが、教景は、昔はそうだったが今はそうではない、と否定し、難を逃れた(建内記)。
義教が、斯波家有力者の朝倉一族を抱き込むなど、多方面から赤松の孤立を進めていたことが窺える。
義教は、“あと数歩”で、優位体制を確立できるところであった。