第一章 古河公方【公方にことを嘉吉元年】
室町時代、関東は鎌倉府が治める。管轄国は「関東御分国」と呼ばれ、相模・武蔵・上野・下野・常陸・上総・下総・安房、それに甲斐・伊豆が該当した。推計238万石。これらの国の大名国人衆は鎌倉公方に仕え、「上倉」し(鎌倉に上ること)、勤仕を行った。
『京都・鎌倉の御両殿は、天子代官として諸侍忠否の浅深を糺し、御政務あるべき』
(殿中以下年中行事・峰岸純夫「享徳の乱」三二頁)
“京都と鎌倉の公方は、天子様の代官として侍達の忠義をただし、政務を行なった“
当時、京の将軍と鎌倉公方は『御両殿』と呼ばれ、「天子の代官」と位置付けられた。
『大樹と申すなり』
〝「大樹」と呼んだ〝
だが、両者はしばしば「都鄙之公方」と区別された。将軍は都を護るが、鎌倉公方は田舎の主に過ぎぬ。ために、将軍は鎌倉府の支配を目論み、鎌倉公方は離脱を図った。
鎌倉公方は「鎌倉殿」と呼ばれ、家宰を〝公方殿の御代官〝関東管領山内上杉が務めた。
●関東管領:山内上杉(管領)、扇谷上杉(評定奉行・小侍所)、政所(二階堂)、侍所(千葉)、社務・社家奉行(勝長寿院・箱根奉行)、
管領家宿老(長尾・大石・太田・上田)
うち、扇谷上杉の家宰太田は相模国守護代である。かの越後上杉は山内上杉から出た。
●御一家(吉良・渋川・一色ら鎌倉公方の一門)
●各国守護:山内上杉(関東管領、上野・武蔵・伊豆)・三浦(相模)・結城(安房、小山と交代で下野)・佐竹(常陸)・千葉(下総)、上総のみ不明
山内上杉以外は〝外様〝。
他に、小田・宇都宮・那須。関東管領・政所二階堂・各国守護は、正月に鎌倉公方を自宅に招いて饗応ができる。彼らが「支配層」である。
●奉行衆(鎌倉公方直臣団):野田・木戸(宿老)、梶原・二階堂・本間ら(御所奉行)
●国人と一揆(在地勢力):国人は鎌倉公方に〝座敷内〝で対面できるが、一揆(中小武士層の地域集団)は縁先でしか対面できなかった。
関東管領上杉。三ヶ国守護。推計90万石。鎌倉府37%を持つ監視役。鎌倉府は火薬を抱えた。にもかかわらず、一四三四年三月十八日、鎌倉公方足利持氏は野心を持った。
『武運長久子孫繁栄現当二世 安楽殊者為攘呪噛怨敵於未兆荷』(鶴岡八幡宮蔵・血誓願文)
〝武運長久・子孫繁栄のため、関東をうかがう、将軍足利義教を祓いたまえ〝
過ぎたる願いであった。関東管領が認める筈がない。一四四〇年八月、焦る持氏は、嫡子賢王丸の元服式に参列せぬ関東管領上杉憲実に征伐の兵を挙げた。下策であった。西から京命を受けた今川武田小笠原の大軍が迫り、持氏は鎌倉永安寺で自害した(永享の乱)。
ここに鎌倉府は滅びた。だが、一四四一年、足利義教も亡くなった。それも暗殺による。
『いなかにも京にも御所のたえはて〃公方にことを嘉吉元年』(結城戦場物語)
〝(されば、京童は)田舎も京も御所が絶えた。「公方に異変の嘉吉元年」とはやし立てた〝