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【戦国時代 ー人の難 衆の狂ー】  作者: ヒデキ


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【江の島合戦】

一四四九年四月、足利義成(義政)が将軍に就任し、東でも鎌倉公方の復活が決まった。足利持氏の遺児万寿王丸。これを新たな鎌倉公方とし、鎌倉府を元に戻す。

『無數の圭弊をついやし丹精を盡しなげき申しければ』(鎌倉大草紙)

“越後守護上杉定房らが、大枚の贈賄を行い、丹精を込めて懇願したからである”

管領畠山持国の判断である。七月万寿王丸は鎌倉西御門邸に入り、「足利成氏」と名乗った。


越後守護上杉定房は、山内上杉・扇谷上杉の専制を望まず、特に長尾と対立していた。

●関東管領山内上杉:上杉憲実(出家隠遁)―憲忠(嫡子・関東管領)、長尾景仲(家宰)

●扇谷上杉:上杉持朝(出家し「道朝」、憲忠を娘婿に)ー顕房、太田資清(有力家臣)

『太田、長尾は上杉を仰ぎ憲実の掟の時のごとくに関東を治めんとす』

“太田資清・長尾景仲は(成氏が来ても)、上杉憲実の時のように、関東を治めようとした”

彼らは、成氏に遠慮して伊豆国清寺に出家した主君・憲実の心も無視し、上野武蔵で、国人一揆の取込みをすすめた。一方、利根川東に位置する諸家は、成氏に味方した。

●鎌倉公方派:小山持政・小田持家・宇都宮等綱・千葉胤政・結城・世良田・武田・里見

『成氏の味方と成て色々上杉を妨げ、権威を振るいける』

“成氏の味方となって、上杉をさまたげ、権威を振るった。

結果、関東には、鎌倉(成氏)を上野・武蔵国人一揆(上杉派)が覆い、上杉を公方派が覆うという二重構造が生まれた。成氏にとり、憎むべきは長尾・太田であった。

 

一四五〇年四月二十日、成氏は鎌倉を脱け出し、西の江の島に着陣した。翌二十一日、成氏軍(千葉・結城・小山ら)は腰越浦で長尾・太田連合軍と衝突した(江の島合戦)。成氏軍は東の由比ヶ浜まで押し勝ち、長尾・太田連合軍は北西の糟谷に後退した。

 慌てたのは、前関東管領・上杉憲実であった。憲実は駿河から弟道悅を招いて調停に乗り出し、京の管領・畠山持国も仲介に乗り出した。だが、双方収まらず。長尾・太田は一旦恭順した後、上野・武蔵国人らと語らい、離脱を強めた。十一月、越後守護・上杉房定が、守護代・長尾邦景(旧義教派、成氏とって仇敵)を切腹させ、頼景(邦景の甥)を守護代とした。東国を乱す長尾一族を排除する。管領の肩入れで、越後は幕府分国となり、守護上杉氏の優位が認められた。これと引き換えに、中下越の国人達に守護不入権が認められ、越後は長く混乱するのだが、この時点では長尾排除が優先されたのである。

『憲実をも鎌倉へ帰参可有由京都よりおほせ』

“隠居の上杉憲実を鎌倉へ戻すよう、京(将軍足利義成・管領畠山持国)から仰せがあった”

『成氏も再三御使有』

“成氏も再三(伊豆国清寺に)使者を送った”

だが、憲実は応じなかった。最早、自分は出家の「長棟」。先祖上杉憲房を弔う国清寺で僧となった身である。そう断じ、弟道悦(上杉重方)と西国行脚の旅に出てしまった。

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