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【戦国時代 ー人の難 衆の狂ー】  作者: ヒデキ


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【おおまか経済二 ―十五世紀前半の東アジアと日本の経済―】

一四四九年四月、足利義成(後の義政)が将軍となった。関東は上杉の統治が続いた。

『上州は上杉が分國なり』(鎌倉大草紙)

“上野は上杉分国である”

関東管領山内上杉家の隠居・上杉憲実は、関東諸士との敵対を嫌い、融和策に出ていた。

『足利は京都幷鎌倉御名字の地にてたにことなり』

“わけても「足利」は京・鎌倉、両公方の名字の地として、他に異なった”

『足利の學校を建立して種々の文書を異國より求め納ける』

“(応永元年長尾景人が)「足利学校」を建立し、様々な文書を異国から仕入れ納めた”

当時、日本で最も戦乱の匂いがくすぶる関東にあって、憲実は敢えて「文」を進めた。

『學領を寄進して彌書籍を納め學徒をれんみんす』

“足利学校に学領を寄進して、書籍を増やし、学徒を保護した”

『此比諸國大にみだれ學道も絶たりしかば。此所日本一所の學校となる』

“この頃、諸国乱れ、学問が絶えたので。足利学校は日本一の学校となった”

西の比叡山・興福寺に対する、東の足利学校。足利学校は日本有数の学問所となった。


 西の足利義成を支えるのは政所執事・伊勢貞国ら奉行人である。有力大名達を、公方と奉行人で如何に抑えるか。東西が共有する政治課題であり、だからこその人材だった。比叡山と興福寺、五山の禅僧。これら三勢力が人材を支える。このうち、比叡山は広く京政界、興福寺は摂関家、五山は足利将軍家と、それぞれ政治経済で結び付く。理財に堪能な僧達により、三勢力は財閥として君臨した。京の土倉・酒屋は、寺社勢力から資金を供され、金融を営む。義教による日明貿易の再開も、学僧達の実務なくしては成り立たない。金融も貿易も、黒幕は幕府と寺社勢力であり、五山との二人三脚で室町幕府は莫大な富を掌握した。また、将軍義教が生前行った諸大名の後継問題への介入。それは、大名統制策であると同時に、将軍肝いりで家督を継いだ大名達から、礼として五山へ荘園を供させる方便でもあった。かくして、大半の公家衆(興福寺を握る摂関家を除く)・各寺社勢力が守護大名によって荘園を奪われていく中、比叡山(6万石)・興福寺(大和など)・五山(8.3万石)は大荘園を保持し、経済を握り続けた。加えて、五山は全国に系譜寺を持つ。

●五山全荘園:五山+十刹+諸寺+末寺(現代、曹洞宗は一万四千寺が残る)=138.4万石

上野を本拠とする、上杉の足利学校の振興は、比叡山・興福寺・五山ら、畿内の財閥・学閥への対抗策に他ならなかった。


 当時、日明貿易は日本の金融政策の要であった。一三九四年、ユーラシア大陸では、永楽帝が「銅銭」の使用を禁止した。一三七四年以来の紙幣「大明宝鈔」の普及を選択したのである。そもそも、明では、宋代以来銅が採れない。銅を握るのは将軍足利義満の治める日本であった。永楽帝は戦略物資の他国依存を嫌ったのである。

 一方、義満は明で禁止された銅銭を、貿易でごっそり回収する策に出た。銅銭一貫は「明で米約33.5ℓ」と交換できる。だが、海を渡った瞬間、「日本で米約225.8ℓ」と交換できた。六倍以上の価値上昇。この圧倒的利益を背景に、銅銭を掌握した義満は、日本経済を握った。朝鮮半島西岸・全羅南道西岸の新安海底で発見された「一三二三年寧波・博多間を輸送した沈没船」の調査によると、大陸との交易で船一隻が獲得する銅銭は八千貫文だった。義満時代、明との交易船団は十隻に及んだという。銅銭八万貫文の獲得である。現在の価値で80~160億円(中央値120億)。一四〇〇年頃、日本の人口は1,270万人、GDPは推計約1,124億だから、船団の二年一往復で、「GDPの10.6%」の銅銭が獲得できた計算となる。貿易の利益率は84~86%とされるので、利益はなんと「GDPの8.9%」。

●義満の財力=五山138万石(GDP9.2%)+日明貿易(年換算GDP4.4%)+土倉金融

すなわち、「日本のGDP13.6%以上+金利収入」であった。二〇一七年、アメリカ・中国が世界の購買力平価に占めるシェアはそれぞれ15%台である。義満は超大国並みの経済掌握を日本経済で実現していた。義満の公武統制は、まさに富の力であった。


一四〇〇年から一四三〇年、東アジアは温暖期にある。日本同様、明も経済発展が進んだ。紙幣が流通し、強力なインフレが続いた。だが、一四三〇年から一四六〇年、大陸は寒冷期に突入する。一四二九年、宣徳帝はインフレに辟易し、紙幣回収を積極化した。その頃、紙幣は、国初との比較で「米との交換量が四十分の一以下」、「銀との交換量が八十分の一以下」となっていた。インフレこそ、経済発展の証左なのだが、この経済恩恵を、十五世紀の明の宦官達は理解できなかった。単に「紙幣価値が下落した」と動揺し、あげく財政再建を名目に、デフレ政策に舵を切ったのである。悪手が始まった。

●デフレ政策下での大課税:①主要三十三都市の門攤税を五倍、②運送業・倉庫業・船舶への紙幣による課税、③宦官らの農園への紙幣による課税

●貿易の縮小:日本との間では、一四三四年、宣徳要約を結んでいる。①船は「十年に一度」②「三隻」に限り、人員三百人③刀剣の積載は三百まで、とされた。

民力を弱める大増税。交易制限。一五〇〇年に向け、明は人口を7,000万から1億に増やす。だが、一人当たりGDPの成長は停滞に陥った。収入増の止まった民が、数のみを増やす。いびつな経済の誕生だった。以降、中国王朝は一人当たりGDPで西欧に劣る国になった。一四四九年、明を待つのは、エセン・ハンによる正統帝捕縛だった(土木の変)。


 義教時代、交易船はたった三隻。「十年に一度・一往復二万四千貫文(約24~48億)」である。一四四〇年頃、人口は推計1,372万人、GDPは推計1,215億。交易船団の獲得額は「GDPの5.9%」。利益は「GDPの5%」。義満時代に比べ、随分さびしい。

●義教の財力=五山138万石(GDP8.5%)+日明貿易(年換算GDP0.5%)+土倉金融

「日本のGDP9%以上+金利収入」、義満時代の3分の2。明らかな弱体化であった。失望した義教は、諸大名への後継問題介入に政策力点を変えた。そして、しくじったのである。

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