一滴のサングエ
『真冬に染みるくれなゐ』企画参加作品
『スプーン一杯のリモンチェッロとレードル一杯のミネストローネ』
(https://ncode.syosetu.com/n2439fa/)を読まないとさっぱり分からない優しくない仕様
慣れないファンタジーですが、よろしくお願いします。
リアは大きい洋館の扉を簡単に押し開ける。華奢なヒールがコンッコンッと重い音を響かせた。
「りゃあー」
埃のかぶったシャンデリアが吊るされた食堂に入るリアに、待ってましたとばかりに小さな体が飛びついた。
「ただいま、ヴァーセニカ。ブルーノの言うことよく聞いて、お利口で待ってた?」
「だー」
リアに飛びついた幼女はにぱっと笑った。
ヴァーセニカと呼ばれた幼女はヴァシリーサと言う。絹糸のようなさらさらのブロンドに、ふくふくした白い頬。ぱっちりした大きな目に嵌った深いグリーンの瞳はマラカイトのようだ。そんな天使のようなヴァシリーサには、首筋に後天型吸血鬼の証となる紋章がある。愛されるべき幼子が吸血鬼として生きる運命とは、どんなものなのか。リアは改めて、この国の利己的な思考と無慈悲さを心で嘆いた。
ヴァシリーサを抱き上げたリアは自室を通り過ぎ、もう一つの扉に声をかけた。
「ブルーノ、ただいま」
「おかえり姉さん」
3ヵ月前に洋館に来た弟分のブルーノが厨房の扉から顔を出す。
「何コレ? 小麦粉?」
リアがこげ茶の巻き髪に白い粉がついているのを見つけた。ブルーノがリアの言葉に反応して自分の髪に触れると指先に白い粉がついた。
「あれ? 今日小麦粉使ってないんだけどな」
ブルーノが指についた粉を払って、ヴァシリーサの頬を両手で包んだ。
「ヴァーセニカ、今日のドルチェは何がいい?」
「ぱ! ぶー、あー!」
「んー? じゃあパンナコッタにしよっか!」
「だー!」
3歳の人間くらいの外見なのに、満足に言葉も話せないヴァシリーサは両腕をぶんぶん振って今晩のドルチェに満足げに声を上げた。
リアはヴァシリーサをゆっくり下ろした。一本に纏めた髪をするりと撫でて甘い表情を一瞬で消したリアに、ブルーノは紐で釣り上げられるようにキュッと姿勢を正した。
「どうだった? 血の実はまた作れる?」
「うん、人間の乳も手に入った。赤ちゃんは教会の入り口に置いといたけど……」
だんだんと自信なさげな声になっていくブルーノの頭をリアは少し乱雑に撫でる。
血の実――人間の血を固めたゼリーのようなものでこの洋館の吸血鬼の食料の一つ――の材料である血と人間の母乳はブルーノとヴァシリーサの大事な食料だ。血も母乳も手に入ったということは今回のターゲットは母親らしい。
この国の街の領主の愛人が無茶苦茶を言ったらしく、領主はその愛人に入れ込んでいるのか、彼女に贅沢をさせるべく、また税を上げたということを午後の市場で聞いた。その影響か、貧しさゆえに首を吊る人も増えたようだ。
領主は酒場でリアに惚れこみ、リアの正体を知ると、まんまと愛人と愛人との間に生まれた子を差し出した。領主も血を搾り取ってベーコンにしてやったが。
「害悪な畜生の赤子なんてどうだっていいわ。親がダメなら子どももダメになるわよ。」
リアは静かに、そして強い口調で言った。
「そうだね。あの女、売られてきた子たちには笑ってたのに、俺が赤ん坊連れてったら『お願いその子を返して!』って、喚いたよ」
ふざけてるよね、とブルーノは呆れたように声量を落とした。
ブルーノは光のない目を切り替えるように「まだ出来てないんだ。オーブンがおかしくって」と言いながら後ろのヘアゴムを乱雑に引っ張った。くせのついた巻き毛が落ちる。リアは「他は出来てるの?」とブルーノを宥めるようにこげ茶の前髪をかきあげるように頭を撫でた。
「アンティパストに生ハムとメロン、それとカプレーゼ。プリモ・ピアットにボスカイオーラ・ビアンコ」
「セコンド・ピアットは?」
「アバッキオ・アルフォルノ。コントルノはオレンジとセロリのサラダだよ」
「完璧」
深紅の唇が、艶やかに笑った。
リアの満足げな表情に、ブルーノの目が蕩ける。この姉貴分は、他の吸血鬼と違った。
リアの体は、この国から遥か東にある小さな島国の血が流れた肉体だった。古めかしい眼鏡の奥に見える切れ長の目、艶のある濡れ烏、深紅の小さい唇は気高く芯の強い島国の女性独特の容姿だ。そして、リアは陽の光と十字架に屈することもなければ、人間の血を飲むこともなかった。
初めて館に入った時のこと、館から命乞いの声と高笑いが混じった音を聞いたブルーノは恐怖に慄いた。生き血が苦手で、いつも死んだ人間や小動物の血を飲んでいたブルーノは命を奪われる瞬間を知らなかった。
悍ましい、怖い、穢い。腹の中からこみ上げる仔兎の血を必死に飲み下したとき、重い洋館の扉がゆっくり開いた。
美しい女だった。「具合悪いの? どうかした?」と真水に媚薬が一滴落とされたような声に、ブルーノは首を振った。口紅の油の匂い。
「血って嫌いなのよ。なんだか生臭くて」
ねぇ、お腹空いたわブルーノ。あたし貴方が料理上手って聞いて楽しみにしてたの。
女は目を輝かせた。おやつを楽しみにする子どものようで、声に反して無垢な黒い瞳は倒錯的なものを感じた。ブルーノはリアに一目で心酔した。
リアはヴァシリーサの頬にキスをした。
「ヴァーセニカ、ブルーノに人間の鮮血もらってね」
「だー」
まろい頬を緩ませるヴァシリーサ。この死人ばかりの洋館で、清涼剤のように思える。
「ちょっと奥の部屋行ってくる」
「リア」
リアがダイニングを出たところで、ブルーノは真っ直ぐな声で呼び止めた。
「ん?」
「昨日、カルロ3世の葬儀だったよ」
「……葬儀」
「なんか聞いてた?」
リアは「さぁ……」と小さい声で否定した。
洋館の二階には、小さな部屋があった。リアが洋館に来た頃にはただの空き部屋で、椅子一つなかった。
そして、今この部屋には寝台が置かれていた。
「兄さん……」
寝台には銀髪の男が寝かされている状態だった。
「ヴァシリーサも元気よ、昨日は血を煮詰めたスープをたくさんおかわりしてた。ブルーノは、やっぱりちょっと繊細過ぎるかしら。血を飲まなきゃ枯れるっていうのに、未だに人間の生き血が飲めないっていうのよ? バンビーノの血を美味い美味い言って飲んでた貴方の図太さ寄越せばいいのに」
白銀の髪は細く、柔らかい。前髪を指で梳かすと額に抉られた赤黒い18。吸血鬼になる前、男は人間ではなく道具であった。
「カルロが死んだの。あなた知ってた?」
リアは目を開けない男に語り掛ける。
腕利きの吸血鬼ハンターとして知られていたカルロ・モレッティ3世は吸血鬼アウジリオ・ガロが持つ魔界最大の禁術の犠牲となり、記憶喪失となった。その後、街を彷徨っていたカルロは半年前、若い修道士と知り合い、田舎の小さな教会に身を寄せていたという。
ブルーノからカルロの死を聞かされたとき、何故か物悲しいような寂しいような感覚を抱き、リアは少し混乱していた。
「どうしてかしらね。おかしいでしょ? 強い敵がいなくなったのに」
男の頬は硬く、ヴァシリーサの柔らかいそれとは違った。陶器のように無機質で、そして色素が奪われたと錯覚するほど白かった。リアは男の頬を指先でさすり、あの澄んだグレーの瞳はもう見られないのだと再び突きつけられた気分になった。
ある夜、アウジリオ・ガロはぶっきらぼうに語った。
『後天型吸血鬼ってのは、ガキばっかだ。アンナリーザが手当たり次第ガキの死体に齧りついたからな。だが、そいつらの生前ってのは、人間としてこの世に生を受けて間もなく道具扱いだ。死んでも墓も作られず「汚ぇから樽に投げとけ」で終わりだ。だから俺はそいつらの来世が穏やかに暮らせるように、来世の親をアンナリーザに任されたんだ。いや、お前は年近いから兄貴かな』
彼とはいつもぶつかり合っていたリアだったが、この時に見た彼の優しい瞳がリアの記憶にずっと残っていた。
「今だから分かる。あなたが心配してくれてたって」
リアはレースの手袋を外し、ボトルから重い赤色の液体を空け、ボウルに細い指を液体に浸けた。男の唇にその指を押し込む。赤い液体は男が好んで飲んだ、美少年の血だった。
「あたしも同じ……。命が続くまでは……ヴァシリーサとブルーノに元気に生きてほしい……! 貴方と同じ立場になって、初めて気づいた……。あたし愛されてたのね」
「アウジリオ……」
アウジリオ・ガロが禁術を使った代償は大きかった。意志を失い、感情を失い、物言わぬ人形となった。
「あなたを腐らせるわけにはいかない。だからあたしは……」
リアは言葉を途中で切って濡れたタオルでアウジリオの顔を弱い力で拭き始めた。
厨房のかまどに誰かの写真が投げ込まれる。写真がみるみる燃えていく。
「お前を殺してやるよ……」
こげ茶の丸い瞳には、確かな殺意が込められていた。
ありがとうございました。