すべての始まり
「今日はパーシーが来る」
唐突に告げられた言葉に、朝食をとっていた手を休めて、ライアンは向かい側に座って同じように朝食をとっていた父に目を向ける。
「ユージェミア伯爵ですか。そういえば随分久しぶりですね」
朝から妙に父の機嫌が良かったのはこのせいか。 ライアンは、最近あまり見かけることのなかった、ユージェミア伯爵の穏やかな顔を思い浮かべる。
パーシー・ユージェミア伯爵は、ライアンの父であるリズウェルド・シュバルツ公爵と貴族学校時代の学友である。伯爵と公爵では、少々階級に差はあるが、父は対等な友人としてユージェミア伯爵を気に入っているようだ。
わざわざライアンにユージェミア伯爵の来訪を告げるということは、自分も話に入れということだろうか。
ユージェミア伯爵は大変有能な人で、仕事においても父は頼りにしているようだった。昔からよく公爵家で父と仕事の話を行っており、近年ではそこにライアンが混じることも少なくなかった。 しかし、ここ数ヶ月こちらには顔を出していなかったはずだ。
「なんでもパーシーの末の娘が、療養先からもどってきたようでな。休日はもっぱらそちらに構いきりだったらしい」
「そうですか」
ユージェミア伯爵の子供といえば、長男のフェルナンドと次男のリュージスの2人だけだと思っていたが、どうやらその下に娘がいたらしい。 療養ということは、空気の綺麗な田舎の方にでも住んでいたのだろう。ライアンがその存在を知らなくても不思議はない。
「その娘を今日連れてくるように言っておいたから、お前も会ってみるか?」
どうやら今日呼びつけたのは、その末娘を見るためだったらしい。
「結構です」
間髪いれずに答えた。子供は好きじゃない。とてもじゃないがかわいいと思えないのだ。 いや、子供に限らずライアンは基本的に人が嫌いだった。
幼いころから、そこら辺の大人よりよっぽど頭の回転が速いライアンを、周囲は異質なものを見る目で見ていた。しかしそれと同時に、その類まれなる美貌と高貴な出自は、誰の目から見ても魅力的だったようで、 吸い寄せられるように近づいてくる人間も後を絶たない。
畏怖や嫉妬、それに一方的な愛情。幼いころから否応なしに人間の醜い感情を向けられ続けたせいか、年をとるにつれてライアンの目は冷たい光を宿し、 感情は凍ってしまったように動かなくなった。
たとえ気に入らない相手でも、それを表に出すことがいかに愚かな事かとうの昔に気付いていたため、相手に悟らせることなく、人を利用することを覚えた。
それは実の父に対しても同じで、確かな血のつながりを感じる容貌を見ても、心が動くことはない。 母が生きていれば少しは違ったのかもしれないが、 末の弟を出産した際に、体調を崩しそのまま帰らぬ人となった。
友人と呼べる人間も僅かだがいる。公爵家にも、仕事を任せることが出来る部下がいる。 しかし、誰が相手でも、ライアンはあっさりと切り捨てることが出来る。たとえそれが父でも、ライアンがためらうことはないだろう。
そんな人間嫌いなライアンが、子供の相手など出来るはずがない。必要とあらば、仮面を張り付けていつも通り穏やかで優しい公爵子息を演じることもできる。だが、今日は特に公の場ではない。それならば、わざわざ面倒なことに関わるつもりなど毛頭なかった。
それなのに。これはどういうことなのか。
ライアンは、公爵家の広大な庭の隅で座りこんで泣いている小さな生き物にため息をついた。
朝食後、自室で書類を片付けていたライアンは、微かな泣き声を聞いた。 気のせいかと、しばらくは気にしていなかったが、 その声は一向に止む気配がない。公爵家に幼子は存在しない。可能性としては、今朝父が言っていたユージェミア伯爵の末娘だろう。声は庭の方から聞こえてくる。父たちが庭で話をするはずがないので、そこから導き出される答えは一つ。つまり、ユージェミア伯爵の末娘が迷子にでもなって泣いているのだろうということ。
こんなことになるのなら、換気のために窓を開けるのではなかった。そう後悔しながらも、ここは公爵家である。なにか問題でも起こったら、父は面倒事をライアンに押し付けてくるに決まっている。
ため息を一つこぼし、立ち上がる。
屋敷を出て、広大な庭を声が聞こえる方へと進む。 その間も、鈴の鳴るような小さな泣き声は止むことがない。
「ひっく……ふえっ…………」
庭の隅の方。ライアンでさえあまり足を踏み入れることのないその場所は、様々な種類の植物に囲まれており、小さな幼子からすれば、迷路のように複雑に感じるかもしれない。 ライアンは手間をかけさせる子供に苛立ちを感じながらも、そうとは思えない優しげな声を出す。
「どうしたんだい?」
突然現れた大人に驚いたのか、座り込んでいた子供がはじかれたように顔を上げる。
サラサラとしたはちみつ色の髪に、真っ白な肌。そして宝石のような瞳。目の前の子供は、まるで精巧なビスクドールのように繊細でとても綺麗だった。
しかし、ただそれだけだ。いくら愛らしい子供でも、ライアンの感情を動かすことはできない。 こんな自分は、人間として何かが欠落しているのだろう。しかしそれを悲しいと思う気持ちさえ湧きあがることはない。
「…………だあれ?」
涙をぽろぽろと流していた子供は、頬を濡らしたまま、まっすぐとライアンを見て舌足らずな言葉で尋 ねる。
「私はライアン。さあ、お父様のもとへ連れて行ってあげるから、おいで」
子供の疑問に短く答えると、さっさとユージェミア伯爵のもとへ連れて行こうと手を伸ばす。 子供の名前など興味がなかったので、尋ねもしなかった。
しかし、子供はそこから動こうとしない。ただひたすらに、ライアンを見つめるだけ。驚きからか、涙は止まったようだが、全く動く様子のない子供に苛立ったライアンは、自ら近づいて、小さな体を抱き上げる。 出来るならば、苦手な子供とあまり接触したくはなかったが、このままでは時間の無駄だ。想像以上にふわふわとした柔らかい抱き心地に、少し驚いた。 潰してしまわないように力加減に気をつけると、抱き上げたまま屋敷の方へ踵を返す。
すると、大人しく抱き上げられていた子供が、突然ライアンの頭を撫でた。
それは、とても優しい動作で、壊れものに触れるかのような恐る恐るといった動き。 子供のいきなりの行動に、歩みをとめたライアンだったが、頭を撫でる手は止まらない。
「何かな?」
訳のわからない行動に湧きあがった苛立ちが、少し声にも出てしまう。
「……いたいの?」
しかし帰ってきたのは要領の得ない言葉。
「いたいの?」
返事をしないライアンにさらに、同じ言葉を紡ぐ。 目の前にある、小さな瞳は、せっかく泣きやんだのに、また涙が零れてしまいそうなほど潤んできた。
どうして、また泣きそうになっているんだこの子供は。
「らいあん、いたそう」
ついに疑問形ではなくなった。 そして、エメラルドグリーンの宝石のような瞳は、 ぽろぽろと大粒の涙をこぼし始めた。
「ひっく、か、わいそう。らいあん。なかないで」
泣いているのはお前だろう。 そうは思っても、あまりに悲痛な子供の様子に、ライアンは戸惑っていた。
どうして、『らいあん』が『かわいそう』でこの子供が泣くのだろう。ライアンは自分のことをかわい そうだなんて思ったこともなかったが、子供のその言葉が妙に気になる。 どこも怪我なんてしてない。だからどこも痛くなんてないし、ライアンは少しもかわいそうじゃない。
ましてや、18歳にもなって、泣くはずもない。 それなのに、ライアンが抱き上げている子供は、ただライアンを思って涙を流す。 こんなに泣いてしまえば、綺麗な瞳がとけてしまいそうだ。
この子供は一体何がしたいのか。
ライアンをここまで困惑させた人間は初めてだった。
「どうして、私がかわいそうだなんて思うんだい?」
気付いたら、そう口にしていた。幼い子供に疑問をぶつけるだなんて意味のないこと、普段のライアンであれば、絶対にしなかったはずだ。腕の中の温かな体温に、調子を狂わされているのだろうか。
「れてぃは、わらわないの」
どうやら子供の名前は『レティ』というらしい。 レティという子供の言葉は非常に端的で分かりにくい。まだ幼いのだから仕方がないのだろうが、それにしても、意味がわからない。
確かにこの『レティ』という子供は、笑ってはいない。それどころか、零れる涙はいまだ止まる様子をみせないくらいだ。しかし、それがどうして『ライアン』が『かわいそう』につながるというのか。
「れてぃは、ふぇっ、やなとき、わらわないの」
ライアンは、その子供の言葉を茫然と聞いていた。
「らいあん、やなのに、わらってるの」
普段であれば、分別のつかない子供の戯言だとあっさりと一蹴して、頭の片隅にも残さなかっただろう。
「ほんとは、いたくて、ないてるのに」
だけど、その子供があまりにも真っ直ぐにライアンの瞳を見つめて。涙をぽろぽろと流しながら、ライアンの頭を撫でるものだから。
ライアンも泣いてしまいそうだった。
ライアンの完璧な仮面に気付く者など、いるはずがないと思っていた。父である公爵は別にしても、弟たちでさえ、ライアンの本性に気付いてなどいない。優しく尊敬できる兄として、ただひたすらに自 分を慕っている。
本当のライアンは、人が嫌いで、世間を斜めに見ていて、自分以外の誰であろうと切り捨てることができる冷酷な人間なのに。ただ周囲が求める公爵子息を演じる自分と、そんな仮面に騙されている人々。
誰も気付かない。そして、気付かせるつもりもない。誰一人として、ライアンが作り上げた壁の内側 に入れるつもりなどなかった。それなのに。なんということだろうか。
「らいあん」
舌足らずに甘い声で紡がれる自分の名前。今まで特に何の感慨も持ったことのない自らの名前が、こんなにも特別なものに思えるものだろうか。
子供が本当のところ、何を思ってライアンの頭を撫 で、かわいそうと口にしたのかは、分からない。 でも、ライアンのために泣いてくれたことは事実だから。ライアンのためだけを思い、こんなにも美しい涙を流した者など知らない。それだけで、ライアンはどうしようもなく、満たされた気持ちになってしまったのだ。
「どうしたの、レティ?」
迷子になっていたのは、ライアンの方だった。 そんなライアンを、レティは見つけてくれた。
先ほどまでの、上辺だけのものではない優しい声が、喉を震わす。 こんな声も出せたのかと、自分自身に驚きながら、 まだ知らない自分がいることに、僅かなくすぐったさを覚える。
「らいあん、わらった!」
涙が止まった瞳を、きらきらと輝かせた子供が、ふにゃっと笑い、嬉しそうにライアンに抱きつく。 その言葉で、ライアンは初めて自分が意識せずに頬笑みを浮かべていたことに気付いた。 そして、柔らかく抱きついてくるその小さな体と、温かい体温を感じた時、頬を温かい雫が伝う。
雨だろうか。いや、外はこんなにも晴れている。では、この濡れた感触は一体何なのだ。 首筋に抱きつく子供を片腕で抱え上げたまま、左手で頬に触れる。
その雫は、確かにライアンの瞳から流れ出たものだった。
泣いたのか、私は。
物心ついたときから、涙を零したことなどなかった。母が死んだときでさえ、少しも泣けなかったのに。
ライアンは瞳を閉じ、温かい体温を潰してしまわないように、優しく抱き締める。 柔らかな感触に、幼子特有のミルクのような甘いにおい。抱き締めているライアンの方が、逆に腕の中の小さな存在に抱き締められているような、安心感。
それはライアンが生まれて初めて感じる幸せな気持ちだった。
ありがとう、レティ。
「…………………………で、その腕の中にいる子供は何なんだ」
そう呟いた男の顔が盛大に引きつっている。 2年前に卒業した貴族学校時代から、何かと腐れ縁が続いている侯爵子息ユリシスは、恐ろしいものでもみるような目で、ライアンの腕の中にいる子供を見つめる。
「さっき、お前の部屋に来るまでに、この屋敷中のメイドやら執事やらが駆けずりまわって子供を探し まわっていたようだが、それとは無関係だよな」
仕事の話をするために、ユリシスを公爵家に呼び出していたことなど忘却の彼方にあるライアンは、友人の引きつった表情を一瞥すると、再び自らの膝の上に座って絵本を読んでいるレティの頭を撫でるこ とに専念した。
「無視か。おい、まさかとは思うが、その子、ユージェミア伯爵のご令嬢だなんてことは無いよな。いや、無いと言ってくれ」
膝の上に座った子供を慈しむように撫でるライアンの姿に驚きつつも、まさか誘拐されたのではと、真っ青になって娘の姿を探しているユージェミア伯爵の様子を思い出し、頭を抱える。
「返してこい」
「断る」
先ほどまで、何を言っても無視していたくせに、今度は間髪いれずに返事が返ってきた。 しかしそれはユリシスが望んだ答えではもちろんない。
「お前、それじゃあ誘拐だろう!いいからさっさとユージェミア伯爵に返してくるんだ!」
ユリシスが声を荒げると、楽しそうに絵本を読んでいたレティがびくっと体を震えさせ、不安そうにライアンを見上げる。 ライアンは、レティの頭を撫でながら、ユリシスを鋭く睨みつける。
「大声を出すな。レティが怯えるだろう」
「…………お前本当にライアンだよな?」
ユリシスは茫然と2人の様子を見つめる。自分の友人は、こんな男だっただろうか。いや、そんなはずはない。自分が知るライアン・シュバルツという男は、類まれなる美貌や高貴なる身分をひけらかすことなく、いつも穏やかに笑っていて、誰に対しても優しい、そんな素晴らしい人物だったはず。 そんな男と友人になれた自分を、誇らしく思っていたくらいだ。
一体なにがどうなって、こうも変わってしまったのか。 ため息をついたユリシスは、じっとこちらを見つめるエメラルドグリーンの瞳に気付く。
改めて、ライアンの腕の中にいる子供を見ると、その容貌がとても整っていることに気付く。これは将来が楽しみだと思いつつ、観察という名の現実逃避をしていたユリシスを現実に連れ戻したのは、激変した友人ではなく、驚いたことにその小さな子供だった。
「らいあん、いじめちゃ、めなの」
突然の言葉に、ぱちぱちと瞬きをするユリシス。ライアンほどはいかずとも、世間一般的には十分美形の部類に入るであろうユリシスの顔が、ぽかんとする様は、少し間が抜けているかもしれない。
「いや、お嬢さん。明らかに今いじめられてたのは、俺だよね?」
「め。らいあん、いじめちゃ、めなの」
どうやら目の前の子供の中では、完全にユリシスがライアンをいじめていることになっているらしい 。
か細い小さな声で必死に言いつのる様子は、絶対に言うことを聞いてしまいそうな程かわいらしい。エメラルドグリーンの美しい瞳が潤んでいることに気付いたユリシスは、自分が悪いのではないかという錯覚に陥ってしまう。
「レティ、ありがとう」
まるでとろけるように甘い声。ライアンのそんな声など聞いたことがないユリシスは、ただ驚く。
そして知る。どうやら、この小さな子供はライアンにとって特別な存在らしいと。 誰に対しても平等に優しく、誰かを特別扱いする姿など一度も見たことがなかった。それだけに、今のライアンの姿はユリシスを驚かせるには十分だった。
今日のライアンは、ユリシスが知る姿とはあまりに違うが、どうやら今見せている姿が本来のライアンのようだ。
一つ溜め息を吐くと、笑いが込み上げてきて、ニヤリと口角を上げる。何があったのかは知らないが、誰に対してもそつなく同じ態度しか見せない優等生より、余程人間味があり親近感を感じるではないか。
ライアンの性格の変化には驚いたが、伊達に何年間も友人をやっていない。ライアンはライアンだ。性格が変わったからと言って、嫌いになれるはずなんてない。それに。
「俺は、今のお前の方が、お前らしい気がするよ」
ユリシスの言葉に、ライアンは少し目を瞠る。 そして、なぜか膝の上に座る子供が、ライアンの頭をよしよしと撫でる。
先ほどからライアンが子供の頭を撫でていたから、その真似をしているのだろうか。 そう首を傾げていると、ライアンが子供にとても小さな声で 『ありがとう』と呟いたのが聞こえた。全く意味がわからない。 困惑しているユリシスを余所に、ライアンは顔を上げると、唐突に告げる。
「お前だから、見せた」
その言葉に、ユリシスは、ハッとする。それは、ライアンの本当の性格のことだろうか。
言葉の意味に気付き、じわじわと次第に頬が緩むのを感じた。大切な友人だと思っていたのは自分だけではなかったのだ。
他人には見せることのない本当の表情を、ユリシスには見せてもいいと思えたのは、もしかしたら、その腕の中の小さな子供のおかげなのか。 嬉しそうに顔を緩めるユリシスは、ライアンの次の言葉で固まる。
「こちらの方がいろいろと命令できて、便利だからな」
「……………………は?」
………………便利?
類まれなる美貌を有した友人の、涼しげな表情を呆けたように見つめる。
「レティを、公爵家の養子に迎え入れようかとも考えたが、父が承諾するとは思えない。しかし、この子が目の届かないとろこにいるなんて、心配でたまらない」
「……心配?えっと…………なにが?」
養子とは?いや、意味は分かるけども、一体なんのために?というか、なんだかんだでスルーしていたが、何故、ライアンは伯爵令嬢を膝に抱き上げて、ずっと頭を撫で続けているんだ。
「レティは療養が必要なほど、体が弱いらしい。どこもかしこも柔らかくて、繊細なんだ。私のレティがもし転んでしまいケガでもしたらどうする?それにこんなにもかわいい。誘拐を企てる愚かな奴らがいないとも限らん。もちろん私がそんなことはさせないが、それでも、企てた奴らは生まれてきたことを後悔させるくらい苦しめてあの世に送ってやる」
え、なに、怖い。 突然まだありもしない誘拐の心配をしたかと思うと、計画を立てただけの奴らをあの世に送る算段まで始めたではないか。
それにナチュラルに自分のもの発言だ。
「そこでだ。お前にはレティを守る手伝いをさせてやろう」
「……手伝い?」
「まずは、使える人間を数名見繕って伯爵家へ潜入させる。今日中に候補者をリストアップしろ。私がその中から選別する」
なぜそんなことを自分がしなければならないのか。 というより何をどう考えたら、この子供のために伯爵家へ人を送り込むという答えに行きつくのだろう。
なぜ、こんなにも、ライアンはこの子供に執着しているのか。 その時、ユリシスは一つの可能性に行き着いた。
「えっと、まさか、ライアンってロリコ……痛って!」
分厚い辞書が飛んできた。
子供は再び絵本に夢中で、今のライアンの暴挙に気付く様子はない。
なぜ、見ていないんだ。明らかに今俺がいじめられているのに。
「お前は馬鹿なのかあほなのか死ね」
辛辣な言葉を吐くライアンの目は、蔑むようにユリシスを睥睨している。
「私はレティが健やかに育つように手助けをしたいだけだ。そんな崇高な思いをくだらない下世話な感情と一緒にするな」
「いや、えっと…………まあ、違うっていうならそれに越したことはないけど」
友人がロリコンだなんて思いたくない。違うというなら、あえて反論するまい。 自ら2発目の辞書を食らいに行く勇気などない。 自分の平和のためであれば、少しくらいの違和感になど目をつぶろう。
この件に関しては、深く関わらない方が得策だ。
そう決意したところで、先ほどのライアンの言葉を思い出し、背筋に冷たいものが走る。
『お前にはレティを守る手伝いをさせてやろう』
ユリシス・ネイトソン侯爵子息の苦難の日々はこうして幕を開けた。