一夏の思い出 2
この話はもう少し続くと思います。
あの夏から7年後、俺は高校に進学しバイトも始めて、新しい生活を送っていた。
その頃にはもうあの子の事もすっかり忘れて、ごく普通の思春期の男子高校生のように気ままな恋をしていた。
「期末終わったー!
京介、夏休みどうする?」
最寄りの駅までの路程で俺は同じクラスの友達と何気無い会話をしていた。
「ほとんど部活かな。
バイトもあるし、丸一日遊べる日は少ないと思う。
でも、何とか空けられるようスケジュール立てておくよ」
「でも、お盆は休みなんだろう?」
「いや、今年のお盆は秋田のばあちゃんのお墓参りに行くから」
俺は彼方まで続く青空を遠く見据える。
そんな俺を見ると、彼はやや顔を俯きながら相槌を打つ。
「そっか。
会うのは久しぶりだもんな」
「あぁ。」
彼は背伸びをすると、手を頭の後ろで組み始める。
「今年の夏は皆忙しそうだし、俺は予備校にでも行こうかな」
「お前が予備校?
どういう心境の変化だ!?
暑さで脳味噌溶かされたんじゃないのか?」
彼はムスッとした表情をした。
「うるせぇ」
駅につくと、俺たちは別れた。
電車に揺られること一時間。
そして、バスで箱根の山道を登る事30分で俺の家である旅館に着く。
玄関に入ると、見慣れたローファーが綺麗に並べてあった。
どうやら、洋一郎は俺より先に帰っていたようだった。
噂をすると、彼はこちらにやって来た。
「京介、今日は部活は無かったのか?」
「洋一郎こそ、同好会はどうしたんだよ」
「部長に任せてきた。
今日は旅館が忙しいって言うしな。
どうせ、お前もそのクチだろう?」
俺は微笑する。
「今日はいつもの数倍忙しくなりそうだからな。
洋一郎、しっかりな。
頼むから、過労で倒れる何てことにはもうならないでくれ。」
「あぁ、大丈夫だ。」
数時間後……
仕事を終えた俺達は突然、父に呼ばれた。
父の寝室である四畳半の部屋にはいると、俺と洋一郎は適当に座る。
俺の前では父が難し気な顔をしていた。
「京介、お盆の事なんだがな。
どうやら、お前一人で秋田に行ってもらうことになるかもしれない。」
「えっ、どうしてまた?」
部屋の壁に立て掛けられた振り子時計の針の音が静かな部屋に木霊する。
「ウチを懇意にしてくれているお得意様にどうしても、お盆中に団体で遊びに行きたいとお願いされてな。
だから、その日に俺もアイツも店を外すのは不味いと思って、代わりに秋田へはお前に行ってもらうって話になったんだ。」
「でも、俺一人なんて。
そうだ、姉貴がいるだろ。」
「涼子は大学のサークルの合宿でその日は行けないらしい。
それに急な予約だったから、人があまり足りていない。
若しかしたら、洋一郎君にもその日は手伝って貰うかもしれない。」
父は洋一郎にすっと視線を向ける。
俺はしばらく考えた後、答えを出した。
「そういう事なら、仕方ない。
分かった。
俺一人で行くよ。」
肩の荷が降りたのか、父の眉間のシワが薄くなった気がする。
「洋一郎君も頼まれてくれるかい?」
「はい。」
父は安心しきった顔で俺たちを見つめる。
「助かるよ。
ありがとう」
振り子時計の時間を知らせる重音が鳴る。
「もうこんな時間か。
お前達、今日も助かったよ。
明日も早いから話はここで終わりにするよ」
「あのぅ、文吉さん。
これからお時間宜しいですか?」
洋一郎が唐突に父へ尋ねる。
「構わないよ。
京介、先に席を外してくれるか?」
俺はコクリと頷くと、障子を開けてその場から離れる。
室内の明かりが障子に二人の影を写していた。
先の洋一郎の顔は真剣そのものだった。
俺は彼の話が終わるまで外で待とうと思ったが、考えた後それを止めた。
洋一郎には俺の介入のしようがない複雑な事情がある。
それは父からよく聞かされていた事であった。
だが、本人の口からは1度も語られていない。
だから、洋一郎が内心何を考えているか俺には詳しい事は分からない。
それでも、彼と俺はそれぞれ全く別の対極の世界に立っていると感じる時がある。
障子に浮かぶ彼の影が歪な黒に見えた。
(寝るか……)
そして、俺は自室へと戻った。
途中で俺は後ろを振り返った。
果たして、視界に入ったのはくっきりと写る俺の黒い影だけだった。
それから約1ヶ月後。
俺は上野駅から秋田駅までを寝台特急"あけぼの"で10時間以上を掛けて移動した。
秋田駅に着くと、駅前で叔父が俺の到着を待っていた。
「久しぶりだね。京介君。
会ったのは母さんの葬儀の時以来だね」
叔父、啓治さんは屈託のない笑顔で俺を迎えてくれた。
「あれ、ずいぶんと重そうな荷物だね?
それだと座席には乗らないかもな……」
そう言って、啓治さんは後ろに停めてある軽トラックを見やる。
「うーん、京介君。
申し訳ないんだけど、荷物は後ろの荷台に乗せても構わないかな?」
啓治さんは少し困った様子だった。
「大丈夫ですよ。」
俺は微笑しながら答える。
「そうかい?
それは助かるよ」
すると、啓治さんは荷台に乗せたバックが動かないように予め持っていた紐で固定した。
「よし!
これで大丈夫だ。
それじゃあ、車に乗って。」
「はい!」
溌剌な声で返事をすると、俺は助手席に座った。
賑やかだが、何処か哀愁漂う秋田の街並みを通り過ぎると、いよいよそこは田園風景が広がるかつて訪れたあの場所だった。
否、よく目を凝らすとそれが幻影だったと気づく。
かつては虫あみを持った子供たちがあぜ道を無邪気に走り抜け、それを後ろから笑顔で見送るおじいちゃんやおばあちゃんがいた。
小川には色とりどりの夏野菜が涼しそうにその自然のプールを満喫していて、また、そこでは時々大きなスイカが流れてくることもあった。
正に長閑な集落という言葉がぴったりな場所であった。
だが、今ではそれは遠い過去の事であった。
今はお昼過ぎ、子供たちが山や川に遊びに出掛ける姿とそれを見送るご老人が見受けられるはず。
しかし、そんな田舎の田園風景は見られなかった。
あるのは、田んぼに置き去りにされたトラクタ。
そして、変わらぬ蛁蟟の鳴き声だった。
子供は愚か、人1人と居ない。
小川にも野菜が行水などしておらず、心做しか川が淀んでいた気がする。
そう、かつてのあの村はもう死んだのだ。
廃れた景色を暗い目で見つめる俺に啓治さんが話しかけてきた。
「母さんが亡くなったのは、もう5年も前の事だ。
その間に村はずいぶんと変わり果ててしまったよ。」
そう名残惜しげに語る。
「僕達が東京から引越し始めた頃には村の若い人は両手で数える程度だった。
それが今では、片手で数えられる程になってしまったよ。
もう、僕が子供の頃の村には戻らないのかな……」
啓治さんの言葉は俺の心に重く響いた。
それも、これが紛うことなき現実だからだ。
5年振りにこの地に訪れた俺にとって、それは受け入れがたい悪夢だった。
もし一度目を閉じたら、そんな悪夢も終わるだろうか。
今は何でもいい、この崩壊した世界から逃避できるのなら……
俺はゆっくりと瞼を閉じた。
「京介君、着いたよ。」
朧気な目を擦ると、フロントガラスから今は亡き祖母の屋敷が見えた。
気づけば、日も傾き始めていた。
俺は寝てしまったようだ……
ならば、この覚醒は現実に再び引き戻されたということなのだろうか。
「京介君、荷物は中に運んでおくからね」
啓治さんの言葉で俺は直ぐに現実を自覚した。
「あっ、お構いなく。
自分で運びますので……」
「いいよ、いいよ。
この位は僕に任せてちょうだい
長旅で疲れてるんだから、京介君は先に中でご飯を食べててよ。
でも、食べる前にはちゃんと手を洗ってくれよ?」
「あっ、」
「ばあちゃんの口癖。
懐かしいだろ?
まぁ、僕も昔はよく言われてたんだけどね。」
俺はホッとした。
ここが俺の知らない世界ではなかった事に安心したのだ。
白黒の風景がセピア色に変わる。
ここだけは変わっていなかった。
つまり、そこは俺のよく知る場所だった。
夕飯を食べ終わると、啓治さんの家族達と居間で談笑をした。
その中には啓治さんの奥さん以外に中学2年生の長女と高校1年の長男が加わっていた。
ちなみに、啓治さんは少しお酒が回っていた。
「京介君は偉い!
親の頼みとはいえ、神奈川からここまで一人で来るなんて。
君みたいな逞しい子が日本の明るい未来を導く次世代の立派な人間になっていくんだよ!!」
「あなた、飲みすぎですよ。」
酩酊の啓治さんを奥さんが優しく宥める。
「今日ぐらい、いいじゃないか!」
奥さんの言葉を無視して、啓治さんはもう一杯ビールを煽る。
「もう、しょうがない人ですね。
裕翔、奈緒。
もうお遅いから、あなた達は先に寝ててちょうだい。」
そう呼びかけられた2人は俺にお辞儀をすると、先に退出していった。
その合間に啓治さんは再び、ビールをもう一杯飲み干す。
その様子は完全に出来上がっていた。
「京介君、つかぬごどどご聞ぐげど5年ぶりに村さ来でみでどうだった?」
聞き覚えのある訛りで話しかけてきたのは、とうとう酔いが最高潮にまで達してしまった啓治さんだった。
その隣で奥さんが呆れ果てた顔をしていた。
素直に俺は啓治さんの質問に答えた。
「正直に言うと、あの頃の村と今がだいぶ変わり果てていた事に驚きました。」
ちゃぶ台に置いてあるコップのオレンジジュースを俺は一口含む。
「でも、またこの家に来た時には安心しました。
あぁ、ここだけはあの頃とは変わってないんだなぁって
そして、このちゃぶ台も……」
俺は傷でボロボロになったちゃぶ台を懐かしむようにして、優しく擦る。
雨の日で外に遊べない時、俺は姉と室内で追いかけっこをして遊んでいた。
その度に、このちゃぶ台の脚につま先をぶつけて痛い重いをしていた。
そんな事も、今は懐かしい思い出である。
「そうが。
それは良がったよ。
本当さ良がった……」
啓治さんは俯きながら、震える声音でそう言いづけた。
見ると、彼の目線の真下に雫がポツポツと零れていた。
畳にその雫がじんわりと、滲んでいく。
翌日の朝。
俺は啓治さん達と一緒に朝食を食べていた。
長女の奈緒ちゃんは日が登るずっと前に部活の為、遠く離れた中学校に向かい、裕翔君は既に彼の友達と遊びに隣町へ出掛けてしまった。
だから、朝食の席には俺を含めた3人しかいない。
「京介君、お墓参りに行く前に手伝って欲しい事があるんだけど、悪いけど頼まれてくれないかな?」
啓治さんは若干、頭を下げつつ俺に頼み事をする。
「別に構いませんけど、一体僕は何をすればいいんでしょうか?」
「そうだね。
京介君には神社で明日の縁日の準備をして欲しいんだ。」
「縁日の準備ですか?」
やや困惑ぎみに俺は二度、啓治さんに尋ねる。
「いやー、ごめんね。
僕も今日、村の人に聞かされたばかりで、詳しい事は分からないんだ。
でも、村の人は活気のいい男が来てくれると嬉しいって言ってたな。」
「ともかく、行ってみれば分かると思うよ。」
「は、はぁ。」
俺は気のない返事で答えた。
ここから神社までは歩くと、20分は掛かる。
だから、俺は啓治さんに車でそこまで乗せてもらうことにした。
「わがまま言って、すみません。」
「いや、それはこっちの台詞だよ。
僕は君の時間を潰して、こっちの行事を手伝わせているんだから。」
「いえ、これもいい体験です。
縁日のお手伝いなんて滅多にできませんから」
「そう言ってくれると、助かるよ」
そう言って、啓治さんは微笑した。
神社までは10分と掛からずに着いた。
境内の小高い山までは長い階段を登らなければならず、少々時間が掛かった。
だから、軽快な歩調で階段を登っていくお婆さんを見た時は驚いた。
「おぉ、それが啓治さんのとこの代役かい?」
そこで、威勢の良い声で俺たちを呼ぶ男性がいた。
「京介君、紹介するね。
この人は村の自治会長の古井源蔵さんだよ。」
「初めまして、野中京介です。
古井さん、今日は宜しくお願いします。」
旅館仕込みの挨拶で俺は礼儀正しく、自己紹介をした。
「よぉ、兄ちゃん!
ここでは歳の差なんて関係ねぇよ。
俺のことは親しく、源さんって呼んでくれや。」
「はい!
よろしくお願いします源さん!!」
源さんは豪快に笑った。
「おぉ、兄ちゃん見たいな奴は嫌いじゃねえぞ。
むしろ、気に入ったぜ。
兄ちゃんには的屋の仕事をと思っていたが、気が変わった。
ついて来てくれ。」
源さんに言われるまま、俺は彼の後ろについて行く。
案内されたのは本殿の隣の母屋だった。
源さんは威勢よくそこのドアを開けた。
「見てみろ。
これが、的屋ともう一つ兄ちゃんにやってもらいたい仕事だ。」
源さんは自慢げな表情でそれを見据える。
「若しかして、担ぎ手ですか?」
俺が見たものは雅びやかな神輿だった。
隆々と聳え立つそれは圧巻の一言に尽きた。
「あぁ、兄ちゃんにはこいつをウチの男衆と一緒に担いでもらうのさ。」
(俺がこの神輿を担ぐ……)
しばらく、俺は言葉が出なかった。
巨大なあの神輿がそれ自体俺の背中に乗っているかのような重圧に体が震える。
「出来そうか?」
源さんが慎重な声色で尋ねる。
俺はぐっと拳を握り締める。
そうすると不思議と、先までの震えが収まっていくような気がした。
俺は改めて、神秘的な威圧を放つそれと対峙した。
瞬きせず、冷静にじっと見据える。
そして、俺は源さんに向き直り、力強い語調で彼にその決意を伝えた。
「源さん、俺やります。」
源さんは力の篭った眼差しで俺の目を正視する。
「どうやら、迷いはねぇようだな。
分かった。
宜しく頼むぜ、兄ちゃん。」
俺は源さんの深く皺が刻まれた大きな手を強く握った。
実をいうと、この話はあまり書きたくはなかったんですよね。
これのプロットを練る度に心が萎えてくるので