絶望
俺は永遠と続く螺旋階段を駆け上がっていた。
ヨキには悪いが、隙をみて抜け出させてもらった。
息が切れそうになる。
(くそ!こんな事なら毎日運動しておけばよかった。)
惰性のように室内でヌクヌクと過ごしていた自分を悔やんだ。
そんな事を考えながら進むと、サシャとソニアがいるであろう広間の階層に到着した。
ハァハァとすっかり荒れてしまった呼吸を整え、俺は奥へと歩を進めた。
何かを模した壁画と朗らかな陽光が差す回廊、そこは前回訪れた時と変わりはなかった。
しかし、俺は見覚えあるこの光景に違和感を感じた。
否、正確には光景というより雰囲気と言った方が正しいのかもしれない。
以前訪れた時は何も感じられなかったこの回廊が今では未開の地へと導くような全く異質の場所のように感じたのだ。
未開の地。
それは俺が知らない過去にあったソニアとサシャの関係。
成長期を迎えた後の彼女達の関係は普遍的なものになることはなく、今日まで接近を許さない重厚な門でその距離を阻まられてしまったという。
その刹那、俺の脳裏に不安が過ぎった。
数々のすれ違いがあった彼女達がようやく再開したことにより、反動的にその不満や不安が奥の広間で飛び交っているのではないかと。
そうでは無かったとしても、俺は彼女達の間に何か不穏な事が起きていると感じた。
彼女達に対して今の俺が何を出来るかは分からない。
だが、あの部屋でずっと思い悩むよりはマジだ。
とにかく俺は、今起きていることを自分の目で確認したかったのだ。
足を踏み入れる事すら憚られる未開の空気の中、俺はしっかりと1歩を踏み出したのだった。
俺は回廊を抜け、奥の広間に急行した。
気のせいか、奥に進むにつれてあの空気が増しているような気がする。
そして、未開が真実に変わった。
俺が目にした光景は思考を混乱させるものだった。
老婆と男2人を強ばった面持ちで囲みこむようにして立つ少年と少女達。
その横には壮年の男と苦虫を噛んだような表情をしたソニア、
そして、サシャがいた。
その光景を目の当たりにした俺は自分の目を疑った。
なぜなら、俺が予期していたものとその現実が異なっていたからだ。
不安、不平それらからくるお互いへの非難。
俺はこの場所がそういった複雑な心境や言動で錯綜した空間になると思っていた。
だが、それは違った。
果たして、俺が見たものとは声一つ上げることすら許されない静寂とした空間だった。
いまいち場が読めずに、一人取り残される俺。
(一体、何がどうなっているんだ?)
俺は取り敢えず、この入り組んだ状況を一から整理することにした。
すると、少しずつ周りが見通せるよになった。
その証拠に、取り乱していたため把握することが出来なかったナターシャさんとラパンさんの姿をようやく、視認することが出来た。
彼らもまた、同じように少年少女達に取り囲まれていた。
あの異様な状態を理解することが出来なかった俺は徐にソニアにすっと目を向けた。
すると、彼女は俺の視線をしっかりと捉えるや否や、サシャの方へ目線を向けるように俺へ目配せをした。
俺は彼女の合図に促されるようにしてサシャに目線を向けた。
果たして、俺の目に映ったのはいつもの彼女ではなかった。
青黒く澱んだ目、輝きを失った金髪
彼女のその姿はまるで、廃人のようにも思えるものだった。
それは人が泥沼の奥底まで陥った時に見られる姿。
だが、俺はその姿に既視感を覚えた。
それは昨夜、彼女が父達を日本へ送り返した時に俺が見たもの。
心を持たない機械のように変わってしまったサシャ。
彼女のその時の様子は今のそれに似ていた。
だが、あの時見た姿とは何が違う気がする。
進行していると言うべきか、彼女のあの表現で表すなら"何者かに操られているような"というよりは"何者かがそれ自体、彼女の内に憑依した"かのような
俺は嫌な予感がした。
恐らく、ソニアが強く歯噛みをしている原因もこれにあるのかもしれない。
2人の再開を白く塗りつぶしてしまうほどのもの。
彼女の内に何が取り憑いているかは分からない。
だが、これ以上彼女をこのままの状態にしておくべきではない気がする。
否、絶対に彼女を正気へと戻させなければいけない。
理屈では説明出来ない考えが俺の頭の中を埋め尽くしていた……
俺はこの地に来て気づいた事がある。
それはソニアとあの約束を交わした時に自覚した事。
好みどストライクな女の子と話すと気がこの上なく高揚してしまう。
つまり、俺は女の子が大好きなのだ。
ソニアの件までならただのチェリーボーイで済むのだが、困った事にそれは見境がないらしい。
その最たる理由が2人の女の子に同時に恋慕を抱いてしまった事だろう。
しかし、それにもちゃんと理由があるのだ。
先ず、俺が恋焦がれてしまった一人目の女の子はもちろんソニアの事である。
彼女のあの美しく大人びた見た目からは想像出来ない天真爛漫さが俺の心を鷲掴みにしてたのだ。
そう言わば、ギャップ萌だ。
また、"ギャップ"が俺に彼女とのあの約束を交わさせるほど情熱的にしたのかもしれない。
考えても見てほしい、普段明るく気丈に振る舞う彼女が突然しおらしくなってしまうのだ。
男としてはそんな彼女を励まさずにはいられないだろう。
一時はその感情へ逃げて、サシャとの関係を蔑ろにしていたが、もう俺はそんな不義理は決して犯さない。
そう、その決意からご察しの通り2人目というのがサシャの事である。
だが、彼女を本当に気になり始めたのは昨日の今日の事である。
理由は本当に些細な事だった。
それは彼女の笑みである。
俺にとって、好きになるにはそれだけで十分であった。
どんなに会話を持ちかけても表情1つすら変えず、何を考えているかもわからなかった彼女が笑ったのだ。
しかし、笑いといってもそれはただのほくそ笑み。
加えて、それは不格好でやや堅さが残っていた。
だが、サルのように単純な俺はそれが何よりも嬉しかった。
また、俺はそんな昂りから今度は彼女が本気で笑った姿を見たいと思った。
動機は何でもいい。
ただ、心から楽しいと思ってくれる事で彼女のこの上ない喜びを己が目と心に焼き付けたかったのだ。
そして、それが恋心から来るものとは誰も想像出来ないだろう。
だが、これが事実なのだ。
焦ることなく、爛々と燃え続ける情熱。
果たして、俺の勝手な願望からくる幸せを叶えるために暗澹としてしまったサシャへ俺は語調を強めて呼びかけた。
「サシャー!
お前に伝えたい事がある!!」
しかし、サシャは眉根1つ動かすことなく、俺の呼びかけにも反応しなかった。
たが、俺は口を止めなかった。
「1度しか言わないからよく聞けよ!」
彼女は変わらず無反応だ。
しかし、俺は言葉が止まらない。
心の奥底から源泉のように止めどなく流れてくる。
この言葉を伝えるまでは絶対に口を閉ざしはしない。
そして、嗚咽するように発せられた言葉はこれだけだった。
「サシャ、俺はお前の事が好きだ!!」
すると、彼女の腕に付いていたブレスレットの放つ光が鈍く幽かなものになり始めた……
誰かが私を呼んでいる気がする。
その声は深層に静かに沈んでしまった私の意識には煩わしいほど強く響いた。
だが、不思議と不快感は感じなかった。
どこか聞き慣れたのことのある声。
それにも関わらず、その声の主の顔が思い出せない。
「1度しか言わないからよく聞いてくれ!」
また、あの声が聞こえる。
一体、先程から私を呼びかけるのは誰なんだ!?
気になる。
当惑するほどその声の持ち主が気になる。
思い悩むぐらいなら無視すればいい。
しかし、聞き逃してしまったらダメな気がする。
証拠はない。
ただ、先程から私に向けて伝えられた言葉の数々が奴と私にとって何となく重要だと思ったのだ。
だから、私は奴の言葉を一心に聞くことにした。
「サシャ、お前の事が好きだ!!」
私は唖然とした。
奴が言っている言葉の意味が理解できなかった。
何も分からない。
「好き?」だと、それは性格や人柄に対して言っているのだろうか。
だが、私は心を表さない人形にしか過ぎない。
そんな私を誰が好むのだろうか。
ふと、彼女にある男の顔が過ぎった。
そいつは変態で粗野な男。
また、事あるごとにころころと表情を変え、私にいつも笑いかけて話してくれる。
本当にうざったい奴だった。
それなのに何故、私はあの声の主であるはずが無いそんな男の顔を思い出したのだろうか。
いや、若しかしたら声の主が奴なのではないだろうか?
だとしたら、お前はこんな私を本当に好きでいてくれるのか?
「リュウ……」
すると、彼女へこれ以上考えるなと言わんばかりの痛烈な頭痛が襲った。
痛い!
しかし、その痛み以前にあの言葉が消失することなく、サシャの脳内を駆け巡っていた。
普段ならこの痛みは全ての感情の荒ぶり、またそれを誘発するものを彼女の脳内から抹消すること
が出来る。
だが、顔もしれぬ者から発せられたたった1言がどうしても消えない。
なぜなら、その忘却に彼女が死に物狂いで抗おうとしているからだ。
止めてくれ!
これだけは消さないでくれ!
彼女の必死な懇願が響き渡った。
奴が"リュウ"が私を好きだと言ってくれたんだ。
その言葉は今まで喜色や愉悦などの感情の表れを無に制御されてしまった彼女へは決して伝えられる事は無かったものだった。
だから、今初めて自分に伝えられたリュウの"好きだ"という言葉が彼女にとってその存在への容認になっていた。
しかし、そんな感情、言葉さえも忘却させる痛みが彼女を尚も襲い続けた。
けれども、サシャはその痛みに屈することは無く、リュウのたった一言とそれに対する自身の唯一の感情を守るためだけに抗い続けた。
すると、
バリィン!
何かが割れて砕けるような甲高い音が木霊した。
やがて、彼女の目の淀みが少しずつ晴れていき、
そこには紺碧だけが蒼蒼と澄み渡っていた。
「ん、んぅ、ここは?」
ようやく、待ちわびていた奇跡が訪れた。
サシャが戻ってきたのだ!
俺は嬉しさのあまりに彼女の豊満な胸へと飛び込んでしまった。
すると、彼女は始めて会った時のように赤面を浮かべ、俺に正拳を加えは……しなかった。
サシャはコホンと咳払いをすると俺へ体から退くように警告した。
「リュウ、私が怒らないうちにどいてくれないか?」
俺は無言で首を縦に振った。
(あれ?今サシャが俺のことを名前で呼んでくれた?)
ということは彼女の中で俺は"お前"から"リュウ"に
ランクアップしたという事だ。
俺は全身から興奮が滾ってきた。
ドラクエ的に言えば、武闘家からバトルマスター、僧侶から賢者に転職した時の感動と同じだろう。
興奮のあまり俺は彼女へ熱い眼差しを向けた。
「何だその目は?あまりこちらを見つめるな」
彼女からお叱りを受けてしまった。
しかし、俺は忘れない。
彼女が頬を赤らめながらそんな事を言っていたのを……
やがて、まだ正気に戻ったばかりの彼女は徐に辺りをざっと見回した。
「リュウ、これはどういう状況なのか教えてくれるか?」
と、言われても正直俺も分からない。
着の身着のままここに向かったのだ。
そしてその場を忘れて、大胆にも面前で彼女へ告白したのだ。
(なんだか、急に恥ずかしくなってきた)
その瞬刻、俺たちの前にあの壮年の男が躍り出てきた。
「それは私から説明させて頂こう」
俺たちは訝しむようにして彼へ注目した。
俺は彼の一五一句を逃すことなく、しっかりと聞いた。
端的に言えば、どうやら彼は俺たちの温泉開発を援助してくれるそうだ。
「カランの巫女とカラン殿がいれば村は益々発展する。
こちらとしてはそれは喜ばしい限りである。
それゆえ、どうぞ貴方がたには件のマスディオ山の開発を進めて頂きたい。
もちろん、こちらからもそれなりの援助はさせてもらうつもりだ。」
と、何とも美味しい話である。
美味しい話には裏があるというが、別に俺としては一向に構わない。
むしろ、それが目的でこの地に留まっているわけなのだから。
だが、名もしれない奴に信頼を預けるというのも些か気が引ける。
そういう訳で、俺は彼へその素性尋ねることにした。
「それで、貴方は一体何者ですか?」
すると、彼は苦笑して答えた。
「申し遅れたな。
私の名前はノラン・ソリカードだ
南の村方を任されている」
すると、サシャが強ばった面持ちでノランさんに尋ねた。
「ノラン様。
ソニア様と他の村方様があのような状況に会っている理由をまだ、説明して頂いていないのですが」
すると、サシャが正気を取り戻してから先程まで絶句していたソニアが突然声を荒らげた。
「サシャ!
ノランは私や他の村方を引きずり降ろして、お前達をこの村に縛り付けるつもりだぞ。」
サシャは気まずい表情でソニアに問い返した。
「ソニア様、それはどういう事ですか?」
「あっ、あぁ、私が推測するにノランはリュウ達カランが齎す巨万の利益を独占するために、村の若い連中を使ってお前達をずっとこの地に留まらせるつもりだ。」
彼女達はどこかぎこちない口調で話していた。
また、そう説明してくれた彼女だったが俺にはいまいちピンと来なかった。
首を斜めに傾げた俺を見てソニアは補足してくれた。
…………
(なるほど、この村にはそんな事があったのか)
日本に帰れない。
俺はそんな事を考えてすらいなかった。
ここは日本とはまるで異なった気候だが、この村の変わった住居や独特な衣服のお陰で快適な生活が送れる。
それに飯も美味いし、皆人当たりの良さそうな人ばかりだ。
そういった便宜性が俺の異世界での暮らしを簡単に順応させ、日本での生活を忘れさせていた。
しかし、こうして改めて故郷という現実を確認すると、残してしまった家族や友達の元へ戻らなければならないという責任と飽くまでも此処は自身が生まれた土地ではないという寂寥感を自覚してしまう。
だが、今や日本から遠く離れたこの異界に俺は好きな人が出来てしまった。
それも2人も。
彼女達の事を考えてしまうと、夏休みを引き延ばしてでも、この村に居続けたいというのが本音である。
(ん?夏休み?)
俺は恋に気を取られてすっかり忘れていた。
今、日本では夏休みであるということ。
そして、その夏休みは1ヶ月と約二週間しかないということを
これがどういう事かお分かりだろうか?
以前に父が話していたが、この世界と地球では時間が流れる速さにかなり違いがあるそうだ。
それは、超時間のタイムラグである。
つまり、この世界での約2日が日本では1週間という精神と時の部屋の逆バージョンのような感じだ。
俺がこの世界に転移してきたのは三日前。
ちなみに日本での日付は8月11日の山の日だった。
ということは今の日本の日付は8月20~22日辺りになっているという事だ。
これは何を意味するか?
それは皆が陰鬱となる学校への登校日が近づいているということだ。
俺がダラダラと異世界で暮らしてある間にも死のカウントダウンは進んでいた。
俺はただ愕然とするしかなかった。
シリアスな状況でも変わらず自分のペースを維持し続ける主人公。
空気が読めないと言ってもいいですね