転換点
今回は短めです。
ここはバブリア村の北部、その村方の居館である。
人々は活動をやめ、静寂が訪れる漆黒の時。
淡く灯る炎が居館の三人の姿をぼんやりと照らしていた。
炎が薪を燃やす音だけが、その静寂を支配していた空間で彼と彼女らは厳かな声色で話していた。
「なに?オンセンだと?」
男の反応に、向かいで泰然と座る女は言葉を続けた。
「あぁ、最近現れた"カラン"が言っていた」
すると、男はこの静まり返った緊張を一気に解くように、その眼を瞠目させた。
「ふむ、カランの者の言葉か。
して、そのオンセンというのはどういう意味だ?」
男の質問に女は淡々と答える。
「よくわからないが、体を清めるための温水と聞いている」
女の言葉に男は怪訝な顔をした。
「は?タンブの土があるのだ。
体を清めるための水など必要はないだろう?
それに温水など、ここでは暑苦しくてしょうがないだろう?」
女は共感したように男の意見に頷いた。
「うむ。私もそう思っている。
しかし、かつてこの地に急速な発展を齎したカランの発想だ。
私達では理解することは出来ないだろう。」
「確かに、このコシキと呼ばれる煮炊き道具や鉄の画期的鋳造方法のお陰で、我々の食生活や狩猟も多様化した。
彼らカランには未だ未知数の知識や模倣不可能な技術があるのかもしれんな」
すると、居館の入口の方から何者かの高声が聞こえた。
「何者だ!?」
男は誰何した。
すると、声の本人が目の前に現れ、三人に恭しく礼をした。
「はっ!南の村方ノラン様の使いで参上いたしましたヨキと申します。」
ヨキという者は頬に蕎麦滓を生やしたまだ、あどけない顔をした少年だった。
男は続けざまにヨキに質問した。
「ヨキとやら、とりあえずノランからの言伝を申してみよ。」
ヨキは畏まり、深々と頭を下げた。
「では、
宜しく村方ら。
カランの事業推進によりマスディオ山の開発許可を頂きたくお願い申す。
ついては、貴殿らの合意を得た後、各村人に協力を指示していただきたい。」
男はヨキの伝言を途中までじっくりと聞いていた。
だが、突然その場から立ち上がるや否や、彼に怒号を浴びせた。
「な、な、何だこれは!!
あまりにも我々を軽視した立案、それに神聖なるマスディオ山を汚し、犯すとはいくらカランと言えど、全ての生の親たる神山への大罪であるぞ!
それを分かっていて、ノランはこのような申し立てをして居るのか!?
おい、答えろ!
答えんか!」
「静まれ!!」
鼓膜を破くような激語を発したのは、村方四人集の中でも年長者であるコバだった。
「しかし、コバ殿!ノランは我々に何も相談せず、自己判断で行動し、挙句の果てには禁忌を犯そうとしているのですよ!」
激烈な形相で反論するが、コバは臆することなく、鋭い眼光で男を諌めた。
「私の言うことが聞けないのかね?カイン?」
すると男は冷静になり、振り上げた拳を納めた。
「カイン、アンタの短期はいつになっても変わらないねぇ」
長く生きてきた証である深く刻まれたシワがため息とともに緩やかに、動いていた。
一方、年長者であり、幼い頃から自分を良く知るコバに諌められ、バツが悪くなったカインは借りてきた猫のように大人しくなってしまった。
「ヨキと言ったかね?
ヨキ、本当にそれをノランが言ってたのかい?」
その尋問に対して、ヨキは堂々と、言われた事が紛れもない事実であると述べた。
この状況で冷静に構えていられるとは、ずっとカインの向かいに静謐と座る女も、彼もなかなかの度胸の持ち主である。
「そうかい、あのノランがね。
昔からちょっと変わった所があったけど、分別もあるし、知恵も回る子だったからねぇ。
それでも、まさかそんな事を考えていたなんて……」
嘆息交じりの声を発すると、コバはノランの複雑な思慮に腐心していた。
「でも、ノランの事だから何か考えあっての事なんだろうけどねぇ」
そうまとめたコバの発言に何か思うような所があったのか、瞬時に顔が強ばったカインだったが、何とか感情の荒ぶりを静止し、少しだけ落ち着いた声音で述べた。
「ノランは確かに村に大雨が降った時も、誰よりも早く適切な行動取るほど頭が回るやつだが、それは自分に利益があった故に行動したに過ぎない。
現に、あの大雨の後も奴は何やら不審な動きを見せていたらしいしな。
だからこそ、あいつを信用し、野放しにして置くのは愚行だと思うが?」
コバがそんなカインの発言を無視しなかったのも、ノランが過度な利己主義な反面を持っていると以前から知っていたためだ。
だから、いつか彼が禁忌を顧みず、恣に勝手に行動する可能性があると心の内では考慮していた。
人間は常に利己的な生物である。
そんな利己的な生物だからこそ、自身の利害だけで動く者もいる。
いや人間は、生来的にそういった考えを持った者が殆どであろう。
各地で様々な事を経験してきた年長者たるコバは
勿論それを十分に理解していた。
だからこそ、彼の今までの行いや考えも尊重してきていた。
しかし、今回の場合は村方の立場とバブリア村の民の重要な信仰対象を大いに侵害する行為である。
いくらコバ個人が利己的な主張や思想を十二分に理解していたとしても、1人1人を共通と見なす家族主義的な考えを持ったここの村人達にはきっと非難される事だろう。
今後の村の安逸とした存続を考えるなら、個人よりも大多数を優先し、彼を咎めるべきだろう。
(本心としては、このまま黙認してやりたいんだがねぇ)
コバは二律背反する意見で懊悩していた。
それゆえ、コバは両立した適切な判断を思いつくことができず、周りの意見に頼らざるを得なかった。
「カノン、アンタはノランの処遇についてどう考えるかい?」
コバが指したのはカインの激昂からその様子を彼の向かいで座り、ずっと静観していた彼ら村方四人集の1人である女であった。
「私は、ソニア様の意見を仰ぐべきだと思うな。
私達だけで、 このような事を判断するのは難しい。
現にカインは子供の駄々のように取り乱しているしな」
「なに?カノンそれは宣戦布告と捉えていいんだろうな?」
カノンの皮肉に怒りを示すカインだったが、それは彼女の言動一つで収まってしまう。
「お前が私に勝てるのか?カイン?」
すると、カインは歯噛みし、矛を収めてしまった。
横でカノンの意見をじっと、傾聴していたコバは最終的な判断を下した。
「カノンの意見に従い、南のノランを除く、我ら北、東、西の村方は今回の件について恩村長ソニア様の意見を仰いだ後、再び決を取ることにする。
みな、相違はないか?」
果たして、理非を論ずる者はいなかった。
「では、これにて我ら村方の合議を閉会させて頂く。」
彼らが合議を行っていたしばらく前、龍達は村長とマスディオ山の開発について議論した後、俺達はサシャの自宅に帰っていた。
言い忘れていたが、俺たちは彼女の自宅を活動拠点としている。
言わずもがな、寝食もサシャと共にしている。
いわゆる、居候だ。
しかし、彼女は文句一つ言わず、俺たちに寝床と食事を提供してくれている。
彼女はその生来的なお人好し故に、無理をしているのではないだろうか、それとも……
「京介さん、道具もないのにどうやって温泉を掘るんです?」
俺は疑問に思っていた。
先程、京介さんはこの地に温泉が大量に埋まっていると言っていたが、果たして地下に埋まっているものを道具なしにどう掘るのだろうか?
温泉を掘るにはもちろん、大掛かりな機材やそれなりの人数が必要だ。
しかし、人数はどうにかなるとしても、現代の機械や道具はこんな場所には無いわけで、あっても簡素な鉄具ぐらいだろうか。
否、人数は替えが効くと言ったが、そもそも現代の緻密な道具や機械を扱える者がいなければ、それは帰ってお荷物になる。
それで一体、どうやって温泉を掘り当てるのだろうか。
まさか、5年10年掛けてでも掘り続けるのだろうか?
俺にそんな不安がよぎった。
別に、松田屋の新店舗を造ったり、温泉施設を造るという父や京介さんの計画に反対している訳では無い。
むしろ、大いに賛成している。
タンブという土だけが、体の清潔を保つための方法であると認識しているこの地に温泉を様々な体系でなるべく早く、広めていきたいと俺は思っている。
だからこそ、そこまで時間を掛けてやりたくはない。
温泉があると分かっていながらも、道具や機材の致命的欠陥のために温泉開発を長々と延長するという歯がゆい失敗は犯したくないのだ。
しかし、俺の懸念を京介さんは一瞬で払拭した。
「道具や機械なんかは向こうから持っていくよ。
何もなしじゃ、流石に温泉は掘れないからね」
そこまで思慮が回らなかったことに、俺は忸怩たる気持ちを抱いた。
「まぁ、私はここに来てからちょっと、物事の常識がズレちゃったからね。
普通、掘削機械を一瞬で別の場所に移動させるなんて想像できないからね。
気を落とさなくても大丈夫だよ。」
俺は京介さんの優しさに益々、いたたまれなくなった。
そんな悪循環を断ち切るように父は話を続けてくれた。
「で、京介。
お前も明日の夜一旦、向こうに戻るんだろう?」
(あれ?そんなこと聞いてなかったんだが……)
「親父、明日帰るなんて一言も聞いてないんだが?」
父の事前の連絡なしの無責任な発言に詰問した。
「あれ?言ってなかったか?
旅館の様子を見てくるから一旦帰るって。
3週間も不在じゃあ、母さんや一も可愛そうだからな。」
確かに置き去りにしてしまった弟や母さんも心配だ。
(だが、俺に何も言わず、1人で向こうに帰るなんて勝手すぎないか?)
ならば、俺も実家に帰宅する権利はあるだろう。
俺は父に帰宅の許可を願い出た。
「いや、龍には俺たちが帰ってくるまで、サシャの家に残ってもらう。
理由は京介に聞いてくれ」
(はい?自分は帰っておいて俺には留守番していろと言うのか?)
こんな不義理があっていいのだろうか?
いや、決して許されないだろう。
父に抗議をしようと考えたが、どうやら京介さんがこの状況を説明してくれるようだ。
(しかし、こういう場合って親父が一番に説明する側だろう)
不平ばっか言っても仕方がなかったので、俺は京介さんの話を聞くことにした。
「いやー、龍君ごめんね。
どうしても、湯奈がここに残るって言ってね。
私は向こうでやらなければならいことがあるから、外すことは出来ないし、かと言って娘をまた、この地に1人残したくはないんだ。
サシャちゃんがいると言っても、ほら、君から見ても湯奈って人当たりが悪そうに見えるだろう?
だから、色々とすれ違いや問題も起こしたりしたことがあったんだけど……」
俺は何とも答えづらい問い掛けに否定も肯定も出来なかったので、微苦笑するしか無かった。
「ごめんね。こんな質問をしても答えづらかったね。
とにかく、明日だけどうか、湯奈の事を見ていてほしいんだ。頼まれてくれないかな?
我が儘を言うようで本当に申し訳ない。」
と言われても、俺も彼女とは仲良くなれていない。
むしろ、不埒を犯して一方的にひどく嫌われてしまっているのだが……
(不埒と言っても太ももを覗いていただけだがな……)
しかし、だからと言って、年頃の女の子を1度や2度しか訪れた事の無い場所で留守番させるというのもどうかと思う。
サシャが家にいると言っても、彼女はなんやかんで朝と昼は仕事で忙しい。
この村の治安情勢はよく分からないが、もしもの時の事を考えれば心配過しぎても、しすぎることは無いだろう。
ならば……
「分かりました。
明日だけは向こうには帰らず、ここで待つことにします。」
すると、京介さんは喜色の笑を俺に向けた。
「ありがとう!
龍君がいてくれて本当に助かったよ。」
一方で父は何かやましい事を考えているのか嫌らしい笑みを浮かべていたが……
(まさか、な……)
俺達は父達と一緒に帰らなかったことを別の意味で後悔することになる。
そろそろ、温泉の描写に入りたいのですが、やはりストーリーを重視したいのでもう少し別の話が続くと思います。